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#11 胃袋ごと愛して
11-1 胃袋ごと愛して
しおりを挟む『君の味噌汁が毎日飲みたい』
夕陽に沈む湘南の海をバックに永遠の愛を誓う、≪僕恋≫(僕たちの恋するシェアハウス)の最終回に紡がれたような台詞。極上のスイーツのように甘美な響きだった。
年が明ければ潰えるかもしれない夢を表現しなければならなかった、長い夜。
事務所代表を含め聴衆がたった5人だった初舞台から、今日ほど勇気が必要なステージは無かった。
これまで追い求めてきた夢は無意味だったのかもしれない。誰の記憶にも残らず、広い海で泡のように消えるのかという不安の中でも、無事に完走することができた。
今夜もまた一つ増えた紫の光は、束の間の安らぎを紫音にもたらした。
約束通り、ライブに足を運んでくれただけで嬉しいのに。自分勝手に取り乱して、あれだけ失礼な態度を取ったにも関わらず、生活の心配までしてくれるなんて。
握った手から伝わる温もりが、張り詰めた心を溶かしていく。
だが、次の言葉で紫音は我に返った。
「ひとまず月15万でどうだろうか」
真摯な眼差しで提示された額に、気が遠くなるような衝撃が走る。
反射的に、握っていた手をギュッと握り締めた。
「っ……ダメです!」
世間知らずな自分でも、過剰な額だと紫音には分かる。
握手券を買い占めてくれただけでも、有難いことなのに。何度も恩情をかけておいて、さらに身に余る厚意だった。
小さく息を呑む音がする。驚く直矢の表情が痛ましく、紫音は直視することができなかった。
「そんなの……受け取れません……!」
沈黙の三秒。ふと、紫音が顔を上げると、端正な顔が不自然に歪んでいる。
気付けば、触れていた手の甲にうっすらと汗が滲んでいた。
「ッ―――……!」
苦しげな呻き声の後、長身の体躯はグラリと揺れた。
「!?直矢さん……!?」
青ざめた顔が机に突っ伏した。隣の待機列からどよめきが起こる。
後方に並んでいた姉、そして握手券補充から帰ってきたスタッフが駆け寄って来た。
紫音がどんなに呼び掛けても、荒い呼吸が聞こえてくるばかりだ。スタッフが救急車を呼ぶ声が遠雷のように感じられた。
*
微睡みのような、浅い眠りの中にいた。
自室のベッドで眠る病人にぴたりと寄り添う形で、紫音もまた寝入っていた。直矢の隣に置いていたアザラシの抱き枕に半身を預けて。
直矢の血色は幾分か良くなっていた。救急外来で倒れた彼に点滴を打ってもらった後、体格の良い奏多に部屋まで運んでもらったのだ。
「ん……」
寝返りの気配とシーツの衣擦れの音がする。紫音もつられて、ゆっくりと目を覚ました。
カーテン越しに見える窓の外はどっぷりと暗くなっている。
「……ここは……?」
掠れた声が漏れ、重い瞼が少しずつ開いていく。切れ長の瞳には、心配そうな顔が映し出された。
「僕の……部屋です……」
「……俺は……倒れたのか?」
その問いに紫音は静かに頷いた。
美しい双眸の下にうっすらと浮かぶ隈に、胸が痛んだ。
「すまない、迷惑を掛けた……ッ!?」
緩慢に起き上がった半身を、紫音が咄嗟に支える。案の定、直矢は苦痛に襲われたようだった。
「動いちゃダメです……!胃痙攣を起こしていたんですよ!」
握手会を急遽中断して搬送された総合病院で、医師から告げられた診断。
原因を思い返せば、それだけで紫音の瞳に涙の膜が張った。
「原因は……極度のストレスだと……」
声を荒げてしまったことが申し訳なくなる。
そして、深い後悔で紫音の胸は推し潰れそうになった。
「ごめんなさい……僕がひどいことを言ったせいで……」
「……何のことだ?」
直矢は眉を顰め、紫音の目元の涙を拭った。体調のせいで記憶が混濁しているのか。
しかし、紫音は今朝の失態を鮮明に覚えていた。リハーサルをこなしながらも、頭の片隅で己を責め続けたのだ。
「今朝……それからさっきも、直矢さんの厚意を突っぱねてしまったでしょう」
「……!それは……」
その結果、直矢の胃の残留物からは、消化しきれなかった大量の卵が検出された。
せっかく素敵な朝食を用意してくれたのに、一切手を付けずに部屋を飛び出してしまった。肉体的な負担を強いただけでなく、二度の拒絶によってとどめを刺したのだ。
「直矢さんには、たくさんお世話になっておいて心無い仕打ちを……。
仕事なら喜んでお引き受けします。ただ、あんな大きすぎる額は受け取れません」
どうすれば償えるのか。点滴の様子を見守る間、紫音は病室で延々と悩み続けた。
足りない頭で考えた結論。それは、渾身のカウンターオファーだった。
「代わりにと言っては何ですが……またライブに遊びに来てくれると嬉しいです」
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