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ラシュエルの憂鬱
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シャパネ王国で夫の留守を守るラシュエルは、もう何度目かも分からない溜め息を吐いた。
「…ねぇ、サラ」
「はい、ラシュエル様」
ラシュエルはサラに髪を梳いてもらいながら、物憂げな面持ちでこれまた何度目か分からないほど繰り返している質問を投げ掛ける。
「マリウスはどうしているかしら…」
朝昼晩…何度も同じ質問を投げ掛けられているサラだが、彼女はとても出来る侍女であり、何よりラシュエル至上主義の思想を持つため何度だって笑顔で答える。
幼い頃から丁寧にケアしてきた結果極上の手触りがする髪を手際よく結いながら、主人の憂いを晴らすべき言葉を連ねていく。
「マリウス殿下も今頃お寂しい気持ちを抱えながら、それでもご立派に視察を遂行されております。ラシュエル様の元を離れて六日ですから…お戻りになるまであと一週間ほどございますね。きっと殿下は、ラシュエル様に沢山のお土産を持って帰られますよ」
「そうかしら…」
「えぇ、間違いなく。きっとラシュエル様の大好きなヨンハルの茶葉や菓子をお求めになっておられますわ。アクアブルーの原産もヨンハルですし、なにかしら宝飾品にするため見繕ってらっしゃるかもしれません」
「アクアブルー…」
世界的にも有名でありヨンハルでのみ採掘されているアクアブルーは、透き通るように澄んだ水色に可愛らしいピンクが混ざり合う稀少な宝石。それはまるでマリウスとラシュエルを表しているようなもので、いつか手に入れることが出来たらいいとふたりで話していたこともある。
けれどもその稀少さ故、採掘されたものは王家管理とされてしまうことから他国に商品として出回ることもない。特例であるとすれば、外交において交渉材料に使われた数国の王家のみ。
今回の視察が裏の意味を含むことをラシュエルは知っているが、そのように稀少な宝石が登場するほどの出来事は起きないだろうと思っている。その頃、ヨンハルの王宮でとんでもない騒ぎとなっていることなど露知らず。
「もし…もしもの話よ?もしもアクアブルーを身に付けることが出来たなら、わたくし感激のあまり気を失ってしまうかもしれないわ」
アクアブルーを持つヨンハルの姫に実物を見せてもらったことのあるラシュエルは、まるで愛する夫とひとつに溶け合ったような色合いがするその宝石が本当はとても欲しかった。けれどそんな我が儘を言えるはずもなく、特別な式典などでのみ会う姫に見せてもらうだけで満足していたのだ。
「ラシュエル様が本気で欲しいと仰れば、殿下はご自身で採掘に向かわれるかもしれませんね」
「いやだわ、サラ。わたくし、彼にそんな危険を冒させてまで欲しいなんて思っていないわよ」
いや、実はマリウスが一時期本気で採掘に向かおうとしていたことをサラは知っている。本気で向かおうとするマリウスを両親の国王と王妃が必死で説得し、交流のあるヨンハルの王太子に頼めないかと模索していたことも。
あえなく断られてしまったものの、その機会を虎視眈々と狙い続けてきたマリウス。愛するラシュエルが欲しがるなら地の果てまで探すし、ラシュエルを傷付ける者は地獄の果てまで追いかける男、それがマリウスなのである。
「でもそうね…マリウスが欲しいと言うのなら、わたくしが探しに行くのもいいわね」
そしてそれはラシュエルも同じく、どこまでも似た者同士のふたり。
コンコン───
ほのぼのとした雰囲気でふたりが過ごす部屋に、来訪を知らせるノックが響いた。
「きっと朝食ですね、お待ちください」
「今日は何かしら」
マリウスが視察に出てから、『ひとりきりの食事は寂しいの』とラシュエルから同席を頼まれたサラ。当初は主人と席を同じくすることなど出来ないと断るも、うるうると目を潤ませたラシュエルに敵うはずもなく、今となってはふたりで過ごす食事の時間を楽しんでいる。
「ラシュエル様」
「なぁに?」
朝食が乗ったワゴンを押して戻ったサラから束になった手紙を渡され、それを見ると分かりやすく嫌悪の表情を浮かべてしまう。普段は淑女の鏡と名高いラシュエルがコロコロと表情を変えるのは信頼するサラとふたりだからこそで、そんな主人の姿にサラは内心ほくそ笑む。
「……この方達は本当に困るわ」
「如何致しますか?」
「手紙は焼いておいて。それからいつも通り断りの返事をお願い」
「畏まりました」
「さて、頂きましょうか」
マリウス不在の隙を狙ってラシュエルに近付こうとする者は数多く、ある者は『かねてよりお慕いしておりました』『あなたの寂しさをお埋めしたい』と愛を囁き、またある者は『俺のことも試してみない?』とあからさまな誘惑を持ちかけてくる。
愛する夫以外に興味のひとつも湧かないラシュエルにとっては迷惑以外の何物でもない。
マリウスに見せて処罰してもらうことも考えたが、逆に夫宛の恋文など見たくもないから彼も同じはずだと結論付け、夫へは口頭で報告するにとどめ手紙そのものは焼き捨てることにした。
「ラシュエル様、ご確認を」
食後、急ぎの執務予定もないラシュエルはハンカチに愛する夫の名前を刺繍して過ごしており、そこへ手紙の返事をしたためたサラが戻るとその内容を確認する。
本人からではなく使用人から代理で断りの返事が届く…その事が如何に本気の拒絶なのかを表しているが、男達は分かっていながら毎日送り付けてくるのだ。この機会を逃すものかと必死になって。
「…これでいいわ。それから、届ける者に言付けもお願いしたいの」
********
「…今なんと?」
愛する女性から届いたはずの手紙はいつものように代理人からだと分かると見るや落胆し、そこへ追い討ちをかけるような届け人の言葉を彼は聞き間違いかと問い掛けてみる。
「王太子妃殿下ラシュエル様よりお言付けがございまして、今後貴殿からの連絡に折り返すことは一切ございません、また、送られた封書は未開封のまま処分致します、とのことでございます」
つまりは今後読まれることはおろか手元に届くこともなく廃棄され、僅かな心遣いで届いていた代理人からの返事さえもなくなることを示唆され、徹底的な拒絶を受けた男はその場にガクリと膝をついて崩れ落ちた。
「そんな…そんな…ラシュエル様……」
自分が愛を綴った手紙を手に持ち読んでくれるだけでも幸せを得られていた男にとって、それすらも許されないと言われるのは拷問に近い。
幼き頃に親子の交流会で一目惚れしてから苦節十数年、男にとって敵うはずのない相手に愛され美しく成長するラシュエルは正しく高嶺の花であり、今まで略奪や横恋慕の意思などなかった…のだが、『結婚後すぐに夫が半月も遠征に出るとなればさぞかし寂しいだろう』と多くの男達がこぞってラシュエルへ己のアピールをし始めたのを見て、男は「自分こそが慰める!」と意気込み連日の手紙攻撃と相成った。
他の男達も例外なく撃沈しているのだが、そんなことなど与り知らぬ男はひたすら落ち込むだけ。
「旦那様?」
いつまでも玄関ホールで崩れ落ちている男に声をかけたのは、大きなお腹を撫でている女。そう、この男の妻である。既婚の身となってもラシュエルに恋慕し続け、万が一その長き願いが成就する時には子供もろとも打ち捨てるつもりでもいた。
膝をついて何やら落ち込んでいる様子を心配して妻が近寄ってくるが、本来望んだ女性とはあまりにも違うその容姿に舌打ちをしたくなる。
(彼女はもっと輝くような金髪だし、目鼻立ちははっきりしているのにとても可愛らしい。豊かな胸は見るからに柔らかそうだし、あの細い腰ならコルセットすら必要としないんだろう。口紅などしなくてもぷるぷると赤い唇は男なら誰でも欲情を煽られるし、あの白い肌も愛し合う時にはきっと紅潮するのだろう…何もかもが違う)
ラシュエルの影を追い求め、少しでも似た容姿の女を妻に迎えたものの改めて見れば似ても似つかないことに気付いてしまう。
(王宮勤めの友人が言うには毎晩のように激しく愛し合い、朝方まで続く情事の疲れから妃殿下はいつも寝不足らしい…なんと羨ましいことか。きっと妃殿下が孕むのも時間の問題だろう、既に子を宿している可能性だってある)
誰もが憧れる女性を毎晩のように好き放題抱き潰し、秘めたる場所に己の剛直を突き立てては子種を注いでいる人物がいることに、男は羨ましくも憎悪に似た感情を抱く。
そして、妻も夫が何を求めて自分との婚姻を望んだのかを理解しており、夜伽の際に『エル』と呼ばれる真意も知っている。他の女性を夢想しながら抱かれるなど屈辱的だが、実家への援助を受けている身としては文句のひとつも言えない立場。
ただ少しばかり似ていると言われる容姿と髪色をしているという理由で身代りの妻にたてられ、叶わぬ人との情事に思いを馳せているにも関わらず、交われば子種を注ぐまでを完遂して満足そうにする夫…そんな夫でも妻にとっては初恋の男であり、重ねた情事から無事妊娠出来た事は素直に嬉しいと思っている。
「あの……」
何も言わず睨むかのように自分を見上げる夫にびくつきながら所在なさげにいれば、深い溜め息を吐いて立ち上がった夫に今度は見下ろされる。頭ひとつ分の身長差も、本来夫が求めた女性との間にあるはずの差と同じ。
「出掛けてくる」
「……はい」
妻は、夫が何処に行くのか知った上で何も言わず見送るにとどまるしかない。
大切な跡取りを身籠っているのだからと、妊娠が分かってから妻を抱かなくなった夫が足繁く通うのは、支援もして贔屓にしている演劇女優の家。彼女は淡い金髪を緩く波立たせており、同姓すら見惚れる容姿とスタイルはまるで高貴なあの人を思わせ、それが夫を夢中にさせているのだと理解もしている。
いくら人気者で美しい女優であっても、平民の彼女が伯爵の妻になることは有り得ず安堵するものの…いつか愛人として正式に迎えることになるのでは?と不安は拭えない。
自分よりもあの人に似た彼女が傍にいることになれば、子作り以外で自分に触れてくることはなくなるはずで…それが妻には耐え難い。
似た容姿と身分があるだけで愛されているわけでもなく、せめて体の繋がりだけは失いたくないと思っているのだから。
妊婦とはいえ熱を持つこともある体を持て余している妻には見向きもしない夫。正統な子は三人ほど欲しいと望まれていることから、より長く夫婦として触れ合えるように二人目以降の妊娠は秘密裏に避妊薬を駆使して間を開ける計画もしている。
その間にも正統ではない子が何人か生まれることになるかもしれないが、血筋を何よりも重んじている伯爵家が平民との間に生まれる子を認めるわけもなく、必要とされるのは自分が生む子供だけ…その事が妻の矜持を保つ。
夫は今夜も遅くまで帰らない。愛人との逢瀬を楽しんで夜遅くに帰ってくる夫は、今夜もまた甘ったるい香水の匂いをさせていることだろう。
大きくなった腹を撫でる妻は、ただひたすら帰りを待ちわびることしか出来ないでいる。
********
「えっ?それ本当?」
マリウス帰還の前日、出迎えるための装いを選んでいたラシュエルに意外な報告が齎された。
「えぇ、本当です。劇場から正式に公表されましたので間違いなく」
「そうなのね…残念だわ、あの方の演劇は特に気に入っていたから。でもお目出度いことよね、ご懐妊されて女優を引退なさるなんて。…あら?そう言えばご結婚は?お相手はどなた?」
「どことなくラシュエル様に似ていると評判の高い方でしたから、惜しむ声も多いようですよ。お相手は、予てより支援をしていたシグナス伯爵と噂されております」
「まぁ!」
大層驚いたと言わんばかりのラシュエルだが、その二人が人目も憚らずに逢瀬を重ねていたのは有名な話。子が出来たと聞いて本当に驚くような者はいないだろう。
「奥様も大変ね」
もしも自分の身に起きたことなら…そう考えて最初に湧くのは深い悲しみで、次に湧くのは激しい怒り。だが不思議とそれは夫であるマリウスに対してのものではなく、浮気相手の女性に向けてのもの。マリウスを奪おうとするなんて許せない!と妄想内の女性にキレまくる。
そんな主人を宥めるのも優秀な侍女の務め。
「殿下には未来永劫ラシュエル様だけですわ」
「…そうかしら」
小首を傾げながら頬を染める姿に満足したサラは、今日も主人を飛びきりの美女に仕上げるべく化粧を施し髪を結っていく。
今日から数日間執務は休みとなる主人と共に明日の装いを選び、それに伴う化粧と髪型を打ち合わせると言う大切な仕事が待っているから。
「…ねぇ、サラ」
「はい、ラシュエル様」
ラシュエルはサラに髪を梳いてもらいながら、物憂げな面持ちでこれまた何度目か分からないほど繰り返している質問を投げ掛ける。
「マリウスはどうしているかしら…」
朝昼晩…何度も同じ質問を投げ掛けられているサラだが、彼女はとても出来る侍女であり、何よりラシュエル至上主義の思想を持つため何度だって笑顔で答える。
幼い頃から丁寧にケアしてきた結果極上の手触りがする髪を手際よく結いながら、主人の憂いを晴らすべき言葉を連ねていく。
「マリウス殿下も今頃お寂しい気持ちを抱えながら、それでもご立派に視察を遂行されております。ラシュエル様の元を離れて六日ですから…お戻りになるまであと一週間ほどございますね。きっと殿下は、ラシュエル様に沢山のお土産を持って帰られますよ」
「そうかしら…」
「えぇ、間違いなく。きっとラシュエル様の大好きなヨンハルの茶葉や菓子をお求めになっておられますわ。アクアブルーの原産もヨンハルですし、なにかしら宝飾品にするため見繕ってらっしゃるかもしれません」
「アクアブルー…」
世界的にも有名でありヨンハルでのみ採掘されているアクアブルーは、透き通るように澄んだ水色に可愛らしいピンクが混ざり合う稀少な宝石。それはまるでマリウスとラシュエルを表しているようなもので、いつか手に入れることが出来たらいいとふたりで話していたこともある。
けれどもその稀少さ故、採掘されたものは王家管理とされてしまうことから他国に商品として出回ることもない。特例であるとすれば、外交において交渉材料に使われた数国の王家のみ。
今回の視察が裏の意味を含むことをラシュエルは知っているが、そのように稀少な宝石が登場するほどの出来事は起きないだろうと思っている。その頃、ヨンハルの王宮でとんでもない騒ぎとなっていることなど露知らず。
「もし…もしもの話よ?もしもアクアブルーを身に付けることが出来たなら、わたくし感激のあまり気を失ってしまうかもしれないわ」
アクアブルーを持つヨンハルの姫に実物を見せてもらったことのあるラシュエルは、まるで愛する夫とひとつに溶け合ったような色合いがするその宝石が本当はとても欲しかった。けれどそんな我が儘を言えるはずもなく、特別な式典などでのみ会う姫に見せてもらうだけで満足していたのだ。
「ラシュエル様が本気で欲しいと仰れば、殿下はご自身で採掘に向かわれるかもしれませんね」
「いやだわ、サラ。わたくし、彼にそんな危険を冒させてまで欲しいなんて思っていないわよ」
いや、実はマリウスが一時期本気で採掘に向かおうとしていたことをサラは知っている。本気で向かおうとするマリウスを両親の国王と王妃が必死で説得し、交流のあるヨンハルの王太子に頼めないかと模索していたことも。
あえなく断られてしまったものの、その機会を虎視眈々と狙い続けてきたマリウス。愛するラシュエルが欲しがるなら地の果てまで探すし、ラシュエルを傷付ける者は地獄の果てまで追いかける男、それがマリウスなのである。
「でもそうね…マリウスが欲しいと言うのなら、わたくしが探しに行くのもいいわね」
そしてそれはラシュエルも同じく、どこまでも似た者同士のふたり。
コンコン───
ほのぼのとした雰囲気でふたりが過ごす部屋に、来訪を知らせるノックが響いた。
「きっと朝食ですね、お待ちください」
「今日は何かしら」
マリウスが視察に出てから、『ひとりきりの食事は寂しいの』とラシュエルから同席を頼まれたサラ。当初は主人と席を同じくすることなど出来ないと断るも、うるうると目を潤ませたラシュエルに敵うはずもなく、今となってはふたりで過ごす食事の時間を楽しんでいる。
「ラシュエル様」
「なぁに?」
朝食が乗ったワゴンを押して戻ったサラから束になった手紙を渡され、それを見ると分かりやすく嫌悪の表情を浮かべてしまう。普段は淑女の鏡と名高いラシュエルがコロコロと表情を変えるのは信頼するサラとふたりだからこそで、そんな主人の姿にサラは内心ほくそ笑む。
「……この方達は本当に困るわ」
「如何致しますか?」
「手紙は焼いておいて。それからいつも通り断りの返事をお願い」
「畏まりました」
「さて、頂きましょうか」
マリウス不在の隙を狙ってラシュエルに近付こうとする者は数多く、ある者は『かねてよりお慕いしておりました』『あなたの寂しさをお埋めしたい』と愛を囁き、またある者は『俺のことも試してみない?』とあからさまな誘惑を持ちかけてくる。
愛する夫以外に興味のひとつも湧かないラシュエルにとっては迷惑以外の何物でもない。
マリウスに見せて処罰してもらうことも考えたが、逆に夫宛の恋文など見たくもないから彼も同じはずだと結論付け、夫へは口頭で報告するにとどめ手紙そのものは焼き捨てることにした。
「ラシュエル様、ご確認を」
食後、急ぎの執務予定もないラシュエルはハンカチに愛する夫の名前を刺繍して過ごしており、そこへ手紙の返事をしたためたサラが戻るとその内容を確認する。
本人からではなく使用人から代理で断りの返事が届く…その事が如何に本気の拒絶なのかを表しているが、男達は分かっていながら毎日送り付けてくるのだ。この機会を逃すものかと必死になって。
「…これでいいわ。それから、届ける者に言付けもお願いしたいの」
********
「…今なんと?」
愛する女性から届いたはずの手紙はいつものように代理人からだと分かると見るや落胆し、そこへ追い討ちをかけるような届け人の言葉を彼は聞き間違いかと問い掛けてみる。
「王太子妃殿下ラシュエル様よりお言付けがございまして、今後貴殿からの連絡に折り返すことは一切ございません、また、送られた封書は未開封のまま処分致します、とのことでございます」
つまりは今後読まれることはおろか手元に届くこともなく廃棄され、僅かな心遣いで届いていた代理人からの返事さえもなくなることを示唆され、徹底的な拒絶を受けた男はその場にガクリと膝をついて崩れ落ちた。
「そんな…そんな…ラシュエル様……」
自分が愛を綴った手紙を手に持ち読んでくれるだけでも幸せを得られていた男にとって、それすらも許されないと言われるのは拷問に近い。
幼き頃に親子の交流会で一目惚れしてから苦節十数年、男にとって敵うはずのない相手に愛され美しく成長するラシュエルは正しく高嶺の花であり、今まで略奪や横恋慕の意思などなかった…のだが、『結婚後すぐに夫が半月も遠征に出るとなればさぞかし寂しいだろう』と多くの男達がこぞってラシュエルへ己のアピールをし始めたのを見て、男は「自分こそが慰める!」と意気込み連日の手紙攻撃と相成った。
他の男達も例外なく撃沈しているのだが、そんなことなど与り知らぬ男はひたすら落ち込むだけ。
「旦那様?」
いつまでも玄関ホールで崩れ落ちている男に声をかけたのは、大きなお腹を撫でている女。そう、この男の妻である。既婚の身となってもラシュエルに恋慕し続け、万が一その長き願いが成就する時には子供もろとも打ち捨てるつもりでもいた。
膝をついて何やら落ち込んでいる様子を心配して妻が近寄ってくるが、本来望んだ女性とはあまりにも違うその容姿に舌打ちをしたくなる。
(彼女はもっと輝くような金髪だし、目鼻立ちははっきりしているのにとても可愛らしい。豊かな胸は見るからに柔らかそうだし、あの細い腰ならコルセットすら必要としないんだろう。口紅などしなくてもぷるぷると赤い唇は男なら誰でも欲情を煽られるし、あの白い肌も愛し合う時にはきっと紅潮するのだろう…何もかもが違う)
ラシュエルの影を追い求め、少しでも似た容姿の女を妻に迎えたものの改めて見れば似ても似つかないことに気付いてしまう。
(王宮勤めの友人が言うには毎晩のように激しく愛し合い、朝方まで続く情事の疲れから妃殿下はいつも寝不足らしい…なんと羨ましいことか。きっと妃殿下が孕むのも時間の問題だろう、既に子を宿している可能性だってある)
誰もが憧れる女性を毎晩のように好き放題抱き潰し、秘めたる場所に己の剛直を突き立てては子種を注いでいる人物がいることに、男は羨ましくも憎悪に似た感情を抱く。
そして、妻も夫が何を求めて自分との婚姻を望んだのかを理解しており、夜伽の際に『エル』と呼ばれる真意も知っている。他の女性を夢想しながら抱かれるなど屈辱的だが、実家への援助を受けている身としては文句のひとつも言えない立場。
ただ少しばかり似ていると言われる容姿と髪色をしているという理由で身代りの妻にたてられ、叶わぬ人との情事に思いを馳せているにも関わらず、交われば子種を注ぐまでを完遂して満足そうにする夫…そんな夫でも妻にとっては初恋の男であり、重ねた情事から無事妊娠出来た事は素直に嬉しいと思っている。
「あの……」
何も言わず睨むかのように自分を見上げる夫にびくつきながら所在なさげにいれば、深い溜め息を吐いて立ち上がった夫に今度は見下ろされる。頭ひとつ分の身長差も、本来夫が求めた女性との間にあるはずの差と同じ。
「出掛けてくる」
「……はい」
妻は、夫が何処に行くのか知った上で何も言わず見送るにとどまるしかない。
大切な跡取りを身籠っているのだからと、妊娠が分かってから妻を抱かなくなった夫が足繁く通うのは、支援もして贔屓にしている演劇女優の家。彼女は淡い金髪を緩く波立たせており、同姓すら見惚れる容姿とスタイルはまるで高貴なあの人を思わせ、それが夫を夢中にさせているのだと理解もしている。
いくら人気者で美しい女優であっても、平民の彼女が伯爵の妻になることは有り得ず安堵するものの…いつか愛人として正式に迎えることになるのでは?と不安は拭えない。
自分よりもあの人に似た彼女が傍にいることになれば、子作り以外で自分に触れてくることはなくなるはずで…それが妻には耐え難い。
似た容姿と身分があるだけで愛されているわけでもなく、せめて体の繋がりだけは失いたくないと思っているのだから。
妊婦とはいえ熱を持つこともある体を持て余している妻には見向きもしない夫。正統な子は三人ほど欲しいと望まれていることから、より長く夫婦として触れ合えるように二人目以降の妊娠は秘密裏に避妊薬を駆使して間を開ける計画もしている。
その間にも正統ではない子が何人か生まれることになるかもしれないが、血筋を何よりも重んじている伯爵家が平民との間に生まれる子を認めるわけもなく、必要とされるのは自分が生む子供だけ…その事が妻の矜持を保つ。
夫は今夜も遅くまで帰らない。愛人との逢瀬を楽しんで夜遅くに帰ってくる夫は、今夜もまた甘ったるい香水の匂いをさせていることだろう。
大きくなった腹を撫でる妻は、ただひたすら帰りを待ちわびることしか出来ないでいる。
********
「えっ?それ本当?」
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「どことなくラシュエル様に似ていると評判の高い方でしたから、惜しむ声も多いようですよ。お相手は、予てより支援をしていたシグナス伯爵と噂されております」
「まぁ!」
大層驚いたと言わんばかりのラシュエルだが、その二人が人目も憚らずに逢瀬を重ねていたのは有名な話。子が出来たと聞いて本当に驚くような者はいないだろう。
「奥様も大変ね」
もしも自分の身に起きたことなら…そう考えて最初に湧くのは深い悲しみで、次に湧くのは激しい怒り。だが不思議とそれは夫であるマリウスに対してのものではなく、浮気相手の女性に向けてのもの。マリウスを奪おうとするなんて許せない!と妄想内の女性にキレまくる。
そんな主人を宥めるのも優秀な侍女の務め。
「殿下には未来永劫ラシュエル様だけですわ」
「…そうかしら」
小首を傾げながら頬を染める姿に満足したサラは、今日も主人を飛びきりの美女に仕上げるべく化粧を施し髪を結っていく。
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