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第一章 息
5. 四つの夜
しおりを挟む途中、サーディクの工房に立ち寄ると、夕餉の名残の灯の中で、妹は自分の足で立ち上がり、戸口まで出てきた。
咳止めが効いたのだろう、血色もだいぶ良い。か細い声で『ライラ兄、ありがとう』と微笑んだ。
白髪が増え始めた母親が、一週間分の平パンと豆を包んで持たせてくれた。
「少ないけど、食事の足しにして。本当に、いつもありがとうね」
「ゆっくり休めよ。次行く時も呼んでくれ」
ライラは友人一家に礼を言い、歩いてまもなく自宅へ辿り着いた。
昼間淹れた香草茶を再び火にかける。真鍮のポットから立ちのぼる湯気に混ざるほのかな苦味が、肺の奥を落ち着かせてくれるようだ。
小杯を盆に載せて屋根裏へ上がると、擦り切れた敷布と重ねられた夜具の中から、ヤーセルが身を起こした。
「顔色はだいぶいいな。食欲はあるか?」
「……少しお腹減っちゃった。ありがとう、迷惑かけてごめんなさい」
ヤーセルは瞳を伏せ、ぽつぽつと胸の内をこぼし出した。
もし自分が、同じスラム育ちのサーミルのように整った容姿だったなら。後宮に入り、たくさん稼いで、兄に仕送りができたかもしれない、と。
ライラは健気な想いに胸を打たれ、弱々しく項垂れる少年の肩を抱き寄せた。
「迷惑なものか。困った時こそ、助け合わないと」
サーミルはひと月前、月香楼の女主に見出され、自らの意志で後宮へ入った。
最初の数週間は小間使いに駆けずり回っていたが、いつしか顔を覚えられ、視線で測られ、人形のような美貌を“試される”立場に置かれた。
そうして、搔き集めた情報の欠片を密かに渡してくれるようになったのだ。
「後宮に入ったら、毎日きれいな服を着て、豪華な宮廷料理を食べて、ふかふかの寝台で眠れるんだって……」
王族のお世継ぎに恵まれれば、上等な教育を受けられる。
それがどれほど残酷な願いか、知っていた。
だが、それは女主が語る甘い夢だ。
楼を贔屓にしている王族の客から斡旋を頼まれ、仲介料を貰っていることをライラは嗅ぎつけていた。
血を重んじる王宮で、オメガが唯一居を許される場所。
一度足を踏み入れたが最後、容易く抜け出すことはできない。子を産む道具として扱われ、愛玩され、花の盛りを過ぎればお払い箱だ。
それでも危険を顧みずに手を貸してくれるサーミルには、感謝してもしきれない。
「それに……兄ちゃん、最近夜も働きに出てるんだ。体を壊さないか心配で」
「そうなのか?港の手伝いか何かか?」
ライラがそう尋ねた瞬間、階下で表戸の開く音がした。
「ヤーセル!兄ちゃんが戻ったぞ」
屑鉄集めから戻った兄のカリームが、勝手知ったる様子で屋根裏に上がってくる。弟の顔を見るなり、ほっと安堵の息をついた。
「特別に旨い物が手に入ったんだ。ライラも一緒に食べよう」
カリームは欠けた犬歯を覗かせながら、ずっしりと重い布袋を差し出された。
クミンと胡椒をまぶした干し肉と腸詰めは、普段は新月の夜市でしか見かけない品だ。
夜着の外国船の荷下ろしを手伝うだけで、これだけの量を買えるものだろうか。十六になったばかりの少年の稼ぎでは、なおさら。
首の後ろを、冷たいものが這うような嫌な予感が走る。
ライラはカリームの手を引くと、一階の炊事場へ連れて行った。
「ヤーセルから聞いた。夜の仕事って、一体何だ?」
「別に……弟に腹いっぱい食わせたいだけだ」
カリームは視線を落とし、なかなか口を割ろうとしない。
荒げそうになる声を抑え、ライラは問い詰める。
「――地下賭博か?」
図星だった。
カリームは一瞬だけ唇を噛み、血管が浮かび上がるほど拳を握り締めた。
「ただの遣い走りだ。客を案内したり、札を回収したり……誰も俺の名前なんて覚えちゃいない」
「お前は……!あそこが、どれだけ危険な場所かわかっているのか!」
夜ごと骨牌と香骰が転がり、負けた者の喉がひきつる音が、闘獣の咆哮にかき消される場所。
最初は笑っていた客も、香を吸い、賭け札を積み重ねるうちに、いつの間にか自分や家族の名前を賭けている。借用証に刻まれるのは金額だけではない。
家か、臓器か、あるいは――行き先だ。
「……知ってる。あそこに行った連中が、どうなるかくらい」
すでに地獄を見たのか。
低く、吐き捨てるような声だった。
「でも……弟がヒートで苦しんでる時にさ、『兄ちゃんは平気?』って聞いてくるんだ。
俺が平気な顔をしてる限り、あいつは生きてくれる。それなら……俺がどんな場所に行こうが、関係ない」
少年は決して無知ではない。
たった一人の血を分けた家族を守る男の顔だった。
「……俺も情報を探って来るよ。サーミルが手伝ってるみたいに」
どこからか、水面下で進めている計画を聞きつけたのだろう。
持たざる者が手と手を取り合おうとしているのだ。すでに彼の耳に入っていてもおかしくはない。
「俺も……二人の力になりたいんだ。クソみたいな世界を変えてやる」
強い決意を宿した瞳を前に、ライラは否定することもできなかった。
兄弟が置かれている環境は、自分よりも劣悪だ。自分には少なくとも、寝床と日々の糧がある。彼らは誰かの施しが無ければ、明日の命さえ定かではない。
それに、地獄から這い上がろうとしたのは、彼とちょうど同じ年の頃だった。
「……少しでも危なくなったら言え。サーディクに殴り込みに行かせるから」
「ああ、信じてくれ。きっとうまくやるさ」
山羊の干し肉と豆の煮物は、空腹に染みわたる旨さだった。
無邪気に笑い合う兄弟を前に、ライラの胸は重く沈んだ。
夜更け、ライラは香の準備を始める。
眠れぬ王――ファルーク殿下のための香だ。
香草茶を一口啜り、精神を調える。
夜露が降りる前にオレンジブロッサムの花弁を摘み、ダマスクローズは陰干しで半乾きに。
ジュニパーを軽く焙じ、煙を吸わせ、夜の層を重ねる。
そこで、ふと手が止まった。
(……この香で眠らせる相手こそ、生涯で最も憎むべき王)
それでも、眠れぬ夜をやり過ごす苦しさは、ライラ自身がよく知っている。
眠りは、憎悪も悲しみも、唯一すべてを手放せる時間なのだから。
四つの夜が、同じ王都で息づいている。
後宮、賭博場、調香工房、そして王の寝所――交わらぬはずの夜が、静かに一つへ収束していくようだった。
それぞれを繋ぐ香煙は、やがて都全体を覆うことになる。
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