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第七章 秘密基地の代償
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パン屋の裏口は、朝から甘い匂いでいっぱいだった。窯の縁に置かれた鉄のトレーが触れるたびチン、と乾いた音を立てる。
アリサは両腕に薄く粉をまとい、こね台の上で生地を押しては返し、押しては返す。掌の中央にじわりと熱がこもる感覚に、(あ、ちゃんと仕事してるんだ、私)と小さく笑った。
「アリサーっ!」
裏口の扉がガラリと揺れた。隙間から泥だらけの小さな顔が三つ四つ、縦に横にぎゅうぎゅう並ぶ。
「ちょっ、今はお仕事中――」
「いいもの見せてあげる!」
「ないしょだよ! アリサにだけ!」
「大人には絶対ヒミツ!」
粉と汗の現実に、無邪気な非日常がずかずか入り込んでくる。アリサは腰に手を当てて、わざとらしく眉を吊り上げた。
「“ヒミツ”って言った子、今ここで四人に言ってるけど?」
「四人は子供だから大人じゃない!」
「……理論が子供!」
思わず笑いがこぼれる。生地の端を布で覆い、店主に「すぐ戻ります」と頭を下げると、子供たちは「やった!」と跳ねた。
手を引かれると、粉の感触があっという間に木漏れ日に変わる。
森は、湿った土の匂いがした。鳥の声、葉のざわめき、足元で小枝がぱきりと折れる音。
走りながら、アリサの胸の奥にふっと灯るものがある。(誘ってくれて、ありがと)――言葉にするには照れくさい、じんわりする嬉しさだ。
「こっち! もうすぐ!」
茂みを抜けた先、小さな空き地に、子供たちの“世界”が立っていた。
細い枝を三角に組み、ところどころ板で補強した小屋。壁の布は色あせているが、端には手縫いの飾り糸が揺れている。地面の上には、拾った石で縁取られた輪――きっと“会議の席”だ。
「これ……自分たちで?」
「そう!」
「ぼく、釘を打った!」
「わたし、布えらんだ!」
「トマは木を運んだ! 重かった!」
「すごい、ほんとに……すごいじゃん!」
アリサが本気の声で言うと、四つ五つの胸が一度にそり返る。全員が自分の功績を早口で報告しだして、言葉がぶつかって、笑いが弾けた。
「ここが会議の席ね?」
「そう! ここで“合言葉”を言うと入れる!」
「え、合言葉なんてあるの?」
「ひみつ!」
「じゃあ入れないじゃん私!」
「……特別に教える。せーの――」
『きらきら太陽っ!』
声の高さもタイミングもばらばらで、まるで森じゅうに秘密を配って歩いているみたいだ。
アリサは吹き出して膝に手をついた。
「ちょっと! 秘密に向いてない合言葉選手権、優勝!」
「だって楽しいほうがいいんだもん!」
笑いながら、アリサは輪の中に座る。子供たちが真似して座り込み、棒きれを剣に見立ててチャンバラが始まる。
一本、足元の枝がきしり、と鳴った。アリサは何気なく足場をずらす。(今度来るときは、釘をもう一本持ってこよう)――そんな“大人目線”がふと頭をよぎって、自分で苦笑する。ここでは、私も彼らの友達でいたい。
「ねぇアリサ、パンのこね方って、剣の素振りに似てる?」
「似てるかも。腰を落として、手首でやらないで――」
「こう!?」
「そうそう、あと掛け声は……えい! とか?」
「えい!」「えい!」「えいえい、おー!」
くだらない。だけど、胸の奥が温かい。
“居場所”って、粉の匂いの中だけじゃないんだな、とアリサは思う。
――そのとき、空気が変わった。
鳥の声がぴたりとやみ、葉の重なりの向こうで、低い唸りがひとつ転がった。
笑い声が、紙を破るみたいに途中で途切れる。
「……今の、なに?」
問いが終わるより早く、茂みが裂けた。
土と毛の臭い。暗い黄の眼。牙。
獣のような魔物が、迷いのない軌道で飛び出してくる。
「下がって――!」
言いながら、アリサの体は先に動いた。輪の前に立ち、両手を広げる。
脳が叫ぶ。(武器がない。握れるものは、棒切れ一本。遅い――)
魔物が小屋の柱に肩をぶつける。細い枝がまとめて折れ、布が風に舞った。
子供たちの誰かが泣き声を上げ、誰かがアリサの服を掴む。「こわい」「やだ」「おうち帰る」――声が重なって、言葉にならない波になった。
「大丈夫、大丈夫だから――!」
言いながら、胸が引きつる。大丈夫なんて、言い切れる根拠がどこにある。
アリサは棒を握り直し、魔物の鼻先に向けて振る。乾いた音。腕がしびれるだけで、獣は半歩も退かない。
牙が光った。
トマが足を取られて転ぶ。
視界の端で、彼の袖がめくれ、細い腕がむき出しになる。魔物がそちらを振り向く。
間に合え。
踏み込んだ足の下で土が崩れる。体勢がわずかに遅れる。
魔物の前足が、空を裂いた。
――爪の線が、トマの肩口を深くえぐった。
音が遅れてくる。柔らかな何かを裂く、いやな音。
赤が、布の白にじわりと広がったかと思うと、次の瞬間には指先からこぼれ落ちるほどの量になっている。
「っ、……ぁ」
トマの喉から、小さな悲鳴が押し出される。息が引っかかって、声にならない。
アリサの胃が、きゅっと縮んだ。(やだ、やだ、やだ)
遅れた。さっき笑ってたのに。私が――私が。
「トマ! こっち向いて、こっち!」
膝をつき、手で彼の体を自分のほうへ引き寄せる。熱い。血が掌に溜まって、指の間から落ちる。
肩の裂け目は思ったより深い。ぞくりと背中が冷える。(見ないで。いや、見なきゃ。どれくらい――)
「アリサ、こわい……こわいよ……」
「大丈夫。大丈夫だから、息して。吸って、吐いて――そう」
口が勝手に言葉を繰り返す。自分に言い聞かせるみたいに。
頭の奥で別の声が叫ぶ。(大丈夫じゃない! 止まってない! 誰かを呼べ! 叫べ!)
魔物が再び低く唸った。まだ行く気だ。
立ち上がる。足が震えている。棒を構える手が汗で滑る。
心臓が喉まで上がって、呼吸が浅くなる。(怖い。怖いよ。――でも、退けない)
「来るな!」
声が裏返る。獣が一歩、踏み込む。
そのとき、遠くで大人の怒鳴り声が重なった。「おい!」「そこだ!」
数本の投げ槍が木々の陰から飛び、魔物の進路を逸らす。獣は忌々しげに唸り、身を翻して茂みに消えた。ざわざわと草が波打ち、やがて音は遠ざかる。
静寂。鳥の声は戻ってこない。代わりに、子供たちの泣き声が、森を満たした。
「トマ!」「いたいの? いたいの?」
「みず! 水!」
「ちがう、布! 布でおさえるんだ!」
「布……!」
アリサは自分のエプロンを乱暴に裂いた。布の端は粉で白く、血の赤が滲むと、瞬く間に桃色を経て深い色に変わる。
布を重ね、手のひらで圧迫する。トマの体がびくりと震えた。
「ごめん――ごめん、ごめんね。痛いよね。生きて、ちゃんと息して、ここにいて!」
涙で視界が滲む。泣くな。私が泣いたら、みんながもっと怖くなる。
でも、胸の奥が灼ける。さっきまでの笑い声が、耳の内側で反響する。「きらきら太陽」――ばかみたいな合言葉。かわいかった声。あれが、同じ森の空気だったなんて、信じたくない。
(私が――守れなかった)
言葉が、喉の奥で形になる。
守れなかった、守れなかった、守れなかった。
何度繰り返しても、現実は変わらない。手の下で、温かい血が現実を主張し続ける。
「道をあけろ!」
大人たちが駆け寄る。誰かが肩に手を置き、誰かが止血用の帯を差し出す。
アリサは指示されるままに布を替え、帯を強く巻く。トマの顔が苦痛で歪み、唇が白くなる。
「――私のせいだ」
ぽつりと漏れた本音に、誰かが「違う」と言った。
違わない、と心が返す。ここへ連れてきたのは彼ら。でも、来ると決めたのは私。笑って、嬉しくなって、足場のきしみを“今度でいいや”と流したのも私。
剣も、盾も、何ひとつ持っていなかった。
村の男たちがトマを抱え上げる。アリサも支えに入る。腕の中の軽さが怖い。布越しの体温が、怖い。
歩き出すと、森が遠くなる。足下の小石が不意に転がって、アリサはよろけた。
誰かが代わろうと手を伸ばす。アリサは首を振った。「大丈夫です」――自分の声がやけに遠く聞こえた。
村の小屋までの道で、アリサは何度も振り向いた。
壊れた秘密基地が、木漏れ日に晒されている。布が枝に引っかかり、風に揺れた。
午前の愚かなほど明るい光が、赤い染みの色をはっきり見せる。
(ここで、笑ってたのに)
喉の奥から、嗚咽が上がった。噛んで飲み込む。
足を止めるな。泣くのは後にしろ。今は、生かす。
小屋に運び込まれ、薬師の手に委ねられる。
煎じた薬の匂い、熱い湯の湯気。乾いた布、清潔な針。人の手がせわしなく動き、命を現実に繋ぎ止める音がする。
アリサは戸口に立ち尽くした。手はまだ震えていて、裂いたエプロンの端が、指先で小さく震える。
「外で待ってろ」
言われて、扉の外に出る。
日差しはさっきと同じなのに、皮膚に当たる感覚が違う。世界が、自分だけ別の速度で流れているみたいだ。
アリサは庇の柱に額を押し当て、目をぎゅっと閉じた。
(私が、私が――)
思考がぐるぐると同じ場所を回る。喉の奥の言葉は、泣き声と違って、誰にも聞こえない。
パン屋のこね台。粉の匂い。合言葉。笑った輪。
あの全部を守るための力を、私は持っていなかった。
(力が欲しい)
そのときだけ、思考がまっすぐ進んだ。
盾でもいい。いや、盾だけじゃ足りない。
剣が要る。戦えるようにならなきゃいけない。
魔物が来たら、次は退かない。次は遅れない。
合言葉を、笑い声を、守る。
扉が軋み、薬師が顔を出した。
「命は繋いだ。傷は深いが、若い。あとは熱と、運だ。そこのお前、手先が器用だな。止血は悪くない」
アリサは一瞬、返事を忘れて、ただ頷いた。膝から力が抜けそうになる。
命、という言葉が胸に落ちる。重くて、熱い。
生きてる。よかった。よかった――でも、これで終わりにしない。
柱から背を離し、空を見上げた。
眩しさに目を細めると、涙が後から追いついて頬を伝う。拭っても、また溢れる。
恥ずかしくて、情けなくて、でも、これは逃げたくない涙だ。
(やる。私は、やる)
アリサは両拳を固く握った。
パン屋のこね台で覚えた“腰を落とす”感覚が、足に重心を落ち着かせる。
剣を持つときも、きっと基本は同じだ。理屈は、覚えられる。体は、覚えられる。
「アリサ!」
振り向くと、子供たちが固まって立っていた。泣き腫らした目で、全員がアリサを見ている。
トマの幼なじみの子が、握った拳を胸の前に持ってきて言った。
「トマ……助けてくれて、ありがと」
胸が詰まる。首を横に振る。
「助けたのは、村の大人たちだよ。私は……」
「アリサがいてくれて、トマ、ずっと『こわいけど、アリサの声する』って言ってた」
言葉が、胸のいちばん痛いところに触った。
アリサは息を吸い、吐く。(ありがとう、と言ってくれる世界に、応えられるように)
「……私、強くなる。次は、守る」
子供たちは、お互いの顔を見合って、こくりと頷いた。
アリサは視線を村の外へ向ける。森の向こう、ギルドの建物のほうへ。
そこには、きっと“基礎”を叩き込んでくれる誰かがいる。冷静で、理詰めで、容赦がない――そういう誰かに、今の私が必要としている言葉と技術がある。
(今度こそ、守れるようになりたい。力が欲しい。剣を持ちたい。誰かに教わってでも、私は強くなる)
アリサは森の奥を見据え、拳を握った。血と粉で汚れた手でも、未来を掴むことはできる。
――その決意だけが、胸の奥で静かに熱を灯していた。
アリサは両腕に薄く粉をまとい、こね台の上で生地を押しては返し、押しては返す。掌の中央にじわりと熱がこもる感覚に、(あ、ちゃんと仕事してるんだ、私)と小さく笑った。
「アリサーっ!」
裏口の扉がガラリと揺れた。隙間から泥だらけの小さな顔が三つ四つ、縦に横にぎゅうぎゅう並ぶ。
「ちょっ、今はお仕事中――」
「いいもの見せてあげる!」
「ないしょだよ! アリサにだけ!」
「大人には絶対ヒミツ!」
粉と汗の現実に、無邪気な非日常がずかずか入り込んでくる。アリサは腰に手を当てて、わざとらしく眉を吊り上げた。
「“ヒミツ”って言った子、今ここで四人に言ってるけど?」
「四人は子供だから大人じゃない!」
「……理論が子供!」
思わず笑いがこぼれる。生地の端を布で覆い、店主に「すぐ戻ります」と頭を下げると、子供たちは「やった!」と跳ねた。
手を引かれると、粉の感触があっという間に木漏れ日に変わる。
森は、湿った土の匂いがした。鳥の声、葉のざわめき、足元で小枝がぱきりと折れる音。
走りながら、アリサの胸の奥にふっと灯るものがある。(誘ってくれて、ありがと)――言葉にするには照れくさい、じんわりする嬉しさだ。
「こっち! もうすぐ!」
茂みを抜けた先、小さな空き地に、子供たちの“世界”が立っていた。
細い枝を三角に組み、ところどころ板で補強した小屋。壁の布は色あせているが、端には手縫いの飾り糸が揺れている。地面の上には、拾った石で縁取られた輪――きっと“会議の席”だ。
「これ……自分たちで?」
「そう!」
「ぼく、釘を打った!」
「わたし、布えらんだ!」
「トマは木を運んだ! 重かった!」
「すごい、ほんとに……すごいじゃん!」
アリサが本気の声で言うと、四つ五つの胸が一度にそり返る。全員が自分の功績を早口で報告しだして、言葉がぶつかって、笑いが弾けた。
「ここが会議の席ね?」
「そう! ここで“合言葉”を言うと入れる!」
「え、合言葉なんてあるの?」
「ひみつ!」
「じゃあ入れないじゃん私!」
「……特別に教える。せーの――」
『きらきら太陽っ!』
声の高さもタイミングもばらばらで、まるで森じゅうに秘密を配って歩いているみたいだ。
アリサは吹き出して膝に手をついた。
「ちょっと! 秘密に向いてない合言葉選手権、優勝!」
「だって楽しいほうがいいんだもん!」
笑いながら、アリサは輪の中に座る。子供たちが真似して座り込み、棒きれを剣に見立ててチャンバラが始まる。
一本、足元の枝がきしり、と鳴った。アリサは何気なく足場をずらす。(今度来るときは、釘をもう一本持ってこよう)――そんな“大人目線”がふと頭をよぎって、自分で苦笑する。ここでは、私も彼らの友達でいたい。
「ねぇアリサ、パンのこね方って、剣の素振りに似てる?」
「似てるかも。腰を落として、手首でやらないで――」
「こう!?」
「そうそう、あと掛け声は……えい! とか?」
「えい!」「えい!」「えいえい、おー!」
くだらない。だけど、胸の奥が温かい。
“居場所”って、粉の匂いの中だけじゃないんだな、とアリサは思う。
――そのとき、空気が変わった。
鳥の声がぴたりとやみ、葉の重なりの向こうで、低い唸りがひとつ転がった。
笑い声が、紙を破るみたいに途中で途切れる。
「……今の、なに?」
問いが終わるより早く、茂みが裂けた。
土と毛の臭い。暗い黄の眼。牙。
獣のような魔物が、迷いのない軌道で飛び出してくる。
「下がって――!」
言いながら、アリサの体は先に動いた。輪の前に立ち、両手を広げる。
脳が叫ぶ。(武器がない。握れるものは、棒切れ一本。遅い――)
魔物が小屋の柱に肩をぶつける。細い枝がまとめて折れ、布が風に舞った。
子供たちの誰かが泣き声を上げ、誰かがアリサの服を掴む。「こわい」「やだ」「おうち帰る」――声が重なって、言葉にならない波になった。
「大丈夫、大丈夫だから――!」
言いながら、胸が引きつる。大丈夫なんて、言い切れる根拠がどこにある。
アリサは棒を握り直し、魔物の鼻先に向けて振る。乾いた音。腕がしびれるだけで、獣は半歩も退かない。
牙が光った。
トマが足を取られて転ぶ。
視界の端で、彼の袖がめくれ、細い腕がむき出しになる。魔物がそちらを振り向く。
間に合え。
踏み込んだ足の下で土が崩れる。体勢がわずかに遅れる。
魔物の前足が、空を裂いた。
――爪の線が、トマの肩口を深くえぐった。
音が遅れてくる。柔らかな何かを裂く、いやな音。
赤が、布の白にじわりと広がったかと思うと、次の瞬間には指先からこぼれ落ちるほどの量になっている。
「っ、……ぁ」
トマの喉から、小さな悲鳴が押し出される。息が引っかかって、声にならない。
アリサの胃が、きゅっと縮んだ。(やだ、やだ、やだ)
遅れた。さっき笑ってたのに。私が――私が。
「トマ! こっち向いて、こっち!」
膝をつき、手で彼の体を自分のほうへ引き寄せる。熱い。血が掌に溜まって、指の間から落ちる。
肩の裂け目は思ったより深い。ぞくりと背中が冷える。(見ないで。いや、見なきゃ。どれくらい――)
「アリサ、こわい……こわいよ……」
「大丈夫。大丈夫だから、息して。吸って、吐いて――そう」
口が勝手に言葉を繰り返す。自分に言い聞かせるみたいに。
頭の奥で別の声が叫ぶ。(大丈夫じゃない! 止まってない! 誰かを呼べ! 叫べ!)
魔物が再び低く唸った。まだ行く気だ。
立ち上がる。足が震えている。棒を構える手が汗で滑る。
心臓が喉まで上がって、呼吸が浅くなる。(怖い。怖いよ。――でも、退けない)
「来るな!」
声が裏返る。獣が一歩、踏み込む。
そのとき、遠くで大人の怒鳴り声が重なった。「おい!」「そこだ!」
数本の投げ槍が木々の陰から飛び、魔物の進路を逸らす。獣は忌々しげに唸り、身を翻して茂みに消えた。ざわざわと草が波打ち、やがて音は遠ざかる。
静寂。鳥の声は戻ってこない。代わりに、子供たちの泣き声が、森を満たした。
「トマ!」「いたいの? いたいの?」
「みず! 水!」
「ちがう、布! 布でおさえるんだ!」
「布……!」
アリサは自分のエプロンを乱暴に裂いた。布の端は粉で白く、血の赤が滲むと、瞬く間に桃色を経て深い色に変わる。
布を重ね、手のひらで圧迫する。トマの体がびくりと震えた。
「ごめん――ごめん、ごめんね。痛いよね。生きて、ちゃんと息して、ここにいて!」
涙で視界が滲む。泣くな。私が泣いたら、みんながもっと怖くなる。
でも、胸の奥が灼ける。さっきまでの笑い声が、耳の内側で反響する。「きらきら太陽」――ばかみたいな合言葉。かわいかった声。あれが、同じ森の空気だったなんて、信じたくない。
(私が――守れなかった)
言葉が、喉の奥で形になる。
守れなかった、守れなかった、守れなかった。
何度繰り返しても、現実は変わらない。手の下で、温かい血が現実を主張し続ける。
「道をあけろ!」
大人たちが駆け寄る。誰かが肩に手を置き、誰かが止血用の帯を差し出す。
アリサは指示されるままに布を替え、帯を強く巻く。トマの顔が苦痛で歪み、唇が白くなる。
「――私のせいだ」
ぽつりと漏れた本音に、誰かが「違う」と言った。
違わない、と心が返す。ここへ連れてきたのは彼ら。でも、来ると決めたのは私。笑って、嬉しくなって、足場のきしみを“今度でいいや”と流したのも私。
剣も、盾も、何ひとつ持っていなかった。
村の男たちがトマを抱え上げる。アリサも支えに入る。腕の中の軽さが怖い。布越しの体温が、怖い。
歩き出すと、森が遠くなる。足下の小石が不意に転がって、アリサはよろけた。
誰かが代わろうと手を伸ばす。アリサは首を振った。「大丈夫です」――自分の声がやけに遠く聞こえた。
村の小屋までの道で、アリサは何度も振り向いた。
壊れた秘密基地が、木漏れ日に晒されている。布が枝に引っかかり、風に揺れた。
午前の愚かなほど明るい光が、赤い染みの色をはっきり見せる。
(ここで、笑ってたのに)
喉の奥から、嗚咽が上がった。噛んで飲み込む。
足を止めるな。泣くのは後にしろ。今は、生かす。
小屋に運び込まれ、薬師の手に委ねられる。
煎じた薬の匂い、熱い湯の湯気。乾いた布、清潔な針。人の手がせわしなく動き、命を現実に繋ぎ止める音がする。
アリサは戸口に立ち尽くした。手はまだ震えていて、裂いたエプロンの端が、指先で小さく震える。
「外で待ってろ」
言われて、扉の外に出る。
日差しはさっきと同じなのに、皮膚に当たる感覚が違う。世界が、自分だけ別の速度で流れているみたいだ。
アリサは庇の柱に額を押し当て、目をぎゅっと閉じた。
(私が、私が――)
思考がぐるぐると同じ場所を回る。喉の奥の言葉は、泣き声と違って、誰にも聞こえない。
パン屋のこね台。粉の匂い。合言葉。笑った輪。
あの全部を守るための力を、私は持っていなかった。
(力が欲しい)
そのときだけ、思考がまっすぐ進んだ。
盾でもいい。いや、盾だけじゃ足りない。
剣が要る。戦えるようにならなきゃいけない。
魔物が来たら、次は退かない。次は遅れない。
合言葉を、笑い声を、守る。
扉が軋み、薬師が顔を出した。
「命は繋いだ。傷は深いが、若い。あとは熱と、運だ。そこのお前、手先が器用だな。止血は悪くない」
アリサは一瞬、返事を忘れて、ただ頷いた。膝から力が抜けそうになる。
命、という言葉が胸に落ちる。重くて、熱い。
生きてる。よかった。よかった――でも、これで終わりにしない。
柱から背を離し、空を見上げた。
眩しさに目を細めると、涙が後から追いついて頬を伝う。拭っても、また溢れる。
恥ずかしくて、情けなくて、でも、これは逃げたくない涙だ。
(やる。私は、やる)
アリサは両拳を固く握った。
パン屋のこね台で覚えた“腰を落とす”感覚が、足に重心を落ち着かせる。
剣を持つときも、きっと基本は同じだ。理屈は、覚えられる。体は、覚えられる。
「アリサ!」
振り向くと、子供たちが固まって立っていた。泣き腫らした目で、全員がアリサを見ている。
トマの幼なじみの子が、握った拳を胸の前に持ってきて言った。
「トマ……助けてくれて、ありがと」
胸が詰まる。首を横に振る。
「助けたのは、村の大人たちだよ。私は……」
「アリサがいてくれて、トマ、ずっと『こわいけど、アリサの声する』って言ってた」
言葉が、胸のいちばん痛いところに触った。
アリサは息を吸い、吐く。(ありがとう、と言ってくれる世界に、応えられるように)
「……私、強くなる。次は、守る」
子供たちは、お互いの顔を見合って、こくりと頷いた。
アリサは視線を村の外へ向ける。森の向こう、ギルドの建物のほうへ。
そこには、きっと“基礎”を叩き込んでくれる誰かがいる。冷静で、理詰めで、容赦がない――そういう誰かに、今の私が必要としている言葉と技術がある。
(今度こそ、守れるようになりたい。力が欲しい。剣を持ちたい。誰かに教わってでも、私は強くなる)
アリサは森の奥を見据え、拳を握った。血と粉で汚れた手でも、未来を掴むことはできる。
――その決意だけが、胸の奥で静かに熱を灯していた。
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この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
転生令息は攻略拒否!?~前世の記憶持ってます!~
深郷由希菜
ファンタジー
前世の記憶持ちの令息、ジョーン・マレットスは悩んでいた。
ここの世界は、前世で妹がやっていたR15のゲームで、自分が攻略対象の貴族であることを知っている。
それはまだいいが、攻略されることに抵抗のある『ある理由』があって・・・?!
(追記.2018.06.24)
物語を書く上で、特に知識不足なところはネットで調べて書いております。
もし違っていた場合は修正しますので、遠慮なくお伝えください。
(追記2018.07.02)
お気に入り400超え、驚きで声が出なくなっています。
どんどん上がる順位に不審者になりそうで怖いです。
(追記2018.07.24)
お気に入りが最高634まできましたが、600超えた今も嬉しく思います。
今更ですが1日1エピソードは書きたいと思ってますが、かなりマイペースで進行しています。
ちなみに不審者は通り越しました。
(追記2018.07.26)
完結しました。要らないとタイトルに書いておきながらかなり使っていたので、サブタイトルを要りませんから持ってます、に変更しました。
お気に入りしてくださった方、見てくださった方、ありがとうございました!
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