絶香の塔

皇 いちこ

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第二章 王

6. 夜を鎮める

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賭博場の仕事に出ていたカリームは、いつの間にか戻って来ていたらしい。
屋根裏の小窓から差し込む朝ぼらけの薄光が、梁の上に渡された粗板の床に積もった埃を淡く照らしていた。
身を寄せ合って眠る兄弟の様子を確かめた後、ライラは祈りを短く済ませ、調香台の前に立つ。

昨夜仕込んだオレンジブロッサムは、露を含んだまま柔らかく香りを保っていた。
ダマスクローズは、花弁の縁がわずかに縮んだところで乾燥を止めてある。指で砕けば、甘さの奥に微かな苦みが立つ――愛情と喪失を同時に思わせる、あの瞬間の香りだ。

ジュニパーは悪夢除けとして用いるなら、強すぎてはならない。夜を追い払うのではなく、夜の輪郭を整える程度でよい。
白檀と樹脂アンバーは、月香楼の娼婦が客の香材商から横流ししてくれた蓄えから。特に前者は、下市で流通する若木とは違い、甘みの底に深さがある。焚かれれば、残り香が長く留まり、場そのものに重みを与える。

香は人を鎮めるが、同時に思い出も呼び起こす。
ライラは一度だけ目を閉じ、配合を確かめるように息を吸った。

――夜を鎮める。ただし、奪わない。

そうして整えた香は、半日を経て、角が取れていた。樹脂と木質がなじみ、余分な主張が消えている。
これならば、早速王宮に持ち込んでもよいだろう。

その前に、今日は≪水の日≫でもあり、慈悲と施しの日だ。
スラム街の子供たちに食糧を届け、起きてきた兄弟と一緒に朝食を摂る。
再び作業台に向かい、市場や得意客向けの香を調える。この時間は、普段と変わらない日常だった。

夕刻、サーディクの護衛を伴い、ライラは参殿した。
謁見の間から、昨日まで焚かれていた香は撤去されている。自分の進言が受け入れられたことに、胸の奥で静かな安堵が広がった。

玉座を囲むように、変わらず重厚なヴェールが垂れている。
控える禁衛の視線は、ライラ一人ではなく、空間全体を測るように張り詰めていた。ただし、前回高圧的な態度を取ってきた兵の姿は無い。

「ほう……もう仕上げたというのか」

薄紗越しの声は低く、抑えられているが、わずかな興味が滲んでいる。

「せっかく頂戴した香材が傷まぬうちにと思いまして。
恐れながら、こちらは『夜を鎮める王香』スークーン・アル=ライル・アル=マリキーにございます」

ライラは持参した包みを、まず側近のハーシムに差し出した。
試用のための、多すぎず少なすぎない量。

補佐官は紐を解き、粒度や乾燥具合、そして樹脂と木質の混ざり方を無言で確かめる。
香効だけでなく、政治的な安全性を量る目だった。

「ダマスクローズ、オレンジブロッサム、ジュニパーを基調としています。
ただ鎮めるのみならず、殿下ご自身が、この夜を治めていると感じていただけるよう整えました」

一拍の沈黙の後、殿下が命じる。

「ハーシム。この場で焚いてみせよ」
「かしこまりました」

香炉に火が入ると、まずオレンジブロッサムが立ち上がり、空気の張りを解いた。
続いてベルガモットの気品が場を整え、深層に白檀とアンバーが静かに沈む。三段階の層で、主人をふさわしい場所へと導く。

「……この香は、不思議だな」

耳を澄ませると、深く息を吸う気配がした。

「懐かしさが、先に立つ」

それは安堵でも歓喜でもない。確かめるような声だった。

「今夜、寝所でも使ってみるとしよう。まずは今日明日と効を見極める。報酬はその後に定めるが、それで良いか」
「もちろんでございます、殿下」

ライラは深く頭を垂れた。
香の火は三呼吸ほどで落とされ、残り香だけが王と民を繋いでいた。

「……前回の香を撤いたことも、無駄ではなかったようだ」

殿下は静かに続ける。

「少し、気分が楽になった。そなたの見立ては正しかった」

和らいだ口調のまま、問いが投げかけられる。

「その腕……どこで培った?」

それが純粋な賞賛ではなく、値踏みであることをライラは理解していた。

「身寄りのない身でしたので、花を扱う者に引き取られ、仕入れから教わりました。その後は……書を頼りに、独りで」

娼館で命を繋ぎ止めた過去の記憶をなぞりながら、真実を伏せて答える。
たが、決して嘘では無い。馥郁とした花の香りに囲まれて育ち、母の志を継ごうとしたのがすべての始まりだった。

「……余計なことを尋ねたかもしれぬな」
「とんでもございません。そのおかげで、こうして王宮に献上する栄誉を賜りました」

幼い手で初めて香炉に触れた時、この場に足を踏み入れるよう導かれたのかもしれない。
数奇な運命を呪わざるを得なかった。
殿下はそれ以上踏み込まず、命を下した。

「では、明後日――同じ刻に参殿せよ」



二日後、夜明け市での仕入れを順当に終えた≪土の日≫。
下賜された報酬は、予想をはるかに上回る額だった。
だが、応接間でライラを迎えたハーシムの表情は硬かった。

「殿下は眠れるようになった。悪夢も減ったと仰せだ。だが……目覚めの後の顔色が、どうにも優れぬ」

宦官は夜半、殿下が誰かの名を呼んでいたと囁いた。
禁衛は、朝の御声が柔らかすぎると言う。

「よもや、眠りが深すぎるのではないか」

ライラは一瞬不安を覚えたが、静かに言葉を選んだ。

「……よく効く香ほど、王宮では疑われます。配合を調整いたしましょう」

香は癒しでもあり、救済でもあり、時に反逆にもなる。
何らかの記憶と感情を刺激してしまったのか。
如何せん、王の仮面が薄らぐことは許されない。

――次は、別の夜を鎮めなければ。

思惑を悟られず、さらに慎重な一手を。
ライラは、自らが再び試されていることを、はっきりと自覚した。
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