偽りの婚約者だった私を捨てた公爵様が、今さら泣きついてきてももう遅いです

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第2話 涙を見せない令嬢

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車輪が雪を踏み締める音だけが響いていた。朝日がまだ低く差し込む街道を、クラリスの馬車はゆっくりと進んでいく。窓の外には、凍てついた畑と白い息を吐く農夫の姿。見慣れた景色とはまるで異なる、庶民の朝の営みがそこにあった。クラリスは薄い毛布にくるまりながら、初めて味わう寒さの中で、自分がもう“令嬢”ではないのだと痛感した。

「クラリス様、本当にこのままでよかったのですか?」  
御者台からリーゼの声が届く。クラリスは静かに笑みを浮かべ、返事をした。  
「ええ。私はもう、あの名に縛られるつもりはないの」  
「ですが、行くあてなど……」  
「あるわ。少なくとも、一度訪ねると約束した人がいるもの」

その言葉を口にしながら、クラリスの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。かつて屋敷で護衛を務めていた青年――ノア・ベルンハルト。下級騎士として勤めていた彼は、数年前に地方領に派遣され、その後の便りは絶えていた。だが、彼が最後に言い残した言葉だけは、鮮明に覚えている。

『もし、貴女が自分の道を見つけたいと思った時は、北の街リヴェルに来てください。僕はそこで待っています』

あの頃は、ただの社交辞令のように聞こえた。でも今は違う。あの約束だけが、彼女に残された“道しるべ”だった。

馬車は丸二日かけて北へ向かった。夜には小さな宿に泊まり、冷えたスープを口にする。上流貴族として育ったクラリスにとって、これほど質素な食事は初めてだった。しかし、驚くほど苦にならなかった。  
「スープの味、こんなに深かったかしら」  
「お嬢……いえ、クラリス様、舌にも旅を覚えたのですね」  
「ふふ、そうかもしれないわ」

小さな笑いが零れた時、リーゼは安堵したように微笑んだ。クラリスの表情に“後悔”の色はない。それが唯一の救いだった。

三日目の朝、雪がやんだ頃、遠くにリヴェルの街並みが見えてきた。木造の屋根から薄い煙が立ち、広場では市が立っているのが見える。馬車が街の門をくぐると、途端に人の声と香辛料の匂いが鼻をくすぐった。  
クラリスはそれを吸い込み、ほっと息を吐いた。  
「生きてる匂いがするわね」  
「ええ、本当に……」

宿屋に荷を降ろした後、早速ノアを探すことにした。  
「たしかこの街の騎士団詰所にいると聞いたけれど……」

詰所の前は、剣を携えた若い兵士たちで賑わっていた。クラリスは深呼吸をして扉を叩く。対応に出てきた青年騎士が、品のある彼女の立ち姿に驚いたように目を瞬く。  
「ど、どちら様でしょうか?」  
「ノア・ベルンハルト殿にお会いしたいのですが、いらっしゃいますか?」  
「ノア隊長に?し、失礼ですが、お知り合いの……?」  
「昔、護衛をお願いしていた者です」

隊長、と聞いた瞬間、クラリスは思わず目を見開いた。  
(隊長……?あのノアが?)  
驚きのまま案内され、奥の執務室のドアが開かれた。中にいた男が振り向く。  
その顔を見た瞬間、胸の奥に積もっていた氷が一気に溶けるようだった。

「……クラリス様?」  
低く、少し掠れた声。かつてより少し日焼けした頬と、鋭さを帯びた瞳。  
ノア・ベルンハルトは確かにそこにいた。

「お久しぶりです、ノア。お元気そうでなにより」  
クラリスが微笑むと、ノアは一瞬言葉を失い、慌てて椅子を立った。  
「どうして……ここに?まさか、何か――」  
「ええ、あの約束を覚えていまして。貴方がリヴェルで待っているって」  
「……まさか、本当に来てくれるとは」

ノアの目に、驚きと喜び、そしてわずかな心配が交じっていた。  
「公爵家の婚約は?」  
「終わりましたの。だから、私は今、ただのクラリスよ」

その一言にノアの表情がわずかに曇る。彼は静かに拳を握った。  
「そう、ですか……。酷いことをされましたね」  
「酷い?いいえ、むしろ……ようやく目が覚めた気分です」  
クラリスの瞳は澄んでいた。悲嘆ではなく、未来を見据える光が宿っている。  
その光を見た瞬間、ノアはゆっくりと息を吐いた。

「よければ、こちらで少し休んでいってください。街に宿も紹介できます」  
「助かりますわ。でも、ねえノア。私――働きたいの」  
「え?」  
「もう貴族ではないもの。自分の力で生きていくわ。そのために商会を興すつもりなの」

ノアは呆然としたが、すぐに笑った。  
「らしいな……クラリス様らしい。昔から思ってました。貴方は貴族の箱に収まるような方じゃない」  
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ」

笑い合う二人を、部屋の隅でリーゼが穏やかに見つめていた。  
その夜、ノアが紹介してくれた宿の暖炉の前で、リーゼがぽつりと呟く。  
「お嬢様……あの方、ずっとお待ちしていたようですね」  
クラリスは少しだけ顔を赤らめた。  
「まさか。それに、私はもう彼の主ではないもの」  
「主ではないけれど、大切に思われていることだけは間違いありません」  
クラリスは唇を結び、炎の揺らめきを見つめた。ノアの声、あの優しさ、それらが胸の内に静かに残っている。  
彼の前では涙を見せなかった。けれど本当は、心の隅に堰き止めていたものがある。  
裏切られた痛みも、失った日々も、すぐには消えはしない。  
それでも、もう立ち止まることはしない。生きるために、前を向くしかないのだ。

雪の降る夜、クラリスはペンを取り、小さなノートに一行だけ書いた。  
――私はクラリス・エヴァンゼルではなく、クラリス・リーネとして新しい商会を立ち上げる。  
名前を変えること。それは決意の証だった。

窓の外で雪が舞う。炎が優しく部屋を照らす中、クラリスはゆっくりと目を閉じた。  
今度こそ涙ではなく、未来の夢を見るために。

(続く)
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