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第6話 小さな商会の始まり
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クラリス商会の看板が掲げられてから一週間。街の人々がようやく「不思議な白い屋敷の女主人」に慣れ始めた頃、クラリスは屋敷の中央ホールで新しい帳簿をめくっていた。
ページの上には丁寧な数字の列。けれど、収益はほんのわずかで、出費の方が多かった。
「ふぅ……やっぱり、商会って思っていた以上に難しいのね」
苦笑まじりに呟くと、リーゼが温かいお茶を運んできた。
「クラリス様、まだ焦らなくても大丈夫です。お客様からの評判は上々ですし、ノア様の仕入れ品も好評でした」
「分かっているけれど、数字にして見るとつい胃が痛くなるのよ。あぁ、貴族時代はこんな心配したことなかったのに」
「そうですね……でも、“この痛みも生きている証だ”って、ノア様が言っていましたよ」
クラリスは思わずくすっと笑った。
「彼らしいわね。じゃあ私、この痛みも楽しむことにするわ」
その時、廊下の方からドタバタと足音が近づいてきた。ノアが両手いっぱいに荷袋を抱えて現れる。
「クラリス! 朗報だ、注文が入った!」
「えっ、どこから?」
「昨日の広場で手袋を買っていった婦人だ。村の仲間にも紹介したいから同じものを十組頼みたいってさ」
「十組も! 本当に?」
「本当だとも。しかも代金は前払いだ」
ノアが小袋を差し出す。中には銀貨がいくつも光っていた。
クラリスは手を胸に当て、目を閉じた。
「やっと……一つ、階段を登れた気がするわ」
リーゼは手を叩きながらはしゃいだ。
「おめでとうございます! これが“商会の第一歩”ですね!」
ノアもうなずき、少し誇らしげに微笑む。
「お祝いに、今夜は俺が料理を作るよ」
「ノアが?!」
「驚くな。これでも遠征生活は長かったからな、飯作りには自信ある」
クラリスは目を丸くしつつも微笑んだ。
「そう、楽しみにしてるわ。きっと美味しいでしょうね」
午後には早速、追加生産が始まった。リーゼが布を裁ち、クラリスが縫い合わせ、ノアが出来上がった品を検品して梱包する。小さな商会だが、作業の空気は温かく、笑い声が絶えなかった。
「指先を使うって、案外楽しいものね」
「お嬢……じゃなかった、クラリス様、指に針が!」
「あっ、ほんとだ。うっかりしてたわ」
リーゼが慌てて絆創膏を取り出すが、ノアが先に手を伸ばした。
「貸して。俺がやる」
ノアは器用に彼女の指先を包み込み、丁寧に布を巻いた。
「ずいぶん優しいのね」
「そりゃ、貴族令嬢の指に傷をつけるわけにはいかない」
「もう貴族令嬢じゃないわ」
「……ああ、そうだったな。でも、庶民だって大事だ。怪我したら仕事ができなくなるし」
クラリスはその真面目な眼差しに苦笑して頷く。
「あなた、本当に世話焼きね」
「性分だよ。ほっとくと今にも無理しそうなんだもの」
夕方になり、ようやく十組の注文品が揃った。
出来上がったばかりの手袋は箱に詰められ、リボンで整えられる。
「ふふ、まるで贈り物ね」
「実際、誰かを温めるものだから、贈り物みたいなものさ」
ノアが言ったその瞬間、クラリスは短く息を呑んだ。
(誰かを温める……そうね。私が作ったものが誰かを柔らかく包む。それって、なんて素敵なことなのかしら)
夜、屋敷の食卓にはノアの手料理が並んだ。シチューと焼きたてのパン、そして香草を散らした肉料理。
「わぁ、いい匂い。まさか本当にこんなに腕があるなんて」
「ほら言ったろ? 遠征暮らしは自炊の連続だったんだ」
リーゼがスプーンを手にして感慨深く言う。
「貴族の食卓とはまた違う味ですね。でも、心が温かくなります」
「うん……とても美味しいわ」クラリスは目を細めて微笑む。
ノアはその顔を静かに見つめ、頬をかすかに染めた。
「そんな顔されたら、また作りたくなるだろ」
「じゃあ、お願いしようかしら。毎晩」
「……本気で言ってる?」
「冗談よ。でも、いつか本当にそんな日が来たら楽しいわね」
リーゼがその会話を後ろで聞きながら、照れくさそうに笑っていた。
その夜、寝室に戻ったクラリスは机の引き出しから古いノートを取り出した。
そこには、この地に来てからの出来事と、失敗や感想が丁寧に書かれている。
“今日初めて、誰かが私たちの商品を待っていてくれた。
過去を失っても、こうして自分の手で未来をつくれるのだと知った。”
ペンを置き、クラリスは静かに息を吐いた。
窓の外では雪がちらつき、満月が屋根を照らしている。
(あの頃の私が見たら、きっと信じられないって言うだろうな。でも、私はもう後戻りしない)
ほどなくして、扉がノックされた。ノアだった。
「起きてるか?」
「ええ。どうしたの?」
「明日、視察団の商人が街に来る。出店をもう一度出そう。今度は俺も正面で客を呼び込みたいんだ」
クラリスは頷き、ふっと笑う。
「頼もしいわね。私たちの手で、商会の名を知らしめましょう」
「おう。絶対成功させよう」
短い会話の中にも、二人の呼吸はすでに一つに合っていた。
ノアが去った後、クラリスは机の上の封書に目をやった。
まだ開かれていない、レオンハルトからの手紙。
彼女はふとそれを手に取り、暖炉の炎を見つめる。
燃やしてしまえば、すべて終わる。
けれど――終わらせるには、まだ早い気もした。
それを再び机に戻すと、小さく呟く。
「今はまだ私の未来を優先するわ。過去は、進む足を止めない程度にでいい」
炎がぱちりと弾ける音がした。
クラリスはベッドに横たわり、天井を見上げる。
明日がくるのが怖くない夜は、実に久しぶりだった。
胸の奥にほんのり温かい灯りを感じながら、彼女は目を閉じる。
小さな商会の夜は静かに、更けていった。
(続く)
ページの上には丁寧な数字の列。けれど、収益はほんのわずかで、出費の方が多かった。
「ふぅ……やっぱり、商会って思っていた以上に難しいのね」
苦笑まじりに呟くと、リーゼが温かいお茶を運んできた。
「クラリス様、まだ焦らなくても大丈夫です。お客様からの評判は上々ですし、ノア様の仕入れ品も好評でした」
「分かっているけれど、数字にして見るとつい胃が痛くなるのよ。あぁ、貴族時代はこんな心配したことなかったのに」
「そうですね……でも、“この痛みも生きている証だ”って、ノア様が言っていましたよ」
クラリスは思わずくすっと笑った。
「彼らしいわね。じゃあ私、この痛みも楽しむことにするわ」
その時、廊下の方からドタバタと足音が近づいてきた。ノアが両手いっぱいに荷袋を抱えて現れる。
「クラリス! 朗報だ、注文が入った!」
「えっ、どこから?」
「昨日の広場で手袋を買っていった婦人だ。村の仲間にも紹介したいから同じものを十組頼みたいってさ」
「十組も! 本当に?」
「本当だとも。しかも代金は前払いだ」
ノアが小袋を差し出す。中には銀貨がいくつも光っていた。
クラリスは手を胸に当て、目を閉じた。
「やっと……一つ、階段を登れた気がするわ」
リーゼは手を叩きながらはしゃいだ。
「おめでとうございます! これが“商会の第一歩”ですね!」
ノアもうなずき、少し誇らしげに微笑む。
「お祝いに、今夜は俺が料理を作るよ」
「ノアが?!」
「驚くな。これでも遠征生活は長かったからな、飯作りには自信ある」
クラリスは目を丸くしつつも微笑んだ。
「そう、楽しみにしてるわ。きっと美味しいでしょうね」
午後には早速、追加生産が始まった。リーゼが布を裁ち、クラリスが縫い合わせ、ノアが出来上がった品を検品して梱包する。小さな商会だが、作業の空気は温かく、笑い声が絶えなかった。
「指先を使うって、案外楽しいものね」
「お嬢……じゃなかった、クラリス様、指に針が!」
「あっ、ほんとだ。うっかりしてたわ」
リーゼが慌てて絆創膏を取り出すが、ノアが先に手を伸ばした。
「貸して。俺がやる」
ノアは器用に彼女の指先を包み込み、丁寧に布を巻いた。
「ずいぶん優しいのね」
「そりゃ、貴族令嬢の指に傷をつけるわけにはいかない」
「もう貴族令嬢じゃないわ」
「……ああ、そうだったな。でも、庶民だって大事だ。怪我したら仕事ができなくなるし」
クラリスはその真面目な眼差しに苦笑して頷く。
「あなた、本当に世話焼きね」
「性分だよ。ほっとくと今にも無理しそうなんだもの」
夕方になり、ようやく十組の注文品が揃った。
出来上がったばかりの手袋は箱に詰められ、リボンで整えられる。
「ふふ、まるで贈り物ね」
「実際、誰かを温めるものだから、贈り物みたいなものさ」
ノアが言ったその瞬間、クラリスは短く息を呑んだ。
(誰かを温める……そうね。私が作ったものが誰かを柔らかく包む。それって、なんて素敵なことなのかしら)
夜、屋敷の食卓にはノアの手料理が並んだ。シチューと焼きたてのパン、そして香草を散らした肉料理。
「わぁ、いい匂い。まさか本当にこんなに腕があるなんて」
「ほら言ったろ? 遠征暮らしは自炊の連続だったんだ」
リーゼがスプーンを手にして感慨深く言う。
「貴族の食卓とはまた違う味ですね。でも、心が温かくなります」
「うん……とても美味しいわ」クラリスは目を細めて微笑む。
ノアはその顔を静かに見つめ、頬をかすかに染めた。
「そんな顔されたら、また作りたくなるだろ」
「じゃあ、お願いしようかしら。毎晩」
「……本気で言ってる?」
「冗談よ。でも、いつか本当にそんな日が来たら楽しいわね」
リーゼがその会話を後ろで聞きながら、照れくさそうに笑っていた。
その夜、寝室に戻ったクラリスは机の引き出しから古いノートを取り出した。
そこには、この地に来てからの出来事と、失敗や感想が丁寧に書かれている。
“今日初めて、誰かが私たちの商品を待っていてくれた。
過去を失っても、こうして自分の手で未来をつくれるのだと知った。”
ペンを置き、クラリスは静かに息を吐いた。
窓の外では雪がちらつき、満月が屋根を照らしている。
(あの頃の私が見たら、きっと信じられないって言うだろうな。でも、私はもう後戻りしない)
ほどなくして、扉がノックされた。ノアだった。
「起きてるか?」
「ええ。どうしたの?」
「明日、視察団の商人が街に来る。出店をもう一度出そう。今度は俺も正面で客を呼び込みたいんだ」
クラリスは頷き、ふっと笑う。
「頼もしいわね。私たちの手で、商会の名を知らしめましょう」
「おう。絶対成功させよう」
短い会話の中にも、二人の呼吸はすでに一つに合っていた。
ノアが去った後、クラリスは机の上の封書に目をやった。
まだ開かれていない、レオンハルトからの手紙。
彼女はふとそれを手に取り、暖炉の炎を見つめる。
燃やしてしまえば、すべて終わる。
けれど――終わらせるには、まだ早い気もした。
それを再び机に戻すと、小さく呟く。
「今はまだ私の未来を優先するわ。過去は、進む足を止めない程度にでいい」
炎がぱちりと弾ける音がした。
クラリスはベッドに横たわり、天井を見上げる。
明日がくるのが怖くない夜は、実に久しぶりだった。
胸の奥にほんのり温かい灯りを感じながら、彼女は目を閉じる。
小さな商会の夜は静かに、更けていった。
(続く)
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