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序章:夜が明けない街で
第2章 急変
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――ガサッ。
ありさの人としての防衛本能が働いたのだろう。
いつの間にか涙は止まり、音のした一点を見つめていた。
ガサッ、ガサガサガサ……。
「……なに……えっ……なんなのよ……」
草木の擦れ合う音、掻き分ける音。
風はない――なにかが、いる。
その音が近づくにつれ、心臓の鼓動が速くなるのが自分でもわかった。
「いや……こないで……こないでよおおおおっ!!」
姿の見えない“何か”への恐怖。
暗闇。頭の中を支配する、思い出したくもない戦慄の記憶。
それらが拍車をかけるように恐怖を増幅させていく。
急に、身体の力が抜けた。
ドンッと音を立て、尻餅をつく。
――逃げたい。
今すぐこの場所から離れたい。
脳は指令を出す。だが、肉体が応じない。
(動け……動いてよ……動けぇぇぇぇっ!!)
「おいっ!」
「ひっ!」
身体を引きずりながら後退していたありさは、突然の声と肩に触れる温もりに小さな悲鳴を上げた。
「……おいっ!どうしたっ、しっかりしろ!」
力強く、頼りがいのある男の声。
それは、絶望という名の暗闇に、希望の光を差し込ませた。
ゆっくりと振り返る。
警官だった。
懐中電灯を握り、辺りを照らしている。
なぜこんな時間にここへ……と思ったが、そんなことはもうどうでもいい。
「うわああぁぁぁんっ!!」
抑えていた感情が一気に溢れた。
気づいた時には、その胸に飛び込んでいた。
いきなりの出来事に驚いた男だったが、すぐに理解したのだろう。
小さな背中を包み込むように腕を回した。
(……あったかい)
「もう、大丈夫だ」
その言葉は、ありさの人生でこれほどまでに心を安らげたことはなかっただろう。
そして、こんなにも人の体温を“暖かい”と感じたことも。
警官は背中から腕を外し、腕時計に視線を落とす。
時間を確認してから、再びありさに視線を戻した。
「……さぁ、もうこんな時間だ。家まで送ろう」
(帰れる……家に帰れる……ここから出られる……)
「家は、どこだい?」
彼は、ありさを刺激しないように、幼い子供へ話しかけるような優しい口調で尋ねた。
「に……ヒック……にし……くっ……うぅ……」
泣きながら口を動かすが、言葉にならない。
「相当怖い目にあったんだな……可哀想に。
とりあえずは、明るい所まで行こう。ほら」
男はそう言いながら、ありさの前に手を差し出す。
小さな手のひらが、大きな手のひらに包まれた。
それは職務としてではなく、一人の人間としての温かさ。
その瞬間、ありさの心に少しだけ“安心”が戻ってきた。
――始めは一人だった足音が、今では二つ。
(……一人じゃない……一人じゃないよ……)
ありさは、もう一度確かめるように、その手を強く握り返した。
「はははっ、大丈夫だ。私はここにいるよ」
やさしい声。暗闇で表情は見えない。
けれどきっと、笑っているのだと思った。
……一言でいい。お礼を言いたい。
気持ちが落ち着いてきたありさは、自分にしか聞こえない小さな声で呟く。
(あ……ありが……とうござ……います……ありがとうございます……言えた……よし)
「あのっ……ありがとうございます!!」
――沈黙。
返事が、返ってこなかった。
かわりに聞こえたのは――
大量の何かが“噴き出す”ような音。
顔に液体が飛びかかる。
雨ではない。
……血の臭い。
人間の本能は残酷だ。
「見たくない」と思っても、肉体は勝手に行動してしまう。
(……いやっ……いやぁ……見たくない……見たくないよぉぉぉ!!)
だが、目は閉じられなかった。
スローモーションのように、その光景を映してしまう。
「いやあああああああああああああっ!!」
夜道に響き渡る少女の絶叫。
そこにあったのは――首のない肉の塊。
さっきまで優しく包んでくれた手の持ち主の、変わり果てた姿だった。
「……いやぁ……やぁ……ぁぁ……」
涙は枯れ、声も出ない。
精神は限界を越え、呆然と立ち尽くす。
焦点の合わない瞳。もう、生気がなかった。
「これじゃなかったか。まったく紛らわしい」
ガリッ、ゴリッ、ガリゴリガリッ……ベチャ……ベチョ……ビシャッ。
“何か”が言葉を発した。
噛み砕く音。肉が潰れる音。飛び散る液体の音。
だがもう、ありさにはどうでもよかった。
(はやく……楽に……なりたい)
(わたしも……もう死ぬんだ……死ねるんだ……解放されるんだ……この悪夢から……いいこと……なんだ)
「あれも違うか……でもまぁ、ちょっとは力の足しにはなるか……やれっ!!」
号令と同時に、闇の中から“それ”が跳ねた。
獣のような気配。
コンクリートを蹴る鋭い音。
(……これなら苦しまずに死ねるかも)
ありさはすっと目を閉じた。
過去の思い出が走馬灯のように流れる。
家族、友達、笑い声。
――そして最後に、誰かの手の温もり。
(……さようなら、わたしの大切な人たち……大切な思い出)
「やらせないよっ! ――っやああっ!!」
バキィッッ!!
風を裂く音と、肉を断つ音。
そして、鼻をくすぐるような優しいシャンプーの香り。
その声。
その気配。
「――あんずっ!!」
ありさの人としての防衛本能が働いたのだろう。
いつの間にか涙は止まり、音のした一点を見つめていた。
ガサッ、ガサガサガサ……。
「……なに……えっ……なんなのよ……」
草木の擦れ合う音、掻き分ける音。
風はない――なにかが、いる。
その音が近づくにつれ、心臓の鼓動が速くなるのが自分でもわかった。
「いや……こないで……こないでよおおおおっ!!」
姿の見えない“何か”への恐怖。
暗闇。頭の中を支配する、思い出したくもない戦慄の記憶。
それらが拍車をかけるように恐怖を増幅させていく。
急に、身体の力が抜けた。
ドンッと音を立て、尻餅をつく。
――逃げたい。
今すぐこの場所から離れたい。
脳は指令を出す。だが、肉体が応じない。
(動け……動いてよ……動けぇぇぇぇっ!!)
「おいっ!」
「ひっ!」
身体を引きずりながら後退していたありさは、突然の声と肩に触れる温もりに小さな悲鳴を上げた。
「……おいっ!どうしたっ、しっかりしろ!」
力強く、頼りがいのある男の声。
それは、絶望という名の暗闇に、希望の光を差し込ませた。
ゆっくりと振り返る。
警官だった。
懐中電灯を握り、辺りを照らしている。
なぜこんな時間にここへ……と思ったが、そんなことはもうどうでもいい。
「うわああぁぁぁんっ!!」
抑えていた感情が一気に溢れた。
気づいた時には、その胸に飛び込んでいた。
いきなりの出来事に驚いた男だったが、すぐに理解したのだろう。
小さな背中を包み込むように腕を回した。
(……あったかい)
「もう、大丈夫だ」
その言葉は、ありさの人生でこれほどまでに心を安らげたことはなかっただろう。
そして、こんなにも人の体温を“暖かい”と感じたことも。
警官は背中から腕を外し、腕時計に視線を落とす。
時間を確認してから、再びありさに視線を戻した。
「……さぁ、もうこんな時間だ。家まで送ろう」
(帰れる……家に帰れる……ここから出られる……)
「家は、どこだい?」
彼は、ありさを刺激しないように、幼い子供へ話しかけるような優しい口調で尋ねた。
「に……ヒック……にし……くっ……うぅ……」
泣きながら口を動かすが、言葉にならない。
「相当怖い目にあったんだな……可哀想に。
とりあえずは、明るい所まで行こう。ほら」
男はそう言いながら、ありさの前に手を差し出す。
小さな手のひらが、大きな手のひらに包まれた。
それは職務としてではなく、一人の人間としての温かさ。
その瞬間、ありさの心に少しだけ“安心”が戻ってきた。
――始めは一人だった足音が、今では二つ。
(……一人じゃない……一人じゃないよ……)
ありさは、もう一度確かめるように、その手を強く握り返した。
「はははっ、大丈夫だ。私はここにいるよ」
やさしい声。暗闇で表情は見えない。
けれどきっと、笑っているのだと思った。
……一言でいい。お礼を言いたい。
気持ちが落ち着いてきたありさは、自分にしか聞こえない小さな声で呟く。
(あ……ありが……とうござ……います……ありがとうございます……言えた……よし)
「あのっ……ありがとうございます!!」
――沈黙。
返事が、返ってこなかった。
かわりに聞こえたのは――
大量の何かが“噴き出す”ような音。
顔に液体が飛びかかる。
雨ではない。
……血の臭い。
人間の本能は残酷だ。
「見たくない」と思っても、肉体は勝手に行動してしまう。
(……いやっ……いやぁ……見たくない……見たくないよぉぉぉ!!)
だが、目は閉じられなかった。
スローモーションのように、その光景を映してしまう。
「いやあああああああああああああっ!!」
夜道に響き渡る少女の絶叫。
そこにあったのは――首のない肉の塊。
さっきまで優しく包んでくれた手の持ち主の、変わり果てた姿だった。
「……いやぁ……やぁ……ぁぁ……」
涙は枯れ、声も出ない。
精神は限界を越え、呆然と立ち尽くす。
焦点の合わない瞳。もう、生気がなかった。
「これじゃなかったか。まったく紛らわしい」
ガリッ、ゴリッ、ガリゴリガリッ……ベチャ……ベチョ……ビシャッ。
“何か”が言葉を発した。
噛み砕く音。肉が潰れる音。飛び散る液体の音。
だがもう、ありさにはどうでもよかった。
(はやく……楽に……なりたい)
(わたしも……もう死ぬんだ……死ねるんだ……解放されるんだ……この悪夢から……いいこと……なんだ)
「あれも違うか……でもまぁ、ちょっとは力の足しにはなるか……やれっ!!」
号令と同時に、闇の中から“それ”が跳ねた。
獣のような気配。
コンクリートを蹴る鋭い音。
(……これなら苦しまずに死ねるかも)
ありさはすっと目を閉じた。
過去の思い出が走馬灯のように流れる。
家族、友達、笑い声。
――そして最後に、誰かの手の温もり。
(……さようなら、わたしの大切な人たち……大切な思い出)
「やらせないよっ! ――っやああっ!!」
バキィッッ!!
風を裂く音と、肉を断つ音。
そして、鼻をくすぐるような優しいシャンプーの香り。
その声。
その気配。
「――あんずっ!!」
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