偽りの婚約者だった私を捨てた公爵様が、今さら泣きついてきてももう遅いです

exdonuts

文字の大きさ
4 / 7

第4話 彼女が決意した旅立ち

しおりを挟む
リヴェルに拠点を構えてから半月。  
クラリスの手で屋敷は少しずつ形を変え、ようやく“クラリス商会”としての看板を掲げられるほどになっていた。といっても、従業員は彼女とリーゼ、そして時々手伝いに来るノアの三人だけ。まだ本格的に商品すら扱っていない小さな夢の種にすぎない。  
けれど、その小さな種を見てクラリスは満足そうに微笑む。  
「やっと……一歩、踏み出せたわね」

屋敷の前庭には、クラリスが描いた商会の印章旗がはためいていた。白地に金糸で描かれた羽のマーク。自由を象徴する鳥の翼を模したそれは、彼女の今の想いそのままだ。  
リーゼがその旗を見上げながら、ため息をついた。  
「本当に始めてしまいましたね……お嬢様、いえ、クラリス様」  
「始めなければ、何も変わらないわ。あの日だって、私は変わらなくちゃと思ったもの」

あの日。婚約破棄の夜。全てを失ったあの瞬間から、クラリスは何かを手放し、何かを掴み取った。貴族の誇りという名の檻を壊した代わりに、未知という自由を得たのだ。  
だが現実は甘くない。商売を始めるには資金と信頼がいる。  
クラリスたちの商会がまだ帳簿上も認可を受けていないと知るや、市場の商人たちの視線は容赦なく冷えたものだった。

「お嬢さん方、無理だよそんなの。女だけで商会なんてすぐ潰れる」  
「貴族の遊びだと思って手を出すなよ。悪いことは言わねぇ」  

言葉の刃が平然と投げつけられる。それでもクラリスは微笑を崩さなかった。  
「忠告ありがとう。でも、私は退屈な“お嬢さん”には戻らないの」  
冷たい声色でそう言い返すと、相手の男たちは面食らったように顔を見合わせた。  
レオンハルトに向けられた感情とは違う、鋭く強い意志がその瞳の奥に宿っている。  
それを見てリーゼが小声で感嘆する。  
「……本当に変わられましたね、クラリス様」  
「ええ。だって、もうこれしかないもの」

やがて彼女の耳に届いたのは、懐かしい靴音だった。  
「商売敵に囲まれて笑っていられるなんて、肝が据わったな」  
ノアが大きな荷袋を肩に担いで立っていた。  
「ノア、来てくれたのね!」  
「もちろん。約束しただろう?力が要る時は呼べって」  
彼が荷袋を下ろすと、中からは織布と革製品が出てくる。  
「これは……?」  
「北部の村で作ってる布と靴革だ。安くて丈夫で、質がいい。扱い方次第で売れる」  
クラリスの瞳に力が宿る。  
「これなら……始められるわね」  
「その意気だ。だけど、最初は信用を掴むのが先だ。噂じゃ来月、王都から商人の視察団が来るらしい。小さくでもいい、うちの商品を見せる場を作れればチャンスがある」  
ノアの真剣な声を聞き、クラリスは拳を握る。  
「分かったわ。私、出店を開く。街の広場で」

それは無謀な挑戦だった。市場で露店を構えるのは許可が必要で、手続きにも費用がかかる。しかし、ノアの人脈とリーゼの手際の良さで、三日後には小さな出店の枠を確保することができた。  

迎えた当日。  
曇り空から粉雪が舞い落ちる中、クラリスは布地を広げ、手作りのマフラーや手袋を並べていた。見栄えこそ素朴だが、触れれば誰もが分かるほど柔らかく暖かい。  
人々がつかの間立ち止まり、品を手に取り、値札を見ていく。  
だが、最初の数時間は誰も買ってくれなかった。  
「やっぱり駄目かしら……」  
リーゼが不安そうに呟く。  
クラリスは静かに首を振った。  
「焦らないで。私たちの品は“手に取って確かめて”もらえばいいのよ」  
そう言うと、彼女は通りかかった婦人に声をかけた。  
「寒い中大変ですね。よかったらこれを試してみませんか?」  
婦人はためらいながらも手袋を受け取り、指を通す。  
「……まぁ、なんて柔らかいの」  
「リヴェル北山の羊毛を使ってます。機械じゃなく、手で形を整えてるの」  
「とてもいいわ。おいくら?」  
「半分、手間賃だけいただければ十分です」  
その控えめな値に、婦人は驚いた顔で頷いた。  

それが最初のひとつ目の売上だった。  
その後、噂を聞きつけた人々が少しずつ集まり、出店の前には列ができた。  
リーゼが顔を輝かせて小声で叫ぶ。  
「お嬢様、売れてます!次々と……!」  
クラリスは深く息を吸い、涙腺が熱くなるのを感じながら微笑んだ。  
「よかった……本当によかった……」  

夕暮れ、出店を片付けた後。  
ノアが彼女にお茶を差し出しながら言う。  
「やったな。初日からこの手応えは上々だ」  
「皆さんが買ってくださったのは、きっと私たちの想いを感じ取ってくださったからね」  
「想い?」  
「だって、寒い冬を少しでも温めたいって気持ちで作ったんですもの」  
ノアはその言葉を聞いてから、しばらく黙って彼女を見つめた。  
「……あんたはやっぱり強いな」  
「そんなことないわ。怖くて震えてたのよ」  
「でも、立ってた。俺は、それがすごいと思う」  
クラリスは微笑んだ。  
「ありがとう、ノア。貴方がここにいてくれて良かった」  
その瞬間、ノアは言葉を失い、ただ照れ隠しに咳払いをした。  
「仕事の後で飲む茶は格別だな……明日も手伝うよ」  
「期待してるわ」

夜、屋敷に戻ると、リーゼが帳簿を片手に小躍りした。  
「今日の売上、これだけです!すごいじゃないですか!」  
「本当に……夢のようね」  
クラリスは窓辺に立ち、白い月を見上げる。  
その光が頬を照らすと、まるで希望を約束するようだった。  
「これが始まり。私たちは、ここから羽ばたくのよ」

その時、遠くから雪道を駆ける馬車の音が聴こえた。  
ノアが剣に手をかけ、警戒して外を見る。  
「誰か来る……こんな時間に?」  
馬車には王都の紋章が刻まれていた。  
降り立ったのは一人の使いの男。  
「エヴァンゼル家の令嬢、クラリス様はここにおられるか!」  
呼ばれたその名に、クラリスの背筋が凍る。  
もう捨てたはずの名。もう帰らないはずの家。  
それでも、彼女は前を向いた。

「はい。ここにおります。けれど今の私は、エヴァンゼルの令嬢ではありません」  
使いの男は驚いたように目を見開き、文書を差し出した。  
「公爵家、レオンハルト殿下より書簡を。至急、ご返答を求めるとのこと」  

手紙には、彼女の知らぬ新たな運命が記されていた。  
クラリスは震える指で封を開けることなく、息を整えた。  
もう逃げない。  
どんな言葉がそこにあっても、自分の意志で選び取る。  
それが今のクラリスの、生きる形だった。

(続く)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!

野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。  私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。  そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。

婚約破棄された令嬢は平凡な青年に拾われて、今さら後悔した公爵様に知らん顔されても困ります

exdonuts
恋愛
婚約者に裏切られ、社交界から笑い者にされた侯爵令嬢セシリア。すべてを失い途方に暮れる中、彼女を救ったのは町外れのパン屋で働く青年リアムだった。 「もう無理に頑張らなくていい」――そう言って微笑む彼の優しさに、凍りついていた心が溶けていく。 しかし、幸せが訪れた矢先、かつての婚約者が突然彼女の前に現れて……? これは、失われた令嬢が本当の愛と尊厳を取り戻す、ざまぁと溺愛の物語。

悪役令嬢として断罪? 残念、全員が私を庇うので処刑されませんでした

ゆっこ
恋愛
 豪奢な大広間の中心で、私はただひとり立たされていた。  玉座の上には婚約者である王太子・レオンハルト殿下。その隣には、涙を浮かべながら震えている聖女――いえ、平民出身の婚約者候補、ミリア嬢。  そして取り巻くように並ぶ廷臣や貴族たちの視線は、一斉に私へと向けられていた。  そう、これは断罪劇。 「アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン! お前は聖女ミリアを虐げ、幾度も侮辱し、王宮の秩序を乱した。その罪により、婚約破棄を宣告し、さらには……」  殿下が声を張り上げた。 「――処刑とする!」  広間がざわめいた。  けれど私は、ただ静かに微笑んだ。 (あぁ……やっぱり、来たわね。この展開)

聖女になんかなりたくない! 聖女認定される前に…私はバックれたいと思います。

アノマロカリス
恋愛
この作品の大半はコメディです。 侯爵家に生まれた双子のリアナとリアラ。 姉のリアナは光り輝く金髪と青い瞳を持つ少女。 一方、妹のリアラは不吉の象徴と言われた漆黒の髪に赤い瞳を持つ少女。 両親は姉のリアナを可愛がり、妹のリアラには両親だけではなく使用人すらもぞんざいに扱われていた。 ここまでは良くある話だが、問題はこの先… 果たして物語はどう進んで行くのでしょうか?

「お前との婚約はなかったことに」と言われたので、全財産持って逃げました

ほーみ
恋愛
 その日、私は生まれて初めて「人間ってここまで自己中心的になれるんだ」と知った。 「レイナ・エルンスト。お前との婚約は、なかったことにしたい」  そう言ったのは、私の婚約者であり王太子であるエドワルド殿下だった。 「……は?」  まぬけな声が出た。無理もない。私は何の前触れもなく、突然、婚約を破棄されたのだから。

婚約破棄後のお話

Nau
恋愛
これは婚約破棄された令嬢のその後の物語 皆さん、令嬢として18年生きてきた私が平民となり大変な思いをしているとお思いでしょうね? 残念。私、愛されてますから…

覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―

Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

処理中です...