偽りの婚約者だった私を捨てた公爵様が、今さら泣きついてきてももう遅いです

exdonuts

文字の大きさ
6 / 7

第6話 小さな商会の始まり

しおりを挟む
クラリス商会の看板が掲げられてから一週間。街の人々がようやく「不思議な白い屋敷の女主人」に慣れ始めた頃、クラリスは屋敷の中央ホールで新しい帳簿をめくっていた。  
ページの上には丁寧な数字の列。けれど、収益はほんのわずかで、出費の方が多かった。  
「ふぅ……やっぱり、商会って思っていた以上に難しいのね」  
苦笑まじりに呟くと、リーゼが温かいお茶を運んできた。  
「クラリス様、まだ焦らなくても大丈夫です。お客様からの評判は上々ですし、ノア様の仕入れ品も好評でした」  
「分かっているけれど、数字にして見るとつい胃が痛くなるのよ。あぁ、貴族時代はこんな心配したことなかったのに」  
「そうですね……でも、“この痛みも生きている証だ”って、ノア様が言っていましたよ」  
クラリスは思わずくすっと笑った。  
「彼らしいわね。じゃあ私、この痛みも楽しむことにするわ」

その時、廊下の方からドタバタと足音が近づいてきた。ノアが両手いっぱいに荷袋を抱えて現れる。  
「クラリス! 朗報だ、注文が入った!」  
「えっ、どこから?」  
「昨日の広場で手袋を買っていった婦人だ。村の仲間にも紹介したいから同じものを十組頼みたいってさ」  
「十組も! 本当に?」  
「本当だとも。しかも代金は前払いだ」  
ノアが小袋を差し出す。中には銀貨がいくつも光っていた。  
クラリスは手を胸に当て、目を閉じた。  
「やっと……一つ、階段を登れた気がするわ」  
リーゼは手を叩きながらはしゃいだ。  
「おめでとうございます! これが“商会の第一歩”ですね!」  
ノアもうなずき、少し誇らしげに微笑む。  
「お祝いに、今夜は俺が料理を作るよ」  
「ノアが?!」  
「驚くな。これでも遠征生活は長かったからな、飯作りには自信ある」  
クラリスは目を丸くしつつも微笑んだ。  
「そう、楽しみにしてるわ。きっと美味しいでしょうね」

午後には早速、追加生産が始まった。リーゼが布を裁ち、クラリスが縫い合わせ、ノアが出来上がった品を検品して梱包する。小さな商会だが、作業の空気は温かく、笑い声が絶えなかった。  
「指先を使うって、案外楽しいものね」  
「お嬢……じゃなかった、クラリス様、指に針が!」  
「あっ、ほんとだ。うっかりしてたわ」  
リーゼが慌てて絆創膏を取り出すが、ノアが先に手を伸ばした。  
「貸して。俺がやる」  
ノアは器用に彼女の指先を包み込み、丁寧に布を巻いた。  
「ずいぶん優しいのね」  
「そりゃ、貴族令嬢の指に傷をつけるわけにはいかない」  
「もう貴族令嬢じゃないわ」  
「……ああ、そうだったな。でも、庶民だって大事だ。怪我したら仕事ができなくなるし」  
クラリスはその真面目な眼差しに苦笑して頷く。  
「あなた、本当に世話焼きね」  
「性分だよ。ほっとくと今にも無理しそうなんだもの」

夕方になり、ようやく十組の注文品が揃った。  
出来上がったばかりの手袋は箱に詰められ、リボンで整えられる。  
「ふふ、まるで贈り物ね」  
「実際、誰かを温めるものだから、贈り物みたいなものさ」  
ノアが言ったその瞬間、クラリスは短く息を呑んだ。  
(誰かを温める……そうね。私が作ったものが誰かを柔らかく包む。それって、なんて素敵なことなのかしら)  

夜、屋敷の食卓にはノアの手料理が並んだ。シチューと焼きたてのパン、そして香草を散らした肉料理。  
「わぁ、いい匂い。まさか本当にこんなに腕があるなんて」  
「ほら言ったろ? 遠征暮らしは自炊の連続だったんだ」  
リーゼがスプーンを手にして感慨深く言う。  
「貴族の食卓とはまた違う味ですね。でも、心が温かくなります」  
「うん……とても美味しいわ」クラリスは目を細めて微笑む。  
ノアはその顔を静かに見つめ、頬をかすかに染めた。  
「そんな顔されたら、また作りたくなるだろ」  
「じゃあ、お願いしようかしら。毎晩」  
「……本気で言ってる?」  
「冗談よ。でも、いつか本当にそんな日が来たら楽しいわね」  
リーゼがその会話を後ろで聞きながら、照れくさそうに笑っていた。

その夜、寝室に戻ったクラリスは机の引き出しから古いノートを取り出した。  
そこには、この地に来てからの出来事と、失敗や感想が丁寧に書かれている。  
“今日初めて、誰かが私たちの商品を待っていてくれた。  
 過去を失っても、こうして自分の手で未来をつくれるのだと知った。”  
ペンを置き、クラリスは静かに息を吐いた。  
窓の外では雪がちらつき、満月が屋根を照らしている。  
(あの頃の私が見たら、きっと信じられないって言うだろうな。でも、私はもう後戻りしない)

ほどなくして、扉がノックされた。ノアだった。  
「起きてるか?」  
「ええ。どうしたの?」  
「明日、視察団の商人が街に来る。出店をもう一度出そう。今度は俺も正面で客を呼び込みたいんだ」  
クラリスは頷き、ふっと笑う。  
「頼もしいわね。私たちの手で、商会の名を知らしめましょう」  
「おう。絶対成功させよう」  
短い会話の中にも、二人の呼吸はすでに一つに合っていた。

ノアが去った後、クラリスは机の上の封書に目をやった。  
まだ開かれていない、レオンハルトからの手紙。  
彼女はふとそれを手に取り、暖炉の炎を見つめる。  
燃やしてしまえば、すべて終わる。  
けれど――終わらせるには、まだ早い気もした。  
それを再び机に戻すと、小さく呟く。  
「今はまだ私の未来を優先するわ。過去は、進む足を止めない程度にでいい」

炎がぱちりと弾ける音がした。  
クラリスはベッドに横たわり、天井を見上げる。  
明日がくるのが怖くない夜は、実に久しぶりだった。  
胸の奥にほんのり温かい灯りを感じながら、彼女は目を閉じる。  
小さな商会の夜は静かに、更けていった。

(続く)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!

野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。  私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。  そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。

婚約破棄された令嬢は平凡な青年に拾われて、今さら後悔した公爵様に知らん顔されても困ります

exdonuts
恋愛
婚約者に裏切られ、社交界から笑い者にされた侯爵令嬢セシリア。すべてを失い途方に暮れる中、彼女を救ったのは町外れのパン屋で働く青年リアムだった。 「もう無理に頑張らなくていい」――そう言って微笑む彼の優しさに、凍りついていた心が溶けていく。 しかし、幸せが訪れた矢先、かつての婚約者が突然彼女の前に現れて……? これは、失われた令嬢が本当の愛と尊厳を取り戻す、ざまぁと溺愛の物語。

悪役令嬢として断罪? 残念、全員が私を庇うので処刑されませんでした

ゆっこ
恋愛
 豪奢な大広間の中心で、私はただひとり立たされていた。  玉座の上には婚約者である王太子・レオンハルト殿下。その隣には、涙を浮かべながら震えている聖女――いえ、平民出身の婚約者候補、ミリア嬢。  そして取り巻くように並ぶ廷臣や貴族たちの視線は、一斉に私へと向けられていた。  そう、これは断罪劇。 「アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン! お前は聖女ミリアを虐げ、幾度も侮辱し、王宮の秩序を乱した。その罪により、婚約破棄を宣告し、さらには……」  殿下が声を張り上げた。 「――処刑とする!」  広間がざわめいた。  けれど私は、ただ静かに微笑んだ。 (あぁ……やっぱり、来たわね。この展開)

聖女になんかなりたくない! 聖女認定される前に…私はバックれたいと思います。

アノマロカリス
恋愛
この作品の大半はコメディです。 侯爵家に生まれた双子のリアナとリアラ。 姉のリアナは光り輝く金髪と青い瞳を持つ少女。 一方、妹のリアラは不吉の象徴と言われた漆黒の髪に赤い瞳を持つ少女。 両親は姉のリアナを可愛がり、妹のリアラには両親だけではなく使用人すらもぞんざいに扱われていた。 ここまでは良くある話だが、問題はこの先… 果たして物語はどう進んで行くのでしょうか?

「お前との婚約はなかったことに」と言われたので、全財産持って逃げました

ほーみ
恋愛
 その日、私は生まれて初めて「人間ってここまで自己中心的になれるんだ」と知った。 「レイナ・エルンスト。お前との婚約は、なかったことにしたい」  そう言ったのは、私の婚約者であり王太子であるエドワルド殿下だった。 「……は?」  まぬけな声が出た。無理もない。私は何の前触れもなく、突然、婚約を破棄されたのだから。

婚約破棄後のお話

Nau
恋愛
これは婚約破棄された令嬢のその後の物語 皆さん、令嬢として18年生きてきた私が平民となり大変な思いをしているとお思いでしょうね? 残念。私、愛されてますから…

覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―

Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

処理中です...