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第一章 ツクモノと轆轤首
第一話 捨てられた日の夜に
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こんばんは、私は市松人形です。
今日は朝から雨が強く、網戸もそれに同調するかのようにガタガタと震えていました。
この小さな家の主であり、私の持ち主でもあるお婆ちゃんは、最近何処かへ出掛けたっきり帰って来ていません。日を数えると三日間、私を置いて一体何処に出掛けちゃったんでしょうか。いつもなら数時間程で帰って来る筈なのに。
そんな事を考えていた矢先、彼らは重い鉄のドアを開けて家の中に入って来ました。それは見覚えの無い、茶髪で派手な格好のおばさんと背の高いおじさん達でした。
彼らは主人不在のこの家に、あたかも自分達が家の主人だと主張するが如く、ズカズカと入ってきました。そして手当たり次第に、私の近くにあった引き出しを開け閉めし始めました。
あの人達ってもしかして泥棒かなーー。この家の初めての来訪者と言う事もあり、私はドキドキしながら彼らの行動を見ちゃいました。
派手なおばさんはお婆ちゃんの指輪を引っ張り出してくる否や「これ高く売れるんじゃないの?」と背の高いおじさんに嬉しそうに話していました。
何言ってるの、それはお婆ちゃんがずっと大切にしてた指輪だよーー。そう言いたくても私は市松人形、声を出す事は出来ません。ただただ無力な自分が悔しかったです。
その後も彼らはお金や何か手帳のようなものを見つけては、「こんだけかよ」などと不満気に話していました。
お婆ちゃん、この人達は一体何者なんでしょうか。
金目になりそうなものを粗方探し終えると、次に二人はお婆ちゃんが使っていたものを物色し始めました。
「やっぱゴミばっかり溜め込んでんなぁ、あの婆さんは」
背の高いおじさんはそう言いながら、お婆ちゃんがよく私に見せてくれていた手芸キット、お婆ちゃんが使っていた孫の手も、何やらビニールで出来た袋に詰め込んでいきます。
あれが俗に言うゴミ袋と言うやつなんでしょうか。今までお婆ちゃんが大切に使っていた道具達を、奴は次々に喰らい始めました。
毎晩何かを書き留めていたノートに広告を挟み過ぎてパンパンに膨れ上がったクリアファイル。お婆ちゃんがよく飴玉を入れていた巾着袋などなど、数え始めたらキリがありません。
ですがこんなに食べても、彼はまだ食べ足りないようです。どれだけ食い意地が張っているのやら、全くものにも限度ってものがありますよ。
そしていよいよ二人は棚の上に飾られた私に目を付けました。
私が入っているガラスケースを引きずり下ろし、その中でバランスが保てずフラつく私をものともせず、派手なおばさんが放った第一声は「気持ち悪い、あの人も変な趣味してるわね」でした。
酷い、私だけならまだしもお婆ちゃんの事まで侮辱するなんて許せないーー。そう思った所で結果は変わらず、私はなす術なく机の上でお婆ちゃんのものが無くなっていくのを見ていました。
せめて動く事が出来たなら彼らを止められたかも知れないのにーー。もしもの想いが、私の中で溢れました。
そうこうしている内にお婆ちゃんの小さな部屋は、あっという間に引き出しと、棚にテレビと殺風景なものへと変わってしまいました。その端ではお婆ちゃんのものを殆ど飲み込んだゴミ袋が二つ、満足気に寝転がっています。ううっ、お婆ちゃんが大切にしていたものをいっぱい貪れてよかったですね。
「あとは隣の寝室にある布団を括れば、今日の所は一先ず終了だな」
背の高いおじさんが言いました。どうやらお婆ちゃんがこの人達はお婆ちゃんが帰ってくる前に、この家のものを全部を処分しちゃうみたいです。この家でお婆ちゃんが積み上げてきたもの全てを、消し去っちゃうみたいです。
私もう泣きそうになりました。無論涙なんて出ませんけど。
壁に飾ってあった時計の長い針が一周程した頃。隣の部屋のものの整理が終わったのか、また二人はこの部屋に帰って来ました。
どうせなら帰って来なくてよかったのにーー。そう思ったのも束の間、彼らはとんでもない事を言い出しました。
「この日本人形どうする? 状態は綺麗だけど今時こんなの欲しい物好きなんて居ないでしょ」
「そうだな……このマンションの近くにあるゴミステーションにでも捨てるか」
なんとこの人達、私の事を捨てるって言い始めたんです。持ち主でもないのに、捨てるって言い始めたんですよ。これが納得いくと思いますか。
ですが私が納得いかなくても結果は同じでした。どうやら本気でこの人達は、私の事を捨てるようです。早く帰って来てよお婆ちゃんーー。私にはそう願う事ぐらししか出来ませんでした。
外はさっきも言った通り、雨が降っていて風も強いです。それなのに背の高いおじさんは、私をガラスケースごと持ってそのまま家の外へと飛び出しました。走って飛び出したところを見るに、おじさんは極力雨に濡れるのを避けたかったんでしょうか。何せ私を持っている分、ただでさえ傘が持てないんですからね。
それなら派手なあのおばさんに、傘を持ってもらって相合傘でもすればよかったのにーー。でもおじさん一人で行かされる様を見ると、二人の仲もあまりよくはなかったのかな。
家の外に出るのは初めてでした。私は気付いた時からお婆ちゃんの家の中で飾られていて、外に出る機会も全く無かったからです。
外の世界には狭い部屋では想像も出来ない程に、広々とした景色が広がっていました。言っても家にいる時よりも単に広いと言うだけで、印象としては何か建物がいっぱい建ち並ぶ、活気を感じさせない薄暗そうなものですが。
こんな陰気な建物の中で私も暮らしていたのかと思うと、少し残念な気もしました。もしかすれば家が明るく感じていたのは、お婆ちゃんが居たからなのかも知れません。
「よいしょ、重かったぁ」
目的地に着いたおじさんは、この有を感じさせない無機質な敷居の中に私を置きました。周りにはお婆ちゃんのものが入ったものとはまた違ったゴミ袋達が、自分達の運命を悟っているかのように佇んでいます。
彼らの仲間に私も入ってしまうんですね。どうしてお婆ちゃんは助けてくれないのでしょうか。
おじさんが去った後、私は考えました。降り注ぐ雨の中、ガラスケースに雫が滴り落ちる、新鮮だけどつまらない景色。どうせならこんな景色じゃなくて、テレビ越しでしか見た事がなかった、あの晴れた青空が見たかったなぁって。
お婆ちゃんは私をとても大事にしてくれていた事もあり、私は日光を遮断された生活を送っていました。勿論日光には着物の色が褪せたり、その色が私に移っちゃったりと、私にとっていい事がこれっぽっちもないぐらいわかっています。だけど一度だけ、一度だけでもいいから、私はお日様の顔を見てみたかったーー。
そして夜になりました。雨は既に止んでおり、この無機質な敷居にも人工的な光が灯されました。そのチカチカと鬱陶しいぐらいに点滅する光は、周囲の暗黒を私に見せしめるには十分でした。
怖い、私はその時初めて恐怖心と言うものを抱きました。いつもお婆ちゃんは寝る前に私に、「おやすみ」と言って隣の部屋へと向かっていたので、これまでこんな感覚は感じた事も無かったのです。本当の孤独って、こんなにも辛いものなんですか。
あまりの寂しさに、思わず私も蹲りたくなりました。しかしその細やかな想いすらも、動かない私の体は冷たくそれを阻みました。
もう誰も助けに来ないんだーー。絶望に飲まれて、私が感情を失いかけた次の瞬間でした。
私の頭上の上からまたしても聞き覚えの無い声が、背丈の高い靴を履いた足を私の視界いっぱいに映して聴こえてきたのです。
「おっ、珍しいな。今時市松人形がゴミステーションに捨てられてるなんて」
そんなダイレクトに言わなくてもいいんじゃありませんか? 既に捨てられた事を自覚しかけていた私に追い打ちをかけるが如く、その人は鼻で笑いながら言ってきました。
しかしながら助けが来ないのもまた事実、その人が言っている事にはぐうの音も出ません……これ笑う所ですよ。だって私市松人形ですもの、喋れるわけないじゃないですか。
その人は私の入ったガラスケースを持ち上げると、私の顔をじっと見て黙り込んでしまいました。
何か私に付いてるの? そんな事を思い浮かべてその人の顔を私も見つめ返します。声で大体予想は出来ていましたが、この方は女性の方でした。
シュッとした鼻に少し日に焼けた茶色い肌、顔付きは美人な日本人なのですが、髪の毛の色はなんと金色。こんな人ドラマでしか見た事ありません。如何にも不良って感じです。
「わりかし可愛い顔してんじゃん。このお人形ちゃんは」
今朝から罵倒を浴びせられて、少し自信を失いかけていた私の容姿を彼女は褒めてくれました。何だかお婆ちゃんと話してるみたいーー。どうやら私は、この女性とお婆ちゃんを重ねてしまってるようです。
出来る事ならお婆ちゃんが帰って来るまでの間、この人の家で暮らしてみたいなぁーー。そう思えてしまうのも、私の心がよっぽど孤独から遠ざかりたかったからなんですかね。
「よしっ! 今日からお前はアタシが面倒を見てやるからな」
あたかもこの人は、私の心を見透かしているみたいに言い放ちました。私の事を褒めてくれるだけじゃなく、家にまで置いておいてくれるなんて、この人は仏か何かでしょうか。
この時私は心の底から安堵しました。自分はお婆ちゃんが帰って来るまでの期間、私を大切にしてくれそうな人の家に留まれる事に。
そして願いました、お利口さんにしてるから早く帰ってきてね、と。
*
この人の家はお婆ちゃんの家の真上である三階にありました。なんて言うかその、ケンエイジュウタクとか言うらしいのですが、私にはその辺の事はサッパリわかりません。要するに人の住む場所と言うのは様々なようですね。
私の入ったケースを抱きながら、彼女は重い鉄の扉を開けて家の中へと入りました。そして私はこの時彼女が思っていた以上に綺麗好きである事を、光が灯った部屋を見て理解しました。
しっかりと整頓された本棚には、彼女が大切にしているであろう図鑑の数々。それもお花や植物などのものだけではなく、よく見ると妖怪大百科なるものも沢山見受けられます。
テレビのすぐ前には小さな白い机が置いてあり、その真ん中にはテレビと空調設備のリモコンがキッチリと並べられていました。
こんな今風な家に私なんかを飾って、本当に大丈夫なのでしょうか。どうかすぐには捨てないで下さいね。
「ぬああああ重いいいいッ!」
そんな彼女も私のケースの重さに疲れたのか、とうとう私をその小さな机に勢いよく置いてしまいました。
ガタッ、ガラスケースの中で傾いてしまう私。思っていたよりも強い振動のせいで、私の髪の毛も大きく乱れてしまっているようです。でもその華奢な腕でよくここまで運んできてくれましたよ、お疲れ様ですお姉さん。
「ああっ!? ゴメンゴメン、すぐに直してやるからな」
気の利いたセリフと共にお姉さんは、私の入ったガラスケースの蓋を開けて私の体勢を直そうとしてくれています……。ですがこの出来事こそ、私の運命を大きく変えるきっかけとなりました。
お姉さんが私の体に触れた途端、私は彼女から得体の知れない何かが流れ込んで来るのを感じたのです。脈をうちながら、ドクンドクンと流れ出てくる謎のエネルギー。その膨大とも言える力が私の中に駆け巡ると、やがて私は、手と足や心全てが繋がったような感覚に襲われました。
「わあっ!?」
一瞬誰の声かわかりませんでした。
初めこそお姉さんの声かなと思いましたが、この幼い感じの声は明らかにお姉さんのものではありません。それに部屋に誰かが居るにしても、こんな市松人形の傾きを直すだけで誰が驚くのでしょうか。
実はこの声、なんと私から発せられたものでした。
「えっ……お前喋れんのか?」
驚くのも無理はありません。何せ当の本人である私ですら、この現状を把握しきれていないと言うのに。今私に触れただけのこの人が、現状を理解するなど出来る筈がありませんでした。
「あ……私……声が出てるの……?」
試しに意識して声を出してみると、ちゃんとハッキリ私の声が出ています。それもさっきと同様の、幼さを漂わせるあの声がね。更に声を出せる事と同時に理解したのが、発声と一緒に口も動いていると言う事です。
つまりはそれらが何を意味しているかと言うとーー。どうやら私、動くみたいです。
「そう、みたいですね。アハハ……」
お姉さんは口を大きく開いたまま私の顔を、またしてもジッと見つめていました。
当然の反応ですよ。私が逆の立場だとしたら絶対にこんな人形外へ放り出すでしょうからね。寧ろこれで感情を相手に伝えられる、なんて一瞬でも思ってしまった自分の方が恥ずかしいです。
案の定お姉さんは、ガラスケースに入ったままの私をケースから取り出しました。そして終いには私の体を、高らかに天井へと掲げました。
どうせ地面に叩きつけられるんだろうな、せっかく生ーーと言っていいのかもわかりませんがーーを受けたのに。出る筈のない涙を、私は心の何処かで期待していました。
「うおおおおおおッ!!」
するとお姉さん、何を思ったのか私を物凄い勢いで振り下ろしました。これがまた怖いのなんの。テレビで見た恐怖のジェットコースターってやつを、そのまま実感しているかのようでした。それでも尚、この人は私を遠くへ放り投げない。一体彼女は何を考えるんでしょうね。
ううっ、目が回り過ぎで喉の奥から何かが込み上げてきそうです。
「やめて下さいやめて下さいやめて下さい!」
私は必死に訴えかけました。これまでに体験した事の無い躍動感に、私の体は耐えきれなかったからです。動く事を確認した腕を、パタパタと振りながら命乞いをする。もはや側から見れば滑稽とも言えるその姿は、自分でも情けなく思えましたよ。
「あっ、悪りぃ悪りぃ」
ようやく私の呼び掛けに応じてくれたのか、お姉さんは私を振り回す事を止めてくれました。
助かったーー。一時の休息に胸をホッと撫で下ろしていると、次に彼女がとんでもない事を言い放ちました。それは思わず、私も耳を疑ってしまうとんでもないものでした。
「久しぶりに妖怪に出会えて嬉しかったんだ」
「……へぇ?」
「実はアタシも……妖怪なんだよ」
そう言うとお姉さんは、ニンマリとした表情を浮かべました。どうしたんだろうーー。すると私を手に持ったまま彼女は、あろう事か自身の首を伸ばし始めたではありませんか。
これには流石の私も、大声を上げて全身を震わせてしまいました。このお姉さん、人間じゃなかったんです。
「ウギャァァァァァァァッ!!」
再び手をパタパタとさせて、お姉さんの腕の中で私はもがきました。逃げなきゃ彼女に食べられてしまうかも知れないーー。その一心からです。
しかし私の体格が小さかった事もあり、敢え無く敗北。そのまま机の上に、ちょこんと座らされてしまいました。
「何も驚くこたぁねぇだろ。お前も似たようなもんだぜ、動いて喋る市松人形とかさ」
「そ、そうですよね……ごめんなさい」
何とか落ち着きを取り戻した私は、彼女の言葉に一つ一つ耳を傾けてみました。
よくよく考えてみれば、彼女の言う通りなのかもしれません。人形の私が動いたんですから、人の首が伸びてもおかしくは、おかしくは、ありますよ、やっぱり。
それから私達は、自然とお互いの話をしました。
彼女の名前は轆轤首と言うらしく、人間達がいっぱい住んでいるこの町に一人、妖怪として自由気ままに暮らしているらしいです。それもどのくらいこの町に暮らしているのかと言うと、驚くでなかれ約二百年なんです。言わば、私の妖怪大先輩ですね。
因みに妖怪は、人間よりも長い事生きるらしいです。なので住居の方も、しっかり転々としているようですよ。それにしてもーー。
「ーーお婆ちゃんが三日前に亡くなっていたなんて…………」
まさに私の中の話題はそれで持ちきりでした。
轆轤首さんが言うには、お婆ちゃんは出掛け先の病院で亡くなったそうです。だから今日お婆ちゃんの家に来ていた怪しい二人組も、連絡が途絶えていたお婆ちゃんの子供さん達との事でした。彼らの目的はあくまでも、お婆ちゃんの遺品整理だったらしいです。
けれどあれは見るからに、遺品整理と言う名の窃盗ですよね。ああ言う時に限って、御子息面するのはどうかと思います。
「けどな市松人形ちゃん、今回の件でよくわかっただろ。別れってのは妖怪になっちまった以上、必然的に経験するものなんだよ。何せ妖怪には寿命がねぇからな」
そんな事わざわざ言わなくたって、お婆ちゃんの先があまり長くなかった事ぐらいわかってますよ。何故なら大好きなテレビを見ている時、得意の手芸をしている時、時たま苦しそうな咳をしていたんですからね。
だけど私は認めたくありませんでした。お婆ちゃんがこのまま居なくなってしまえば私と言う存在が、お婆ちゃんの子供さん達が言う、ゴミと同じになってしまう事を。これも定めと言うやつなんでしょうか。
もう少しだけでも長くは生きてくれなかったのかなーー。話を聞いて芽生えてしまったその感情に、私は自分の事ながらも怒りを覚えました。どうして私はこうも自分勝手な事を考えてしまうのかなって。これじゃあ根本的に、あの子供さん達と考え方が同じじゃないかって。
「問題はな、その経験を如何にお前が耐え忍ぶかって事だ。それが出来なきゃお前はずっと、精神的な破滅へと突き進んじまう」
確かに轆轤首さんの言う通りです。私はもうただの市松人形ではありません。妖怪として生まれ変わった、動く市松人形なのです。人と関わる道を選べば当然付きまとってくる別れーー。これを耐えずして、私はこれからの一生どう生きていくのでしょうか。
だとしたらお婆ちゃんとの別れこそ私が、妖怪として生きていく為の通過点だと考えるべきなのです。彼女の言葉は伊達に長い事生きてきただけはあり、それを私に気付かせるには十分でした。
「ま、市松人形ちゃんはまだまだこれからだしな、取り敢えずは落ち込み過ぎるなって事よ。にしても市松人形ちゃんって呼びにくいなぁ」
それは私も同じ意見ですよ。彼女の話題の変え方も急だとは思いますが考えてもみてください。市松人形ちゃんってそのまんま過ぎませんか。なんならせめてここに住んでる間だけでも名前を付けて呼んで欲しいですよ。
なので私は、その胸を轆轤首さんに打ち明けてみる事にしました。
「だったらその……轆轤首さん! よろしければ私の新しい名前、考えて頂けないでしょうか?」
「おっ、いいじゃん。腕が鳴るぜ!」
私はテレビやお婆ちゃんの独り言をよく聞いていたので、難しい言葉もそれなりにわかっているつもりです。でも言葉をよく知っているからと言って、名前を付けるセンスがあるのかと言うと、それはそれで黙り込んじゃいます。しかも私は、お婆ちゃんから「お人形さん」としか呼ばれた事がなかったので尚更です。
ああ神様、私に生をお与え下さったのでしたら、ついでにネーミングセンスと言うものもくださればよかったのに。まぁ轆轤首さん、意外にも名前を付けるのにはノリノリですので、命名は彼女に任せる事にしましょう。
いい名前、期待していますね。
ですがその話題は、いつの間にか私が何の妖怪なのかと言う話題に流されちゃいました。まぁ名前はパッと決められる物でも無いですし構いませんけど。ーーこの人は物忘れしやすい人なのかな。
「しっかしツクモガミにしてはお前は日が浅いもんな。それに今時市松人形なんかへ取り憑く霊もいねぇだろうし」
本棚に飾ってあった妖怪図鑑なるものを開いて、轆轤首さんはそんな事を言っていました。
さり気なく私の事を貶しているようにも思えますが、ここは気にせず彼女の見解を聞いてみる事にします。と言うか彼女程長生きしているのであれば、普通私によく似た妖怪も知っているんじゃないのでしょうか。だとしたら彼女、物忘れが激しいってレベルじゃないですよ。
「あの……。ツクモガミって何ですか?」
そもそも私は妖怪の事に関しては無知なので、一先ず轆轤首さんにツクモガミが何なのかを聞いてみる事にしました。とは言っても彼女は人間の妄想記録帳のような妖怪図鑑に縋っているぐらいなので、あまり期待は出来そうにありませんけどね。
すると轆轤首は本のページをパタリと閉め、ツクモガミに関して説明をしてくれました。どうやらそれについてはしっかりと覚えていたみたいです。
「付喪神ってのはだな、百年以上使われた道具が意思を持つ事で生まれる妖怪さ。唐傘小僧とかカマナリとかがその部類だぜ」
後者の唐傘小僧についてはテレビで知ってはいますが、カマナリぐらいになるともう専門寄りになっちゃって私には全然わかりません。
つまりは百年以上経たなければその付喪神ではない、って理解でいいですよね。またあんまり聞いちゃうと、轆轤首も困ってしまいそうなんでやめておく事にします。
「そこでアタシは考えた! お前の名前は一番可能性としてある付喪神から捩った“ツクモ”ってのが一番妥当だろうが、もしお前が人形に憑依した霊だった時の保険も兼ねて……“ツクモノ”って名前はどうだ?」
そこでそう来ましたか。私の正体を調べていただけでなく、しっかりと名前も考えくれていたとは……やはりこの人は抜け目無い。しかも「付喪神」と「憑く者」を掛けてるんですよこの名前は。これには私も感服のあまり脱帽です。
忘れっぽい人とか思っちゃってごめんなさい。
「いいじゃないですか“ツクモノ”! 最高の名前ですよ!」
予想以上の出来の良い名前に私も興奮してしまい、もう頭の中がこれ以上にない幸福で満ち満ちていました。
ツクモノ、ツクモノーー。あぁ、何度言っても素晴らしい名前ですね。私の名前を考えてくださってありがとうございます、轆轤首さん。
「じゃあ早速だけどツクモノ、お前腹減ってねぇか?」
「お腹……ですか?」
何だか轆轤首さんの気迫に押されてしまって私の声が縮こまっちゃってますが、彼女の問い掛けを私は鸚鵡返ししました。
妖怪になったばかりの私ではありますが、実は空腹と言うものは感じてませんでした。妖怪も生き物であれば空腹を感じるのは無理もないのかも知れません。
ですが第一、私の体はゴムっぽい手足以外は、何だか硬い素材で出来ています。それらがどう言った原理で動いているのかすらも不思議なくらいなのに、私は物を食べても大丈夫なのでしょうか。
「いやぁお前の体は見た所だな、昔の市松人形みたいに木や布では出来ちゃいないだろうからさ。食べる事は大丈夫なんじゃねぇかなって」
何たるアバウト過ぎる見解ーー。何を根拠にそんな事を言えるのやら。「大丈夫なんじゃねぇかな」で適当に済ませている辺り、これから先この人について行くのは結構勇気が必要だったりするのかな。ーーそう思うと私、やっぱり不安です。
「他の付喪神の方も食事は取られるんですか?」
私は一応、他の付喪神の方が食事を取られるかどうかを訊ねてみました。仮にもし、下手に食事を取って私の体に異常を来しては元も子もありませんからね。でも彼女から帰って来た回答は、私が期待していたものとは随分と違うものでした。
「知らねぇよ。だってアタシさ、四百年ぐらい生きてるけど付喪神どころかお前以外の妖怪とは数回程しか会った事ねぇんだから」
「なッ!?」
もうびっくりしました。私よりも何百倍と生きている轆轤首さんですら、自分以外の妖怪とは数えられるぐらいしか会った事が無いと仰ってるんですよ。となると私が他の妖怪の方と出会うのも、もしかすればまだまだ遠い未来の事なのかも知れません。
妖怪って案外人見知りの方が多いのかなーー。謎は深まるばかりです。
「まぁもしもん時の為に水ぐらいは飲んどけよ。きっと損はさせねぇから」
「はぁ」
そう言って轆轤首さんは、床に置いたままの妖怪図鑑に足を躓《つまづ》かせながらも台所の方へと足を進めました。見た目の割には意外と、鈍臭い人ですよね。
しかし私には何故、彼女がここまで水分の摂取を勧めてくるのかはわかりません。もしかしたら遠回しに妖怪にも脱水症状みたいなものがあるんだと教えてくれているのかな。だとすれば、永久の寿命を持つ妖怪と言えどもまた、一つの生き物なんですね。
「ほらよ。まぁ飲めや」
コップを差し出してきた彼女の手の片割れには、何やら艶消しが施された銀色の缶が握られていました。それもよく見るとその缶にはかなりの水滴が付着しています。ーー何だろうあれ。
今日は雨が降っていたので野晒しにしていたのかとも思いましたが、どう考えてもここは室内です。わざわざコップに水を入れるついでに濡らしたとしたら、やっぱり変わってますよこの人。
「アタシにゃコイツがあるからよ」
すると轆轤首さん、何を思ったのかその水滴を滴らせた缶を私の顔目掛けてくっつけてきました。これにはせっかく私の顔に描き込まれたお化粧も、缶の水滴のせいで落ちちゃうかも知れません。ですが次の瞬間、私の頬っぺたにまたしても、これまで感じた事の無い感覚が呼び覚まされました。
「ひゃっ!」
それは何だか触れた箇所がなんかこう、ヒュッとした感じでした。痛くはない、けど思わず顔を顰めてしまう感覚と言えばいいのでしょうか。
しかも濡れた缶が頬っぺたに当たったせいで私の顔に水滴が付いちゃいましたしね。全く轆轤首さんったら何してくれてるんですか。
「もしかしたらって思ったけど、やっぱりお前にも感覚はあるんだな。ツクモノ、今の感覚は“レイカク”ってやつだよ」
「レイ……カク?」
顔に付いた水滴を仕方なく自分の着物の袖で拭っていると、轆轤首さんは得意げな表情を浮かべながらそんな事を言ってきました。何かを伝えたかったのなら普通に教えてくれればよかったのに。何でいきなり実行なんてするんでしょうか。
一先ず冷静になって彼女の話をまとめてみる事にしましょう。「れい」って言葉で考えられるのは冷たいって意味の冷、「かく」はおそらく感覚とかの事って所でしょうか。と、言う事はつまりーー。
「ーー今のが俗に言う『冷たい』って感覚ですか?」
「お、察しがいいなツクモノ。その通りだ」
なるほど彼女が伝えたかったのはこう言う事でしたか。にしてもこれが冷覚ーー。私は今、また一つ生を得た事を実感したような気がします。
一方で今手渡されたコップは、さっき感じた冷たさは感じませんでした。つまりはこのコップに入った水があまり冷たくないって事なのかな。
まぁ私としてはあの感覚がまだ慣れていないるので、これぐらいの温度丁度いいのかも知れません。それにこの水もせっかく手渡されたので、口に飲んでみる事にしましょう。
「あっ」
水を喉に通すや否や、体全体に水が地中深くに張る根の如く駆け巡っていく感覚が込み上げてきました。これまた目を見開いちゃうぐらいにびっくりする感覚ですね。
おそらくこれも私が水分どころか湿気すらも無縁の生活を送っていた為、体が水にびっくりしちゃったからだと思います。ちなみに味に関しては透明さが物語っている通り、すっきりとしていてとても飲みやすかったです。
正直今の所はそれ以外に特筆すべき感想はありません。強いて言うなら水漏れしないか心配なぐらいです。
それにしても今日と言う日は初体験が連続する一日でした。お婆ちゃんの死を知り轆轤首さんとの出会った、もうこれだけでも私からすればいっぱいいっぱいですのに。
だからきっと、今日と言う一日はこれからもずっと忘れる事が無いでしょう。
急に轆轤首さんの話し方が変になっちゃったのは、私が水を飲み終わってからしばらくした後の事でした。
彼女が手に持っていた銀色の缶は既に中身を失っているみたいで、傾いた角度からは中の液体が流れてくる事はありませんでしたが、頬を赤らめて胴体から離れた頭をカクンカクンさせながら彼女は言いました。
「けどよぉ……なんかなぁ……あれだよ」
「どうしたんですか? 轆轤首さん」
わけのわからない物言いに加えて私の問い掛けにも反応しない辺り、轆轤首さんの意識は朦朧としているみたいです。
伸びた首も不規則に唸っており、このままではこんがらがっちゃいそうで私も不安ですよ。一体彼女はどうしちゃったんでしょうか。
そうこうしている内に轆轤首さんは、遂に白い机に立て掛けた肘を倒してうつ伏せになってしまいました。
持っていた缶も中身が入っていなかったとは言え床に落ちてしまい、伸びていた首も同様に力尽きたのか、ドサッと音を立てて机に向かって落ちてきました。
目を瞑って笑みを浮かべた横顔を見るに彼女、どうやら眠ってしまったようですね。こんな所で寝ちゃったら風邪引いちゃいますよ。
しかしながら布団があれば掛けさせてあげたいのですが、辺りを見回してもそのようなものは全然見当たりません。まぁあった所で私の非力な力ではそれを持ってくる事も困難でしょうけど。
悩んだ挙句、私は自分が身に付けていた赤い着物を、彼女の肩に掛けてあげる事にしました。
私の着物なんて轆轤首さんから見れば明らかに小さいですが、如何せん無いよりかはマシです。それに私はまだ下に二枚着物を着ていますので脱いじゃっても大丈夫ですし。
早速帯を解いて上に纏っていた着物を脱ぐと、私は彼女の肩に自身の着物を乗せてあげました。サイズ的には轆轤首さんが華奢な事もあり、思っていたよりもピッタリですね。
これでとにかく一安心……って言うか襦袢姿だとこんなにも動きやすいんですか。私が動けるようになった事で実感出来る事柄は、これからもまだまだ見つかりそうです。
「なぁ……ツクモノ」
ふふふ、この人寝言言っちゃってますね。出来るだけ轆轤首さんの睡眠を妨げないように、私はお婆ちゃんを見ていた時と同様にじっと彼女を見つめてみました。
それにしても幸せそうな寝顔、私もこんな顔が出来るようになるのかな。そう思っていた矢先、ふと轆轤首さんの口からは予想外の発言がこぼれ落ちました。
「……会えて嬉しかったぜ」
やだ、何言ってるんですか轆轤首さん。それを言うのは寧ろ私の方ですよ。あなたが私を拾ってくれなきゃ私は今頃何処に居たのかすら見当もつきませんし。
だから先にそんな事言われては私、私ーー。
「あっ」
ふと視界が歪みました。そして頬に伝わる熱い水滴が流れてくるのもわかりました。
これってもしかしてーー。考える間も無く私は理解します。それが密かに待ち望んでいた涙と言うものである事を。
「だからあの時……水を飲めって言ってたんですか」
今日は朝から雨が強く、網戸もそれに同調するかのようにガタガタと震えていました。
この小さな家の主であり、私の持ち主でもあるお婆ちゃんは、最近何処かへ出掛けたっきり帰って来ていません。日を数えると三日間、私を置いて一体何処に出掛けちゃったんでしょうか。いつもなら数時間程で帰って来る筈なのに。
そんな事を考えていた矢先、彼らは重い鉄のドアを開けて家の中に入って来ました。それは見覚えの無い、茶髪で派手な格好のおばさんと背の高いおじさん達でした。
彼らは主人不在のこの家に、あたかも自分達が家の主人だと主張するが如く、ズカズカと入ってきました。そして手当たり次第に、私の近くにあった引き出しを開け閉めし始めました。
あの人達ってもしかして泥棒かなーー。この家の初めての来訪者と言う事もあり、私はドキドキしながら彼らの行動を見ちゃいました。
派手なおばさんはお婆ちゃんの指輪を引っ張り出してくる否や「これ高く売れるんじゃないの?」と背の高いおじさんに嬉しそうに話していました。
何言ってるの、それはお婆ちゃんがずっと大切にしてた指輪だよーー。そう言いたくても私は市松人形、声を出す事は出来ません。ただただ無力な自分が悔しかったです。
その後も彼らはお金や何か手帳のようなものを見つけては、「こんだけかよ」などと不満気に話していました。
お婆ちゃん、この人達は一体何者なんでしょうか。
金目になりそうなものを粗方探し終えると、次に二人はお婆ちゃんが使っていたものを物色し始めました。
「やっぱゴミばっかり溜め込んでんなぁ、あの婆さんは」
背の高いおじさんはそう言いながら、お婆ちゃんがよく私に見せてくれていた手芸キット、お婆ちゃんが使っていた孫の手も、何やらビニールで出来た袋に詰め込んでいきます。
あれが俗に言うゴミ袋と言うやつなんでしょうか。今までお婆ちゃんが大切に使っていた道具達を、奴は次々に喰らい始めました。
毎晩何かを書き留めていたノートに広告を挟み過ぎてパンパンに膨れ上がったクリアファイル。お婆ちゃんがよく飴玉を入れていた巾着袋などなど、数え始めたらキリがありません。
ですがこんなに食べても、彼はまだ食べ足りないようです。どれだけ食い意地が張っているのやら、全くものにも限度ってものがありますよ。
そしていよいよ二人は棚の上に飾られた私に目を付けました。
私が入っているガラスケースを引きずり下ろし、その中でバランスが保てずフラつく私をものともせず、派手なおばさんが放った第一声は「気持ち悪い、あの人も変な趣味してるわね」でした。
酷い、私だけならまだしもお婆ちゃんの事まで侮辱するなんて許せないーー。そう思った所で結果は変わらず、私はなす術なく机の上でお婆ちゃんのものが無くなっていくのを見ていました。
せめて動く事が出来たなら彼らを止められたかも知れないのにーー。もしもの想いが、私の中で溢れました。
そうこうしている内にお婆ちゃんの小さな部屋は、あっという間に引き出しと、棚にテレビと殺風景なものへと変わってしまいました。その端ではお婆ちゃんのものを殆ど飲み込んだゴミ袋が二つ、満足気に寝転がっています。ううっ、お婆ちゃんが大切にしていたものをいっぱい貪れてよかったですね。
「あとは隣の寝室にある布団を括れば、今日の所は一先ず終了だな」
背の高いおじさんが言いました。どうやらお婆ちゃんがこの人達はお婆ちゃんが帰ってくる前に、この家のものを全部を処分しちゃうみたいです。この家でお婆ちゃんが積み上げてきたもの全てを、消し去っちゃうみたいです。
私もう泣きそうになりました。無論涙なんて出ませんけど。
壁に飾ってあった時計の長い針が一周程した頃。隣の部屋のものの整理が終わったのか、また二人はこの部屋に帰って来ました。
どうせなら帰って来なくてよかったのにーー。そう思ったのも束の間、彼らはとんでもない事を言い出しました。
「この日本人形どうする? 状態は綺麗だけど今時こんなの欲しい物好きなんて居ないでしょ」
「そうだな……このマンションの近くにあるゴミステーションにでも捨てるか」
なんとこの人達、私の事を捨てるって言い始めたんです。持ち主でもないのに、捨てるって言い始めたんですよ。これが納得いくと思いますか。
ですが私が納得いかなくても結果は同じでした。どうやら本気でこの人達は、私の事を捨てるようです。早く帰って来てよお婆ちゃんーー。私にはそう願う事ぐらししか出来ませんでした。
外はさっきも言った通り、雨が降っていて風も強いです。それなのに背の高いおじさんは、私をガラスケースごと持ってそのまま家の外へと飛び出しました。走って飛び出したところを見るに、おじさんは極力雨に濡れるのを避けたかったんでしょうか。何せ私を持っている分、ただでさえ傘が持てないんですからね。
それなら派手なあのおばさんに、傘を持ってもらって相合傘でもすればよかったのにーー。でもおじさん一人で行かされる様を見ると、二人の仲もあまりよくはなかったのかな。
家の外に出るのは初めてでした。私は気付いた時からお婆ちゃんの家の中で飾られていて、外に出る機会も全く無かったからです。
外の世界には狭い部屋では想像も出来ない程に、広々とした景色が広がっていました。言っても家にいる時よりも単に広いと言うだけで、印象としては何か建物がいっぱい建ち並ぶ、活気を感じさせない薄暗そうなものですが。
こんな陰気な建物の中で私も暮らしていたのかと思うと、少し残念な気もしました。もしかすれば家が明るく感じていたのは、お婆ちゃんが居たからなのかも知れません。
「よいしょ、重かったぁ」
目的地に着いたおじさんは、この有を感じさせない無機質な敷居の中に私を置きました。周りにはお婆ちゃんのものが入ったものとはまた違ったゴミ袋達が、自分達の運命を悟っているかのように佇んでいます。
彼らの仲間に私も入ってしまうんですね。どうしてお婆ちゃんは助けてくれないのでしょうか。
おじさんが去った後、私は考えました。降り注ぐ雨の中、ガラスケースに雫が滴り落ちる、新鮮だけどつまらない景色。どうせならこんな景色じゃなくて、テレビ越しでしか見た事がなかった、あの晴れた青空が見たかったなぁって。
お婆ちゃんは私をとても大事にしてくれていた事もあり、私は日光を遮断された生活を送っていました。勿論日光には着物の色が褪せたり、その色が私に移っちゃったりと、私にとっていい事がこれっぽっちもないぐらいわかっています。だけど一度だけ、一度だけでもいいから、私はお日様の顔を見てみたかったーー。
そして夜になりました。雨は既に止んでおり、この無機質な敷居にも人工的な光が灯されました。そのチカチカと鬱陶しいぐらいに点滅する光は、周囲の暗黒を私に見せしめるには十分でした。
怖い、私はその時初めて恐怖心と言うものを抱きました。いつもお婆ちゃんは寝る前に私に、「おやすみ」と言って隣の部屋へと向かっていたので、これまでこんな感覚は感じた事も無かったのです。本当の孤独って、こんなにも辛いものなんですか。
あまりの寂しさに、思わず私も蹲りたくなりました。しかしその細やかな想いすらも、動かない私の体は冷たくそれを阻みました。
もう誰も助けに来ないんだーー。絶望に飲まれて、私が感情を失いかけた次の瞬間でした。
私の頭上の上からまたしても聞き覚えの無い声が、背丈の高い靴を履いた足を私の視界いっぱいに映して聴こえてきたのです。
「おっ、珍しいな。今時市松人形がゴミステーションに捨てられてるなんて」
そんなダイレクトに言わなくてもいいんじゃありませんか? 既に捨てられた事を自覚しかけていた私に追い打ちをかけるが如く、その人は鼻で笑いながら言ってきました。
しかしながら助けが来ないのもまた事実、その人が言っている事にはぐうの音も出ません……これ笑う所ですよ。だって私市松人形ですもの、喋れるわけないじゃないですか。
その人は私の入ったガラスケースを持ち上げると、私の顔をじっと見て黙り込んでしまいました。
何か私に付いてるの? そんな事を思い浮かべてその人の顔を私も見つめ返します。声で大体予想は出来ていましたが、この方は女性の方でした。
シュッとした鼻に少し日に焼けた茶色い肌、顔付きは美人な日本人なのですが、髪の毛の色はなんと金色。こんな人ドラマでしか見た事ありません。如何にも不良って感じです。
「わりかし可愛い顔してんじゃん。このお人形ちゃんは」
今朝から罵倒を浴びせられて、少し自信を失いかけていた私の容姿を彼女は褒めてくれました。何だかお婆ちゃんと話してるみたいーー。どうやら私は、この女性とお婆ちゃんを重ねてしまってるようです。
出来る事ならお婆ちゃんが帰って来るまでの間、この人の家で暮らしてみたいなぁーー。そう思えてしまうのも、私の心がよっぽど孤独から遠ざかりたかったからなんですかね。
「よしっ! 今日からお前はアタシが面倒を見てやるからな」
あたかもこの人は、私の心を見透かしているみたいに言い放ちました。私の事を褒めてくれるだけじゃなく、家にまで置いておいてくれるなんて、この人は仏か何かでしょうか。
この時私は心の底から安堵しました。自分はお婆ちゃんが帰って来るまでの期間、私を大切にしてくれそうな人の家に留まれる事に。
そして願いました、お利口さんにしてるから早く帰ってきてね、と。
*
この人の家はお婆ちゃんの家の真上である三階にありました。なんて言うかその、ケンエイジュウタクとか言うらしいのですが、私にはその辺の事はサッパリわかりません。要するに人の住む場所と言うのは様々なようですね。
私の入ったケースを抱きながら、彼女は重い鉄の扉を開けて家の中へと入りました。そして私はこの時彼女が思っていた以上に綺麗好きである事を、光が灯った部屋を見て理解しました。
しっかりと整頓された本棚には、彼女が大切にしているであろう図鑑の数々。それもお花や植物などのものだけではなく、よく見ると妖怪大百科なるものも沢山見受けられます。
テレビのすぐ前には小さな白い机が置いてあり、その真ん中にはテレビと空調設備のリモコンがキッチリと並べられていました。
こんな今風な家に私なんかを飾って、本当に大丈夫なのでしょうか。どうかすぐには捨てないで下さいね。
「ぬああああ重いいいいッ!」
そんな彼女も私のケースの重さに疲れたのか、とうとう私をその小さな机に勢いよく置いてしまいました。
ガタッ、ガラスケースの中で傾いてしまう私。思っていたよりも強い振動のせいで、私の髪の毛も大きく乱れてしまっているようです。でもその華奢な腕でよくここまで運んできてくれましたよ、お疲れ様ですお姉さん。
「ああっ!? ゴメンゴメン、すぐに直してやるからな」
気の利いたセリフと共にお姉さんは、私の入ったガラスケースの蓋を開けて私の体勢を直そうとしてくれています……。ですがこの出来事こそ、私の運命を大きく変えるきっかけとなりました。
お姉さんが私の体に触れた途端、私は彼女から得体の知れない何かが流れ込んで来るのを感じたのです。脈をうちながら、ドクンドクンと流れ出てくる謎のエネルギー。その膨大とも言える力が私の中に駆け巡ると、やがて私は、手と足や心全てが繋がったような感覚に襲われました。
「わあっ!?」
一瞬誰の声かわかりませんでした。
初めこそお姉さんの声かなと思いましたが、この幼い感じの声は明らかにお姉さんのものではありません。それに部屋に誰かが居るにしても、こんな市松人形の傾きを直すだけで誰が驚くのでしょうか。
実はこの声、なんと私から発せられたものでした。
「えっ……お前喋れんのか?」
驚くのも無理はありません。何せ当の本人である私ですら、この現状を把握しきれていないと言うのに。今私に触れただけのこの人が、現状を理解するなど出来る筈がありませんでした。
「あ……私……声が出てるの……?」
試しに意識して声を出してみると、ちゃんとハッキリ私の声が出ています。それもさっきと同様の、幼さを漂わせるあの声がね。更に声を出せる事と同時に理解したのが、発声と一緒に口も動いていると言う事です。
つまりはそれらが何を意味しているかと言うとーー。どうやら私、動くみたいです。
「そう、みたいですね。アハハ……」
お姉さんは口を大きく開いたまま私の顔を、またしてもジッと見つめていました。
当然の反応ですよ。私が逆の立場だとしたら絶対にこんな人形外へ放り出すでしょうからね。寧ろこれで感情を相手に伝えられる、なんて一瞬でも思ってしまった自分の方が恥ずかしいです。
案の定お姉さんは、ガラスケースに入ったままの私をケースから取り出しました。そして終いには私の体を、高らかに天井へと掲げました。
どうせ地面に叩きつけられるんだろうな、せっかく生ーーと言っていいのかもわかりませんがーーを受けたのに。出る筈のない涙を、私は心の何処かで期待していました。
「うおおおおおおッ!!」
するとお姉さん、何を思ったのか私を物凄い勢いで振り下ろしました。これがまた怖いのなんの。テレビで見た恐怖のジェットコースターってやつを、そのまま実感しているかのようでした。それでも尚、この人は私を遠くへ放り投げない。一体彼女は何を考えるんでしょうね。
ううっ、目が回り過ぎで喉の奥から何かが込み上げてきそうです。
「やめて下さいやめて下さいやめて下さい!」
私は必死に訴えかけました。これまでに体験した事の無い躍動感に、私の体は耐えきれなかったからです。動く事を確認した腕を、パタパタと振りながら命乞いをする。もはや側から見れば滑稽とも言えるその姿は、自分でも情けなく思えましたよ。
「あっ、悪りぃ悪りぃ」
ようやく私の呼び掛けに応じてくれたのか、お姉さんは私を振り回す事を止めてくれました。
助かったーー。一時の休息に胸をホッと撫で下ろしていると、次に彼女がとんでもない事を言い放ちました。それは思わず、私も耳を疑ってしまうとんでもないものでした。
「久しぶりに妖怪に出会えて嬉しかったんだ」
「……へぇ?」
「実はアタシも……妖怪なんだよ」
そう言うとお姉さんは、ニンマリとした表情を浮かべました。どうしたんだろうーー。すると私を手に持ったまま彼女は、あろう事か自身の首を伸ばし始めたではありませんか。
これには流石の私も、大声を上げて全身を震わせてしまいました。このお姉さん、人間じゃなかったんです。
「ウギャァァァァァァァッ!!」
再び手をパタパタとさせて、お姉さんの腕の中で私はもがきました。逃げなきゃ彼女に食べられてしまうかも知れないーー。その一心からです。
しかし私の体格が小さかった事もあり、敢え無く敗北。そのまま机の上に、ちょこんと座らされてしまいました。
「何も驚くこたぁねぇだろ。お前も似たようなもんだぜ、動いて喋る市松人形とかさ」
「そ、そうですよね……ごめんなさい」
何とか落ち着きを取り戻した私は、彼女の言葉に一つ一つ耳を傾けてみました。
よくよく考えてみれば、彼女の言う通りなのかもしれません。人形の私が動いたんですから、人の首が伸びてもおかしくは、おかしくは、ありますよ、やっぱり。
それから私達は、自然とお互いの話をしました。
彼女の名前は轆轤首と言うらしく、人間達がいっぱい住んでいるこの町に一人、妖怪として自由気ままに暮らしているらしいです。それもどのくらいこの町に暮らしているのかと言うと、驚くでなかれ約二百年なんです。言わば、私の妖怪大先輩ですね。
因みに妖怪は、人間よりも長い事生きるらしいです。なので住居の方も、しっかり転々としているようですよ。それにしてもーー。
「ーーお婆ちゃんが三日前に亡くなっていたなんて…………」
まさに私の中の話題はそれで持ちきりでした。
轆轤首さんが言うには、お婆ちゃんは出掛け先の病院で亡くなったそうです。だから今日お婆ちゃんの家に来ていた怪しい二人組も、連絡が途絶えていたお婆ちゃんの子供さん達との事でした。彼らの目的はあくまでも、お婆ちゃんの遺品整理だったらしいです。
けれどあれは見るからに、遺品整理と言う名の窃盗ですよね。ああ言う時に限って、御子息面するのはどうかと思います。
「けどな市松人形ちゃん、今回の件でよくわかっただろ。別れってのは妖怪になっちまった以上、必然的に経験するものなんだよ。何せ妖怪には寿命がねぇからな」
そんな事わざわざ言わなくたって、お婆ちゃんの先があまり長くなかった事ぐらいわかってますよ。何故なら大好きなテレビを見ている時、得意の手芸をしている時、時たま苦しそうな咳をしていたんですからね。
だけど私は認めたくありませんでした。お婆ちゃんがこのまま居なくなってしまえば私と言う存在が、お婆ちゃんの子供さん達が言う、ゴミと同じになってしまう事を。これも定めと言うやつなんでしょうか。
もう少しだけでも長くは生きてくれなかったのかなーー。話を聞いて芽生えてしまったその感情に、私は自分の事ながらも怒りを覚えました。どうして私はこうも自分勝手な事を考えてしまうのかなって。これじゃあ根本的に、あの子供さん達と考え方が同じじゃないかって。
「問題はな、その経験を如何にお前が耐え忍ぶかって事だ。それが出来なきゃお前はずっと、精神的な破滅へと突き進んじまう」
確かに轆轤首さんの言う通りです。私はもうただの市松人形ではありません。妖怪として生まれ変わった、動く市松人形なのです。人と関わる道を選べば当然付きまとってくる別れーー。これを耐えずして、私はこれからの一生どう生きていくのでしょうか。
だとしたらお婆ちゃんとの別れこそ私が、妖怪として生きていく為の通過点だと考えるべきなのです。彼女の言葉は伊達に長い事生きてきただけはあり、それを私に気付かせるには十分でした。
「ま、市松人形ちゃんはまだまだこれからだしな、取り敢えずは落ち込み過ぎるなって事よ。にしても市松人形ちゃんって呼びにくいなぁ」
それは私も同じ意見ですよ。彼女の話題の変え方も急だとは思いますが考えてもみてください。市松人形ちゃんってそのまんま過ぎませんか。なんならせめてここに住んでる間だけでも名前を付けて呼んで欲しいですよ。
なので私は、その胸を轆轤首さんに打ち明けてみる事にしました。
「だったらその……轆轤首さん! よろしければ私の新しい名前、考えて頂けないでしょうか?」
「おっ、いいじゃん。腕が鳴るぜ!」
私はテレビやお婆ちゃんの独り言をよく聞いていたので、難しい言葉もそれなりにわかっているつもりです。でも言葉をよく知っているからと言って、名前を付けるセンスがあるのかと言うと、それはそれで黙り込んじゃいます。しかも私は、お婆ちゃんから「お人形さん」としか呼ばれた事がなかったので尚更です。
ああ神様、私に生をお与え下さったのでしたら、ついでにネーミングセンスと言うものもくださればよかったのに。まぁ轆轤首さん、意外にも名前を付けるのにはノリノリですので、命名は彼女に任せる事にしましょう。
いい名前、期待していますね。
ですがその話題は、いつの間にか私が何の妖怪なのかと言う話題に流されちゃいました。まぁ名前はパッと決められる物でも無いですし構いませんけど。ーーこの人は物忘れしやすい人なのかな。
「しっかしツクモガミにしてはお前は日が浅いもんな。それに今時市松人形なんかへ取り憑く霊もいねぇだろうし」
本棚に飾ってあった妖怪図鑑なるものを開いて、轆轤首さんはそんな事を言っていました。
さり気なく私の事を貶しているようにも思えますが、ここは気にせず彼女の見解を聞いてみる事にします。と言うか彼女程長生きしているのであれば、普通私によく似た妖怪も知っているんじゃないのでしょうか。だとしたら彼女、物忘れが激しいってレベルじゃないですよ。
「あの……。ツクモガミって何ですか?」
そもそも私は妖怪の事に関しては無知なので、一先ず轆轤首さんにツクモガミが何なのかを聞いてみる事にしました。とは言っても彼女は人間の妄想記録帳のような妖怪図鑑に縋っているぐらいなので、あまり期待は出来そうにありませんけどね。
すると轆轤首は本のページをパタリと閉め、ツクモガミに関して説明をしてくれました。どうやらそれについてはしっかりと覚えていたみたいです。
「付喪神ってのはだな、百年以上使われた道具が意思を持つ事で生まれる妖怪さ。唐傘小僧とかカマナリとかがその部類だぜ」
後者の唐傘小僧についてはテレビで知ってはいますが、カマナリぐらいになるともう専門寄りになっちゃって私には全然わかりません。
つまりは百年以上経たなければその付喪神ではない、って理解でいいですよね。またあんまり聞いちゃうと、轆轤首も困ってしまいそうなんでやめておく事にします。
「そこでアタシは考えた! お前の名前は一番可能性としてある付喪神から捩った“ツクモ”ってのが一番妥当だろうが、もしお前が人形に憑依した霊だった時の保険も兼ねて……“ツクモノ”って名前はどうだ?」
そこでそう来ましたか。私の正体を調べていただけでなく、しっかりと名前も考えくれていたとは……やはりこの人は抜け目無い。しかも「付喪神」と「憑く者」を掛けてるんですよこの名前は。これには私も感服のあまり脱帽です。
忘れっぽい人とか思っちゃってごめんなさい。
「いいじゃないですか“ツクモノ”! 最高の名前ですよ!」
予想以上の出来の良い名前に私も興奮してしまい、もう頭の中がこれ以上にない幸福で満ち満ちていました。
ツクモノ、ツクモノーー。あぁ、何度言っても素晴らしい名前ですね。私の名前を考えてくださってありがとうございます、轆轤首さん。
「じゃあ早速だけどツクモノ、お前腹減ってねぇか?」
「お腹……ですか?」
何だか轆轤首さんの気迫に押されてしまって私の声が縮こまっちゃってますが、彼女の問い掛けを私は鸚鵡返ししました。
妖怪になったばかりの私ではありますが、実は空腹と言うものは感じてませんでした。妖怪も生き物であれば空腹を感じるのは無理もないのかも知れません。
ですが第一、私の体はゴムっぽい手足以外は、何だか硬い素材で出来ています。それらがどう言った原理で動いているのかすらも不思議なくらいなのに、私は物を食べても大丈夫なのでしょうか。
「いやぁお前の体は見た所だな、昔の市松人形みたいに木や布では出来ちゃいないだろうからさ。食べる事は大丈夫なんじゃねぇかなって」
何たるアバウト過ぎる見解ーー。何を根拠にそんな事を言えるのやら。「大丈夫なんじゃねぇかな」で適当に済ませている辺り、これから先この人について行くのは結構勇気が必要だったりするのかな。ーーそう思うと私、やっぱり不安です。
「他の付喪神の方も食事は取られるんですか?」
私は一応、他の付喪神の方が食事を取られるかどうかを訊ねてみました。仮にもし、下手に食事を取って私の体に異常を来しては元も子もありませんからね。でも彼女から帰って来た回答は、私が期待していたものとは随分と違うものでした。
「知らねぇよ。だってアタシさ、四百年ぐらい生きてるけど付喪神どころかお前以外の妖怪とは数回程しか会った事ねぇんだから」
「なッ!?」
もうびっくりしました。私よりも何百倍と生きている轆轤首さんですら、自分以外の妖怪とは数えられるぐらいしか会った事が無いと仰ってるんですよ。となると私が他の妖怪の方と出会うのも、もしかすればまだまだ遠い未来の事なのかも知れません。
妖怪って案外人見知りの方が多いのかなーー。謎は深まるばかりです。
「まぁもしもん時の為に水ぐらいは飲んどけよ。きっと損はさせねぇから」
「はぁ」
そう言って轆轤首さんは、床に置いたままの妖怪図鑑に足を躓《つまづ》かせながらも台所の方へと足を進めました。見た目の割には意外と、鈍臭い人ですよね。
しかし私には何故、彼女がここまで水分の摂取を勧めてくるのかはわかりません。もしかしたら遠回しに妖怪にも脱水症状みたいなものがあるんだと教えてくれているのかな。だとすれば、永久の寿命を持つ妖怪と言えどもまた、一つの生き物なんですね。
「ほらよ。まぁ飲めや」
コップを差し出してきた彼女の手の片割れには、何やら艶消しが施された銀色の缶が握られていました。それもよく見るとその缶にはかなりの水滴が付着しています。ーー何だろうあれ。
今日は雨が降っていたので野晒しにしていたのかとも思いましたが、どう考えてもここは室内です。わざわざコップに水を入れるついでに濡らしたとしたら、やっぱり変わってますよこの人。
「アタシにゃコイツがあるからよ」
すると轆轤首さん、何を思ったのかその水滴を滴らせた缶を私の顔目掛けてくっつけてきました。これにはせっかく私の顔に描き込まれたお化粧も、缶の水滴のせいで落ちちゃうかも知れません。ですが次の瞬間、私の頬っぺたにまたしても、これまで感じた事の無い感覚が呼び覚まされました。
「ひゃっ!」
それは何だか触れた箇所がなんかこう、ヒュッとした感じでした。痛くはない、けど思わず顔を顰めてしまう感覚と言えばいいのでしょうか。
しかも濡れた缶が頬っぺたに当たったせいで私の顔に水滴が付いちゃいましたしね。全く轆轤首さんったら何してくれてるんですか。
「もしかしたらって思ったけど、やっぱりお前にも感覚はあるんだな。ツクモノ、今の感覚は“レイカク”ってやつだよ」
「レイ……カク?」
顔に付いた水滴を仕方なく自分の着物の袖で拭っていると、轆轤首さんは得意げな表情を浮かべながらそんな事を言ってきました。何かを伝えたかったのなら普通に教えてくれればよかったのに。何でいきなり実行なんてするんでしょうか。
一先ず冷静になって彼女の話をまとめてみる事にしましょう。「れい」って言葉で考えられるのは冷たいって意味の冷、「かく」はおそらく感覚とかの事って所でしょうか。と、言う事はつまりーー。
「ーー今のが俗に言う『冷たい』って感覚ですか?」
「お、察しがいいなツクモノ。その通りだ」
なるほど彼女が伝えたかったのはこう言う事でしたか。にしてもこれが冷覚ーー。私は今、また一つ生を得た事を実感したような気がします。
一方で今手渡されたコップは、さっき感じた冷たさは感じませんでした。つまりはこのコップに入った水があまり冷たくないって事なのかな。
まぁ私としてはあの感覚がまだ慣れていないるので、これぐらいの温度丁度いいのかも知れません。それにこの水もせっかく手渡されたので、口に飲んでみる事にしましょう。
「あっ」
水を喉に通すや否や、体全体に水が地中深くに張る根の如く駆け巡っていく感覚が込み上げてきました。これまた目を見開いちゃうぐらいにびっくりする感覚ですね。
おそらくこれも私が水分どころか湿気すらも無縁の生活を送っていた為、体が水にびっくりしちゃったからだと思います。ちなみに味に関しては透明さが物語っている通り、すっきりとしていてとても飲みやすかったです。
正直今の所はそれ以外に特筆すべき感想はありません。強いて言うなら水漏れしないか心配なぐらいです。
それにしても今日と言う日は初体験が連続する一日でした。お婆ちゃんの死を知り轆轤首さんとの出会った、もうこれだけでも私からすればいっぱいいっぱいですのに。
だからきっと、今日と言う一日はこれからもずっと忘れる事が無いでしょう。
急に轆轤首さんの話し方が変になっちゃったのは、私が水を飲み終わってからしばらくした後の事でした。
彼女が手に持っていた銀色の缶は既に中身を失っているみたいで、傾いた角度からは中の液体が流れてくる事はありませんでしたが、頬を赤らめて胴体から離れた頭をカクンカクンさせながら彼女は言いました。
「けどよぉ……なんかなぁ……あれだよ」
「どうしたんですか? 轆轤首さん」
わけのわからない物言いに加えて私の問い掛けにも反応しない辺り、轆轤首さんの意識は朦朧としているみたいです。
伸びた首も不規則に唸っており、このままではこんがらがっちゃいそうで私も不安ですよ。一体彼女はどうしちゃったんでしょうか。
そうこうしている内に轆轤首さんは、遂に白い机に立て掛けた肘を倒してうつ伏せになってしまいました。
持っていた缶も中身が入っていなかったとは言え床に落ちてしまい、伸びていた首も同様に力尽きたのか、ドサッと音を立てて机に向かって落ちてきました。
目を瞑って笑みを浮かべた横顔を見るに彼女、どうやら眠ってしまったようですね。こんな所で寝ちゃったら風邪引いちゃいますよ。
しかしながら布団があれば掛けさせてあげたいのですが、辺りを見回してもそのようなものは全然見当たりません。まぁあった所で私の非力な力ではそれを持ってくる事も困難でしょうけど。
悩んだ挙句、私は自分が身に付けていた赤い着物を、彼女の肩に掛けてあげる事にしました。
私の着物なんて轆轤首さんから見れば明らかに小さいですが、如何せん無いよりかはマシです。それに私はまだ下に二枚着物を着ていますので脱いじゃっても大丈夫ですし。
早速帯を解いて上に纏っていた着物を脱ぐと、私は彼女の肩に自身の着物を乗せてあげました。サイズ的には轆轤首さんが華奢な事もあり、思っていたよりもピッタリですね。
これでとにかく一安心……って言うか襦袢姿だとこんなにも動きやすいんですか。私が動けるようになった事で実感出来る事柄は、これからもまだまだ見つかりそうです。
「なぁ……ツクモノ」
ふふふ、この人寝言言っちゃってますね。出来るだけ轆轤首さんの睡眠を妨げないように、私はお婆ちゃんを見ていた時と同様にじっと彼女を見つめてみました。
それにしても幸せそうな寝顔、私もこんな顔が出来るようになるのかな。そう思っていた矢先、ふと轆轤首さんの口からは予想外の発言がこぼれ落ちました。
「……会えて嬉しかったぜ」
やだ、何言ってるんですか轆轤首さん。それを言うのは寧ろ私の方ですよ。あなたが私を拾ってくれなきゃ私は今頃何処に居たのかすら見当もつきませんし。
だから先にそんな事言われては私、私ーー。
「あっ」
ふと視界が歪みました。そして頬に伝わる熱い水滴が流れてくるのもわかりました。
これってもしかしてーー。考える間も無く私は理解します。それが密かに待ち望んでいた涙と言うものである事を。
「だからあの時……水を飲めって言ってたんですか」
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