「異世界転生したらギルドで笑われたけど、負けヒロインにはならない!」

ぐれおねP

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第七章 秘密基地の代償

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パン屋の裏口は、朝から甘い匂いでいっぱいだった。窯の縁に置かれた鉄のトレーが触れるたびチン、と乾いた音を立てる。
 アリサは両腕に薄く粉をまとい、こね台の上で生地を押しては返し、押しては返す。掌の中央にじわりと熱がこもる感覚に、(あ、ちゃんと仕事してるんだ、私)と小さく笑った。

「アリサーっ!」

 裏口の扉がガラリと揺れた。隙間から泥だらけの小さな顔が三つ四つ、縦に横にぎゅうぎゅう並ぶ。

「ちょっ、今はお仕事中――」
「いいもの見せてあげる!」
「ないしょだよ! アリサにだけ!」
「大人には絶対ヒミツ!」

 粉と汗の現実に、無邪気な非日常がずかずか入り込んでくる。アリサは腰に手を当てて、わざとらしく眉を吊り上げた。

「“ヒミツ”って言った子、今ここで四人に言ってるけど?」
「四人は子供だから大人じゃない!」
「……理論が子供!」

 思わず笑いがこぼれる。生地の端を布で覆い、店主に「すぐ戻ります」と頭を下げると、子供たちは「やった!」と跳ねた。
 手を引かれると、粉の感触があっという間に木漏れ日に変わる。

 森は、湿った土の匂いがした。鳥の声、葉のざわめき、足元で小枝がぱきりと折れる音。
 走りながら、アリサの胸の奥にふっと灯るものがある。(誘ってくれて、ありがと)――言葉にするには照れくさい、じんわりする嬉しさだ。

「こっち! もうすぐ!」

 茂みを抜けた先、小さな空き地に、子供たちの“世界”が立っていた。
 細い枝を三角に組み、ところどころ板で補強した小屋。壁の布は色あせているが、端には手縫いの飾り糸が揺れている。地面の上には、拾った石で縁取られた輪――きっと“会議の席”だ。

「これ……自分たちで?」
「そう!」
「ぼく、釘を打った!」
「わたし、布えらんだ!」
「トマは木を運んだ! 重かった!」

「すごい、ほんとに……すごいじゃん!」

 アリサが本気の声で言うと、四つ五つの胸が一度にそり返る。全員が自分の功績を早口で報告しだして、言葉がぶつかって、笑いが弾けた。

「ここが会議の席ね?」
「そう! ここで“合言葉”を言うと入れる!」
「え、合言葉なんてあるの?」
「ひみつ!」
「じゃあ入れないじゃん私!」

「……特別に教える。せーの――」
『きらきら太陽っ!』

 声の高さもタイミングもばらばらで、まるで森じゅうに秘密を配って歩いているみたいだ。
 アリサは吹き出して膝に手をついた。

「ちょっと! 秘密に向いてない合言葉選手権、優勝!」

「だって楽しいほうがいいんだもん!」

 笑いながら、アリサは輪の中に座る。子供たちが真似して座り込み、棒きれを剣に見立ててチャンバラが始まる。
 一本、足元の枝がきしり、と鳴った。アリサは何気なく足場をずらす。(今度来るときは、釘をもう一本持ってこよう)――そんな“大人目線”がふと頭をよぎって、自分で苦笑する。ここでは、私も彼らの友達でいたい。

「ねぇアリサ、パンのこね方って、剣の素振りに似てる?」
「似てるかも。腰を落として、手首でやらないで――」
「こう!?」
「そうそう、あと掛け声は……えい! とか?」
「えい!」「えい!」「えいえい、おー!」

 くだらない。だけど、胸の奥が温かい。
 “居場所”って、粉の匂いの中だけじゃないんだな、とアリサは思う。

 ――そのとき、空気が変わった。

 鳥の声がぴたりとやみ、葉の重なりの向こうで、低い唸りがひとつ転がった。
 笑い声が、紙を破るみたいに途中で途切れる。

「……今の、なに?」

 問いが終わるより早く、茂みが裂けた。
 土と毛の臭い。暗い黄の眼。牙。
 獣のような魔物が、迷いのない軌道で飛び出してくる。

「下がって――!」

 言いながら、アリサの体は先に動いた。輪の前に立ち、両手を広げる。
 脳が叫ぶ。(武器がない。握れるものは、棒切れ一本。遅い――)

 魔物が小屋の柱に肩をぶつける。細い枝がまとめて折れ、布が風に舞った。
 子供たちの誰かが泣き声を上げ、誰かがアリサの服を掴む。「こわい」「やだ」「おうち帰る」――声が重なって、言葉にならない波になった。

「大丈夫、大丈夫だから――!」

 言いながら、胸が引きつる。大丈夫なんて、言い切れる根拠がどこにある。
 アリサは棒を握り直し、魔物の鼻先に向けて振る。乾いた音。腕がしびれるだけで、獣は半歩も退かない。

 牙が光った。
 トマが足を取られて転ぶ。
 視界の端で、彼の袖がめくれ、細い腕がむき出しになる。魔物がそちらを振り向く。

 間に合え。

 踏み込んだ足の下で土が崩れる。体勢がわずかに遅れる。
 魔物の前足が、空を裂いた。

 ――爪の線が、トマの肩口を深くえぐった。

 音が遅れてくる。柔らかな何かを裂く、いやな音。
 赤が、布の白にじわりと広がったかと思うと、次の瞬間には指先からこぼれ落ちるほどの量になっている。

「っ、……ぁ」

 トマの喉から、小さな悲鳴が押し出される。息が引っかかって、声にならない。
 アリサの胃が、きゅっと縮んだ。(やだ、やだ、やだ)
 遅れた。さっき笑ってたのに。私が――私が。

「トマ! こっち向いて、こっち!」
 膝をつき、手で彼の体を自分のほうへ引き寄せる。熱い。血が掌に溜まって、指の間から落ちる。
 肩の裂け目は思ったより深い。ぞくりと背中が冷える。(見ないで。いや、見なきゃ。どれくらい――)

「アリサ、こわい……こわいよ……」
「大丈夫。大丈夫だから、息して。吸って、吐いて――そう」

 口が勝手に言葉を繰り返す。自分に言い聞かせるみたいに。
 頭の奥で別の声が叫ぶ。(大丈夫じゃない! 止まってない! 誰かを呼べ! 叫べ!)

 魔物が再び低く唸った。まだ行く気だ。
 立ち上がる。足が震えている。棒を構える手が汗で滑る。
 心臓が喉まで上がって、呼吸が浅くなる。(怖い。怖いよ。――でも、退けない)

「来るな!」

 声が裏返る。獣が一歩、踏み込む。
 そのとき、遠くで大人の怒鳴り声が重なった。「おい!」「そこだ!」
 数本の投げ槍が木々の陰から飛び、魔物の進路を逸らす。獣は忌々しげに唸り、身を翻して茂みに消えた。ざわざわと草が波打ち、やがて音は遠ざかる。

 静寂。鳥の声は戻ってこない。代わりに、子供たちの泣き声が、森を満たした。

「トマ!」「いたいの? いたいの?」
「みず! 水!」
「ちがう、布! 布でおさえるんだ!」

「布……!」

 アリサは自分のエプロンを乱暴に裂いた。布の端は粉で白く、血の赤が滲むと、瞬く間に桃色を経て深い色に変わる。
 布を重ね、手のひらで圧迫する。トマの体がびくりと震えた。

「ごめん――ごめん、ごめんね。痛いよね。生きて、ちゃんと息して、ここにいて!」

 涙で視界が滲む。泣くな。私が泣いたら、みんながもっと怖くなる。
 でも、胸の奥が灼ける。さっきまでの笑い声が、耳の内側で反響する。「きらきら太陽」――ばかみたいな合言葉。かわいかった声。あれが、同じ森の空気だったなんて、信じたくない。

(私が――守れなかった)

 言葉が、喉の奥で形になる。
 守れなかった、守れなかった、守れなかった。
 何度繰り返しても、現実は変わらない。手の下で、温かい血が現実を主張し続ける。

「道をあけろ!」
 大人たちが駆け寄る。誰かが肩に手を置き、誰かが止血用の帯を差し出す。
 アリサは指示されるままに布を替え、帯を強く巻く。トマの顔が苦痛で歪み、唇が白くなる。

「――私のせいだ」

 ぽつりと漏れた本音に、誰かが「違う」と言った。
 違わない、と心が返す。ここへ連れてきたのは彼ら。でも、来ると決めたのは私。笑って、嬉しくなって、足場のきしみを“今度でいいや”と流したのも私。
 剣も、盾も、何ひとつ持っていなかった。

 村の男たちがトマを抱え上げる。アリサも支えに入る。腕の中の軽さが怖い。布越しの体温が、怖い。

 歩き出すと、森が遠くなる。足下の小石が不意に転がって、アリサはよろけた。
 誰かが代わろうと手を伸ばす。アリサは首を振った。「大丈夫です」――自分の声がやけに遠く聞こえた。

 村の小屋までの道で、アリサは何度も振り向いた。
 壊れた秘密基地が、木漏れ日に晒されている。布が枝に引っかかり、風に揺れた。
 午前の愚かなほど明るい光が、赤い染みの色をはっきり見せる。

(ここで、笑ってたのに)

 喉の奥から、嗚咽が上がった。噛んで飲み込む。
 足を止めるな。泣くのは後にしろ。今は、生かす。

 小屋に運び込まれ、薬師の手に委ねられる。
 煎じた薬の匂い、熱い湯の湯気。乾いた布、清潔な針。人の手がせわしなく動き、命を現実に繋ぎ止める音がする。
 アリサは戸口に立ち尽くした。手はまだ震えていて、裂いたエプロンの端が、指先で小さく震える。

「外で待ってろ」

 言われて、扉の外に出る。
 日差しはさっきと同じなのに、皮膚に当たる感覚が違う。世界が、自分だけ別の速度で流れているみたいだ。
 アリサは庇の柱に額を押し当て、目をぎゅっと閉じた。

(私が、私が――)

 思考がぐるぐると同じ場所を回る。喉の奥の言葉は、泣き声と違って、誰にも聞こえない。
 パン屋のこね台。粉の匂い。合言葉。笑った輪。
 あの全部を守るための力を、私は持っていなかった。

(力が欲しい)

 そのときだけ、思考がまっすぐ進んだ。
 盾でもいい。いや、盾だけじゃ足りない。
 剣が要る。戦えるようにならなきゃいけない。

 魔物が来たら、次は退かない。次は遅れない。
 合言葉を、笑い声を、守る。

 扉が軋み、薬師が顔を出した。
「命は繋いだ。傷は深いが、若い。あとは熱と、運だ。そこのお前、手先が器用だな。止血は悪くない」

 アリサは一瞬、返事を忘れて、ただ頷いた。膝から力が抜けそうになる。
 命、という言葉が胸に落ちる。重くて、熱い。
 生きてる。よかった。よかった――でも、これで終わりにしない。

 柱から背を離し、空を見上げた。
 眩しさに目を細めると、涙が後から追いついて頬を伝う。拭っても、また溢れる。
 恥ずかしくて、情けなくて、でも、これは逃げたくない涙だ。

(やる。私は、やる)

 アリサは両拳を固く握った。
 パン屋のこね台で覚えた“腰を落とす”感覚が、足に重心を落ち着かせる。
 剣を持つときも、きっと基本は同じだ。理屈は、覚えられる。体は、覚えられる。

「アリサ!」

 振り向くと、子供たちが固まって立っていた。泣き腫らした目で、全員がアリサを見ている。
 トマの幼なじみの子が、握った拳を胸の前に持ってきて言った。

「トマ……助けてくれて、ありがと」

 胸が詰まる。首を横に振る。
「助けたのは、村の大人たちだよ。私は……」

「アリサがいてくれて、トマ、ずっと『こわいけど、アリサの声する』って言ってた」

 言葉が、胸のいちばん痛いところに触った。
 アリサは息を吸い、吐く。(ありがとう、と言ってくれる世界に、応えられるように)

「……私、強くなる。次は、守る」

 子供たちは、お互いの顔を見合って、こくりと頷いた。
 アリサは視線を村の外へ向ける。森の向こう、ギルドの建物のほうへ。
 そこには、きっと“基礎”を叩き込んでくれる誰かがいる。冷静で、理詰めで、容赦がない――そういう誰かに、今の私が必要としている言葉と技術がある。

(今度こそ、守れるようになりたい。力が欲しい。剣を持ちたい。誰かに教わってでも、私は強くなる)

アリサは森の奥を見据え、拳を握った。血と粉で汚れた手でも、未来を掴むことはできる。
――その決意だけが、胸の奥で静かに熱を灯していた。
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