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赤い避妊薬
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ラシュエルと結婚して三ヶ月。
今までも僕達の邪魔をしようとする人間は常に周りを彷徨いていて、その殆どが恋慕からきているというのだから厄介なことこの上ない。僕達がお互い以外を求めるはずがないのに、いつになったら理解するんだろう。
「それで?ラシュエルの食事に避妊薬を混入させていた料理人はどんな言い訳を?」
「思いを寄せていた女が殿下を一途に慕う様子に胸を打たれ、励ます為に自分の意思で行っていた…と申しております」
「ふぅん…マルコフの見解は?」
「女が主導していたかと。ただ…恐らく女は男の気持ちを利用して誘導していたに過ぎない為、何かしら物的証拠があるわけではございません」
「だろうね」
毎日のように濃密に愛し合い、溢れるほどに子種を注いでいるのに一向に懐妊する様子が見られず、僕かラシュエルに問題でもあるのかと囁かれ始めたところで、ラシュエルの食事に避妊薬が混入されていることが分かった。
発覚のきっかけは新しく調理場に雇われた下女。
*********
平民出身の下女はとても綺麗好きで、整理整頓の技術も高いことから小遣い稼ぎに使用人部屋の掃除を請け負っていた。
各部署の役職者は一人部屋を与えられているものの、その管理は自ら行わなければならないことから殆どの者が王宮勤めの下女や下級メイドを個人で雇っている。
ある日、いつものように依頼人の部屋を掃除し整理整頓に励んでいた新人下女は、ふと棚に並ぶ小瓶のひとつを見て固まった。
依頼人である副料理長は、栄養価と効能の高い病人食などを作る為に様々な薬剤や薬草を用いて料理の研究をしており、棚にはその為の小瓶がズラリと並んでいる。
殆どが宮廷薬師から用意されているものなのだが、その中のひとつが異質であることに下女は気付き、恐る恐る小瓶を手に取り自分の直感が間違いではないことに気付く。
小瓶にはひとつひとつ使用目的と効能が記されたラベルが貼られており、下女が手にしている小瓶にも例外なくラベルが貼られているのだが、そこに書かれているのはシャパネの言語ではない。
「これ…ナルジスカの文字……」
小瓶に書かれていたのは遠い異国ナルジスカの文字で、その内容は【女性用避妊薬】【副作用は強い睡眠欲】【効能三日間】と記されている。
薬は深い赤色をしている粉状のもので、見た目に反して無味無臭のものらしい。どうしてこんなものがあるのか…個人的に使っているのなら問題はないが、下女には苦い過去があった。
かつて勤めていた地方貴族の子爵家で、当主の愛人が妻への嫉妬から避妊薬を料理に混入させ白い結婚を目論んだ。けれど愛人に篭絡され協力していた料理人もまた嫉妬に狂い、無惨な殺人事件に発展し犯人の料理人は自害てしまったのだ。
結果として当主夫妻は愛人の目論見通り離縁となったが、当の愛人は既に殺害されており、子爵家は元妻の実家による圧力で没落し潰れた。
「…まさか……ね…」
きっと遊び相手に飲ませているのだろう…下女はそう思うも不安と疑念は拭えず、さりげなく副料理長の動向に目を向けるようになった。
大勢の料理人が働く厨房で、王族に出す料理を仕上げるのは料理長と副料理長。まさかと思いながらも、自分の勘違いならそれでいい…そう考えて使い終わった調理具の片付けをしながら見ていると、スープやソースに微量の赤い粉を混ぜていた。しかも堂々と。
それとなく調理補佐をしている仲間に聞けば、肌艶を良くする為の栄養剤だと言う。
(違う…あれは栄養剤なんかじゃない……)
副料理長が薬剤を混ぜていたのは王太子妃殿下の為に用意されたもの。
(いつから?なんの為に?)
副料理長の部屋にあった小瓶は100種を越え、あの日たまたま異国の避妊薬が目についたのは手前に置いてあったからで、今までもずっとあったのかもしれない。
この国では珍しい色をした薬剤だから知らない人なら栄養剤と言われても信じるだろうし、異国語のラベルを読まれなければバレる事もない。きっとシャパネに解読できる者は極僅か…それほどナルジスカは遠い国なのだ。
(どうしよう…どうすればいい…?)
下女は焦るも迂闊に動いて証拠を処分されては自分の身の方が危険にさらされてしまう。かと言って、まだ入宮したばかりの一介の下女の話など誰が信じてくれるだろうか。数日に一度混入される様子を確認しながらもどうにも出来ず、精神をごりごりと削られていくせいで日に日に窶れていきとうとう倒れてしまった。
********
「うっ……」
「大丈夫?」
倒れた下女が目を覚ますとそこは使用人用の医務室で、寝台の横に女性がいることに気付いた。
「…アイシャさっ、、」
「無理しないで、まだ横になっていた方がいい」
視界がはっきりすれば女性は王宮侍女のアイシャだと分かり、慌てて起き上がろうとしてふらついてしまった。
「具合はどう?」
「…アイシャさん……っ」
下女はアイシャの姿に思わず涙を流す。
同じ平民であり、王立学園特待生として入学し成績優秀者のまま卒業したのち王宮侍女となったアイシャは下女の憧れで、優しい性格のアイシャを慕っていた。
学友だった妃殿下ラシュエルとの関係も良く、もうすぐ一般侍女から妃殿下専属侍女となることも憧れと尊敬の思いを強くさせている要因である。
(アイシャさんなら話しても大丈夫だろうか…)
本当はすぐにでも相談しようと思っていたが、万が一の時に憧れ尊敬しているアイシャまで巻き込むことが怖くて口を噤んでいた。
けれど、ここ最近あらぬ噂が王宮内を駆け巡っていて、それも下女の精神を削っていたのだ。
『妃殿下は不妊である』
結婚して三ヶ月…仲睦まじいふたりなのに懐妊の兆候がないことからそんなことが囁かれ始め、妃殿下は床に伏せる事が多くなった、と。
妃殿下に子が出来ないのならすぐにでも側妃を召しあげるべきだと一部でざわめき始め、それに抵抗する王太子殿下が荒れているといった話は下女まで聞こえてきている。
「クレア?」
下女…クレアはどうすべきか思案するも、出す答えは一つしかないはずだと分かっていて、それでも覚悟を決めかねてしまう。
「…アイシャさん……」
「なぁに?」
どんなに優秀で仕事が出来ても、平民というだけで理不尽な思いをすることは多分にある。それは妃殿下の覚えがめでたいアイシャも同様で、最短の研修期間で専属となる事をよく思わない者から嫌がらせを受けてきた。けれどアイシャは決して屈することなく、いつだって背筋を伸ばして自分のすべき仕事をこなしていく。そんな姿に憧れと尊敬の念を持つ者も多くいるのが事実で、クレアもその中のひとり。
懸命に努力し、多くの人に慕われる人だから傷付けたくはない…平民女性の誇りであり星であり…クレアにとって大切な存在…そう思えば思うほど、自分の考えを言えなくなってしまう。
「…もし…もしもアイシャさんだったら……大切な人を巻き込んでしまう可能性があるとしても…間違いを起こしている人間を…訴えますか?」
クレアの言葉にアイシャは一瞬表情を曇らせたが、その事にクレアは気付いておらず、大粒の涙を流しながら話を続けていく。
「もしも…もしも誰かが傷付けられているのを知っていて…だけどそれを明らかしようとすれば…自分にとって大切な人まで巻き込まれてしまう危険性もあって…でも傷付いている人を助けられないのは苦しくてっ……でも巻き込んでしまったらと思うと不安で…っ…アイシャさん…アイシャさんだったら…」
震えながら懸命に話すクレアの手を取ると、その手は可哀想なほどに冷えており、下女らしく傷だらけだった。
まるでいつぞやの自分のようだ…そんな風に思い、ポケットに忍ばせていたクリームを取り出してクレアの荒れた手に優しく塗り込んでいく。
「…アイシャさん……」
「クレア…あなたが抱えている不安が誰かを守る為のものなのだとしたら、私はあなたをとても強くて優しい女性だと思うわ」
「……っ…わた…しは……」
優しく塗り込まれるクリームはとてもいい香りで、嗚咽し呼吸を荒げていたクレアも少しずつ落ち着きを取り戻す。
「私にはね、とても大切な親友がいるの」
「…親友?」
「えぇ…とても優しくて、とても強い人よ」
そう言って微笑むアイシャの優しさが、クレアの心にゆっくりと染み込み癒していく。
「その人はね、大切な人の為なら自分を犠牲にしても立ち向かう人なの。見返りなんて求めていなくて、ただ自分が大切だと思うから守りたいと言って」
それは自分も同じだ、とクレアは思う。アイシャを守りたいと思う心に見返りを求めるものなどなく、ただ守りたいと思う気持ちがあるだけ。
「私もその親友に守られたひとりでね…自分では何も出来ず、ただ泣いて怯えるしかなかった状況から救い出してくれた」
少しだけ…ほんの少しだけアイシャの表情に悲しみが浮かんだことに気付き、どれだけの苦労をしてきたのかとクレアは思い図る。
「私が王宮侍女を目指したのは親友の影響なのよ。家族を養えるだけの収入を得られる仕事であれば何でもいいと思っていたのだけれど…尊敬する親友に誇ってもらえるような人間になりたい…そう思って王宮侍女になるべく努力したわ」
クレアにとって、アイシャはなんでも出来て強い女性だった。だけどその姿もアイシャ自身の努力によるもので、それは大切な親友の為でもあると言う。
クリームを塗ってくれた手は温かくて、優しく握ってくれているのに力強く感じる。
「…アイシャさん」
「なぁに?クレア」
(守れるか…じゃない)
握られた手をぎゅっと握り返し、ドクドクとうるさい胸の音を落ち着かせるように深呼吸をする。
(守りたい)
「アイシャさんにとって妃殿下はどのような存在のお方ですか?」
「命に代えてもお守りしたい方よ」
即答で答えたアイシャの強い眼差しは、僅かに残っていたクレアの不安を覚悟へと変えた。
医務室にはふたりだけ…話すなら今しかない、と声を潜めて話し始める。
「内密にお話ししたいことがあります…妃殿下のお体に起きている事実についてです」
予想以上の告白にアイシャは眉間に皺を寄せてしまうが、緊急事態と判断してクレア同様声を潜めて行動に出る。
「クレア…あなたの身の安全を図ります。まずは私の私室へと参りましょう」
間もなく専属侍女となるアイシャには、王太子夫妻の部屋からそう遠くない位置に私室が既に用意されていた。
クレアが倒れたことを知っているのは、調理場の使用人達と医務室まで運んだ騎士くらいだ。私室移動の荷運び手伝いとしてクレアを連れていくことも可能であると判断した。
「クレア…話してくれてありがとう」
「…っ、、黙っていて…申し訳ありません…っ」
「怖かったでしょう…大丈夫よ、必ずマリウス殿下が解決してくださるわ」
アイシャはマリウスの性格をよく知っている。
誰よりもラシュエルを愛し、何よりも大切に慈しんでいる最愛の人を傷付けられて、マリウスが黙っているはずがない、と。
「まずは早急にサラさんに連絡を…」
これからの事を高速で考え組み立て、覚悟を決めたクレアを連れて医務室を出た。
今までも僕達の邪魔をしようとする人間は常に周りを彷徨いていて、その殆どが恋慕からきているというのだから厄介なことこの上ない。僕達がお互い以外を求めるはずがないのに、いつになったら理解するんだろう。
「それで?ラシュエルの食事に避妊薬を混入させていた料理人はどんな言い訳を?」
「思いを寄せていた女が殿下を一途に慕う様子に胸を打たれ、励ます為に自分の意思で行っていた…と申しております」
「ふぅん…マルコフの見解は?」
「女が主導していたかと。ただ…恐らく女は男の気持ちを利用して誘導していたに過ぎない為、何かしら物的証拠があるわけではございません」
「だろうね」
毎日のように濃密に愛し合い、溢れるほどに子種を注いでいるのに一向に懐妊する様子が見られず、僕かラシュエルに問題でもあるのかと囁かれ始めたところで、ラシュエルの食事に避妊薬が混入されていることが分かった。
発覚のきっかけは新しく調理場に雇われた下女。
*********
平民出身の下女はとても綺麗好きで、整理整頓の技術も高いことから小遣い稼ぎに使用人部屋の掃除を請け負っていた。
各部署の役職者は一人部屋を与えられているものの、その管理は自ら行わなければならないことから殆どの者が王宮勤めの下女や下級メイドを個人で雇っている。
ある日、いつものように依頼人の部屋を掃除し整理整頓に励んでいた新人下女は、ふと棚に並ぶ小瓶のひとつを見て固まった。
依頼人である副料理長は、栄養価と効能の高い病人食などを作る為に様々な薬剤や薬草を用いて料理の研究をしており、棚にはその為の小瓶がズラリと並んでいる。
殆どが宮廷薬師から用意されているものなのだが、その中のひとつが異質であることに下女は気付き、恐る恐る小瓶を手に取り自分の直感が間違いではないことに気付く。
小瓶にはひとつひとつ使用目的と効能が記されたラベルが貼られており、下女が手にしている小瓶にも例外なくラベルが貼られているのだが、そこに書かれているのはシャパネの言語ではない。
「これ…ナルジスカの文字……」
小瓶に書かれていたのは遠い異国ナルジスカの文字で、その内容は【女性用避妊薬】【副作用は強い睡眠欲】【効能三日間】と記されている。
薬は深い赤色をしている粉状のもので、見た目に反して無味無臭のものらしい。どうしてこんなものがあるのか…個人的に使っているのなら問題はないが、下女には苦い過去があった。
かつて勤めていた地方貴族の子爵家で、当主の愛人が妻への嫉妬から避妊薬を料理に混入させ白い結婚を目論んだ。けれど愛人に篭絡され協力していた料理人もまた嫉妬に狂い、無惨な殺人事件に発展し犯人の料理人は自害てしまったのだ。
結果として当主夫妻は愛人の目論見通り離縁となったが、当の愛人は既に殺害されており、子爵家は元妻の実家による圧力で没落し潰れた。
「…まさか……ね…」
きっと遊び相手に飲ませているのだろう…下女はそう思うも不安と疑念は拭えず、さりげなく副料理長の動向に目を向けるようになった。
大勢の料理人が働く厨房で、王族に出す料理を仕上げるのは料理長と副料理長。まさかと思いながらも、自分の勘違いならそれでいい…そう考えて使い終わった調理具の片付けをしながら見ていると、スープやソースに微量の赤い粉を混ぜていた。しかも堂々と。
それとなく調理補佐をしている仲間に聞けば、肌艶を良くする為の栄養剤だと言う。
(違う…あれは栄養剤なんかじゃない……)
副料理長が薬剤を混ぜていたのは王太子妃殿下の為に用意されたもの。
(いつから?なんの為に?)
副料理長の部屋にあった小瓶は100種を越え、あの日たまたま異国の避妊薬が目についたのは手前に置いてあったからで、今までもずっとあったのかもしれない。
この国では珍しい色をした薬剤だから知らない人なら栄養剤と言われても信じるだろうし、異国語のラベルを読まれなければバレる事もない。きっとシャパネに解読できる者は極僅か…それほどナルジスカは遠い国なのだ。
(どうしよう…どうすればいい…?)
下女は焦るも迂闊に動いて証拠を処分されては自分の身の方が危険にさらされてしまう。かと言って、まだ入宮したばかりの一介の下女の話など誰が信じてくれるだろうか。数日に一度混入される様子を確認しながらもどうにも出来ず、精神をごりごりと削られていくせいで日に日に窶れていきとうとう倒れてしまった。
********
「うっ……」
「大丈夫?」
倒れた下女が目を覚ますとそこは使用人用の医務室で、寝台の横に女性がいることに気付いた。
「…アイシャさっ、、」
「無理しないで、まだ横になっていた方がいい」
視界がはっきりすれば女性は王宮侍女のアイシャだと分かり、慌てて起き上がろうとしてふらついてしまった。
「具合はどう?」
「…アイシャさん……っ」
下女はアイシャの姿に思わず涙を流す。
同じ平民であり、王立学園特待生として入学し成績優秀者のまま卒業したのち王宮侍女となったアイシャは下女の憧れで、優しい性格のアイシャを慕っていた。
学友だった妃殿下ラシュエルとの関係も良く、もうすぐ一般侍女から妃殿下専属侍女となることも憧れと尊敬の思いを強くさせている要因である。
(アイシャさんなら話しても大丈夫だろうか…)
本当はすぐにでも相談しようと思っていたが、万が一の時に憧れ尊敬しているアイシャまで巻き込むことが怖くて口を噤んでいた。
けれど、ここ最近あらぬ噂が王宮内を駆け巡っていて、それも下女の精神を削っていたのだ。
『妃殿下は不妊である』
結婚して三ヶ月…仲睦まじいふたりなのに懐妊の兆候がないことからそんなことが囁かれ始め、妃殿下は床に伏せる事が多くなった、と。
妃殿下に子が出来ないのならすぐにでも側妃を召しあげるべきだと一部でざわめき始め、それに抵抗する王太子殿下が荒れているといった話は下女まで聞こえてきている。
「クレア?」
下女…クレアはどうすべきか思案するも、出す答えは一つしかないはずだと分かっていて、それでも覚悟を決めかねてしまう。
「…アイシャさん……」
「なぁに?」
どんなに優秀で仕事が出来ても、平民というだけで理不尽な思いをすることは多分にある。それは妃殿下の覚えがめでたいアイシャも同様で、最短の研修期間で専属となる事をよく思わない者から嫌がらせを受けてきた。けれどアイシャは決して屈することなく、いつだって背筋を伸ばして自分のすべき仕事をこなしていく。そんな姿に憧れと尊敬の念を持つ者も多くいるのが事実で、クレアもその中のひとり。
懸命に努力し、多くの人に慕われる人だから傷付けたくはない…平民女性の誇りであり星であり…クレアにとって大切な存在…そう思えば思うほど、自分の考えを言えなくなってしまう。
「…もし…もしもアイシャさんだったら……大切な人を巻き込んでしまう可能性があるとしても…間違いを起こしている人間を…訴えますか?」
クレアの言葉にアイシャは一瞬表情を曇らせたが、その事にクレアは気付いておらず、大粒の涙を流しながら話を続けていく。
「もしも…もしも誰かが傷付けられているのを知っていて…だけどそれを明らかしようとすれば…自分にとって大切な人まで巻き込まれてしまう危険性もあって…でも傷付いている人を助けられないのは苦しくてっ……でも巻き込んでしまったらと思うと不安で…っ…アイシャさん…アイシャさんだったら…」
震えながら懸命に話すクレアの手を取ると、その手は可哀想なほどに冷えており、下女らしく傷だらけだった。
まるでいつぞやの自分のようだ…そんな風に思い、ポケットに忍ばせていたクリームを取り出してクレアの荒れた手に優しく塗り込んでいく。
「…アイシャさん……」
「クレア…あなたが抱えている不安が誰かを守る為のものなのだとしたら、私はあなたをとても強くて優しい女性だと思うわ」
「……っ…わた…しは……」
優しく塗り込まれるクリームはとてもいい香りで、嗚咽し呼吸を荒げていたクレアも少しずつ落ち着きを取り戻す。
「私にはね、とても大切な親友がいるの」
「…親友?」
「えぇ…とても優しくて、とても強い人よ」
そう言って微笑むアイシャの優しさが、クレアの心にゆっくりと染み込み癒していく。
「その人はね、大切な人の為なら自分を犠牲にしても立ち向かう人なの。見返りなんて求めていなくて、ただ自分が大切だと思うから守りたいと言って」
それは自分も同じだ、とクレアは思う。アイシャを守りたいと思う心に見返りを求めるものなどなく、ただ守りたいと思う気持ちがあるだけ。
「私もその親友に守られたひとりでね…自分では何も出来ず、ただ泣いて怯えるしかなかった状況から救い出してくれた」
少しだけ…ほんの少しだけアイシャの表情に悲しみが浮かんだことに気付き、どれだけの苦労をしてきたのかとクレアは思い図る。
「私が王宮侍女を目指したのは親友の影響なのよ。家族を養えるだけの収入を得られる仕事であれば何でもいいと思っていたのだけれど…尊敬する親友に誇ってもらえるような人間になりたい…そう思って王宮侍女になるべく努力したわ」
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クリームを塗ってくれた手は温かくて、優しく握ってくれているのに力強く感じる。
「…アイシャさん」
「なぁに?クレア」
(守れるか…じゃない)
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(守りたい)
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即答で答えたアイシャの強い眼差しは、僅かに残っていたクレアの不安を覚悟へと変えた。
医務室にはふたりだけ…話すなら今しかない、と声を潜めて話し始める。
「内密にお話ししたいことがあります…妃殿下のお体に起きている事実についてです」
予想以上の告白にアイシャは眉間に皺を寄せてしまうが、緊急事態と判断してクレア同様声を潜めて行動に出る。
「クレア…あなたの身の安全を図ります。まずは私の私室へと参りましょう」
間もなく専属侍女となるアイシャには、王太子夫妻の部屋からそう遠くない位置に私室が既に用意されていた。
クレアが倒れたことを知っているのは、調理場の使用人達と医務室まで運んだ騎士くらいだ。私室移動の荷運び手伝いとしてクレアを連れていくことも可能であると判断した。
「クレア…話してくれてありがとう」
「…っ、、黙っていて…申し訳ありません…っ」
「怖かったでしょう…大丈夫よ、必ずマリウス殿下が解決してくださるわ」
アイシャはマリウスの性格をよく知っている。
誰よりもラシュエルを愛し、何よりも大切に慈しんでいる最愛の人を傷付けられて、マリウスが黙っているはずがない、と。
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