(完結)ヤンデルフタリ

Ringo

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1・記憶のない婚約者

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「アドリアーナ」


名を呼ばれて、大きな湖にかかる虹を眺めていた少女は振り向いた。

腰まであるふわふわと波打つハニーブロンドはおろされていて、振り向いた反動でふわりと揺れたためにキラキラと日の光を反射している。

繊細なレースがふんだんにあしらわれた純白のワンピースドレスを着ていることと、背後の虹に透き通るように滑らかで白い肌であることも相まって、まるで女神か天使が舞い降りたかのような神々しさを放つ。

その眩しい煌めきに、声をかけた男は愛しげに目を細める。


「はい、王太子殿下」


水色の大きな瞳を持つ少女が向けてくれる笑みは慈愛に満ちたもので、自国のみならず多くの男性がその笑顔を己のものにしたいと望む。

王太子殿下と呼ばれた男…銀髪に紫水晶の瞳を持つジョシュアもそのひとり。

いつ自分の手をすり抜けてしまうか分からない…そんな危うさを孕む愛しい婚約者を、どうにかして繋ぎ止めようと必死で愛を伝えてきた。

好きな色、好きな花、好きなお菓子、好きな小説など、アドリアーナの気を引けるものを常に与えて己の存在を示し続けてきた。


『ありがとうございます、王太子殿下』


ふわりと笑うその微笑みが見られるならば、どんなに仕事が忙しかろうと自ら足を運び、手に入れた贈り物を抱えてアドリアーナの元へ足繁く通ってきた。

そんな日々を送るようになってかれこれ二年。

この日、虹の湖に行きたいと強請られ赴いたが、強い緊張感を抱えているせいかポケットに忍ばせている小箱に何度も触れて確認してしまう。


「……アドリアーナ」

「はい」


二度も名前を呼ばれ、アドリアーナはきょとんと首を傾げるが、突然ジョシュアが片膝をついたことに驚いて目を見張った。

男性が女性の前で片膝をつく……それが何を意味しているのか、この国で知らない者はいない。しかし政略的な婚姻が主である貴族の間では殆ど行われず、実際には平民の間で多く見受けられる。

それでも多くの貴族女性は、小説や舞台でしか見ることのないその光景に憧れを抱いていた。

アドリアーナもそのひとり。

しかしすでに王太子の婚約者である自分が、なぜ改めてそのようなものを受けるのか困惑し…けれど憧れでもある求婚の姿勢に胸をときめかせ、同時に何故かつきりと痛むのを感じる。


「アドリアーナ…俺と結婚して欲しい」


ポケットから取り出された小箱の中には、大粒のダイヤモンドが輝く指輪。心なしか、それを持つジョシュアの手が小さく震えていることに気付いて、アドリアーナは思わず困ったように笑みを浮かべた。

嬉しい…そう思うのに、じくじくと痛む胸がそれを拒否しようとしているようで、それが何故か分からずに動けない。


「アドリアーナ…君を生涯愛し続けると誓う。君以外に妃を迎えるつもりもない」


自分以外の妃…その言葉に、これまで以上の痛みがアドリアーナを襲う。

ジョシュアは国王にとってたったひとりの子供。

もしもジョシュアとの間に子が出来なければ側室を迎えなければならないことは、妃教育で学んできた。子を儲けられない自分に愛想を尽かして、他に愛妾を迎えることも有り得るのだとも。

しかしジョシュアはそうしないと言う。

ならばその場合はどうするのか…そう思考を巡らせたことを悟ったのか、ジョシュアは綺麗な形をした眉を下げて言葉を紡ぐ。


「もしも俺達の間に子が出来なければ、その時は王位継承権を持つ他の者に王位を譲る……俺はアドリアーナと共に生きられればそれでいい」

「…………それならば…どうして…」


思わず口をついて出た言葉はジョシュアの顔を苦痛に歪ませたが、発したアドリアーナ自身にはその言葉が何を意味するのか分からない。けれど、不意に溢れ…次いで涙がこぼれ落ちた。

澄んだ空のように美しい水色の瞳から幾筋も涙が流れ落ち、その様子にジョシュアは慌てて立ち上がってアドリアーナを抱き締める。

ここ最近、寂しそうにどこか遠くを見ることの多かったアドリアーナ。

その視線が何を探しているのか…誰を求めているのかジョシュアは知っている。知っていて、その手を放すことが出来ない。


「アドリアーナ…君を愛してるんだ」


心を込めて告げた言葉にも、アドリアーナは何も返さずただ静かに泣き続けている。

いつか、自分の想いや言葉がアドリアーナの心に届く日は来るのだろうか…そんな事を思い浮かべるが、そんな日は二度と来ないかもしれないとも思い唇を噛んだ。

失った信頼と愛情のふたつを…かつて向けられていた愛に溢れた笑顔を向けられることを、いつか取り戻したいと願わずにはいられない。


「君と共にありたいんだ」


もう二度と間違わない…そう告げたい思いをぐっと堪え、ジョシュアは婚約者を優しく包み込むように抱き締め続けた。






**********






「それで?湖でのプロポーズは受けてもらえましたか?」


泣き疲れて眠そうにしていたアドリアーナを公爵邸に送り届けて王宮へと戻れば、腹心でもある側近が執務室で仕事に追われていた。

本来なら急を要する執務があったが、アドリアーナが珍しく日付まで指定してきたことで無理を通して出掛けていたのだが、その皺寄せは腹心のハロルドに降りかかった。

だからこそ、肩を落として戻った主に嫌味のひとつでも言ってやろうと思っても仕方ない。


「………………」

「おや、駄目でしたか」


小さく睨みをきかせてきただけでソファーに崩れ落ちる様子に、そりゃそうだと言わんばかりに溜め息を吐いて手際よくお茶の用意をしていく。

ジョシュアの為に用意されている茶葉は、かつてアドリアーナが探し出してきたもの。


『この茶葉は目や体の疲れを癒してくれる作用があるそうなの。こちらの茶葉は心を落ち着かせてくれるもので、こちらは胃腸の不調に───』


と、外交を取り仕切る父公爵に伴った先々で見つけてきた茶葉は、気付けば五十種類。そのどれもがジョシュアの為に存在している。

王太子御用達の品として、公爵家が持つこの国最大手の商会でも人気があるらしい。


「どうぞ」


ソファーに深く座り込み、両腕で目を覆っていたジョシュアの鼻先に、ふわりと香りが届く。


「…………懐かしい…」


その香りと共に脳裏に浮かんだのは、かつて自分に向けられていたはちきれんばかりの笑顔。


『ジョシュア!』


大好きと言いながら勢いよく胸に飛び込んできては、常に満面の笑みで名前を呼んでくれていたかつての婚約者。

もう呼ばれることもなくなって三年…呼んで欲しいと強請ったこともあるが、困ったように眉を下げられてしまい、結局アドリアーナの口からその名が紡がれることはない。

自分のせいだということは分かっている。

それでも、もう一度呼ばれたい。


「…………アドリアーナ…」


小さく呟き、目を覆う腕の隙間から流れ落ちる涙を見て、ハロルドは静かに机に戻り残る書類に目を通し始めた。

今更だ…そう思うも、やりきれない感情はハロルドの心にもあり、鈍い痛みが拭い去れない。

しかしどんな思いがあろうと三ヶ月後にはふたりの結婚式が執り行われ、ふたりは夫婦となる。

けれど…と思う。

表向きは幸せそうにジョシュアの隣にいるアドリアーナだが、不意に見せる寂しそうな表情や遠くを見つめる瞳は、本当の意味でジョシュアとの結婚を受け入れていないのではないだろうか。

ボロボロに打ち砕かれた心は、二度と元には戻らない…そう思うと、何故もっと諌められなかったのだろうと後悔の念が押し寄せてくる。

腹心と呼ばれる男は、その役目を全う出来なかった事に懺悔する日々を送っていた。






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