雨はやさしく嘘をつく 第二部

黒崎優依音

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第七章 赦しと再生

Hand in Hand into the Deep

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sideミスティアス



遺跡の中心。

ネルの気配が再び濃くなり始めていた。

黒い光が天井を舐めるように走り、崩れた壁の隙間から低い唸りが響いた。



「……諦めてはくれないみたいですね」

シェイが眉を寄せて呟く。



スティリオが額の汗を拭いながら報告する。



「闇の魔力が遺跡全体に再拡散しています。

 放置すれば、再封印どころか――遺跡そのものが呑まれます」



「ネル……まだ、あの中にいるんだ」

ミスティアスが拳を握る。

封印陣の中心には、闇が渦を巻いていた。

光でも闇でもない、“意志”のようなものが蠢いている。



「……どうやって、そこに行く?」

ルアルクの問いに、誰も答えられない。

シェイですら、じっと見つめて考え込んでいた。



封印陣の奥――そこは、もう現実ではない。



沈黙を破ったのは、セレスだった。



彼女は静かに一歩前に出て、手を上げる。



「……私なら、多分、できると思います」



ルアルクが目を上げる。



「どういう意味かな」



「私の魔力は“温度”を操るものです。

 それはつまり、物質の運動――分子の境界を操るということ。

 形あるものを、一時的に“溶かして”魔力に同化させられます。

 もしその原理を、魂の層まで拡張できれば――

 ……あの中に入れるかもしれません」



その場の空気が一瞬で凍った。

言葉の意味を理解した誰もが、息を詰める。



「……危険すぎます」

スティリオが真っ先に声を上げた。

「精神層に干渉するなんて、戻れなくなるかもしれない。」



「わかっています。

 でも、行かなければ終わらない」



セレスの瞳が揺るぎなく光っている。

その横に、ミスティアスが静かに歩み寄った。



「なら、俺も行く」

『オレもさすがに着いてはいけねぇ。

 お前本当に大丈夫か?』



「ミスティアス!」

ルアルクの制止が飛ぶ。

だが、彼は首を横に振った。



「セレスを一人では行かせない。

 父さんが命を懸けて守った人を――今度は俺が守る番だ」





その言葉に、ルアルクが小さく息を飲んだ。





セレスが振り返り、微笑む。



「なら、一緒に行きましょう」



二人が並んで封印陣の中心に立つ。

互いに手を取り合い、視線を交わした。

淡い光が指先から流れ込み、

二人の輪郭が溶け合うように霞み始める。



「セレス、もし戻れなかったら――」

「戻るわ。あなたが一緒なら」



その瞬間、遺跡全体が閃光に包まれた。

光の中で、二人の姿がゆっくりと霧の奥へ溶けていく。



「――ミスティアス! セレス!」

フィリアの声が響く。

だが、返事はもう聞こえなかった。



白い光と黒い闇が交わる場所。

二人の意識は、深い深い精神の底へと沈んでいった――。









――落ちていく。



感覚の輪郭がほどけていくような、静かな落下だった。

風はない。

ただ、耳の奥で自分の鼓動が遠くに響いている。



(……どこだ、ここは)



目を開けると、そこは光でも闇でもない場所。

空と地面の境がなく、すべてが淡い灰に溶けている。

空気はぬるく、息をしているのかさえ曖昧だった。



隣に視線をやる。

セレスがいた。

身体の輪郭がぼやけ、髪が光の粒に溶けかけている。



「セレス!」



手を伸ばすと、彼女の指先が確かに触れた。

触れた瞬間、ふたりの魔力が微かに交わる。

熱いのに、冷たい。

重なり合った温度が、まるで“世界の形”を探しているようだった。



「……ここが、ネルの精神世界……?」

セレスの声が微かに震える。



ミスティアスは頷き、辺りを見渡す。

どこまでも同じ景色。

だが、その奥で――何かが蠢いていた。



靄の向こうに、影が見える。

人の形をしているが、輪郭が定まらない。



「――っ」

セレスが息を呑んだ。



影がゆっくりとこちらを向く。

その瞳の位置に、ぽっかりと穴のような闇が開いていた。

そこから、声が響く。



『……どうして来たの』



まるで幼子のような、掠れた声。

だがその奥に、果てしない歳月が滲んでいた。



「ネル……?」



『来なくてよかったのに。

 ここは、もう“終わった場所”だ』



声が近づくたびに、景色がゆがむ。

空が波打ち、足元の大地が液体のようにうねった。

重力も、温度も、すべてが変動する。



セレスが眉を寄せ、魔力を広げた。

空気が一瞬で凍りつき、揺らいだ空間がわずかに安定する。



「……安定させます。少しの間だけ」

「ありがとう」



ミスティアスは足を前に出す。

沈みそうな“床”に、意志で重さを与えるように一歩一歩踏みしめた。



「ネル。

 あなたが閉じこもったままじゃ、父さんも世界も前に進めない。

 ……だから、俺が行く」



影が笑った。

それは嗤うでも、泣くでもない、虚ろな音だった。



『君も同じさ。

 失うのが怖いから、守るんだろう?

 君の“守り”も、僕と同じで壊れるよ』



「違う」

ミスティアスは即座に言い返した。

その声に、黒い世界が一瞬だけ明滅する。



「俺は、守ることで生きる。

 誰かを傷つけてまで守る“永遠”なんて、いらない!」



言葉が光となって走る。

セレスが隣で両手を広げ、赤と青まざった魔力を放つ。

その光がミスティアスの黒を包み、二人の魔力が重なって、灰色の世界に“色”が戻っていく。



風が吹いた。

初めて感じる、世界の“呼吸”。

ネルの影が揺らぎ、ふっとその場に膝をついた。



『……そんな温度、知らない。

 どうして、まだそんな光を持っていられるの……?』



「知らなかったら、見にくればいい。

 お前が閉じてる世界の外に、それはある」



ミスティアスの言葉に、ネルの影がわずかに動いた。

その周囲に、砕けた記憶の欠片が漂い始める。



――一人の少女の笑顔。

――誰かを抱きしめる青年の手。

――雨の音、白い花、名前を呼ぶ声。



セレスが息を呑む。

「……これ、彼の記憶……?」



「ああ。

 たぶん、これが“彼が見た世界”だ」



その瞬間、エルの魔力が現実世界で反応する。

遠くで光が走り、

“ノアの記憶”が解き放たれようとしていた――。





「さぁ、帰――っ!?」

帰ろうと言おうとした瞬間、セレスの輪郭が崩れる。



本能的に理解した。

このままでは、生きて帰れない。



「……魔力、使い過ぎちゃったのかな」



綺麗だ、と場違いにも思った。

それほどに、見惚れるような笑顔だった。



「大丈夫。あなただけはちゃんと帰す」

「大丈夫なわけ、ないだろ!」



彼女を抱きしめ、祈るような気持ちで全身から魔力を注ぐ。

ここが精神世界だからか、魔力の受け渡しの隔たりがほとんど感じられない。

溶けていきそうな輪郭を、しっかり保つように腕に力を込めた。

いつもは混ざり、曖昧になる境界を――

今は、はっきりと意識して。



「簡単に諦めるな。

 いつも言っているだろ、魔力は腐るほどあるんだ」

「……うん。

 ちょうだい、あなたの魔力」

「ああ。俺から持って行けるものは、全部持っていけ」



赤。

青。

黒。

白。



さまざまな色が混ざり合い、溶け合い、

ゆっくりと景色が変わっていく。



短くなったセレスの髪が、光の粒を散らしながら風に揺れた。

銀の髪飾りが淡く光り、

その光が、まるで現実への道を示すように空へ伸びていく。



「見える? 出口よ」

「ああ……!」



二人の身体が光に包まれる。

意識が引き戻されるような衝撃が走り、同時に足元が抜け落ちた。



「離すな!」

「離しません!」



最後の瞬間まで、互いの手を離さずに――

二人は、崩壊する世界から現実へと弾き出された。









白い光が、ゆっくりと静まっていった。

世界が収束し、遺跡の冷たい空気が戻ってくる。



光の中心――そこに、二人がいた。



セレスは床に横たわっていて、その腕の中にミスティアスが抱きしめるように倒れていた。

お互いに無意識のまま、指先はしっかり絡んだまま離れていない。



「……ちゃんと、息してる」

ルアルクがそう呟き、ほっと息をつく。



スティリオが膝をつき、診察の準備を始める。

「外傷は……なし。魔力の流出も停止しています。あとは――」



「――っ」

ミスティアスの指がぴくりと動いた。

セレスの髪にかかった光が揺れる。



ゆっくりと目を開けた彼は、まだぼんやりとした視界の中で言葉を探した。



「……帰れた、のか」

「ええ。あなたが、帰してくれたのよ」



穏やかに答えるセレス。

けれど、彼の腕はまだ強く彼女を抱きしめたままだった。



「……あの、そろそろ離して」

「えっ、あ、ご、ごめん!!」



慌てて離れようとして――そのまま二人してバランスを崩し、床にごろんと転がる。

「痛っ!」

「ちょ、何してるの……!」



『また一段とくっついて帰ってきたな!

 あっちの世界でなにしてたんだ、色男!』

「……うるさい!」



遺跡内に、小さな笑い声がこぼれた。



フィリアは真っ赤になって両手で顔を覆い、エルは耳まで赤くして肩を震わせている。

「な、なんか見ちゃいけないものを見た気がしますっ!」

「うん、たぶん、うん……!」



その様子を見て、シェイがくすっと笑った。

「いやぁ……親の前なんだよねぇ、一応」



ミスティアスが「うわぁぁぁ!」と悲鳴を上げ、

セレスは耳まで真っ赤になって俯く。



ルアルクが目を細めて、肩をすくめた。

「……まあ、生きて帰ってきた証拠だね」





sideシェイ



安堵の笑いが広がる。



その時、遺跡の隅の闇が一段、濃くなった。



黒い霧のような残滓が集まり、人の形を成した。

ネルだった。



顔色は蒼白で、肉体というよりは“影の名残”だった。

それでも、その瞳だけは鮮やかに光っている。



シェイが一歩前に出た。

その背に、家族を、大切な人を庇うように。



シェイが静かに問いかける。



「君、もしかしなくても僕と同族だよね。

 ……いったい、いくつなんです?」



ネルの唇が歪んだ。



「さあ、もう数えるのはやめたよ。

 シェイフィル、君ならわかるだろう?

 永遠を数えたって、何も変わらない。

 ……ただ、“観察”だけが残った」



その目はどこも見ていないのに、何かを凝視していた。



「君の父が掲げた“理想の旗”は——滑稽なくらいまばゆかった。

 そして君は、その旗のもとで孤独に立ち続けると思っていた。

 ……まさか、家族なんて旗に手を伸ばすとはね」



その声には怒りも嘲りもない。

ただ“理解不能なものを観測した科学者”のような静けさがあった。



シェイは黙ってその言葉を受ける。



「さすがだよ、シェイフィル。

 最期まで人を信じて、僕を庇う。

 だからこそ——君を裏切る価値がある」



瞳の奥が一瞬、狂気に染まる。

それは憎しみでも悪意でもなく、

ただ“永遠を観察する者”の目だった。



「僕が作る“新しい世界”には、君の理想は要らない。

 でも……その滅び方だけは、美しいと思うよ」



ネルの身体が崩れかけながらも、笑っていた。

その笑いが、どこか涙のように震えている。



「……君を裏切れたあの日だけが、僕の生だった」



その言葉を残して、

ネルの影がふっと光に溶けた。

だが――彼の気配だけは消えなかった。



残滓が空中で弾け、遺跡全体に光が広がる。

その光はエルの胸の魔力と呼応して、“ノアの記憶”を映し出し始めた。



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