絶香の塔

皇 いちこ

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第一章 息

4. 対峙、その名の下に

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ライラは御言に従い、ゆっくりと顔を上げた。
ただし視線は伏せたまま、ヴェール越しに玉座の輪郭だけをなぞる。

何千何万回と思い描いてきた。
母親を辱めた男たちの喉元に刃を突き付ける瞬間を。両の目玉を潰し、心臓を抉り取り、腐りきった脳を地面にぶちまけてやる、と。

しかし、真相は闇の中に葬り去られ、憎悪の矛先を王権本体に向けるしかなかった。
母を殺したのは、特定の誰かではない。
王であり、法であり、沈黙を強いたこの体制そのものだ。

統べる者が変われど、世は変わらない。
飢えは無くならない。淡い期待を抱くたびに、裏切られる。五年前にこの男が玉座に就いてから、市井の暮らしは良くなっただろうか。

答えは、否。
ならばいっそ、王国ごと壊せばいい。

心臓は慟哭を上げるように軋み、視界は無念で眩みそうだ。
だが、手の内を見せてはいけない。
圧倒的な存在感に喉が詰まりそうになりながらも、ライラは静かに呼吸を整えた。

まだ、ほんの序章に過ぎない。
まずは、信頼を得ることが先決だった。

「弱冠十六で工房を構えたと聞いている。
 花の安息《ラウハト・アル=ザフラ》……確かに、穏やかな香だった」
「大変身に余るお言葉にございます、殿下」

形式的な返答を返しながら、ライラは目まぐるしく思考を巡らせる。
体調が芳しくないという王太子。だが、目の前の声は、微かに疲弊していながらも明晰だった。脆弱さを隠すための静けさ――そんな印象を受ける。

ふと、玉座の左右で焚かれている香が鼻先を撫でた瞬間、ライラに違和感が走る。
白檀、レモングラス、微量の没薬。安息を促すはずの基調。
だが、その奥に隠された何かが、不協和音を立てていた。

(……シナモン樹皮、クローブ、ローズマリー)

ごく微量。常人なら気づかぬ程度だ。
だが、日常的に香を扱い、抑制剤の副作用で嗅覚が鋭敏になったライラには、はっきりと分かった。王家の威厳を示すだけともつかない配合の狙いは、一体。

「そなたを呼び立てたのは、折り入って調香を任せたいからだ」

ライラが逡巡していると、静かな間を縫うように、衣擦れの気配がした。
足を組み直した影の動きと共に、足環が優雅に触れ合う。その澄んだ音は、楽の音が止んだ宮廷で、ひどく際立っていた。

「実は――近頃、夜の覚醒が続いている。眠りが浅く、日中まで引きずる」

毅然と品位が保たれていた声に、一瞬ためらいが滲む。
それでも包み隠さず、事実だけを述べる口調。まるで、感情を奥深く抑え込んでいるような。

――この男は、多少なりとも気付いているのかもしれない。
鬱蒼と白い香煙が奏でる、不協和音に。

「殿下。こちらの香は、普段お使いのものでしょうか」
「……ああ。執務間でも焚いている香だ。そうであろう、ハーシム」

後方に控えていた補佐官が、記録の筆を止めて静かに頷く。

「さようでございます。先日、王室お抱えの香職人の……最後の一人に調えさせました」

最後の一人。
その言葉に、いびつな歪みが透けて見えたようだった。

「恐れながら――」

覚悟を研ぎ澄ませ、ライラは一歩踏み込む。
この進言が命取りになる可能性を、理解した上で。

「こちらの香には、交感神経を賦活させる香材が微量に含まれております。
安息を目的とした配合でありながら、覚醒を助長する――まずは、使用を中止されるべきかと」

様子を伺いながら、注意深く一句一句紡ぐ。
重い沈黙が落ち、微かな緊迫が混ざり出す。

そこへ、痺れを切らしたように、重厚な足音が一歩前に出た。
層板式の金属鎧に、白地に金縁の外套をはためかせた禁衛兵は、威風堂々とした面持ちで口を開く。

「お言葉ですが、殿下。
 下市の粗悪な香しか扱えぬオメガの見立てを、ご勘案なさる必要はないかと」

反響した剛健な声には、剣を佩く者の矜持、そしてありありとした嫌忌を孕んでいる。
殿下は、すぐには応じなかった。
薄紗の向こうで、何かを量るような静寂が尾を引いている。
その間が、試されていることを、ライラは本能で悟った。

――退けば、ここで終わる。
ライラは審判を待つように、拳に強く力を込めた。

「……それは、そなたが決めることではない。ラシード団長」

恬淡と、だが鋭い声が轟く。

「直ちに、香を下げよ」

ハーシムが宦官に合図し、玉座脇の香炉が運び去られる。
団長と呼ばれた兵は苦々しい表情で一礼し、退いた。
朱髪の下で烈火のように閃く瞳が、オメガの民を捉えていた。

殺伐とした一瞥で、横暴に慣れきった心が乱れることはなかった。
アルファの精鋭であろう彼らにとって、自分が異物であることは変わりない。
その傍らで、香が薄れるにつれ、殿下の呼吸がわずかに整うのを感じ取る。

「差し支えなければ、殿下。香のお好みをお聞かせいただけますか」

慎重に言葉を選び、問いを重ねる。
入眠困難か、中途覚醒か。
夜、思考を止められるか。
過去に安心した匂いはあるか。

幼少期の話題に触れたとき、張り詰めていた声が、少しだけ和らいだ気がした。

「……幼い頃から、安らぎを覚える花がいくつかある。後でハーシムに案内させよう」

ライラの胸の内を、名伏しがたい感情が占める。
怨敵であるはずの男が、今この瞬間、自分に救いを求めている。
今日まで撚り繋いできた糸が、ここに来てぐちゃぐちゃに縺れたよう。

退殿の後、ハーシムに連れられたのは、後宮の傍にある例の中庭だった。
花材の持ち帰りを許され、手入れの行き届いた蕾を、鋏で丁重に剪定した。
快楽の園の引き立て役に過ぎなかった前景が、今は別の表情を見せている。黄金色に包まれた花々は、茎から切り取られてもなお美しかった。誰かが守り続けた記憶の場所と知れたせいか。

正門へ続く階段の前で、ハーシムから一枚の札が差し出された。
王宮への出入りを許可する、印章付きの通行証だった。

門前では、サーディクが手持無沙汰に待っていた。
門吏とひとしきり、鍛錬談義で盛り上がったらしい。無愛想な脳筋に見えても、人心掌握に長けているから不思議だった。

帰路、二人は黙ったままだった。
暴君と噂された王太子の印象は、驚くほど覆された。
だが、母を殺した一族であることに変わりはない。仮面の下には、残忍な王族の血が流れているはずだ。

その仮面を必ず、皮膚ごと剥いでやる。
いつかこの手で。

「どうだった」
「今は……詳しくは話せない」

下市の土を踏んでようやく、ライラは返事を返した。

「ただ、一つだけ準備してほしい物がある」

その用途は、盟友にもまだ告げられない。
確かなのは、革命の刃は捨てないということ。
脆さを抱える王であれば、事を有利に運べるに違いない。

だが今日、確かに揺らいだのだ。
救われる側としての、王太子の姿に。

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