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もみじとよもぎ
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「明日美ちゃん!」
角を曲がって見慣れた我が家が見えると、明日美ちゃんはもう玄関の前に出ていた。春の陽射しが心地よくて、つい公園のベンチで居眠りし過ぎちゃったかもしれない。僕は急いで駆け寄る。
明日美ちゃんは、周りを不安そうにキョロキョロしていた。黒くて長い髪が、首を振るたびにパッと丸く広がる。
「どうしたの?」
約束の時間に間に合わなかったことを、怒っているわけではないみたいだ。目の前まできた僕に、明日美ちゃんは力ない笑顔を浮かべてみせた。
「もみじがまたいなくなっちゃって」
僕はきょとんとする。
「僕はここにいるよ」
すると、明日美ちゃんはぷふっと噴き出した。
「違うよ。紅葉くんじゃなくて、うちのもみじ。猫だってば」
「あ、あぁ、そっか」
人間の姿で初めて明日美ちゃんに会った時、名前を訊かれてうっかり正直に答えてしまった。単純に都合がいい名前を思いつかなかったこともあるけど、浮かれていたんだと思う。
バレてしまうかとヒヤヒヤしたけど、明日美ちゃんは笑った。うちの猫と同じ! と言って、なぜかとても喜んだ。
そのおかげなのか、怪しまれることもなく、僕たちはすぐに仲良しになれた。
その時は助かったと胸を撫で下ろしたけど、僕は本当にうっかりさんだから、こういうことがたびたびあって、今は少し後悔している。
バレないように気をつけないといけない。この不思議な魔法のことが知られてしまったら、もう人間に変身させてもらえなくなってしまう。
「えっと、猫のもみじなら、あおいの家にいたよ。僕、見たんだ」
あおいばあさんは、黒い足袋を穿いた、この町の長老猫だ。
「あおいちゃんって、確か五丁目の、大きなお家の猫ちゃんだよね? 飼い主さんが、作家さんだかイラストレーターさんだかの」
明日美ちゃんも、彼女のことは知っているらしい。狭い町内だし、猫好き同士のコミュニティでもあるのかもしれない。
「うん、そうそう! だから、心配しなくても平気だよ。夕方までには帰ってくるって」
「う~ん……そうかなぁ」
不安が拭い切れない様子の明日美ちゃんの手を取って、僕は言う。
「猫は自由を愛する生きものなんだ。それに、ちゃんと自分の帰るべき場所を知ってる。いつも暗くなる前には戻ってくるじゃない。それより早く行こうよ。約束でしょ? ネモフィラは午前中がきれいなんだ」
明日美ちゃんはまだどこか不安そうだったけど、少し考えたあとで、口を弓なりに引き結んで大きくうなずいた。
その顔は、いつか明日美ちゃんが食べていた、瑞々しいオレンジの甘酸っぱくてスッキリとしたいい匂いを、いつでも僕に思い起こさせる。
「そういえば、紅葉くんのお家って、五丁目のほうなの?」
並んで歩きながら、明日美ちゃんが首を傾けた。
「あおいちゃんのお家の前を通ってきたんだよね?」
「え? あぁ、うん。そう。そっちのほうだよ。へへ」
その公園は、家からそんなに離れていないこともあって、僕とよもぎのお気に入りの散歩コースの一つになっている。噴水はないけど、中央に大きな花壇があって、季節ごとにいろんな花が咲く。
僕とよもぎは、管理人のおじいさんに怒られないのをいいことに、その花壇に入り込んで、花の蜜の匂いを嗅いだり、葉っぱの絨毯にだらしなく寝転んだりして、一日をどうしようもなく無駄遣いしながら過ごすんだ。
とりわけネモフィラが活躍する春は素晴らしくて、花壇いっぱいに敷き詰められた、透き通った青い花を初めて目にした時。僕は、空が落っこちてきたんじゃないかと本気で思った。
特に、雨上がり。空気が清らかになってよく晴れた日には、空がこんな色に染まる瞬間がある。クリアな水色でも、深い蒼でもない。澄んだ青。
それを見られた日は、なんだか得したような気分になるんだ。
それを、明日美ちゃんにも見て欲しかった。僕と同じように、嬉しい気持ちになって欲しかったんだ。
「――――すごい! きれいだね!」
明日美ちゃんの第一声は、それだった。
「小学生の頃に一度きただけだけど、こんなにきれいな花が咲いているんだったら、家から近いし、もっとちょくちょく遊びにくればよかったなぁ」
目をキラキラ輝かせて、ネモフィラの花畑を見る、明日美ちゃん。
僕は、かけっこでよもぎに勝った時のような、誇らしい気分になる。
「明日美ちゃん、青が好きだから、絶対喜ぶと思った」
明日美ちゃんは驚いて真ん丸にした目を、僕に向ける。
「なんで知ってるの? わたし、青が好きだって」
「明日美ちゃんのことは、何でも知ってるんだよ」
だって、ずっとそばにいたんだもの。
明日美ちゃんのお父さんとお母さんが、突然亡くなってしまった、あの夜。仕事から帰ってきたままの格好で、茫然と道を歩いていた明日美ちゃんは、道端に捨てられていた僕とよもぎを見つけた。
吸い寄せられるようにしてその場に膝をつき、手を伸ばすと、明日美ちゃんは僕たちをぎゅっと抱きしめた。
そのままいつまでも、声を殺してポロポロ泣いていた明日美ちゃんが、僕たちの温もりの中に、お父さんとお母さんの温もりを感じていたことだって、ちゃんと知っているんだよ。
明日美ちゃんは、今でも僕たちを抱いていないと眠れない。
そんな明日美ちゃんのベッドからこっそり脱け出すのは、毎回、本当はとても心が痛む。でも、こうやって明日美ちゃんとお話ができることが嬉しくて、僕はやっぱり鏡の前に座ってしまう。
角を曲がって見慣れた我が家が見えると、明日美ちゃんはもう玄関の前に出ていた。春の陽射しが心地よくて、つい公園のベンチで居眠りし過ぎちゃったかもしれない。僕は急いで駆け寄る。
明日美ちゃんは、周りを不安そうにキョロキョロしていた。黒くて長い髪が、首を振るたびにパッと丸く広がる。
「どうしたの?」
約束の時間に間に合わなかったことを、怒っているわけではないみたいだ。目の前まできた僕に、明日美ちゃんは力ない笑顔を浮かべてみせた。
「もみじがまたいなくなっちゃって」
僕はきょとんとする。
「僕はここにいるよ」
すると、明日美ちゃんはぷふっと噴き出した。
「違うよ。紅葉くんじゃなくて、うちのもみじ。猫だってば」
「あ、あぁ、そっか」
人間の姿で初めて明日美ちゃんに会った時、名前を訊かれてうっかり正直に答えてしまった。単純に都合がいい名前を思いつかなかったこともあるけど、浮かれていたんだと思う。
バレてしまうかとヒヤヒヤしたけど、明日美ちゃんは笑った。うちの猫と同じ! と言って、なぜかとても喜んだ。
そのおかげなのか、怪しまれることもなく、僕たちはすぐに仲良しになれた。
その時は助かったと胸を撫で下ろしたけど、僕は本当にうっかりさんだから、こういうことがたびたびあって、今は少し後悔している。
バレないように気をつけないといけない。この不思議な魔法のことが知られてしまったら、もう人間に変身させてもらえなくなってしまう。
「えっと、猫のもみじなら、あおいの家にいたよ。僕、見たんだ」
あおいばあさんは、黒い足袋を穿いた、この町の長老猫だ。
「あおいちゃんって、確か五丁目の、大きなお家の猫ちゃんだよね? 飼い主さんが、作家さんだかイラストレーターさんだかの」
明日美ちゃんも、彼女のことは知っているらしい。狭い町内だし、猫好き同士のコミュニティでもあるのかもしれない。
「うん、そうそう! だから、心配しなくても平気だよ。夕方までには帰ってくるって」
「う~ん……そうかなぁ」
不安が拭い切れない様子の明日美ちゃんの手を取って、僕は言う。
「猫は自由を愛する生きものなんだ。それに、ちゃんと自分の帰るべき場所を知ってる。いつも暗くなる前には戻ってくるじゃない。それより早く行こうよ。約束でしょ? ネモフィラは午前中がきれいなんだ」
明日美ちゃんはまだどこか不安そうだったけど、少し考えたあとで、口を弓なりに引き結んで大きくうなずいた。
その顔は、いつか明日美ちゃんが食べていた、瑞々しいオレンジの甘酸っぱくてスッキリとしたいい匂いを、いつでも僕に思い起こさせる。
「そういえば、紅葉くんのお家って、五丁目のほうなの?」
並んで歩きながら、明日美ちゃんが首を傾けた。
「あおいちゃんのお家の前を通ってきたんだよね?」
「え? あぁ、うん。そう。そっちのほうだよ。へへ」
その公園は、家からそんなに離れていないこともあって、僕とよもぎのお気に入りの散歩コースの一つになっている。噴水はないけど、中央に大きな花壇があって、季節ごとにいろんな花が咲く。
僕とよもぎは、管理人のおじいさんに怒られないのをいいことに、その花壇に入り込んで、花の蜜の匂いを嗅いだり、葉っぱの絨毯にだらしなく寝転んだりして、一日をどうしようもなく無駄遣いしながら過ごすんだ。
とりわけネモフィラが活躍する春は素晴らしくて、花壇いっぱいに敷き詰められた、透き通った青い花を初めて目にした時。僕は、空が落っこちてきたんじゃないかと本気で思った。
特に、雨上がり。空気が清らかになってよく晴れた日には、空がこんな色に染まる瞬間がある。クリアな水色でも、深い蒼でもない。澄んだ青。
それを見られた日は、なんだか得したような気分になるんだ。
それを、明日美ちゃんにも見て欲しかった。僕と同じように、嬉しい気持ちになって欲しかったんだ。
「――――すごい! きれいだね!」
明日美ちゃんの第一声は、それだった。
「小学生の頃に一度きただけだけど、こんなにきれいな花が咲いているんだったら、家から近いし、もっとちょくちょく遊びにくればよかったなぁ」
目をキラキラ輝かせて、ネモフィラの花畑を見る、明日美ちゃん。
僕は、かけっこでよもぎに勝った時のような、誇らしい気分になる。
「明日美ちゃん、青が好きだから、絶対喜ぶと思った」
明日美ちゃんは驚いて真ん丸にした目を、僕に向ける。
「なんで知ってるの? わたし、青が好きだって」
「明日美ちゃんのことは、何でも知ってるんだよ」
だって、ずっとそばにいたんだもの。
明日美ちゃんのお父さんとお母さんが、突然亡くなってしまった、あの夜。仕事から帰ってきたままの格好で、茫然と道を歩いていた明日美ちゃんは、道端に捨てられていた僕とよもぎを見つけた。
吸い寄せられるようにしてその場に膝をつき、手を伸ばすと、明日美ちゃんは僕たちをぎゅっと抱きしめた。
そのままいつまでも、声を殺してポロポロ泣いていた明日美ちゃんが、僕たちの温もりの中に、お父さんとお母さんの温もりを感じていたことだって、ちゃんと知っているんだよ。
明日美ちゃんは、今でも僕たちを抱いていないと眠れない。
そんな明日美ちゃんのベッドからこっそり脱け出すのは、毎回、本当はとても心が痛む。でも、こうやって明日美ちゃんとお話ができることが嬉しくて、僕はやっぱり鏡の前に座ってしまう。
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