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第4話 彼女が決意した旅立ち
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リヴェルに拠点を構えてから半月。
クラリスの手で屋敷は少しずつ形を変え、ようやく“クラリス商会”としての看板を掲げられるほどになっていた。といっても、従業員は彼女とリーゼ、そして時々手伝いに来るノアの三人だけ。まだ本格的に商品すら扱っていない小さな夢の種にすぎない。
けれど、その小さな種を見てクラリスは満足そうに微笑む。
「やっと……一歩、踏み出せたわね」
屋敷の前庭には、クラリスが描いた商会の印章旗がはためいていた。白地に金糸で描かれた羽のマーク。自由を象徴する鳥の翼を模したそれは、彼女の今の想いそのままだ。
リーゼがその旗を見上げながら、ため息をついた。
「本当に始めてしまいましたね……お嬢様、いえ、クラリス様」
「始めなければ、何も変わらないわ。あの日だって、私は変わらなくちゃと思ったもの」
あの日。婚約破棄の夜。全てを失ったあの瞬間から、クラリスは何かを手放し、何かを掴み取った。貴族の誇りという名の檻を壊した代わりに、未知という自由を得たのだ。
だが現実は甘くない。商売を始めるには資金と信頼がいる。
クラリスたちの商会がまだ帳簿上も認可を受けていないと知るや、市場の商人たちの視線は容赦なく冷えたものだった。
「お嬢さん方、無理だよそんなの。女だけで商会なんてすぐ潰れる」
「貴族の遊びだと思って手を出すなよ。悪いことは言わねぇ」
言葉の刃が平然と投げつけられる。それでもクラリスは微笑を崩さなかった。
「忠告ありがとう。でも、私は退屈な“お嬢さん”には戻らないの」
冷たい声色でそう言い返すと、相手の男たちは面食らったように顔を見合わせた。
レオンハルトに向けられた感情とは違う、鋭く強い意志がその瞳の奥に宿っている。
それを見てリーゼが小声で感嘆する。
「……本当に変わられましたね、クラリス様」
「ええ。だって、もうこれしかないもの」
やがて彼女の耳に届いたのは、懐かしい靴音だった。
「商売敵に囲まれて笑っていられるなんて、肝が据わったな」
ノアが大きな荷袋を肩に担いで立っていた。
「ノア、来てくれたのね!」
「もちろん。約束しただろう?力が要る時は呼べって」
彼が荷袋を下ろすと、中からは織布と革製品が出てくる。
「これは……?」
「北部の村で作ってる布と靴革だ。安くて丈夫で、質がいい。扱い方次第で売れる」
クラリスの瞳に力が宿る。
「これなら……始められるわね」
「その意気だ。だけど、最初は信用を掴むのが先だ。噂じゃ来月、王都から商人の視察団が来るらしい。小さくでもいい、うちの商品を見せる場を作れればチャンスがある」
ノアの真剣な声を聞き、クラリスは拳を握る。
「分かったわ。私、出店を開く。街の広場で」
それは無謀な挑戦だった。市場で露店を構えるのは許可が必要で、手続きにも費用がかかる。しかし、ノアの人脈とリーゼの手際の良さで、三日後には小さな出店の枠を確保することができた。
迎えた当日。
曇り空から粉雪が舞い落ちる中、クラリスは布地を広げ、手作りのマフラーや手袋を並べていた。見栄えこそ素朴だが、触れれば誰もが分かるほど柔らかく暖かい。
人々がつかの間立ち止まり、品を手に取り、値札を見ていく。
だが、最初の数時間は誰も買ってくれなかった。
「やっぱり駄目かしら……」
リーゼが不安そうに呟く。
クラリスは静かに首を振った。
「焦らないで。私たちの品は“手に取って確かめて”もらえばいいのよ」
そう言うと、彼女は通りかかった婦人に声をかけた。
「寒い中大変ですね。よかったらこれを試してみませんか?」
婦人はためらいながらも手袋を受け取り、指を通す。
「……まぁ、なんて柔らかいの」
「リヴェル北山の羊毛を使ってます。機械じゃなく、手で形を整えてるの」
「とてもいいわ。おいくら?」
「半分、手間賃だけいただければ十分です」
その控えめな値に、婦人は驚いた顔で頷いた。
それが最初のひとつ目の売上だった。
その後、噂を聞きつけた人々が少しずつ集まり、出店の前には列ができた。
リーゼが顔を輝かせて小声で叫ぶ。
「お嬢様、売れてます!次々と……!」
クラリスは深く息を吸い、涙腺が熱くなるのを感じながら微笑んだ。
「よかった……本当によかった……」
夕暮れ、出店を片付けた後。
ノアが彼女にお茶を差し出しながら言う。
「やったな。初日からこの手応えは上々だ」
「皆さんが買ってくださったのは、きっと私たちの想いを感じ取ってくださったからね」
「想い?」
「だって、寒い冬を少しでも温めたいって気持ちで作ったんですもの」
ノアはその言葉を聞いてから、しばらく黙って彼女を見つめた。
「……あんたはやっぱり強いな」
「そんなことないわ。怖くて震えてたのよ」
「でも、立ってた。俺は、それがすごいと思う」
クラリスは微笑んだ。
「ありがとう、ノア。貴方がここにいてくれて良かった」
その瞬間、ノアは言葉を失い、ただ照れ隠しに咳払いをした。
「仕事の後で飲む茶は格別だな……明日も手伝うよ」
「期待してるわ」
夜、屋敷に戻ると、リーゼが帳簿を片手に小躍りした。
「今日の売上、これだけです!すごいじゃないですか!」
「本当に……夢のようね」
クラリスは窓辺に立ち、白い月を見上げる。
その光が頬を照らすと、まるで希望を約束するようだった。
「これが始まり。私たちは、ここから羽ばたくのよ」
その時、遠くから雪道を駆ける馬車の音が聴こえた。
ノアが剣に手をかけ、警戒して外を見る。
「誰か来る……こんな時間に?」
馬車には王都の紋章が刻まれていた。
降り立ったのは一人の使いの男。
「エヴァンゼル家の令嬢、クラリス様はここにおられるか!」
呼ばれたその名に、クラリスの背筋が凍る。
もう捨てたはずの名。もう帰らないはずの家。
それでも、彼女は前を向いた。
「はい。ここにおります。けれど今の私は、エヴァンゼルの令嬢ではありません」
使いの男は驚いたように目を見開き、文書を差し出した。
「公爵家、レオンハルト殿下より書簡を。至急、ご返答を求めるとのこと」
手紙には、彼女の知らぬ新たな運命が記されていた。
クラリスは震える指で封を開けることなく、息を整えた。
もう逃げない。
どんな言葉がそこにあっても、自分の意志で選び取る。
それが今のクラリスの、生きる形だった。
(続く)
クラリスの手で屋敷は少しずつ形を変え、ようやく“クラリス商会”としての看板を掲げられるほどになっていた。といっても、従業員は彼女とリーゼ、そして時々手伝いに来るノアの三人だけ。まだ本格的に商品すら扱っていない小さな夢の種にすぎない。
けれど、その小さな種を見てクラリスは満足そうに微笑む。
「やっと……一歩、踏み出せたわね」
屋敷の前庭には、クラリスが描いた商会の印章旗がはためいていた。白地に金糸で描かれた羽のマーク。自由を象徴する鳥の翼を模したそれは、彼女の今の想いそのままだ。
リーゼがその旗を見上げながら、ため息をついた。
「本当に始めてしまいましたね……お嬢様、いえ、クラリス様」
「始めなければ、何も変わらないわ。あの日だって、私は変わらなくちゃと思ったもの」
あの日。婚約破棄の夜。全てを失ったあの瞬間から、クラリスは何かを手放し、何かを掴み取った。貴族の誇りという名の檻を壊した代わりに、未知という自由を得たのだ。
だが現実は甘くない。商売を始めるには資金と信頼がいる。
クラリスたちの商会がまだ帳簿上も認可を受けていないと知るや、市場の商人たちの視線は容赦なく冷えたものだった。
「お嬢さん方、無理だよそんなの。女だけで商会なんてすぐ潰れる」
「貴族の遊びだと思って手を出すなよ。悪いことは言わねぇ」
言葉の刃が平然と投げつけられる。それでもクラリスは微笑を崩さなかった。
「忠告ありがとう。でも、私は退屈な“お嬢さん”には戻らないの」
冷たい声色でそう言い返すと、相手の男たちは面食らったように顔を見合わせた。
レオンハルトに向けられた感情とは違う、鋭く強い意志がその瞳の奥に宿っている。
それを見てリーゼが小声で感嘆する。
「……本当に変わられましたね、クラリス様」
「ええ。だって、もうこれしかないもの」
やがて彼女の耳に届いたのは、懐かしい靴音だった。
「商売敵に囲まれて笑っていられるなんて、肝が据わったな」
ノアが大きな荷袋を肩に担いで立っていた。
「ノア、来てくれたのね!」
「もちろん。約束しただろう?力が要る時は呼べって」
彼が荷袋を下ろすと、中からは織布と革製品が出てくる。
「これは……?」
「北部の村で作ってる布と靴革だ。安くて丈夫で、質がいい。扱い方次第で売れる」
クラリスの瞳に力が宿る。
「これなら……始められるわね」
「その意気だ。だけど、最初は信用を掴むのが先だ。噂じゃ来月、王都から商人の視察団が来るらしい。小さくでもいい、うちの商品を見せる場を作れればチャンスがある」
ノアの真剣な声を聞き、クラリスは拳を握る。
「分かったわ。私、出店を開く。街の広場で」
それは無謀な挑戦だった。市場で露店を構えるのは許可が必要で、手続きにも費用がかかる。しかし、ノアの人脈とリーゼの手際の良さで、三日後には小さな出店の枠を確保することができた。
迎えた当日。
曇り空から粉雪が舞い落ちる中、クラリスは布地を広げ、手作りのマフラーや手袋を並べていた。見栄えこそ素朴だが、触れれば誰もが分かるほど柔らかく暖かい。
人々がつかの間立ち止まり、品を手に取り、値札を見ていく。
だが、最初の数時間は誰も買ってくれなかった。
「やっぱり駄目かしら……」
リーゼが不安そうに呟く。
クラリスは静かに首を振った。
「焦らないで。私たちの品は“手に取って確かめて”もらえばいいのよ」
そう言うと、彼女は通りかかった婦人に声をかけた。
「寒い中大変ですね。よかったらこれを試してみませんか?」
婦人はためらいながらも手袋を受け取り、指を通す。
「……まぁ、なんて柔らかいの」
「リヴェル北山の羊毛を使ってます。機械じゃなく、手で形を整えてるの」
「とてもいいわ。おいくら?」
「半分、手間賃だけいただければ十分です」
その控えめな値に、婦人は驚いた顔で頷いた。
それが最初のひとつ目の売上だった。
その後、噂を聞きつけた人々が少しずつ集まり、出店の前には列ができた。
リーゼが顔を輝かせて小声で叫ぶ。
「お嬢様、売れてます!次々と……!」
クラリスは深く息を吸い、涙腺が熱くなるのを感じながら微笑んだ。
「よかった……本当によかった……」
夕暮れ、出店を片付けた後。
ノアが彼女にお茶を差し出しながら言う。
「やったな。初日からこの手応えは上々だ」
「皆さんが買ってくださったのは、きっと私たちの想いを感じ取ってくださったからね」
「想い?」
「だって、寒い冬を少しでも温めたいって気持ちで作ったんですもの」
ノアはその言葉を聞いてから、しばらく黙って彼女を見つめた。
「……あんたはやっぱり強いな」
「そんなことないわ。怖くて震えてたのよ」
「でも、立ってた。俺は、それがすごいと思う」
クラリスは微笑んだ。
「ありがとう、ノア。貴方がここにいてくれて良かった」
その瞬間、ノアは言葉を失い、ただ照れ隠しに咳払いをした。
「仕事の後で飲む茶は格別だな……明日も手伝うよ」
「期待してるわ」
夜、屋敷に戻ると、リーゼが帳簿を片手に小躍りした。
「今日の売上、これだけです!すごいじゃないですか!」
「本当に……夢のようね」
クラリスは窓辺に立ち、白い月を見上げる。
その光が頬を照らすと、まるで希望を約束するようだった。
「これが始まり。私たちは、ここから羽ばたくのよ」
その時、遠くから雪道を駆ける馬車の音が聴こえた。
ノアが剣に手をかけ、警戒して外を見る。
「誰か来る……こんな時間に?」
馬車には王都の紋章が刻まれていた。
降り立ったのは一人の使いの男。
「エヴァンゼル家の令嬢、クラリス様はここにおられるか!」
呼ばれたその名に、クラリスの背筋が凍る。
もう捨てたはずの名。もう帰らないはずの家。
それでも、彼女は前を向いた。
「はい。ここにおります。けれど今の私は、エヴァンゼルの令嬢ではありません」
使いの男は驚いたように目を見開き、文書を差し出した。
「公爵家、レオンハルト殿下より書簡を。至急、ご返答を求めるとのこと」
手紙には、彼女の知らぬ新たな運命が記されていた。
クラリスは震える指で封を開けることなく、息を整えた。
もう逃げない。
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それが今のクラリスの、生きる形だった。
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