「異世界転生したらギルドで笑われたけど、負けヒロインにはならない!」

ぐれおねP

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第七章 ただいまと、森の残響

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牙が、落ちてくる。
 それは鋭い刃物のようで、でも刃物なんかよりずっと生々しく、臭く、湿っていた。アリサは棒を押し出し、肩をすぼめ、猫を胸に抱きこむ。肘の内側で感じる小さな鼓動が、彼女自身の鼓動と重なって暴れていた。

(来る。来るなら、受け止める。……怖い。でも、離さない)

 ――その瞬間。

 地面の下から響くみたいな、低い低い唸り声が森全体を震わせた。
 ゴォォ……と、風の音に似ているのに、ぜんぜん風じゃない。音は腹の底に沈んで、胸の中で塊になって、骨を震わせる。言葉の手前で止まった、暗い意思。

 狼の顎が、目の前で止まった。
 ぎり、と音がするほど噛みしめた牙が、しかしアリサには触れない。狼は目だけを横へ振り、次の瞬間、背を丸めて飛び退いた。耳がぺたりと寝て、尻尾が情けないくらいに足の間へ巻き込まれている。

 左右の二匹も同じだった。肩の筋肉に乗っていた攻撃の気配が、見る間に萎んでいく。三匹は短く鼻を鳴らし、互いを一瞥して、同時に闇へと消えた。落ち葉がばさばさと鳴る。遠ざかる足音。すぐに、それも聞こえなくなった。

 ――静寂。
 さっきまであった鳥の声も、水の音も、まだ戻って来ない。あるのは、アリサ自身の荒い呼吸と、腕の中で震えるミュウの小さな息だけ。

「……い、今の……なに」

 喉から出た声が、自分で驚くほど掠れていた。棒を握っていた手のひらが痺れている。甲の薄い皮膚に、ささくれが刺さって痛い。頬をぬるりと何かが伝った。指先で触れると、血。指についた赤を見て、ふ、と笑ってしまう。

「……わ、私、漫画の主人公なら『かすり傷だ』って言うところだよね……痛いけど」

 笑ったら、膝が抜けた。ずるり、とその場に座り込む。ミュウは「にゃっ」と短く鳴いて、アリサの胸元に顔を押し付ける。尻尾が腕の内側で、細く震えた。

「……もう、大丈夫。大丈夫だよ……」

 誰に聞かせるでもなく囁いて、それから、アリサは顔を上げた。唸り声がした方角――森の、より深い方。樹々が折り重なって薄暗い、まだ昼なのに夜みたいな、奥の奥。そこから、冷たい視線みたいなものが、じっとこちらを見ている気がした。

(誰? ……なに?)

 問いかけは喉の奥でほどけ、言葉にならない。返事は来ない。代わりに、遅れて風が戻り、葉がざわ、と鳴った。鳥の短いさえずりが、恐る恐る、ひとつだけ落ちてくる。世界が呼吸を再開した合図みたいに。

「……帰ろ」

 アリサは、そう言って立ち上がる。脚はまだ震えていたけれど、足裏はちゃんと地面を掴んでくれた。棒を脇に抱え、ミュウを胸の高い位置に抱え直す。猫の体温が、制服の布越しにしっかりと伝わってくる。生きている。ここにいる。

 戻る道は来たときより暗く見えた。同じ落ち葉、同じ枝の張り方、同じ匂いのはずなのに、森の色味が一段深い。背中に視線を感じる。何度も振り返りそうになるのを、ぐっと堪えた。振り返ったら、何かと目が合いそうで。

(振り返らない。足元。根っこ、段差、石。ゆっくり、でも止まらない)

 頭の中で声を刻む。さっきまでの自分なら、きっと声に出して自分を励ましていた。けれど今は、声を出すのがこわい。声が森に溶けて、さっきの「それ」を呼び戻してしまいそうで。

 ひと息、ふた息。人の匂い――パンの匂い、スープの匂い、土埃と、鉄の匂いが鼻腔へ入り込んできた時、アリサは勢いがつきすぎて、門の石柱に肩をぶつけた。

「いった……!」

 痛みに顔をしかめたものの、笑ってしまう。笑ったら、涙が少し出た。街の外壁は陽を受けて白く、石畳は昼の熱を残してぬくい。遠くで子どもが笑って、鍛冶屋の槌が金属を叩く音がする。生きている音だ。さっき、森の奥で途切れかけた「普通」が、ここにはちゃんとある。

「ただいま……いや、『ただいま』じゃないか。おかえり、か。ミュウちゃん」

 胸の中のミュウが、かすかに喉を鳴らした。アリサは微笑んで、ギルドとは逆の方向へ数歩歩きかける。……足が止まる。

(違う。先にギルド。……報告、しなきゃ。ヨルコさん、心配してる)

 踵を返し、ギルドの扉を押す。中はひんやりして、木と紙の匂いがする。昼を過ぎて、冒険者たちは仕事に出ているのか、今は人が少ない。カウンターの向こうで帳面を見ていたヨルコが、顔を上げた。目が一瞬丸くなって、すぐに表情を整える。

「お帰りなさい、アリサさん。……その子が、ミュウ?」

「うん。……ちょっとだけ、森で迷って。……ちょっとだけ、怖かったけど。ちゃんと、連れて帰ってきたよ」

 言ってから、頬の傷のことを思い出した。ヨルコの視線が、そこへ落ちる。ツインテールの先が、ぴく、と揺れて、すぐに静かになった。

「……手当てを先に。水と布、それから薬草を準備します。ミュウは――依頼主様を呼びますね。すぐに」

 ヨルコは慣れた動きで小走りに奥へ消えていった。その背中を見ながら、アリサはカウンターの端に腰を下ろす。張り詰めていたものが、急にほどけた。指先がじん、と痺れる。棒を握っていた感覚が遅れてやってくる。

(さっきの、声)

 頭の奥で、低く、鈍い音が残っている。森が息を止め、狼が怯え、自分も動けなくなった、あの一瞬。声、というより、意志。単語の外側にこびりついた、何かの視線。

(『まだ早い』……って、聞こえた気がした。……気のせい?)

 思い出そうとすると、背筋が冷える。そこまで辿る前に、脳が勝手に蓋を閉めるような感じ。ミュウが胸の中で動いた。「にゃ」と短く鳴く。アリサは現実へ戻って、笑った。

「うん。今は、よし。ね、ミュウちゃん。よし、よし」

 しばらくして、ヨルコが戻って来る。銀の盆に載せた器具と薬、布。その後ろから、仕立屋の奥様が駆け込んできた。目にはもう涙が溜まっている。

「ミュウ! ああ、ミュウ!」

 腕の中の猫が振り向き、鳴いた。奥様が受け取ろうと手を伸ばすのを見て、アリサはそっと身をかがめ、慎重に引き渡す。猫の体温が腕から離れた瞬間、胸のあたりが少しだけスカスカした。

「あなた……! 本当に、ありがとう。本当に……!」

「う、ううん。私、ただ――」

 言いかけて、声が震えそうになった。「ただ、怖かったです」と言うのは、なんだか違う気がして。アリサは代わりに、いつもの調子で笑う。

「――ただ、猫、好きなだけだから!」

 奥様は一層泣いた。笑いながら泣いていた。ヨルコがそっと奥様の背に手を添える。ツインテールが柔らかく揺れる。ギルドの空気が、少し、あたたかくなる。

「アリサさん、こちらを」

 ヨルコが差し出したのは、包帯と、薄い茶色の薬草膏。アリサが頬に触れようとすると、ヨルコがすっと手を伸ばし、指先で傷の縁を確かめた。目はいつも通り穏やかだけど、触れる手は驚くほどに迷いがない。

「浅い傷です。痕は残りません。……痛みますよ、少し」

「いたっ……! けど、大丈夫。……ありがと」

 包帯が頬に固定される。頬に貼られた白が、制服の緑と妙に合わない。アリサは笑って、ヨルコに頭を下げた。

「ねえ、ヨルコさん。森のこと、……聞いてもいい?」

「森のこと?」

「……さっき、狼が逃げたの。私が強かったからじゃない。私、ただ棒を振り回してただけだから。……なんか、声がして」

 口にした瞬間、背中の毛穴が開く。言葉にすると、あの冷たさが戻ってくる。ヨルコはほんの一瞬だけ視線を泳がせて、すぐに静かに首を振った。

「森は古いです。古いものは、時々、私たちの知らない音を鳴らします。……それ以上は、受付嬢の仕事の範囲を超えます」

「そっか」

 それ以上、追及はしなかった。言葉にして安心したい気持ちと、言葉にしてはいけない気配を刺激してしまいそうな直感とが、綱引きをしている。アリサは、その綱をするりと手から離して、椅子の背にもたれた。

「アリサさん」

「ん?」

「……おかえりなさい」

 ヨルコはほんの少しだけ微笑んだ。その言い方は、パン屋の主人の「無理すんなよ」と同じ種類の、町の人間の言葉だった。アリサは胸の奥が温かくなるのを感じ、こくりと頷いた。

「ただいま」

 奥様が礼を述べ、報酬の銅貨と引換券が小袋に収まる。ミュウは奥様の腕の中で落ち着きを取り戻し、ときどきこちらを振り向いて、短く鳴いた。猫の声は、さっき森で聞いた音とは違って、柔らかく、丸く、軽かった。

 ギルドを出ると、石畳の上に陽が伸びている。影が長くなっていた。空はまだ青いのに、森の方角だけが、うっすらと濃く見える。アリサは頬の包帯にそっと触れて、深呼吸をした。

(――勝ったわけじゃない。助けられただけ。私、全然強くない)

 それでも、腕の中にいた体温を思い出すと、胸の真ん中に小さな芯が生まれた気がした。怖かった、と同時に、守れた。逃げなかった。どちらの記憶も、確かに自分のものだ。

「……次は、もっとちゃんと、できるように」

 誰にも聞こえない小さな声で言って、アリサは踵を返した。パン屋へ戻って、仕事の続きをする。粉の匂いを吸い込み、手を洗って、オーブンの熱を顔で受け止める。普通の時間を、手で取り戻す。それが今の自分にできる、いちばんの「強さ」の練習な気がした。

 夕方の風が、包帯の角を少し揺らした。森の方角からは、何の音もしない。けれど、アリサは知っている。あの奥に、何かがいる。狼よりも、ずっと冷たく、ずっと大きい「なにか」。きっと、いつか向き合う。その「いつか」は、今日じゃない。でも、いつかは必ず来る。

 空を見上げると、雲が細く延びて、薄い金色が混じっていた。アリサは小さく背伸びをして、パン屋の扉を押した。鈴が鳴る。普通の音が、今はひどく嬉しい。

 彼女の耳には、まだ、あの低い唸りの残響が、遠い遠い底の方で微かに転がっていた。
 ――森は、覚えている。アリサも、覚えている。

 そして、物語の歯車は、静かに、確かに、次の段へと噛み合い始めていた。

奥様が猫を抱きしめて泣きじゃくる姿に、ギルドの冒険者たちもちらほらと集まってきた。
 筋骨隆々の戦士が腕を組みながら鼻を鳴らす。
「へっ、猫探しで泣かれるなんてな……だが、まあ悪くねえ依頼だ」
「新人にしちゃ、頑張った方じゃないか?」
「いやいや、あの顔の傷見ろよ。猫探しで“武勲”とか笑えるだろ」

 笑い混じりの声が飛ぶ。アリサは唇を噛んで俯きそうになった――が、そこでカウンターの奥から、すぱん、と乾いた音が響いた。ヨルコが帳簿を閉じた音だった。

「皆さま。依頼は依頼です。大小は関係ありません。……報酬が支払われ、依頼人が感謝を示している。これ以上、口を挟む理由はないはずですが?」

 ツインテールの影がぴたりと止まり、空気が少し冷える。冒険者たちは顔を見合わせ、肩をすくめると、しぶしぶ散っていった。
 アリサは思わず目を丸くし、ヨルコへ小さく頭を下げる。
「ヨルコさん……ありがとう」
「いえ。私は事実を述べただけです。……それに、アリサさんのように全力で依頼を遂行する方を、私は好ましいと思いますから」

 言葉は淡々としていたが、ほんのわずかに笑ったように見えて、アリサは胸が熱くなった。

 夕暮れ。
 パン屋の扉を押すと、鈴がちりんと鳴る。窯の匂いが鼻を包み、朝と同じはずの空気が、どこか安心を伴っていた。

「おーい、嬢ちゃん。……お? なんだその顔は」
 カウンター越しに主人が目を細める。アリサは慌てて頬の包帯を手で隠した。
「い、いや、ちょっと森で! でも猫はちゃんと助けたから!」
 主人はふっと鼻を鳴らす。
「へぇ。泣き虫かと思ったが、やるじゃねぇか。……まあ、晩飯くらいは増やしてやるよ」
「ほんと!? やったぁ!」

 その声に、奥の女店員が「また食べ物で釣られてる」と笑い、青年は親指を立てた。
 アリサはエプロンを受け取り、粉の匂いの中で小さく深呼吸をする。
 包帯の下の痛みはまだ残っていたが――それ以上に、胸の奥の「やれた」という芯が、あたたかく燃えていた。

 こうして、アリサの最初の冒険は終わりを告げた。
 けれど、森の奥で聞いたあの低い唸り声の記憶は、まだ彼女の心に影を残していた。
 それでも。
「ただいま」
 そう言える場所があるだけで、今は十分だった。
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