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第二章 王
7. 差し引きの行く先
しおりを挟む休息日にもかかわらず、ライラは夕刻近くまで山積みの書と向き合っていた。
帳簿、香材の在庫表、王宮から返却された配合記録。
香を弱める――その一行を書き足すだけのことが、なぜか容易ではなかった。
表戸を叩く音がして、顔を出したのは幼馴染のサーディクだった。
「まだやってるのか。今日は聖休日だぞ」
この日は月に一度、王が民衆の前に姿を現し、香煙を浴びながら祝祷を行う日だった。
上市では朝から人が溢れ、貴族や商人が露台の見える通りを埋め尽くしていたという。
「人だかりの後ろから、無理して見てきたが……正直、よく分かんねぇ話だった」
「まあ、そうだろうな」
祝祷の言葉は抽象的で、哲学的で、聞く者の立場によって意味が変わる。
秩序、契約、役目。
それらはいつも、誰かの首に掛かる鎖のように聞こえた。
「殺す男の顔くらい、拝んでおきたいだろ」
冗談めかした言い方だったが、ライラは返事をしなかった。
月香楼に身を寄せていた頃、先王の時代に一度だけ、祝祷を盗み見たことがある。
王宮二階の露台に立ち、四方を屈強な禁衛に囲まれ、宦官が白羽扇で香煙を送る。
仮面を着けた王は、高壇から仰々しい口上を述べていた。
『我はこの都と契約を結んでいる。
剣ではなく、秩序によって。
香煙が天に届く限り、夜は守られる――』
朧気な輪郭だけが、記憶に残っている。
今、その姿を直視すれば、判断が鈍る気がした。配合を調整するどころか、毒を盛ってしまいかねない。
「この間謁見できなかったのは、香のせいか?」
「ああ、そんなところだ。微調整か、一から作り直すかだな」
サーディクは小難しそうな顔をしたが、すぐに笑って旧友の肩を叩いた。
「次で挽回すりゃいいだろ。ほら、お袋が張り切って飯を用意してるぜ」
ライラは観念して書を閉じ、思い出したように咳止めの小瓶を差し出した。
「ナディアの分。そろそろ切れる頃だろう」
「助かる。次からこっちで材料を揃えるから、言ってくれよ」
「いや、屋上のプランターで育ててるのもあるから。週末、ご馳走してもらうだけで十分だ」
食事を共にする習慣は、かつて隣同士に住んでいた頃から続いていた。
ライラの母が亡くなった時も、アル=カビール家は手を差し伸べてくれた。だがその頃、サーディクの母はナディアを身籠っていたため、結局は月香楼を行き先に選んだのだ。
下市に戻ってきた彼を、何事もなかったように迎え入れたのも、同じ家だった。
今夜の献立は鶏肉の香草煮だった。
やはり、肉は貴重な蛋白源だ。一家の庭には先祖代々の鶏舎があり、生みたての卵が食卓に並ぶこともある。
兄想いのナディアは、食事をかき込むサーディクのために、せっせとパンをちぎっていた。
「この悪ガキが、年中食べ盛りでね」
和やかな笑いの後、話題は自然と両親の仕事に移った。
「王に忠誠を誓った家はね、土地を持ってるわけじゃないの。預かってるだけ。
だから、上の機嫌を損ねて、返せと言われたら終わりさ」
母親は上市の貴族館で、早朝から家政婦の仕事に出ている。
地方領主の亭主が留守にしている間、奥方は収集している宝石を神経質に数えるのだという。どれが土地の代わりで、どれが税の代わりかと。
父親は最近、上市の職人街近くの配管工事に出向いているらしい。
「上市じゃ、水は流すものなんだ。詰まったら掘り返す。溢れたら替える。
下市は……溜めて、祈るだけだろ」
そう苦笑したが、母親は肩をすくめて笑い飛ばした。
「辛気臭い話は嫌だわ。私は今の生活で十分よ」
ナディアがこっちの方が食べやすいからと、鶏肉にヨーグルトソースをかけた。
香草の風味が控えめになり、山羊乳の酸味で輪郭を立てる。
その一皿を見て、ライラの中で何かが繋がった。
(――香を、引けばいいのか)
与えすぎたのは、香ではない。
期待の方だった。
夕食が済むと、ライラはナディアの部屋で書板を広げた。
書房に通えない彼女のために、合間に休憩を挟みながら、分数と薬湯の配合を並べて説明する。数字は香と同じだった。正確さは命を守る。
最近、町医者が配合を変えた煎じ薬が合ってきたらしく、今夜の彼女はすぐ眠りに落ちた。
穏やかな寝息を確かめたあと、ライラはサーディクに気掛かりを伝える。
賭博場で働き始めたカリームのこと、ヒートを終えてスラム街に戻ったヤーセルのこと。
「焦りは禁物だと言ってある。俺も時々様子を見に行くけど、いざという時は助けてやってくれないか」
「そうか……あいつも肝が据わってるな。心配するな。腕っぷしのいい連中に声を掛けておく」
「良かった、ありがとう。あと……これ」
ライラがポケットから出したのは、三度の参殿で見知った、王宮内部の構造を記したメモだ。
もう、ただの調香師ではいられない証でもあった。
北の政庁区から南棟を繋ぐ渡り廊下、その途中でガラス越しに佇む香の塔、薔薇園、王妃の離宮、後宮棟。西側には兵舎が見え、東側には物々しい倉庫が立ち並んでいた。
サーミルが密かに告げた”北の倉”とは、正確には東の倉を指すのだろうか。
「だけど、あまりにも広すぎて……一目じゃ、どの倉に何が保管されているのかまでは」
「いや、でかしたぞ。サーミルも良くやってくれているが……あそこじゃ、情報が操作されるのかもな」
工房に戻ったライラは、早速作業に取り掛かった。
王宮側から再び譲り受けたダマスクローズを半量以下に削り、手持ちのオレンジリーフに置き換える。
これなら神経だけを整えながら、感情を撫でることもない。
事態は思わぬ方向へと動いた。
この香を献上してから程無くして、謁見に呼ばれる回数が増えた。
王が求め始めたのは、どうやら香そのものではなかったらしい。
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