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10 涙に沈むウィンストン家

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 恋心……心は形がなく捉えどころのないものだ。人はいつそれをそうだと自覚するのだろうか。
 クレア・ローランドの場合、それは唐突に訪れる事になる。





 ブライアンとは早く仲直りしたい。会えないままずっと気まずいのは嫌だ。時間が経てば経つほど関係はぎこちなくなるに違いないのだ。向こうは違うかもしれないが少なくともクレアは自分でそう思う。
 しかしクレアも学校が始まっていたのと、隣国アルフォからは王都以上に離れたこの町にあってはどこか浮足立つような雰囲気が充満していて、息子二人共に不在のウィンストンの屋敷を離れるのは気が引けた。心配し特に意気消沈するシシーの傍で彼らに代わって元気付けたかった。

 オーリからの接触も依然としてない。

 だからついぞ、彼女は王都へは行かなかった。
 
 会えないからこそ手紙を書いた。お節介してごめん的なものを。
 返事は期待していないが、ブライアンからの返事はない。まだ怒っているのかもしれない。
 余計に会いたい気持ちは募る。同じように、躊躇う気持ちも。

「お帰りなさいクレアちゃーん、待っていたのよ~。庭で採れたハーブがいい感じに乾燥したからブレンドしてみたの。今日はそれでお茶しましょう!」
「ただいまおば様。それは楽しみですね!」

 ウィンストン家の屋敷に上がる明るい声はシシーとクレアだ。
 ここのところ二人はクレアが帰宅すると毎日ささやかな午後のお茶を楽しんでいる。図書館通いだったクレアも、シシーのために帰宅時間を早めていた。行かない日もある。
 少しでもシシーが寂しくないようにそうしているのだ。
 制服から屋敷着に着替えて庭先のテラスに向かうと、とっくにお茶やお菓子の用意は整っていて、シシーや給仕のベテランメイドがクレアを待っていた。日課になりつつある光景にクレアは微笑んで足を速めた。
 お茶の席ではお互いの出来事やらシシーの思い出話など気の休まる他愛のない話に終始する。
 今日も例に漏れない展開に身を置いていたクレアは、焼き菓子を一つ頬張りながら、ふと思い付いた問いを口にした。

「そういえばおば様、昔はおば様自らがケーキを焼いていたってブライアンから聞きました。とても美味しいケーキだったって」
「あら、そんな事をあの子が?」
「はい。しかもケーキさんの店のケーキがおば様の味に似ているとかで、よくドカ食いしに行くんですよ。知ってました?」

 シシーは当然驚いた。いくら母親だからと彼女もそこまで細かい息子の行動を把握しているわけではないのだ。しかも普通は息子に手料理を褒められたら嬉しいだろうに何故か複雑そうな色を浮かべた。クレアは内心で首を傾げる。

「あの、どうして作らなくなったんですか、ケーキ?」
「うーん、実はねえ、腕が落ちて作れなくなっちゃったのよね。こればっかりは仕方のない事ね」

 そう小さく笑むシシーはけれど全然惜しいとは感じていないように見えた。普通は料理の腕が落ちたら落ち込むものではないだろうか。

(こういうのも人それぞれ……って考えればいいのかしら)

 シシーにはシシーの感じ方がある。クレアの標準を当て嵌めるべきではないのだろう。

「そうだったんですか。おば様的にはケーキさんの店のケーキの味は自分の味と似ているって思います?」

 ブライアンから話を聞き食べてみたかったシシーの味が近いところまで再現できているのなら、クレアもシシーの味を食べたも同然だ。そう思って尋ねていたのだが、シシーはおっとりとしてより微笑みを深めた。

「ええ。光栄にも、全く一緒ね」

 クレアは不思議な言葉を聞いたように目を瞬いた。
 何が不思議なのか判然としないままはたと我に返ると、改めてオネエパティシエの腕前は相当らしいと感心した。

「あ、そうだ、ニック兄様も森のタヌキが食べに来ていたっても言っていましたっけ」
「ああそうなのよ、タヌキ、来ていたわね。甘党タヌキだったみたい」

 タヌキにも甘党がいるのかも知れないとクレアは生まれてこの方初めて考えてどこか可笑しくなってしまった。シシーも同様だったのか、クスクスとお茶とお菓子の並ぶテーブルには楽しげな笑い声が上がっていた。
 息子達の名前が出たからか、その後はシシーが二人の思い出話をしてくれた。兄弟二人がまだ小さくてわんぱく少年達だった頃、二人で北の森に入って迷ってしまった事件があったのだとか。
 屋敷の皆は物凄く心配して、シシーは捜しに森にまで入ったらしかった。結局、幸いにも二人は森の入って浅い所の茂みで疲れて二人で眠っていた。
 起きた二人から訳を聞くと、二人は甘党タヌキにシシーの焼いたケーキをあげようと思い付いて無謀な行動に出たそうだ。

 以来、シシーはケーキを焼けなくなった。

 幼かった二人は初めのうちはシシーが心配をかけた二人に激怒して作ってくれないのだと思っていたようだが、そのうち何年と経ちどうして作らないのかと問われた際には単に腕前が落ちたからだとシシーは適当な理由を口にしたそうだ。
 当事者二人は知らないから内緒よ、と困ったような顔をしたシシーはやっぱりクレアにだけは話しておこうと話してくれたらしかった。

「ケーキさんにはね、とても感謝しているのよ」

 それは失われるはずの自分の味を息子達に提供してくれている事への心からの言葉だろう。
 シシーの姿にクレアは切なくなる。愛する者に自分では作ってやれないもどかしさ。クレアもかつて家族で王都にいた頃は似たような気持ちを味わったから。

「よし、わかりましたおば様。二人には今度帰ったら朝昼晩の三食にたらふくケーキさんのケーキを出してやりましょう!」

 予期しないクレアの反応だったのか、シシーはあらまあと驚いて「それはいいわね!」なんて乗り気になった。
 その時二人はどんな顔をするだろう。まさか母親まで仕掛人だとは思いもしないに違いない。そういう部分でシシーはお茶目な人でもあるのだ。





 王都に戻って通常通りの授業が始まって半月になろうかとしていたその日、ブライアンは一人騎士学校の鍛練場で遅くまで稽古に励んでいた。

 学校には幾つも訓練場や鍛練場があって武芸の種類によってその造りが異なる。
 今彼は格闘技の型の練習中だった。実戦では必ずしも武器だけで戦うわけではない。近接戦闘の折には徒手空拳で敵を倒す技量だって求められるのだ。

 あの日、兄のニコラスがクレアにプロポーズをした日から、彼は家の事は考えないようにしていた。情報を遮断していたのだ。
 クレアからの手紙も封を開けてさえなかった。

 考えなくていいように一層の修練に励み、連日疲れ果てて寮の部屋に戻ってはベッドに倒れ込むようにして夢さえ見ずに眠る日々を送っていた。今日だってそうだ。
 今あの二人がどんな関係になっているのかは知らない。兄は同じ王都にある大学に戻っているはずだしクレアは故郷のウィーズにいるだろう。
 ドッと疲れた心地で足を引き摺るように寮に戻り、何をしても浮上しない落ち込んだ気分でベッドに腰かける。
 机の上に放置したままにしていた手紙が目に入り眉根が寄ってしまった。どこかに仕舞えばいいのだがクレアの手紙だからか無言の圧のようなものを放っていて出したままにしていた。
 いや、本当は仕舞いたくなかったのかもしれない。

「いつまでも読まないままってわけにもいかないよな」

 とうとう彼は観念して机の傍に立つとゆっくりと手紙を開いた。
 手紙には、流麗なクレアの筆跡で自分がしつこくして怒らせたならとの謝罪の言葉と、仲直りしようという趣旨の文章が認められていて、彼は子供染みて身勝手な酷い態度を取った自分に猛省し項垂れた。

 それから、ニコラスのプロポーズは断ったとも。

「は!? な……んで……」

 加えて、しかし伯爵夫妻には保留と思われているとも。ブライアンは両親の性格から何となく何があったかが見えて納得した。
 彼とて、別にクレアと喧嘩をしたくはなかった。究極の言い訳をすればあの時はただこれでもかと言う程に機嫌が悪かっただけなのだ。
 とは言え、改めて自分の幼稚さ未熟さを痛感し心底情けなく恨めしく思う。常に穏やかで沈着な兄とは雲泥の差だ。
 断った理由は知らないが、ブライアンはあのプロポーズの時、クレアと兄は確かに運命のようにお似合いだとそう本気で思ってしまって、そんな風に思った自らにも衝撃を受けた。
 完全に負けていると。
 今だって、どんなに鍛えたところでこんな離れていては現実は何も変わらないのだ。
 心底会いたかった。
 行き場のない苛立ちを込めダンッと部屋の壁に拳を打ちつける。完全に八つ当たりだ。

「…………くそ痛え」

 そのまましばらく、彼は黙って項垂れていた。

 深夜、大半が就寝中だったろうブライアン達騎士学生全員に招集がかかった。
 赤土の屋外大鍛練場に集められた生徒達は一体何事かと眠い目を擦りながら教官の指示を待っている。
 ややもして、学校で一番偉い屈強な体躯の学校長自らが、重たそうな義足を引き摺って大鍛練場前方の壇上へと上がった。

 この夜更けに校長自ら出てくるほど重要な話があるのだろう。

 実はこれもよくある抜き打ち訓練の一環だと半分の学生が思っていたので、まさかのトップの登壇にざわつきは次第に張り詰めた緊張感へと置き換わっていく。一分も経たないうちに大鍛練場内は静まり返った。

「学生諸君、単刀直入に言おう」

 かつては現役で戦ったのだろう幾つも顔に古傷が残るどう見ても堅気の人間には見えない人相をした騎士学校長は、努めて冷静な声で話し始めた。

「我が国はつい今し方、隣国アルフォと開戦した。追って詳細を伝えるが、前以てその可能性を通達してあった通り、諸君らにも後方支援担当として戦場へ赴いてもらう。今日既にオーリ王子殿下が急ぎ現地へと飛んで指揮を執っておられる。我が国そして殿下の力となって卑劣な敵国から王国の国土を護り抜いてくれたまえ! わしからは以上だ!」

 それは真夜中にあって青天の霹靂だった。
 後方支援とは言え、死ぬかもしれない戦地へ参じろと夜半に突然叩き起こされ命じられた学生達は大半が青ざめた。中には力が抜けて座り込んでしまった者もいる。
 今ここに居る者は一時帰郷で学校に残ると決断した者だけだ。それでもこうなのだ。本当の覚悟というものは時にこの上なくも難しい。

 多くの学生達がどよめく中、ブライアンは無言で学校長が下りた壇上を見据えていた。

 幼い頃はやや喘息持ちで体が弱かったブライアンは、大きくなったら強くなって大切な人達を護れるようになりたいと思っていた。クレアと出会ってからはその気持ちが強くなり、人間やはり気力は大事な健康の要素なのか寝込んだりもしなくなっていた。
 だからすっかり治ったと医者から太鼓判を押されてすぐに騎士学校への編入を決めた。
 この王都が陥落するとは考えにくいが、最悪の戦況によっては王都の更にその先の大事な故郷ウィーズも戦地となり得るかもしれない。

 そこには家族が、顔馴染みが、そしてクレアがいる。

 彼は拳を握り締め、言い知れない動悸と焦燥にギリリと奥歯を噛みしめた。
 決定は翻らず開戦も最早どうにも覆らない。
 勝利を齎すためにも後方だろうと最善を尽くすしかないのだ。
 一度解散し現地へと出発する準備を早々に始めながら、勝手にいじけてクレアに返信を書く暇がなくなってしまった後悔と、手紙を読んで良かったという安堵を感じていた。





 開戦の報はまずは王都とそして開戦地たる東南国境の街から忽ち国全体へと拡がった。
 戦場から離れた西方に位置するウィーズでも町を歩けば不安の声が聞こえてくる。
 この日、クレアはシシーが倒れたと知らせを受けた。屋敷のメイドがわざわざ学校まで知らせに来てくれたのだ。午後の早いうちに早退したクレアが駆け付けると、夫人シシーの寝室の前で伯爵が難しい顔をしていた。まさかシシーに何かあったのではと青くなる。

「おじ様! おば様が倒れたって聞きましたけど、おば様の容体は?」
「今は薬を飲んで眠っているよ。何、一時的なもののようだ」

 大事はないようで、クレアはとりあえずは安心した。

「一体何があったんですか?」
「ああ、それがね、速達を受け取ったんだよ。ブライアンが既に戦地入りしたとのね」
「えっもう!? 学生も派遣されるとはなってましたけど早くないですか!?」

 いつもニコニコとしている伯爵のバートも今ばかりは深刻さを絵に描いたような面持ちでいる。
 兵士ともなれば命のやり取りに加担する立場。善良悪徳の区別なくたった一つしかない命を奪い奪われる地獄に突き落とされる。
 誰だって愛する家族が死ぬかもしれないそんな地にいる姿を想像したくはないだろう。

(ブライアンはまだ学生だし、予備役みたいなものだと思ってたからもっと後になるって勝手に思い込んでた。あわよくば派遣される前に戦争が終結すれば御の字だとも)

 それなのに彼は既にそこにいるのだ。

(お願いブライアン、怪我しないで帰ってきて)

 強張った顔をして言葉もなくその場に佇むクレアを見かねたのか、バートが部屋で休むように言ってくれた。
 クレアは夕方には薬が切れて目を覚ましたシシーの元を訪れて、余計な言葉は言わないでギュッと抱きついたものだった。シシーも抱きしめてくれた。

 開戦からあっという間に一月が過ぎた。

 戦地の状況は一進一退で膠着しつつあるらしい。

 好戦的で指揮官として優秀と言われるオーリ王子にしては手こずっていると専らの噂だった。今回はそれだけ相手も戦力を投入し戦略を練ってきていて厄介なのだろう。
 東南国境付近は峡谷や岩が多い地形と言うのも戦いを長引かせている一因だろうと言われていた。

 ブライアン達騎士学生が戦地に送り込まれた話は当然友人達にも広まっていて、一緒に無事を願ってくれる友人もいれば、どこまで本気なのか北の森の魔女に願掛けしようと言い出す友人もいた。

 決して負けは望まないが、最悪引き分けでもいいから終結してほしい。ウィーズの誰もが思い、クレアはブライアンの無事を願った。

 御守りではないが、彼からもらった青薔薇の髪飾りを手紙と共に戦地に送りもした。

 戦時下だが、従軍兵は家族や友人との手紙や電話でのやり取りは可能なのだ。親しい者との絆を深める事は士気の底上げにも繋がるからと許可されていた。

 ――無事に帰ってきてあなたの手で髪に挿してほしい。

 小箱に入れた髪飾りに添えた手紙には短くもそう綴った。少し背伸びした感じの文言になったかもしれない。またブライアンの手でそうしてほしかった。十四歳の日のように。
 喧嘩をしていてもきっと彼は期待に応えてくれるだろうとクレアはそう信じている。

(約束があれば、簡単には死なない)

 一方的に押し付けた約束だろうと、気休めでもそう思うからだ。

 他方、王都にいるニコラスからは多忙なのか連絡はない。

 彼だって帰ってきて家族を元気付けたいに決まっている。そういう男だ。

(でも帰ってこれないみたいだし、あたしは不在の二人に代わっておじ様とおば様を支えなきゃね)

 この一月、クレアは今まで以上に話し相手になったり一緒に出掛けたり庭仕事を手伝ったりして伯爵夫妻を励ました。
 クレアの献身をその身で感じていたシシーは三人での夕食の時間にクレアに感謝を述べながら、気丈に微笑んだものだ。

『私の子供達が若くして私よりも先に……なんて絶対にないわ。だからクレアちゃんも安心してあの子の帰りを待っていて』

 希望的言動でも妄言でもなく、シシーは確信を持ってそう言っているようだった。
 いつ何時でも信じる心。それが母親なのだろう。
 バートは妻の台詞にしかと頷いていたが、その翌日たまたま庭仕事を手伝った庭先で花がらを摘み取りながらクレアにこっそりこんな話を打ち明けてくれた。

『元々シシーは心がそんなに強くはないんだよ。昔ブライアンは体が弱くてしょっちゅう寝込んでね。シシーはその度に泣いて取り乱していたものだったんだよ。あの子のベッドから離れようともしなかったしね。それがまあ何があったのか、今は別人のように強くなったけど』

 バートによればそれでも時々、先日のようにショックな事があると倒れたり取り乱してしまうようだった。

『おじさんもさ、今でこそこんな風に庭いじりをしながら笑って話せるんだけどね』

 そう語るバートをクレアは不思議な心地で見つめた。長年連れ添ってきた夫婦の形は様々あれど、二人のような姿には憧れる。
 日々二人を見ていてわかる。お互いを深く愛していると。

(愛……愛してる、か)

 何となくそう胸中で呟いたクレアは、ふと、母親の問い掛けが耳奥に甦った気がした。

『シシーには話した事は内緒だよ? 機嫌を損ねられてしまうからね』

 バートはニコラスと似たような人好きのする笑みで茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。ニコラスの柔らかさはこの父親譲りに違いなかった。

『ところで、ニコラスから音沙汰がないなんて、王都も色々と大変なんだろうね』

 考えていたらちょうど彼の名前が出てきてクレアはちょっと目を見開いた。

『そうですね。こんな時ニック兄様なら真っ先に手紙か電話かくらいくれそうですしね』

 開戦したからかとその時まで疑問に思わないでいたが、よくよく考えてみると少し不自然だった。ブライアンとは別に彼の環境にも何か変化があったのだろうか。
 クレアはニコラスの静観に不安なものを感じた。

(もう、兄弟揃って人を心配させる天才ね。一度王都に行って兄様に直接会ってきた方がいいかもしれないわ)

 そんなわけで、その日のうちにクレアは伯爵夫妻と相談して直近の週末を利用して再び王都を訪れた。

 今回は勿論クレア一人でだ。

 自分も行くと言い出した伯爵達には屋敷にいてもらった。シシーも本調子ではないようだしそもそもバートはウィズランド領の主なのだ。庭いじりなどして暇そうに見えてその実領地経営のあれこれを日々捌いているのは彼だ。今は戦時下でもある。故にクレアはおいそれと領地を離れるべきではないと説得した。

 前回からさして間を置かず訪れた王都は、相変わらず人が多く街中はほとんど戦争を感じさせない落ち着きを漂わせていた。

 クレアは駅を出たその足でニコラスの在籍する大学へと向かったが、生憎彼には会えなかった。

 ならばと研究室にいた人間に伝言を頼んだが、数人いた彼らの誰もニコラスが現在どこにいるのかわからず、連絡を取りたくても彼らからは取りようがないと語った。
 逆にクレアにニコラスと会えたら研究室に来るように言ってほしいと頼まれる始末だった。
 意外な展開に戸惑うクレアはぎこちなくもわかったと請け合った。

(兄様に何が起きてるの?)

 深刻に考え込むような顔付きで王都の街を一人歩くクレアは、研究室生の把握しているニコラスの最後の足取りだけは知る事ができた。

 ――急に王城へと呼ばれて行ったんだよ。

 そう言っていた。そんな急に呼ばれるような密かに何か凄い実験でも成功させたのだろうか。

 とは言え、王城からはちょくちょくニコラスの名でまだ城から帰れないと連絡があるらしい。

 研究室の誰もそれなら仕方がないかと、連絡できない不便は感じているようだが不審には感じていないようだった。王城に召された研究者が王城に泊まり込むのは珍しくないからだろう。現にニコラスには外城に部屋が与えられている。

(だけど、呼び出されて一月も経つみたいじゃない。兄様はその間ずっと城に滞在って、何かおかしくない? まるで軟禁みたいよ)

 クレアは悩んだ末に一度王城にも行ってみる事にした。
 しかし、王城は街中とはガラリと雰囲気が異なった。戦時下のせいなのか外城にさえ入れてもらえなかった。ニコラスの知り合いだと彼の名前を出してみたが、てんで駄目だった。

「それどころか、余計に怖い顔されて追い払われちゃったわ」

 他に取る術もなく、早々に用事の済んでしまった彼女は予定していた宿泊の必要もなくなりその日のうちにウィーズへの列車に乗った。

 ウィンストンの屋敷に着いたのは言うまでもなく夜遅かった。

 屋敷の皆は眠っているだろう。
 ウィーズの駅から乗った馬車へは、遅い時間への感謝も込めて料金を多目に渡して降りた。
 箱馬車だったのと一日出歩いた疲れからうとうととして外を見ていなかったクレアはようやくふと顔を上げてウィンストンの屋敷を見やった。

「え、暗い……?」

 屋敷の個人の部屋はともかく、使用人は遅くまで仕事のある者もいるので廊下の明かりは絞りはしても消さないのがウィンストンの屋敷の常だ。部屋にしてもどこかは点いている。
 しかし今夜はどこも全てが消えていた。

「節約? ……なーんて、きっと珍しく皆早くに仕事を終えて寝たのよ。うん、そんな日もあるわ」

 そう結論付けてクレアは暗い屋敷玄関へと向かう。

 見当違いとも知らずに。

 夜遅くとも、例えば予期せぬ来客があった時などのために誰かは宿直として起きている。クレアは申し訳ないとは思いつつも玄関ノックを叩いた。

「おお、クレアさんお帰りなさいませ……! てっきりお帰りは明日になるかと思っておりましたが、お早いお帰りで何よりです」

 扉を開けてくれたのはクレアの祖父くらいの年代であり祖父のような存在でもある白髪白髭の執事マクローリンだった。小さなランプを手にしているので下から照らされるシワの深い顔はちょっと怖い。

(あれ? 何だか凄く疲れて見えるけど……)

 目が落ち窪んでいるように見えるのはこの薄暗さのせいなのか、いつもはきっちり撫で付けられている髪も取り乱して頭を抱えたかのようにほつれているし、一日の仕事を終える頃の彼は実はこんなようなのかはわからない。
 中に促されてわかったのは何故か誰も就寝していないようだという点だ。
 何故なら夜も遅いので伯爵夫妻への挨拶は明日にして部屋に上がろうかと思っていると、音を聞き付けたのか玄関ホールに見知ったここの使用人達がほとんど全員姿を現した。
 それぞれの手燭やランプしかなく全体的に暗いせいで顔色はよく見えないが、何だか一様に皆どこか青ざめている気がする。執事同様に憔悴したようにも見えてやや不気味でもある。

「ええと、寝ないで皆で肝試しでもしてるんですか?」

 少々薄気味悪さを抱きつつ少しでも場を和ませようとして問えば老執事マクローリンは意外にもぐすぐすと鼻声を出した。

「ええ、ええ、幽霊ででもお会いできるのなら、わたくしも本望でございます」
「幽霊って、まさか本当に屋敷で肝試しを?」

 執事は沈痛な微笑を湛えた。

(え、何か……)

 ここにきてクレアも屋敷の雰囲気の異変に言い知れない寒さを感じて体をやや強張らせた。

「あの、な、何かあったんですか?」
「はい。今朝クレアさんがお出掛けになられてから届いた軍からの知らせに……っ」

 言葉尻が言葉にならない只ならない執事の様子は冗談でも演技でもなさそうで、クレアは背中どころか足元から得体の知れない虫が這い上がってくるような悪寒を覚えてぶるりと震えると、一歩彼へと詰め寄った。

「その知らせには、何て書いてあったんですか?」
「知らせには……知らせ、には……」
「マクローリンさんっ」

 おそらくは何か酷な言葉を言わせようとしているのは何となくわかる。けれどクレアは彼の口から聞かなければならないと確信すら持っている。今クレアが一番早く情報を手にできる彼から。

「お願い教えて下さいっ」
「――戦死した、と」
「え? 誰……が?」
「…………――ニコラス様が」
「嘘よっ!」

 クレアは反射的に叫んでいた。

「だって意味がわからないじゃないっ。ニック兄様は兵士じゃないし王都にいるのよ。今日大学の人から王城に詰めているって聞いたのよ。戦場になんているわけないわ!」

 言葉遣いに気付いてハッとして小さく謝罪したクレアを咎めはせずに執事は仄かな期待の光をその目に浮かべた。

「で、ではクレアさんはニコラス様に直接お会いしたのですね?」
「それは……いいえ、会えなかったんです」

 ニコラスが王都に、王城にいる確証は得られなかったのだ。

 執事は希望を消して項垂れた。

「軍からの正式な通知なのです」
「でも、誰かと間違っているとかは……」

 言っておいて笑いそうになる。一体誰と間違うというのだ。ドクリドクリと心臓が嫌な音を立てる。耳鳴りがするようだった。クレアは急に膝を突きそうになって執事に支えられた。使用人の誰かの啜り泣く声が聞こえてくる。悲しみがぶり返したのだろう。
 暗い玄関ホールに、せめてもと点してある執事の持つランプも光明には程遠い。

「おじ様とおば様は今どうして……?」
「奥様の寝室でございます。シシー様は知らせを聞くや倒れられました。旦那様は気丈にもそれからずっと付きっ切りで看病しておられます」

 悪い冗談だと誰かに笑い飛ばしてほしかった。或いは悪い夢だったと目が覚めればいい。
 よろよろと歩き出すクレアは早く二人に会いに行かなければと思うのに、膝が震えて上手く力が入らない。それでも太股を拳で叩いて叱咤してシシーの寝室前まで辿り着いた。
 取っ手に手を掛けようとしたクレアはしかし、直前でその手を強張らせた。細く開いていた扉の向こうからは伯爵の押し殺した啜り泣きが漏れ聞こえてきたからだ。
 隙間から伸びる卓上ランプからだろう薄い光を前に暫くクレアはその場に突っ立った。俯いて微動だにできない。

「ああ、シシー、気が付いたかい?」

 中からバートの涙交じりの声がしてクレアは顔を跳ね上げる。

(おば様!)

「あぁバート、嘘よね? そうよね、そう言って頂戴! いやよ……嫌よイヤよイヤあああっ、私の子がっ、あの子がっ、ニコラスがっ死ぬはずないのよっ。嘘つき嘘つき嘘つきうそつきいいいーっ、約束したじゃないっ死なないと! 私のケーキをあげたじゃない……!」
「シシー落ち着きなさい、シシー。シシー!」
「今すぐ確かめに行くわっ、私のこの目で見ないうちは信じるものですか! 放してっ、行かせて頂戴っ! 放してえええっ!」

 伯爵が妻の名を呼ぶ声の他に、シシーは錯乱し激しく暴れているのか「奥様っ」と中にいるメイドか医者の声もする。揉み合うような衣擦れの音はシシーを押さえようとしているからだろうか。依然としてシシーは狂ったように嘆き喚き時折り誰に向けてか責め立てるような甲高い声で泣き叫んでいる。

「…………」

 ぐ、と咽を詰めるクレアは音を立てずに後ずさって、来た道を一歩また一歩と引き返した。これはクレアの聞いてはいけない、見てはいけないものだ。
 叫び声が聞こえて来ない場所までどうにか離れた彼女は、よろけながらも走り出す。一度も足を止めずに伯爵家の書庫に駆け込んで所蔵の魔法書を必死で漁った。
 生き返らせるなんて大逸れた方法を探していたわけではない。ただ何もせずにはいられなかっただけだ。誰かに何かに気を紛らせてほしかっただけだ。嘘だと言える何かを見つけたかった。

 この屋敷は今夜闇の中で静かに静かに死んでいくかのようだ。

 その闇に呑み込まれてしまうのが嫌で、書物を乱暴に閉じるや今度は書庫を飛び出して必死に足を動かした。

 級友の言葉を思い出していた。ほんの一部本気でほとんど大半が冗談だったのだろうその発言は、少し前のクレアだったなら馬鹿げた思い付きだと一笑に伏していたに違いない。

 途中、玄関方向へと駆けるクレアを見かけた執事が案じるような目で呼び止めてきた。

「クレアさん、まさか外に? どこかへ出掛けられるのですか?」
「ええ。行きたい場所があるんです」
「しかしこの時間ですよ?」
「いいの、行かせて下さい!」
「あ、クレアさん!?」

 制止の声を振り切ってクレアは屋敷を出た。震えていた足も気力を総動員して全力で走らせる。

 走って走って走って息が苦しくても走ってぜえはあと酷く乱れる呼吸に胸を押さえる彼女は、北の森の入口に来ていた。

 屋敷からそこそこ近いのもあってかつて小さな子供だったウィンストン兄弟の足でも森に行けたのだ。

 北の森の魔女に願えば願いが叶う。

 独学とは言え魔法の知識のあるクレアにはその眉唾な話が事実である可能性を捨て切れない。

「森の魔女が本当にいるんなら……」

 明かりも持たずにガサガサと茂みを掻き分けて森に入るクレアは、何をどう願い何を差し出すのかも明確に考えないまま勢いだけでここまできた。縋れるものがあるのなら一縷の望みがあるのなら、亡者のように手を伸ばす。自らが絶望という直情に突き動かされた半端な決意しかない愚者とも気付かずに。

「古代の魔女! いるなら出てきてどうかあたしの話を聞いて!」

 ひたすら進んでずっとずっと奥まで進んで、自分がどこにいるのかわからなくなるまで夜の森を歩き回って声が枯れるまで呼び掛け続けた。

「あたしにできるどんな代償も払うから、だからニック兄様の知らせが嘘だと確かめさせてっ、皆に間違いだったって証明してよ!」

 驚いた梟だろうか、何かが枝から飛び立ったが魔女ではないだろう。森には野生生物達の気配しか感じられなかったがクレアは不思議と遭遇はしなかった。
 とうとう東の空が白んで、森の空を朝で満たした。

「お願いだから、兄様を今すぐ目の前に連れてきてよ……っ」

 疲れ果てていたクレアだが、尚も魔女を探そうと目の前の茂みを突っ切って、そして半ば呆然として大きく目を見開いた。

「どう、して……何で、何でよ……っ、あたしじゃ駄目だって言うわけ?」

 抜けた先は何と森の入口だった。夜中歩き通して森の奥まで入ったはずなのに振り出しに戻っていたなど、これでは狐狸の類に化かされた人間のようではないか。何らかの魔法が働いているのだろうか。だとしたら森の魔女は存在するという結論になる。

 しかし仮にそうだとしてもクレアのこれは魔女からの拒絶であり、深く傷付いた者への慈悲だ。それか会うに値しない者に自分の縄張りで煩くされても迷惑だという理由かもしれない。
 気力を奪われたクレアは暫くその場にへたり込んでいた。

 トボトボとした足取りで屋敷に戻ると、気を揉むように玄関外にいた伯爵と執事と屋敷の何人かが走り寄ってきた。

「クレアちゃん一体どこに行っていたんだ!」
「ああクレアさん無事で何よりです! あなたにまでもし何かあってはと旦那様に奥様そして屋敷の皆も心配していたのですよ!」
「え、あ、そうだおば様……おば様は、大丈夫なんですか?」

 どこか幽鬼のように尋ねるクレアの姿を見下ろす伯爵の顔に痛々しさが浮かぶ。

「ああ。シシーは自分だけが取り乱していては示しがつかないと思ったのか、冷静さを取り戻したよ。ベッドからは出られないけど、ずっとクレアちゃんを案じているから、だから早く無事な姿を見せてやってくれ」

 クレアはやっと他者の気持ちを失念していたのを悟った。自分の気持ちばかりが先行して無茶をやらかしたのが恥ずかしくなる。

「あ……その、心配かけてごめんなさい」
「いいんだよ。クレアちゃんが謝る必要はないさ。ありがとう無事に帰ってきてくれて」

 クレアはツンと鼻の奥が痛くなった。どこに行っていたのかを説明するとその場の皆はややショック顔で愕然としたが、一度バートは「もうそんな無茶をするのではないよ」とクレアを抱きしめてくれた。
 訪れたシシーの部屋では、彼女はクレアを見るなり涙を浮かべて抱きしめてくれた。
 シシーからは休息を取るようにと珍しくも強い口調で言われた。余程酷い顔をしていたのだろう。
 言われた通りに身綺麗にして枝葉で作った小さな傷を手当てしてからベッドに横になると、知らずのうちに眠っていた。泥のようにとはよく言ったものだ。起きたら朝だったのが夜だった。

 覚めた直後で意識がぼんやりしていても、寝る前までの現実は現実で絶対的に夢ではないのは理解できていた。

「ニック兄様……」

 クレアはベッドの上で目元を腕で覆い隠した。目尻からの涙を拭うのもしないでそのままに、耳の後ろの枕が冷たくなるまで。

 まだ整理はつかない。
 けれどわかっているのだ。

 ニコラスの死を、クレアは受け入れなければならないのだと。


 そして、数日もしないうちに王国全土に戦争終結と自国ラクレアの勝利の報が齎された。
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