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第七章 ただいまと、森の残響
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牙が、落ちてくる。
それは鋭い刃物のようで、でも刃物なんかよりずっと生々しく、臭く、湿っていた。アリサは棒を押し出し、肩をすぼめ、猫を胸に抱きこむ。肘の内側で感じる小さな鼓動が、彼女自身の鼓動と重なって暴れていた。
(来る。来るなら、受け止める。……怖い。でも、離さない)
――その瞬間。
地面の下から響くみたいな、低い低い唸り声が森全体を震わせた。
ゴォォ……と、風の音に似ているのに、ぜんぜん風じゃない。音は腹の底に沈んで、胸の中で塊になって、骨を震わせる。言葉の手前で止まった、暗い意思。
狼の顎が、目の前で止まった。
ぎり、と音がするほど噛みしめた牙が、しかしアリサには触れない。狼は目だけを横へ振り、次の瞬間、背を丸めて飛び退いた。耳がぺたりと寝て、尻尾が情けないくらいに足の間へ巻き込まれている。
左右の二匹も同じだった。肩の筋肉に乗っていた攻撃の気配が、見る間に萎んでいく。三匹は短く鼻を鳴らし、互いを一瞥して、同時に闇へと消えた。落ち葉がばさばさと鳴る。遠ざかる足音。すぐに、それも聞こえなくなった。
――静寂。
さっきまであった鳥の声も、水の音も、まだ戻って来ない。あるのは、アリサ自身の荒い呼吸と、腕の中で震えるミュウの小さな息だけ。
「……い、今の……なに」
喉から出た声が、自分で驚くほど掠れていた。棒を握っていた手のひらが痺れている。甲の薄い皮膚に、ささくれが刺さって痛い。頬をぬるりと何かが伝った。指先で触れると、血。指についた赤を見て、ふ、と笑ってしまう。
「……わ、私、漫画の主人公なら『かすり傷だ』って言うところだよね……痛いけど」
笑ったら、膝が抜けた。ずるり、とその場に座り込む。ミュウは「にゃっ」と短く鳴いて、アリサの胸元に顔を押し付ける。尻尾が腕の内側で、細く震えた。
「……もう、大丈夫。大丈夫だよ……」
誰に聞かせるでもなく囁いて、それから、アリサは顔を上げた。唸り声がした方角――森の、より深い方。樹々が折り重なって薄暗い、まだ昼なのに夜みたいな、奥の奥。そこから、冷たい視線みたいなものが、じっとこちらを見ている気がした。
(誰? ……なに?)
問いかけは喉の奥でほどけ、言葉にならない。返事は来ない。代わりに、遅れて風が戻り、葉がざわ、と鳴った。鳥の短いさえずりが、恐る恐る、ひとつだけ落ちてくる。世界が呼吸を再開した合図みたいに。
「……帰ろ」
アリサは、そう言って立ち上がる。脚はまだ震えていたけれど、足裏はちゃんと地面を掴んでくれた。棒を脇に抱え、ミュウを胸の高い位置に抱え直す。猫の体温が、制服の布越しにしっかりと伝わってくる。生きている。ここにいる。
戻る道は来たときより暗く見えた。同じ落ち葉、同じ枝の張り方、同じ匂いのはずなのに、森の色味が一段深い。背中に視線を感じる。何度も振り返りそうになるのを、ぐっと堪えた。振り返ったら、何かと目が合いそうで。
(振り返らない。足元。根っこ、段差、石。ゆっくり、でも止まらない)
頭の中で声を刻む。さっきまでの自分なら、きっと声に出して自分を励ましていた。けれど今は、声を出すのがこわい。声が森に溶けて、さっきの「それ」を呼び戻してしまいそうで。
ひと息、ふた息。人の匂い――パンの匂い、スープの匂い、土埃と、鉄の匂いが鼻腔へ入り込んできた時、アリサは勢いがつきすぎて、門の石柱に肩をぶつけた。
「いった……!」
痛みに顔をしかめたものの、笑ってしまう。笑ったら、涙が少し出た。街の外壁は陽を受けて白く、石畳は昼の熱を残してぬくい。遠くで子どもが笑って、鍛冶屋の槌が金属を叩く音がする。生きている音だ。さっき、森の奥で途切れかけた「普通」が、ここにはちゃんとある。
「ただいま……いや、『ただいま』じゃないか。おかえり、か。ミュウちゃん」
胸の中のミュウが、かすかに喉を鳴らした。アリサは微笑んで、ギルドとは逆の方向へ数歩歩きかける。……足が止まる。
(違う。先にギルド。……報告、しなきゃ。ヨルコさん、心配してる)
踵を返し、ギルドの扉を押す。中はひんやりして、木と紙の匂いがする。昼を過ぎて、冒険者たちは仕事に出ているのか、今は人が少ない。カウンターの向こうで帳面を見ていたヨルコが、顔を上げた。目が一瞬丸くなって、すぐに表情を整える。
「お帰りなさい、アリサさん。……その子が、ミュウ?」
「うん。……ちょっとだけ、森で迷って。……ちょっとだけ、怖かったけど。ちゃんと、連れて帰ってきたよ」
言ってから、頬の傷のことを思い出した。ヨルコの視線が、そこへ落ちる。ツインテールの先が、ぴく、と揺れて、すぐに静かになった。
「……手当てを先に。水と布、それから薬草を準備します。ミュウは――依頼主様を呼びますね。すぐに」
ヨルコは慣れた動きで小走りに奥へ消えていった。その背中を見ながら、アリサはカウンターの端に腰を下ろす。張り詰めていたものが、急にほどけた。指先がじん、と痺れる。棒を握っていた感覚が遅れてやってくる。
(さっきの、声)
頭の奥で、低く、鈍い音が残っている。森が息を止め、狼が怯え、自分も動けなくなった、あの一瞬。声、というより、意志。単語の外側にこびりついた、何かの視線。
(『まだ早い』……って、聞こえた気がした。……気のせい?)
思い出そうとすると、背筋が冷える。そこまで辿る前に、脳が勝手に蓋を閉めるような感じ。ミュウが胸の中で動いた。「にゃ」と短く鳴く。アリサは現実へ戻って、笑った。
「うん。今は、よし。ね、ミュウちゃん。よし、よし」
しばらくして、ヨルコが戻って来る。銀の盆に載せた器具と薬、布。その後ろから、仕立屋の奥様が駆け込んできた。目にはもう涙が溜まっている。
「ミュウ! ああ、ミュウ!」
腕の中の猫が振り向き、鳴いた。奥様が受け取ろうと手を伸ばすのを見て、アリサはそっと身をかがめ、慎重に引き渡す。猫の体温が腕から離れた瞬間、胸のあたりが少しだけスカスカした。
「あなた……! 本当に、ありがとう。本当に……!」
「う、ううん。私、ただ――」
言いかけて、声が震えそうになった。「ただ、怖かったです」と言うのは、なんだか違う気がして。アリサは代わりに、いつもの調子で笑う。
「――ただ、猫、好きなだけだから!」
奥様は一層泣いた。笑いながら泣いていた。ヨルコがそっと奥様の背に手を添える。ツインテールが柔らかく揺れる。ギルドの空気が、少し、あたたかくなる。
「アリサさん、こちらを」
ヨルコが差し出したのは、包帯と、薄い茶色の薬草膏。アリサが頬に触れようとすると、ヨルコがすっと手を伸ばし、指先で傷の縁を確かめた。目はいつも通り穏やかだけど、触れる手は驚くほどに迷いがない。
「浅い傷です。痕は残りません。……痛みますよ、少し」
「いたっ……! けど、大丈夫。……ありがと」
包帯が頬に固定される。頬に貼られた白が、制服の緑と妙に合わない。アリサは笑って、ヨルコに頭を下げた。
「ねえ、ヨルコさん。森のこと、……聞いてもいい?」
「森のこと?」
「……さっき、狼が逃げたの。私が強かったからじゃない。私、ただ棒を振り回してただけだから。……なんか、声がして」
口にした瞬間、背中の毛穴が開く。言葉にすると、あの冷たさが戻ってくる。ヨルコはほんの一瞬だけ視線を泳がせて、すぐに静かに首を振った。
「森は古いです。古いものは、時々、私たちの知らない音を鳴らします。……それ以上は、受付嬢の仕事の範囲を超えます」
「そっか」
それ以上、追及はしなかった。言葉にして安心したい気持ちと、言葉にしてはいけない気配を刺激してしまいそうな直感とが、綱引きをしている。アリサは、その綱をするりと手から離して、椅子の背にもたれた。
「アリサさん」
「ん?」
「……おかえりなさい」
ヨルコはほんの少しだけ微笑んだ。その言い方は、パン屋の主人の「無理すんなよ」と同じ種類の、町の人間の言葉だった。アリサは胸の奥が温かくなるのを感じ、こくりと頷いた。
「ただいま」
奥様が礼を述べ、報酬の銅貨と引換券が小袋に収まる。ミュウは奥様の腕の中で落ち着きを取り戻し、ときどきこちらを振り向いて、短く鳴いた。猫の声は、さっき森で聞いた音とは違って、柔らかく、丸く、軽かった。
ギルドを出ると、石畳の上に陽が伸びている。影が長くなっていた。空はまだ青いのに、森の方角だけが、うっすらと濃く見える。アリサは頬の包帯にそっと触れて、深呼吸をした。
(――勝ったわけじゃない。助けられただけ。私、全然強くない)
それでも、腕の中にいた体温を思い出すと、胸の真ん中に小さな芯が生まれた気がした。怖かった、と同時に、守れた。逃げなかった。どちらの記憶も、確かに自分のものだ。
「……次は、もっとちゃんと、できるように」
誰にも聞こえない小さな声で言って、アリサは踵を返した。パン屋へ戻って、仕事の続きをする。粉の匂いを吸い込み、手を洗って、オーブンの熱を顔で受け止める。普通の時間を、手で取り戻す。それが今の自分にできる、いちばんの「強さ」の練習な気がした。
夕方の風が、包帯の角を少し揺らした。森の方角からは、何の音もしない。けれど、アリサは知っている。あの奥に、何かがいる。狼よりも、ずっと冷たく、ずっと大きい「なにか」。きっと、いつか向き合う。その「いつか」は、今日じゃない。でも、いつかは必ず来る。
空を見上げると、雲が細く延びて、薄い金色が混じっていた。アリサは小さく背伸びをして、パン屋の扉を押した。鈴が鳴る。普通の音が、今はひどく嬉しい。
彼女の耳には、まだ、あの低い唸りの残響が、遠い遠い底の方で微かに転がっていた。
――森は、覚えている。アリサも、覚えている。
そして、物語の歯車は、静かに、確かに、次の段へと噛み合い始めていた。
奥様が猫を抱きしめて泣きじゃくる姿に、ギルドの冒険者たちもちらほらと集まってきた。
筋骨隆々の戦士が腕を組みながら鼻を鳴らす。
「へっ、猫探しで泣かれるなんてな……だが、まあ悪くねえ依頼だ」
「新人にしちゃ、頑張った方じゃないか?」
「いやいや、あの顔の傷見ろよ。猫探しで“武勲”とか笑えるだろ」
笑い混じりの声が飛ぶ。アリサは唇を噛んで俯きそうになった――が、そこでカウンターの奥から、すぱん、と乾いた音が響いた。ヨルコが帳簿を閉じた音だった。
「皆さま。依頼は依頼です。大小は関係ありません。……報酬が支払われ、依頼人が感謝を示している。これ以上、口を挟む理由はないはずですが?」
ツインテールの影がぴたりと止まり、空気が少し冷える。冒険者たちは顔を見合わせ、肩をすくめると、しぶしぶ散っていった。
アリサは思わず目を丸くし、ヨルコへ小さく頭を下げる。
「ヨルコさん……ありがとう」
「いえ。私は事実を述べただけです。……それに、アリサさんのように全力で依頼を遂行する方を、私は好ましいと思いますから」
言葉は淡々としていたが、ほんのわずかに笑ったように見えて、アリサは胸が熱くなった。
夕暮れ。
パン屋の扉を押すと、鈴がちりんと鳴る。窯の匂いが鼻を包み、朝と同じはずの空気が、どこか安心を伴っていた。
「おーい、嬢ちゃん。……お? なんだその顔は」
カウンター越しに主人が目を細める。アリサは慌てて頬の包帯を手で隠した。
「い、いや、ちょっと森で! でも猫はちゃんと助けたから!」
主人はふっと鼻を鳴らす。
「へぇ。泣き虫かと思ったが、やるじゃねぇか。……まあ、晩飯くらいは増やしてやるよ」
「ほんと!? やったぁ!」
その声に、奥の女店員が「また食べ物で釣られてる」と笑い、青年は親指を立てた。
アリサはエプロンを受け取り、粉の匂いの中で小さく深呼吸をする。
包帯の下の痛みはまだ残っていたが――それ以上に、胸の奥の「やれた」という芯が、あたたかく燃えていた。
こうして、アリサの最初の冒険は終わりを告げた。
けれど、森の奥で聞いたあの低い唸り声の記憶は、まだ彼女の心に影を残していた。
それでも。
「ただいま」
そう言える場所があるだけで、今は十分だった。
それは鋭い刃物のようで、でも刃物なんかよりずっと生々しく、臭く、湿っていた。アリサは棒を押し出し、肩をすぼめ、猫を胸に抱きこむ。肘の内側で感じる小さな鼓動が、彼女自身の鼓動と重なって暴れていた。
(来る。来るなら、受け止める。……怖い。でも、離さない)
――その瞬間。
地面の下から響くみたいな、低い低い唸り声が森全体を震わせた。
ゴォォ……と、風の音に似ているのに、ぜんぜん風じゃない。音は腹の底に沈んで、胸の中で塊になって、骨を震わせる。言葉の手前で止まった、暗い意思。
狼の顎が、目の前で止まった。
ぎり、と音がするほど噛みしめた牙が、しかしアリサには触れない。狼は目だけを横へ振り、次の瞬間、背を丸めて飛び退いた。耳がぺたりと寝て、尻尾が情けないくらいに足の間へ巻き込まれている。
左右の二匹も同じだった。肩の筋肉に乗っていた攻撃の気配が、見る間に萎んでいく。三匹は短く鼻を鳴らし、互いを一瞥して、同時に闇へと消えた。落ち葉がばさばさと鳴る。遠ざかる足音。すぐに、それも聞こえなくなった。
――静寂。
さっきまであった鳥の声も、水の音も、まだ戻って来ない。あるのは、アリサ自身の荒い呼吸と、腕の中で震えるミュウの小さな息だけ。
「……い、今の……なに」
喉から出た声が、自分で驚くほど掠れていた。棒を握っていた手のひらが痺れている。甲の薄い皮膚に、ささくれが刺さって痛い。頬をぬるりと何かが伝った。指先で触れると、血。指についた赤を見て、ふ、と笑ってしまう。
「……わ、私、漫画の主人公なら『かすり傷だ』って言うところだよね……痛いけど」
笑ったら、膝が抜けた。ずるり、とその場に座り込む。ミュウは「にゃっ」と短く鳴いて、アリサの胸元に顔を押し付ける。尻尾が腕の内側で、細く震えた。
「……もう、大丈夫。大丈夫だよ……」
誰に聞かせるでもなく囁いて、それから、アリサは顔を上げた。唸り声がした方角――森の、より深い方。樹々が折り重なって薄暗い、まだ昼なのに夜みたいな、奥の奥。そこから、冷たい視線みたいなものが、じっとこちらを見ている気がした。
(誰? ……なに?)
問いかけは喉の奥でほどけ、言葉にならない。返事は来ない。代わりに、遅れて風が戻り、葉がざわ、と鳴った。鳥の短いさえずりが、恐る恐る、ひとつだけ落ちてくる。世界が呼吸を再開した合図みたいに。
「……帰ろ」
アリサは、そう言って立ち上がる。脚はまだ震えていたけれど、足裏はちゃんと地面を掴んでくれた。棒を脇に抱え、ミュウを胸の高い位置に抱え直す。猫の体温が、制服の布越しにしっかりと伝わってくる。生きている。ここにいる。
戻る道は来たときより暗く見えた。同じ落ち葉、同じ枝の張り方、同じ匂いのはずなのに、森の色味が一段深い。背中に視線を感じる。何度も振り返りそうになるのを、ぐっと堪えた。振り返ったら、何かと目が合いそうで。
(振り返らない。足元。根っこ、段差、石。ゆっくり、でも止まらない)
頭の中で声を刻む。さっきまでの自分なら、きっと声に出して自分を励ましていた。けれど今は、声を出すのがこわい。声が森に溶けて、さっきの「それ」を呼び戻してしまいそうで。
ひと息、ふた息。人の匂い――パンの匂い、スープの匂い、土埃と、鉄の匂いが鼻腔へ入り込んできた時、アリサは勢いがつきすぎて、門の石柱に肩をぶつけた。
「いった……!」
痛みに顔をしかめたものの、笑ってしまう。笑ったら、涙が少し出た。街の外壁は陽を受けて白く、石畳は昼の熱を残してぬくい。遠くで子どもが笑って、鍛冶屋の槌が金属を叩く音がする。生きている音だ。さっき、森の奥で途切れかけた「普通」が、ここにはちゃんとある。
「ただいま……いや、『ただいま』じゃないか。おかえり、か。ミュウちゃん」
胸の中のミュウが、かすかに喉を鳴らした。アリサは微笑んで、ギルドとは逆の方向へ数歩歩きかける。……足が止まる。
(違う。先にギルド。……報告、しなきゃ。ヨルコさん、心配してる)
踵を返し、ギルドの扉を押す。中はひんやりして、木と紙の匂いがする。昼を過ぎて、冒険者たちは仕事に出ているのか、今は人が少ない。カウンターの向こうで帳面を見ていたヨルコが、顔を上げた。目が一瞬丸くなって、すぐに表情を整える。
「お帰りなさい、アリサさん。……その子が、ミュウ?」
「うん。……ちょっとだけ、森で迷って。……ちょっとだけ、怖かったけど。ちゃんと、連れて帰ってきたよ」
言ってから、頬の傷のことを思い出した。ヨルコの視線が、そこへ落ちる。ツインテールの先が、ぴく、と揺れて、すぐに静かになった。
「……手当てを先に。水と布、それから薬草を準備します。ミュウは――依頼主様を呼びますね。すぐに」
ヨルコは慣れた動きで小走りに奥へ消えていった。その背中を見ながら、アリサはカウンターの端に腰を下ろす。張り詰めていたものが、急にほどけた。指先がじん、と痺れる。棒を握っていた感覚が遅れてやってくる。
(さっきの、声)
頭の奥で、低く、鈍い音が残っている。森が息を止め、狼が怯え、自分も動けなくなった、あの一瞬。声、というより、意志。単語の外側にこびりついた、何かの視線。
(『まだ早い』……って、聞こえた気がした。……気のせい?)
思い出そうとすると、背筋が冷える。そこまで辿る前に、脳が勝手に蓋を閉めるような感じ。ミュウが胸の中で動いた。「にゃ」と短く鳴く。アリサは現実へ戻って、笑った。
「うん。今は、よし。ね、ミュウちゃん。よし、よし」
しばらくして、ヨルコが戻って来る。銀の盆に載せた器具と薬、布。その後ろから、仕立屋の奥様が駆け込んできた。目にはもう涙が溜まっている。
「ミュウ! ああ、ミュウ!」
腕の中の猫が振り向き、鳴いた。奥様が受け取ろうと手を伸ばすのを見て、アリサはそっと身をかがめ、慎重に引き渡す。猫の体温が腕から離れた瞬間、胸のあたりが少しだけスカスカした。
「あなた……! 本当に、ありがとう。本当に……!」
「う、ううん。私、ただ――」
言いかけて、声が震えそうになった。「ただ、怖かったです」と言うのは、なんだか違う気がして。アリサは代わりに、いつもの調子で笑う。
「――ただ、猫、好きなだけだから!」
奥様は一層泣いた。笑いながら泣いていた。ヨルコがそっと奥様の背に手を添える。ツインテールが柔らかく揺れる。ギルドの空気が、少し、あたたかくなる。
「アリサさん、こちらを」
ヨルコが差し出したのは、包帯と、薄い茶色の薬草膏。アリサが頬に触れようとすると、ヨルコがすっと手を伸ばし、指先で傷の縁を確かめた。目はいつも通り穏やかだけど、触れる手は驚くほどに迷いがない。
「浅い傷です。痕は残りません。……痛みますよ、少し」
「いたっ……! けど、大丈夫。……ありがと」
包帯が頬に固定される。頬に貼られた白が、制服の緑と妙に合わない。アリサは笑って、ヨルコに頭を下げた。
「ねえ、ヨルコさん。森のこと、……聞いてもいい?」
「森のこと?」
「……さっき、狼が逃げたの。私が強かったからじゃない。私、ただ棒を振り回してただけだから。……なんか、声がして」
口にした瞬間、背中の毛穴が開く。言葉にすると、あの冷たさが戻ってくる。ヨルコはほんの一瞬だけ視線を泳がせて、すぐに静かに首を振った。
「森は古いです。古いものは、時々、私たちの知らない音を鳴らします。……それ以上は、受付嬢の仕事の範囲を超えます」
「そっか」
それ以上、追及はしなかった。言葉にして安心したい気持ちと、言葉にしてはいけない気配を刺激してしまいそうな直感とが、綱引きをしている。アリサは、その綱をするりと手から離して、椅子の背にもたれた。
「アリサさん」
「ん?」
「……おかえりなさい」
ヨルコはほんの少しだけ微笑んだ。その言い方は、パン屋の主人の「無理すんなよ」と同じ種類の、町の人間の言葉だった。アリサは胸の奥が温かくなるのを感じ、こくりと頷いた。
「ただいま」
奥様が礼を述べ、報酬の銅貨と引換券が小袋に収まる。ミュウは奥様の腕の中で落ち着きを取り戻し、ときどきこちらを振り向いて、短く鳴いた。猫の声は、さっき森で聞いた音とは違って、柔らかく、丸く、軽かった。
ギルドを出ると、石畳の上に陽が伸びている。影が長くなっていた。空はまだ青いのに、森の方角だけが、うっすらと濃く見える。アリサは頬の包帯にそっと触れて、深呼吸をした。
(――勝ったわけじゃない。助けられただけ。私、全然強くない)
それでも、腕の中にいた体温を思い出すと、胸の真ん中に小さな芯が生まれた気がした。怖かった、と同時に、守れた。逃げなかった。どちらの記憶も、確かに自分のものだ。
「……次は、もっとちゃんと、できるように」
誰にも聞こえない小さな声で言って、アリサは踵を返した。パン屋へ戻って、仕事の続きをする。粉の匂いを吸い込み、手を洗って、オーブンの熱を顔で受け止める。普通の時間を、手で取り戻す。それが今の自分にできる、いちばんの「強さ」の練習な気がした。
夕方の風が、包帯の角を少し揺らした。森の方角からは、何の音もしない。けれど、アリサは知っている。あの奥に、何かがいる。狼よりも、ずっと冷たく、ずっと大きい「なにか」。きっと、いつか向き合う。その「いつか」は、今日じゃない。でも、いつかは必ず来る。
空を見上げると、雲が細く延びて、薄い金色が混じっていた。アリサは小さく背伸びをして、パン屋の扉を押した。鈴が鳴る。普通の音が、今はひどく嬉しい。
彼女の耳には、まだ、あの低い唸りの残響が、遠い遠い底の方で微かに転がっていた。
――森は、覚えている。アリサも、覚えている。
そして、物語の歯車は、静かに、確かに、次の段へと噛み合い始めていた。
奥様が猫を抱きしめて泣きじゃくる姿に、ギルドの冒険者たちもちらほらと集まってきた。
筋骨隆々の戦士が腕を組みながら鼻を鳴らす。
「へっ、猫探しで泣かれるなんてな……だが、まあ悪くねえ依頼だ」
「新人にしちゃ、頑張った方じゃないか?」
「いやいや、あの顔の傷見ろよ。猫探しで“武勲”とか笑えるだろ」
笑い混じりの声が飛ぶ。アリサは唇を噛んで俯きそうになった――が、そこでカウンターの奥から、すぱん、と乾いた音が響いた。ヨルコが帳簿を閉じた音だった。
「皆さま。依頼は依頼です。大小は関係ありません。……報酬が支払われ、依頼人が感謝を示している。これ以上、口を挟む理由はないはずですが?」
ツインテールの影がぴたりと止まり、空気が少し冷える。冒険者たちは顔を見合わせ、肩をすくめると、しぶしぶ散っていった。
アリサは思わず目を丸くし、ヨルコへ小さく頭を下げる。
「ヨルコさん……ありがとう」
「いえ。私は事実を述べただけです。……それに、アリサさんのように全力で依頼を遂行する方を、私は好ましいと思いますから」
言葉は淡々としていたが、ほんのわずかに笑ったように見えて、アリサは胸が熱くなった。
夕暮れ。
パン屋の扉を押すと、鈴がちりんと鳴る。窯の匂いが鼻を包み、朝と同じはずの空気が、どこか安心を伴っていた。
「おーい、嬢ちゃん。……お? なんだその顔は」
カウンター越しに主人が目を細める。アリサは慌てて頬の包帯を手で隠した。
「い、いや、ちょっと森で! でも猫はちゃんと助けたから!」
主人はふっと鼻を鳴らす。
「へぇ。泣き虫かと思ったが、やるじゃねぇか。……まあ、晩飯くらいは増やしてやるよ」
「ほんと!? やったぁ!」
その声に、奥の女店員が「また食べ物で釣られてる」と笑い、青年は親指を立てた。
アリサはエプロンを受け取り、粉の匂いの中で小さく深呼吸をする。
包帯の下の痛みはまだ残っていたが――それ以上に、胸の奥の「やれた」という芯が、あたたかく燃えていた。
こうして、アリサの最初の冒険は終わりを告げた。
けれど、森の奥で聞いたあの低い唸り声の記憶は、まだ彼女の心に影を残していた。
それでも。
「ただいま」
そう言える場所があるだけで、今は十分だった。
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「追放されたってことは、俺の行動を制限する奴もいないってことだよな?」
これは収納魔法しか使えない魔術師が、仲間のために陰で奮闘する物語。
異世界転生したらたくさんスキルもらったけど今まで選ばれなかったものだった~魔王討伐は無理な気がする~
宝者来価
ファンタジー
俺は異世界転生者カドマツ。
転生理由は幼い少女を交通事故からかばったこと。
良いとこなしの日々を送っていたが女神様から異世界に転生すると説明された時にはアニメやゲームのような展開を期待したりもした。
例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。
けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。
同じ転生者でイケメン王子のレイニーに出迎えられ歓迎される。
彼は【スキル:水】を使う最強で理想的な異世界転生者に思えたのだが―――!?
※小説家になろう様にも掲載しています。
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