偽りの婚約者だった私を捨てた公爵様が、今さら泣きついてきてももう遅いです

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第1話 冷たい婚約破棄の夜

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冬の風が、舞踏会場の大理石の窓を震わせた。煌びやかなシャンデリアの光が反射し、純白のドレスをまとう令嬢たちが笑い声を上げる。その中に立つ一人の女性――クラリス・エヴァンゼルは、静かにワイングラスを指先で転がしていた。顔には穏やかな微笑を貼り付けているが、胸の奥は嵐のように波打っていた。

「クラリス嬢、少しお時間をいただけますか」

低く抑えられた声。振り向けば、金髪碧眼の青年――公爵家の跡取り、レオンハルト・グランツが立っていた。彼の声はいつも通り冷静で、どこか他人行儀だった。まるで今日が特別な夜ではないかのように。

クラリスは胸の奥に嫌な予感を抱きながらも、作り笑いを浮かべてグラスを卓上に置いた。
「ええ、レオン様。お話とは何でしょうか?」
「人目につかない場所で話したい。庭園まで来てくれ」

彼の後ろ姿を見ながら、会場の空気がなぜか遠く感じられる。胸の奥に小さな痛みが走った。けれど、令嬢としての礼儀が身体に染みついている。クラリスは静かに従った。

月明かりが降り注ぐ庭園。冬のバラがかろうじて茎にしがみつくように咲いている。白い息が、二人の間でかすかに混じり合った。  
しばしの沈黙の後、レオンハルトは真っ直ぐな瞳で彼女を見つめ、そして淡々と告げた。

「婚約を、解消したい」

風が一瞬止まったように感じた。クラリスは言葉を失ったまま、レオンの瞳を見返した。そこに慈しみも、迷いもなかった。ただ冷たい決意だけ。

「……どうして、ですの?」
「君との婚約は、両家の都合で決まったものだ。だが、私は別の女性を愛してしまった」

レオンの声にはわずかな躊躇すらなかった。  
クラリスの心に、ずしりとした重みが落ちる。  
愛? 彼が?  
彼女はいつも努力していた。公爵家にふさわしい淑女になるため、言葉遣い、礼儀、舞踏、経済学、どんな分野にも精進した。けれど彼の目に映っていたのは、契約上の婚約者という看板だけだったのか。

「……どなたのことを、愛しているのですか?」
「侯爵家の令嬢、リリアナ様だ。君も知っているだろう」
「ええ、もちろん。とても可憐で、人目を惹くお方だわ」

口の中が渇く。吐息が白く浮かぶ。冷たい空気が肌を刺した。  
それでもクラリスは、微笑みを失わなかった。

「わかりました。お望みどおり、婚約は解消いたしますわ」
「助かる。君なら理解してくれると思っていた」

その言葉に、胸の奥で何かが崩れ落ちた。  
レオンハルトは、まるで取引が成立したかのように安堵の息を漏らした。  
彼にとってこの婚約破棄は、ただの“整理”に過ぎないらしい。

「ですが一つだけ伺ってもよろしいかしら。私は何か、あなたに恥じるようなことをしましたか?」
「いや、君は何も悪くない。ただ……君とは情熱を感じられなかった。それだけだ」

クラリスは息を呑んだ。  
“情熱”。  
貴族の婚約にその言葉を持ち出すなんて、なんと幼稚なのだろう。  
けれど、もう言い返す気力も残っていなかった。

「そう……。ならば本当に、終わりですのね」
「ああ。父上と君の家にも正式に伝える。後の手続きは任せてくれ」

彼は淡々と告げると、背を向けた。そのまま歩き去っていく。  
雪のように白い息が彼の肩越しに消えていくのを、クラリスはただ見つめていた。

残された庭園は、ひどく静かだった。  
やがて、唇からかすれた笑いが漏れた。  
「……こんなにも、簡単に終わってしまうのね」

胸の奥で何かが壊れ、同時に、凍りついた心の隙間から別の何かが灯るのを感じた。  
冷たい炎のような、確かな感情。  
後悔も、悲嘆も、その時にはもうなかった。  
ただ、ひとつの想い――“もう二度と、この人の涙で揺れない”という決意だった。

邸に戻ったクラリスは、侍女のリーゼに笑顔を見せた。  
「お嬢様……もうお休みになられては?」
「ええ、そうね。少しだけ、疲れたの」

寝室に入ると、扉を閉め、そっと壁にもたれる。  
心臓がまだどくどくと早く打っていた。涙は出なかった。出し尽くした後のように、何も流れない。  
机の上に飾られた婚約指輪が月光に煌めく。  
クラリスはしばらくそれを見つめ、手を伸ばし、静かに銀製の小箱へと仕舞った。  
「ありがとう。でも、もう必要ないわね」

彼女は窓際に立ち、夜空を見上げた。  
星は澄み渡り、ひときわ明るく輝いている。まるで新しい道を照らすかのように。  
指先に残る冷たさの中で、クラリスは小さく息を吐いた。

その夜、クラリス・エヴァンゼルは“誰かの婚約者”をやめた。  
代わりに、ただの“自分”として生きる決意をした。

翌朝、公爵家から正式な婚約破棄の書面が届いた。丁重な文体で書かれていたが、まるで葬儀の通知のように淡々としていた。  
家族は激昂した。伯爵である父は「ふざけおって!」と怒鳴り、母は顔を覆って泣いた。  
だがクラリスだけは穏やかだった。

「お父様、お母様。謝らないでください。私、今はとても……すっきりしていますの」
「クラリス……」
「私は、ただの取引の道具ではありませんわ。だから、これで良かったのだと思います」

その夜、クラリスは長年仕えてくれた侍女リーゼと共に荷物をまとめた。  
「お嬢様、本当に行かれるのですか?」
「ええ。この街を出て、自分の力で生きてみたいの。父の名ではなく、私の名で」

リーゼの瞳が潤む。  
クラリスは微笑んでその手を取った。  
「ありがとう、今まで。あなたのおかげでここまでこられたわ。でも、私がもう一度立つには、過去を置いていかなくてはならないの」

一瞬の沈黙の後、リーゼは深く頭を下げた。
「……どうか、お幸せになってくださいませ」
「ええ、必ず」

夜明け前、クラリスは馬車に乗り込んだ。  
小さな荷物と、数枚の契約書、それがすべてだった。  
空は淡い群青に変わり、朝の冷気が頬を撫でる。  
目の前の道はどこまでも続いている。  
クラリスはそっと微笑んだ。

――もう振り返らない。  
誰かに選ばれる人生ではなく、自分で選び取る人生を歩むのだ。

車輪が音を立てて転がり出す。  
その瞬間、初めて彼女の心に、ほんのわずかな温かさが灯った。  
それは絶望の先に見つけた、自由という名の希望だった。

(続く)
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