偽りの婚約者だった私を捨てた公爵様が、今さら泣きついてきてももう遅いです

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第3話 閉ざされた屋敷の中で

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リヴェルの街に来て三日。クラリスは街の端にある古びた屋敷の前に立っていた。瓦屋根には雪が積もり、扉の蝶番は油が切れて軋んでいる。  
「ここが……私の新しい場所なのね」  
ノアが紹介してくれたこの屋敷は、かつて商人が使っていたという空き家だった。破格の条件で借りられたが、家具はほとんど朽ちかけ、床も冷たい。リーゼは不安そうに辺りを見回した。  
「お嬢様、まるで廃屋です……」  
「いいえ、工夫次第よ。心が籠っていれば、どんな場所も家になるわ」

クラリスは扉を押し開け、埃の舞う空気に深呼吸をした。  
この匂いが懐かしいと感じた。誰に与えられたものでもない、自分の手で掴んだ最初の空間だった。  
家具を整え、窓を拭き、床を磨くうちに、頬にうっすらと汗がにじむ。貴族時代には想像もしなかった作業だが、不思議と嫌ではなかった。  
「手が痛いけれど……心は温かいわ」  
そう呟いた時、入口からノアが顔を出した。

「ずいぶん頑張ってるな。まるで新しい命を吹き込んでるみたいだ」  
「放っておいたら風が通らなくて腐ってしまうもの。人の心も、家も同じね」  
クラリスの言葉に、ノアは少しだけ柔らかく笑った。  
「なるほど、確かに。風通しが悪いと、どちらも息が詰まる」  
二人の視線がふと交わった。数秒――けれどそこには、懐かしさと新しい鼓動のようなものが宿っていた。

日が落ち、ノアは屋敷の暖炉に火を起こした。リーゼが水を汲みに出ていく間、室内には二人きりの静寂が広がった。ぱちぱちと薪がはぜる音のほかは、風のうなりだけが耳に残る。  
「寒くないですか?」とノアが尋ねる。  
クラリスは微笑を返した。  
「貴方がいてくれる時点で、十分温かいわ」  
それは自然にこぼれた言葉だったが、ノアは少し驚いたように頬を赤らめ、慌てて視線を逸らした。  
「……それは、光栄です」  
その仕草に、クラリスの胸の奥に柔らかな灯りがともった。

翌朝、クラリスは机に向かい、商会立ち上げの計画を書き出していた。  
「まずは商材ね。織物は競合が多いし、宝飾品も資金が足りない。ならば、生活を支える雑貨から始めるのが現実的ね」  
「雑貨、ですか?」リーゼが水差しを持って尋ねる。  
「ええ。地方では質の良い品が少ないの。特に女性の手仕事を生かした織布製品は需要があるはず」  
「さすがクラリス様、まるで商人のようです」  
「貴族の娘だった頃は考えもしなかったけれど……生きるって、知恵を使うことなのね」  

ノアはそんな様子を静かに見守っていたが、ふと真面目な表情を見せた。  
「クラリス様――いや、もうクラリスと呼んでもいいですか?」  
「ええ、もちろん」  
「クラリス。俺で良ければ、その商会を手伝わせてくれないか?」  
きっぱりとした声だった。  
クラリスは少し驚いたが、すぐに頷く。  
「あなたに断る理由なんてないわ。でも……いいの?あなたは騎士でしょう?」  
「騎士の任務が終われば、自由時間もあります。力仕事も売り込みも慣れてますからね」  
「頼もしいわ。本当にいい仲間を持ったものね」  

クラリスの頬に笑みが浮かんだ。  
ノアはしゃがみこみ、壊れかけた机の脚を直していた。その横顔に、彼女は少しの寂しさを覚えた。  
(この人は、雇い主ではなく対等な仲間として私を見てくれている……。それが、こんなにも心地いいなんて)  
けれど同時に、恐怖もあった。  
(また誰かに気持ちを預けて、裏切られたらどうすればいいの?)  
指先が震え、書いていたペン先が紙を破いた。ノアがすぐに気づき、彼女の手を取る。  
「大丈夫ですか?」  
彼の手は温かく、包み込むようだった。  
クラリスはその温もりに戸惑いながらも、そっと手を離す。  
「平気よ。ただ、少し力を入れすぎただけ」  
だが、その声はほんの僅かに掠れていた。

その夜、屋敷の外では嵐が吹き荒れた。風が窓を叩きつけ、木々が唸る。  
クラリスは眠れずに窓辺に立ち、闇の向こうを見つめた。  
幼い頃、嵐の夜は父が傍にいてくれた。母が優しい歌を歌ってくれた。  
けれど、今は一人。  
いや――正確には、屋敷の奥の部屋でノアとリーゼが眠っている。  
自分は一人ではない。そう思うと、不思議と恐怖は消えた。

扉の向こうで足音がした。ノアが寝間着姿で現れる。  
「眠れないのか?」  
「少しだけね。嵐が強くて」  
「俺もだ。……外の見回りをしてきたけど、門も屋根も大丈夫だ」  
そう言ってから、ノアはクラリスの手に温かいマグを差し出した。  
「蜂蜜入りのミルクだ。冷えた身体には効く」  
クラリスは両手で受け取り、そっと口をつけた。甘さが喉を通り過ぎ、胸に広がる。  
「ありがとう。こんな優しさをもらうのは、久しぶりだわ」  
「優しさなんて、大したもんじゃない。ただ……貴方が苦しそうだから」  
ノアの声音が静かに揺れる。  
クラリスはマグを見つめながら、消え入るように呟いた。  
「私ね、泣かなかったの。あの夜も、その後も。一滴も」  
「……ええ」  
「でも本当は、怖かった。あの人を失ったことも、自分が空っぽになったことも。壊れそうで、でも誰にも見せられなかった」  
ノアは何も言わず、ただそっと彼女の肩に手を置いた。  
「泣いてもいい。泣けない夜が一番悲しいんだ」  
その言葉に、クラリスの胸の奥に小さな亀裂が入る。  
長い沈黙の後、彼女は静かに頷いた。  
「……泣いてしまったら、また前に進めなくなる気がして」  
「前に進むために、人は泣くものですよ」

やがて、クラリスの頬を一筋の涙が伝った。  
それは悲しみだけでなく、安堵の涙でもあった。  
ノアは何も言わず、ただ隣に立ち続けた。  
外の嵐はやがて静まり、夜が明けていく。  
窓の外に差し込んだ朝の光が、二人の間を淡く照らした。

クラリスは涙を拭い、微笑んだ。  
「ありがとう、ノア。もう少しだけ、このまま頑張れそう」  
「ええ。その顔が見られて良かった」  
二人の間に、言葉ではない絆が静かに芽生えていた。

その日以降、クラリスは一日も休まず屋敷を整え、初めての商会を立ち上げる準備に取りかかった。  
閉ざされた屋敷は彼女の手で次第に暖かさを取り戻し、そして今度こそ、彼女自身の運命も動き出しつつあった。

(続く)
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