砂漠の覇王と折れた銀剣 〜七年待ち続けた王と、感覚を失った剣〜【完結】

Rio

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本編

第十八話「砂の子」

 ナイアは族長のことを知っていた。集落の誰よりも。

 みんなは族長を「覇王」と呼ぶ。戦士たちは「族長」と呼ぶ。ラシードだけが名前で呼ぶことがある。低い声で、二人きりの時に。
 ナイアは「族長さま」と呼んでいた。母にそう教わった。

 族長さまは大きい。集落で一番大きい。銀色の髪が背中の真ん中まであって、いつもほどけかけている。目は黒い。怒ると金色になる。
 族長さまは怖くなかった。ナイアが五歳の時、井戸の縁から落ちかけた。族長さまの手が首根っこを掴んだ。引き上げられた。何も言わなかった。だが頭を一度だけ撫でて、歩いていった。あの手はナイアの頭がすっぽり収まるくらい大きかった。

 族長さまは忙しい人だった。会議。巡回。獣の世話。戦士の訓練。いつも集落の中を歩き回っていて、一つの場所に長くいることがない。食事も立ったまま食べることがある。誰かの世話を焼いているところを、ナイアは見たことがなかった。

 ——あの男が来るまでは。



 あの男。砂の中から族長さまが抱えてきた男。帝国の人間だと、母が言っていた。

 最初に見た時、驚いた。大きかったからだ。族長さまより背は低い。でも体が硬かった。腕が太い。胸が厚い。砂漠の戦士たちとは違う体つきだった。砂漠の男たちは細長い。風に逆らわない体。あの男の体は、風を切るために作られていた。肩が広くて、鎧を着る場所が最初から体に刻まれているような。
 顔は白い。砂漠では見ない肌の色。黒い髪。目も黒い。
 その目が、変だった。きれいな目だった。だが中に誰もいなかった。目の形をした穴。

 ナイアは水を持っていった。あの日。天幕の前で。男は横になっていて、毒で動けなかった。水差しを置いた。次の日も行った。男は起きていた。
 お腹が空いていないかと聞いたら、「分からない」と答えた。あんなに大きな体をしているのに、お腹が空いているかどうかが分からない。変な人だった。



 あの男が来てから、族長さまが変わった。

 集落の大人たちは口には出さない。ナイアには分かった。子供は大人が思っているより、ずっと多くのことを見ている。

 棗だった。

 族長さまは毎朝、保存壺から棗を選んでいた。集落の棗は全部同じ壺に入っている。族長さまはその中から一つずつ手に取って、指で押していた。柔らかさを確かめている。大きさを見ている。
 ナイアはあんなに丁寧にものを選ぶ族長さまを見たことがなかった。会議では即断する人だ。食事は三口で終わる人だ。なのに棗を選ぶ時だけ、手が遅い。一つずつ。一つずつ。
 最初は二つだった。二つ選んで、皿に載せて、あの男の天幕に運んでいった。次の日は三つ。その次は四つ。

 ナイアの母が朝の仕事をしながら言った。「族長さまは棗を選ぶのに時間をかけすぎだ」。笑っていた。からかうような、温かいような。大人が何かを知っている時の笑い方だった。

 ナイアの父は、母の誕生日に市場で布を選ぶ時にあの顔をする。何枚も手に取って、触って、光に透かして。あの顔と、族長さまが棗を選ぶ顔が、同じだった。



 あの男は少しずつ変わっていった。

 最初の頃は天幕から出てこなかった。族長さまが食事を運んで、出てくる。それだけだった。
 何日か経って、天幕の入口に立つようになった。布を押し上げて、外を見ている。日差しに目を細めて。すぐ中に戻る。
 次の週には、焚き火の跡まで歩いた。そこで立ち止まって、集落を見回していた。あの目は穴のままだった。でもたまに、穴の奥で何かが動く。砂鱗竜の繋留場の近くを通った時。族長さまの天幕の方を見た時。

 ナイアはそのたびに見ていた。今日は昨日より、奥の光が強かった。

 ある日、あの男が砂鱗竜に手を伸ばした。一番大きい個体。前脚が曲がっているやつ。族長さま以外は近づかない獣。
 あの男の手が鼻先に触れた時、管理者たちが叫んだ。でも砂鱗竜は動かなかった。鼻先を手のひらに預けて、静かにしていた。
 族長さまはそれを見ていた。表情は動かなかった。目の奥で、一瞬だけ、何かが光った。金色。すぐ消えた。

 その日の夜、族長さまの棗が五つになった。



 族長さまが天幕の前に座るのは、あの男が来る前からあったことだと思う。ナイアは覚えていない。小さかったから。
 でも母が言っていた。「族長さまは夜に天幕の前で座る癖がある」と。「昔からだ」と。

 ナイアが自分の目で見たのは、あの男が来てからだった。
 毎晩。砂の上に膝をついて。天幕の布の向こうを見ている。入らない。声もかけない。

 翌朝、その場所に膝の跡が残っている。深い。二つ。風が吹いて縁が崩れても、窪みは昼まで残る。消えても翌朝にはまた同じ場所に同じ跡がある。

 ナイアは不思議だった。族長さまは強い人だ。欲しいものがあれば手を伸ばせばいい。天幕に入りたければ入ればいい。なのに入らない。布の前で、毎晩、待っている。
 何を待っているのだろう。



 あの男が集落の南端まで歩くようになった頃、もう一つ変化があった。

 族長さまが、あの男のことを目で追うようになっていた。

 族長さまは前は、誰のことも目で追わなかった。今は、あの男のことを追う。会議の天幕に入る時、一瞬だけ振り返る。あの男の天幕の方を。巡回から戻った時、まず目が行く場所が、あの男がいる方角。

 あの男にだけ。あの男がどこにいるかを、いつも確かめている。

 その日の夕方、ナイアの母が洗濯の手を止めて言った。「あの布は、婚礼衣装の布だよ」

 ナイアは婚礼がなんなのか、よく分からなかった。でも母の声の中にある温かさは分かった。



 今日の昼、あの男が石壁の上に座っていた。脚を伸ばして。風に吹かれている。象牙色の服が揺れていた。

 ナイアは水差しを持って近づいた。

 男がこちらを見た。

 目が違った。穴ではなかった。まだ暗い。まだ深い。でも穴の底に、何かがある。灯りのようなもの。消えそうで、消えない。

「……水か」

 声が出た。あの日は声を出さなかった。今日は出した。

「うん。暑いから」

 水差しを渡した。男は飲んだ。返す時、小さな声で言った。

「……ありがとう」

 あの日は言わなかった。ナイアは嬉しくなった。

「お腹空いた?」

 あの日と同じ質問。男は少し黙った。

「……少し」

 「分からない」より、ずっといい。走って天幕に戻った。母が焼いた平焼きパンを一枚もらって、戻った。

 男はパンを受け取って、齧った。咀嚼している。飲み込んだ。もう一口。
 穴の底の灯りが、少しだけ大きくなった。

 男がパンを見た。それからナイアを見た。

「……うまいな」

 三つ目の変化だった。「ありがとう」が一つ目。「少し」が二つ目。「うまいな」が三つ目。
 あの日の「分からない」から、ここまで来た。



 夕方。ナイアは天幕の影から見ていた。

 族長さまが南端の方に歩いていった。あの男がまだ石壁に座っている。族長さまが何か言った。短い言葉。聞こえなかった。あの男が何か答えた。
 族長さまが歩き出した。あの男は石壁に座ったまま、族長さまの背中を見ていた。

 その目は、穴ではなかった。

 何かを追っている目だった。ナイアはあの目を知っていた。母が父の背中を見る時の目。父が振り返った時に、母が一瞬だけ見せる目。
 あの男の目が、同じだった。

 族長さまは振り返らなかった。だが歩き方が、ほんの少し遅くなった。

 二人の間の砂に、足跡が並んでいる。族長さまの大きな足跡と、あの男の足跡。あの男の足跡は浅い。でも最初の頃より深い。明日はもっと深くなる。
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