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旦那様、私をそんな目で見ないでください!20
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次の日の朝、雛は響介が起こしにいくと、もう目を覚ましていた。よほど林間学校が楽しみらしい。あわただしく身支度を整えると、お気に入りのリュックをしょって嬉しそうに出かけて行った。
「行ってらっしゃい、楽しんでおいで」
笑顔で送り出した響介だが、内心は静音のことで頭がいっぱいで、まったく余裕がない状態だ。口先だけで言ってしまったようで心がとがめる。
一緒に玄関で見送った静音はいつもと変わらない様子だ。響介が昨日言った事をどう思っているのだろう。そんなことをグルグル考えながら、響介は自分も身支度を整えると職場へと向かった。
今日は出来るだけ遅く家に帰ろう。遅く帰ったからといって、自分が言ってしまったことから逃れられるわけではないのだが、面倒なことをつい先延ばしにしようとしてしまうのは人間の常ではないだろうか。
響介は大学の自室で特に急ぎでもない仕事で時間をつぶしていた。
ふと携帯に目をやるとメッセージが届いていた。送り主は最近は自分のことで忙しいらしくめっきり響介のところに顔を出さなくなった凛太朗からだった。
『今日から雛ちゃん林間学校なんだって?俺が慰めに行かなくても大丈夫か?』
美里さんと静音さんはこの間出会って以来、頻繁に連絡を取っているらしい。そして凛太朗は美里さんとうまくいっているようだ。
『余計なお世話だ』
響介はイライラしながら返事を返した。世の中は理不尽だ。凛太朗のような要領のいい奴が得をするように出来ている。俺は真面目に生きているのに、どうしてこう次から次へと問題が湧いて出てくるんだ。
雛が気に入る家政婦さんがみつかったところまではよかったのに…、まさかこんな悩みが待っていようとは夢にも思っていなかった。
もう十一時だ。夕食は要らないと静音さんに連絡は入れてあるが、明日の授業の事を考えるとそろそろ家に帰るべきだ。響介はノロノロと立ち上がると大学をあとにした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
静音さんは本を読んで響介の帰りを待っていたようだ。ダイニングテーブルの上にしおりを挟んだ本が置いてある。
待ってなくてよかったのに。一瞬そう言いそうになった。自分がどうしたらいいか分からないからつい出そうになったその言葉で、とんでもなく彼女を傷つけてしまうところだった。しかし、女性は男性よりはるかに敏感だ。
「旦那様。私、昨日言われたこと気にしていませんから」
きっと彼女は響介が戸惑っていることを察してそう言ってくれたのだろう。
しかし、本当に自分でもどうしたらいいのか分からないのだ。彼女にいなくなられては困る。だけど、こんなおかしな関係を続けるのは響介の良心がとがめて仕方がないのだ。彼女の気持ちはハッキリしている。響介の方はと言えば、男である前に雛の父親であることを意識しすぎているせいなのか、自分の気持ちを感じとることができないでいる。
「すみません」
謝ることも失礼と言えば失礼だ。いったい何に謝っているのか。本当に不義理ばかりを繰り返している様で自分が嫌になる。なんでこんなに優柔不断なんだろう。
「でも、私、雛ちゃんがいなかったら、自分の気持ちをどう止めたらいいか分かりません」
静音はそう言うと、響介の胸に飛び込んできた。
え、えっと、とりあえず抱きしめないと。
響介はぎこちなく静音の背中に手をまわした。静音は響介とは比べものにならない程激しく響介の背中を掻き抱いてくる。嫌でも彼女の熱量が伝わって来る。
しかし、今の響介はそれを受けとめる理由を自分の中に見つけることができない。彼女が激しく求めれば求めるほど響介の頭の中はやけに冷静にその様子を観察してしまう。いつの間にか響介の両手はだらりと下りていた。
それまで夢中で響介を求めていた静音も、その手を止めた。そして、そっと身体を離すと響介の顔を見上て悲しそうに笑った。
「ごめんなさい。私、バカみたいですね」
そう言うと、静音は二階の自分の部屋へと階段を駆け上がっていった。
バタンとドアが閉まる音とともに、響介は我に返った。
ど、どうしよう。ごちゃごちゃ考えないで彼女を受け入れるんじゃなかったのかよ。それが、どうしてこうなった?響介は頭を抱えた。だけど、身体が勝手に動かなくなったんだ。これ以上俺にどうしろって言うんだ。響介はきつく締めていたネクタイを外すと床に叩きつけた。
夕べはあんなことがあったせいで、中々眠りにつけなかった。しかし、朝は確実にやってきて…、静音さんとも顔を合わせなくてはならない。気まずい…。
だが、朝の時間は夜のそれより随分早く過ぎていく。もたもたしていると授業に遅れてしまうのだ。響介は意を決して部屋を出た。しかし、いつもドアを開けると鼻をくすぐるあの香りがしてこない。まさか、と悪い予感が胸をよぎる。響介はキッチンへと階段を駆け下りた。
ダイニングテーブルに手紙らしきものが置いてある。
俺の場合悪い予感は当たるんだな。響介は自嘲気味に笑った。
『旦那様。いえ、最後だけでも響介さんと呼ばせてください。私の勝手な思いが響介さんを苦しめてしまったこと本当に申し訳なく思っています。短い間でしたがお世話になりました』
手紙と一緒に置いてあったのは可愛らしいコサージュだった。雛ちゃんの発表会の衣装に合わせてつくってみましたとメモ書きがしてあった。
嘘だろ…。響介は自分の行動が彼女をそんなに追い込んでいたとは思いもしなかった。だから、もう少し時間をかけていけば何かしらの答えが出るだろうと高を括っていた。
雛の家政婦としての彼女という存在、そして雛の父親としての自分という存在。そういう関係性からしか見ることができていなかった。だが、こうして彼女が出て行ってしまった今感じるのは、心の中からぬくもりのようなものが消えてしまったということだ。
普段は物静かで、だけど響介に対する内に秘めた思いだけは火傷する程に熱くて。雛がいる時にはそんなことを全く感じさせない気遣いもある。日中は、彼女の強い自制心のおかげで響介が同じ空間にいてもおかしな空気にならずに普段通り過ごすことができていた。響介はそれに甘えていた。そして彼女の強い思いを軽く見ていたのかもしれない。
彼女は自分の気持ちと毎日闘いながらすごしていたのにそれに気付いてあげられなかった。彼女の行動は自分の気持ちを優先させているように見えていたけれど、実は彼女の中では最大限、雛と響介のことを優先してくれていたのだ。(夜這いと言ってもおかしくない行動もあったけれど、男の自分が本気で拒絶すれば成立しないことだ)そして、最後まで僕たち家族のことを優先させて自分は身を引いたのだ。
ポタリ。テーブルの上に滴が落ちた。あれ何だこれ?俺、泣いてる?
(お前は本当にバカだな)
もう一人の自分の声が聞こえた。
(彼女がいなくなってお前が寂しいからに決まってるだろうが)
は?俺が寂しいって。彼女との関係性に困り果ててたっていうのにか?
(困っていたのは、お前の気持ちがぐらつき始めてたからだろう?)
ぐらついてなんかない!
(まったく、助教授なんて職業は本当に邪魔くさいもんだな)
俺が俺を罵倒するな!
(若い女の子に猛烈にアタックされてあっという間に落ちちゃったなんて、助教授のプライドが許さないんだろう?)
ち、違う、落ちてなんかない!
(じゃあ何で泣いてるのか説明してみろよ)
そ、それは分からん。
(だったら、ずっと泣いてるんだな)
そういう訳にはいかない。仕事にいかなきゃならないんだ。こんな顔じゃあ生徒の前に立てない。
(そんな見栄ばっかり張ってるから、あんなに若くて綺麗な女の子が素直に好きって言ってくれてるのに、まともに向き合うことすらできないんだよ!)
くそっ、俺が俺を罵倒するなって言ってるだろう!
(じゃあ、素直に認めろよ。彼女がいなくなって寂しいって)
さ、寂しくなんか…、ない。
(あ~あ、俺もうお手上げ。勝手に強がってろ)
心の中で繰り広げられた自分との対話は実を結ばなかった。
響介は何も食べる気にならず、水一杯だけ飲むと部屋にカバンを取りに戻った。
当然だがとなりの客間が気になる。
静音が本当に出て行ってしまったなら、荷物は何も残っていないはずだ。
響介はここまで来ても微かな期待を手放せないでいた。一時的に家を飛び出しただけで、落ち着いたら戻ってくるつもりで荷物は置いたままかもしれないと。
しかし、部屋を開けてそれが完全な間違いだということを知らされる。
部屋は静音が来る前と同じ状態になっていた。つまり、静音の荷物は跡形もなくなっていたのだ。
「行ってらっしゃい、楽しんでおいで」
笑顔で送り出した響介だが、内心は静音のことで頭がいっぱいで、まったく余裕がない状態だ。口先だけで言ってしまったようで心がとがめる。
一緒に玄関で見送った静音はいつもと変わらない様子だ。響介が昨日言った事をどう思っているのだろう。そんなことをグルグル考えながら、響介は自分も身支度を整えると職場へと向かった。
今日は出来るだけ遅く家に帰ろう。遅く帰ったからといって、自分が言ってしまったことから逃れられるわけではないのだが、面倒なことをつい先延ばしにしようとしてしまうのは人間の常ではないだろうか。
響介は大学の自室で特に急ぎでもない仕事で時間をつぶしていた。
ふと携帯に目をやるとメッセージが届いていた。送り主は最近は自分のことで忙しいらしくめっきり響介のところに顔を出さなくなった凛太朗からだった。
『今日から雛ちゃん林間学校なんだって?俺が慰めに行かなくても大丈夫か?』
美里さんと静音さんはこの間出会って以来、頻繁に連絡を取っているらしい。そして凛太朗は美里さんとうまくいっているようだ。
『余計なお世話だ』
響介はイライラしながら返事を返した。世の中は理不尽だ。凛太朗のような要領のいい奴が得をするように出来ている。俺は真面目に生きているのに、どうしてこう次から次へと問題が湧いて出てくるんだ。
雛が気に入る家政婦さんがみつかったところまではよかったのに…、まさかこんな悩みが待っていようとは夢にも思っていなかった。
もう十一時だ。夕食は要らないと静音さんに連絡は入れてあるが、明日の授業の事を考えるとそろそろ家に帰るべきだ。響介はノロノロと立ち上がると大学をあとにした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
静音さんは本を読んで響介の帰りを待っていたようだ。ダイニングテーブルの上にしおりを挟んだ本が置いてある。
待ってなくてよかったのに。一瞬そう言いそうになった。自分がどうしたらいいか分からないからつい出そうになったその言葉で、とんでもなく彼女を傷つけてしまうところだった。しかし、女性は男性よりはるかに敏感だ。
「旦那様。私、昨日言われたこと気にしていませんから」
きっと彼女は響介が戸惑っていることを察してそう言ってくれたのだろう。
しかし、本当に自分でもどうしたらいいのか分からないのだ。彼女にいなくなられては困る。だけど、こんなおかしな関係を続けるのは響介の良心がとがめて仕方がないのだ。彼女の気持ちはハッキリしている。響介の方はと言えば、男である前に雛の父親であることを意識しすぎているせいなのか、自分の気持ちを感じとることができないでいる。
「すみません」
謝ることも失礼と言えば失礼だ。いったい何に謝っているのか。本当に不義理ばかりを繰り返している様で自分が嫌になる。なんでこんなに優柔不断なんだろう。
「でも、私、雛ちゃんがいなかったら、自分の気持ちをどう止めたらいいか分かりません」
静音はそう言うと、響介の胸に飛び込んできた。
え、えっと、とりあえず抱きしめないと。
響介はぎこちなく静音の背中に手をまわした。静音は響介とは比べものにならない程激しく響介の背中を掻き抱いてくる。嫌でも彼女の熱量が伝わって来る。
しかし、今の響介はそれを受けとめる理由を自分の中に見つけることができない。彼女が激しく求めれば求めるほど響介の頭の中はやけに冷静にその様子を観察してしまう。いつの間にか響介の両手はだらりと下りていた。
それまで夢中で響介を求めていた静音も、その手を止めた。そして、そっと身体を離すと響介の顔を見上て悲しそうに笑った。
「ごめんなさい。私、バカみたいですね」
そう言うと、静音は二階の自分の部屋へと階段を駆け上がっていった。
バタンとドアが閉まる音とともに、響介は我に返った。
ど、どうしよう。ごちゃごちゃ考えないで彼女を受け入れるんじゃなかったのかよ。それが、どうしてこうなった?響介は頭を抱えた。だけど、身体が勝手に動かなくなったんだ。これ以上俺にどうしろって言うんだ。響介はきつく締めていたネクタイを外すと床に叩きつけた。
夕べはあんなことがあったせいで、中々眠りにつけなかった。しかし、朝は確実にやってきて…、静音さんとも顔を合わせなくてはならない。気まずい…。
だが、朝の時間は夜のそれより随分早く過ぎていく。もたもたしていると授業に遅れてしまうのだ。響介は意を決して部屋を出た。しかし、いつもドアを開けると鼻をくすぐるあの香りがしてこない。まさか、と悪い予感が胸をよぎる。響介はキッチンへと階段を駆け下りた。
ダイニングテーブルに手紙らしきものが置いてある。
俺の場合悪い予感は当たるんだな。響介は自嘲気味に笑った。
『旦那様。いえ、最後だけでも響介さんと呼ばせてください。私の勝手な思いが響介さんを苦しめてしまったこと本当に申し訳なく思っています。短い間でしたがお世話になりました』
手紙と一緒に置いてあったのは可愛らしいコサージュだった。雛ちゃんの発表会の衣装に合わせてつくってみましたとメモ書きがしてあった。
嘘だろ…。響介は自分の行動が彼女をそんなに追い込んでいたとは思いもしなかった。だから、もう少し時間をかけていけば何かしらの答えが出るだろうと高を括っていた。
雛の家政婦としての彼女という存在、そして雛の父親としての自分という存在。そういう関係性からしか見ることができていなかった。だが、こうして彼女が出て行ってしまった今感じるのは、心の中からぬくもりのようなものが消えてしまったということだ。
普段は物静かで、だけど響介に対する内に秘めた思いだけは火傷する程に熱くて。雛がいる時にはそんなことを全く感じさせない気遣いもある。日中は、彼女の強い自制心のおかげで響介が同じ空間にいてもおかしな空気にならずに普段通り過ごすことができていた。響介はそれに甘えていた。そして彼女の強い思いを軽く見ていたのかもしれない。
彼女は自分の気持ちと毎日闘いながらすごしていたのにそれに気付いてあげられなかった。彼女の行動は自分の気持ちを優先させているように見えていたけれど、実は彼女の中では最大限、雛と響介のことを優先してくれていたのだ。(夜這いと言ってもおかしくない行動もあったけれど、男の自分が本気で拒絶すれば成立しないことだ)そして、最後まで僕たち家族のことを優先させて自分は身を引いたのだ。
ポタリ。テーブルの上に滴が落ちた。あれ何だこれ?俺、泣いてる?
(お前は本当にバカだな)
もう一人の自分の声が聞こえた。
(彼女がいなくなってお前が寂しいからに決まってるだろうが)
は?俺が寂しいって。彼女との関係性に困り果ててたっていうのにか?
(困っていたのは、お前の気持ちがぐらつき始めてたからだろう?)
ぐらついてなんかない!
(まったく、助教授なんて職業は本当に邪魔くさいもんだな)
俺が俺を罵倒するな!
(若い女の子に猛烈にアタックされてあっという間に落ちちゃったなんて、助教授のプライドが許さないんだろう?)
ち、違う、落ちてなんかない!
(じゃあ何で泣いてるのか説明してみろよ)
そ、それは分からん。
(だったら、ずっと泣いてるんだな)
そういう訳にはいかない。仕事にいかなきゃならないんだ。こんな顔じゃあ生徒の前に立てない。
(そんな見栄ばっかり張ってるから、あんなに若くて綺麗な女の子が素直に好きって言ってくれてるのに、まともに向き合うことすらできないんだよ!)
くそっ、俺が俺を罵倒するなって言ってるだろう!
(じゃあ、素直に認めろよ。彼女がいなくなって寂しいって)
さ、寂しくなんか…、ない。
(あ~あ、俺もうお手上げ。勝手に強がってろ)
心の中で繰り広げられた自分との対話は実を結ばなかった。
響介は何も食べる気にならず、水一杯だけ飲むと部屋にカバンを取りに戻った。
当然だがとなりの客間が気になる。
静音が本当に出て行ってしまったなら、荷物は何も残っていないはずだ。
響介はここまで来ても微かな期待を手放せないでいた。一時的に家を飛び出しただけで、落ち着いたら戻ってくるつもりで荷物は置いたままかもしれないと。
しかし、部屋を開けてそれが完全な間違いだということを知らされる。
部屋は静音が来る前と同じ状態になっていた。つまり、静音の荷物は跡形もなくなっていたのだ。
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