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——客室の扉が、再度開かれる。
するりと姿を現したのはアレン・エレオノーレだった。薄闇に押し包まれた室内を、陰のようにティーテーブルへ歩み寄る。足音は篠突く雨音にかき消された。
無防備に寝息を立てる金髪の人影が、わずかに身じろぐ。アレンはその脇に立ち、姪の横顔をじっと見下ろした。
その右手には短剣が握られている。
アレンは躊躇う理由を探した。胸のうちをさらって、姪との思い出を探す。特になかった。エレオラが神殿に入ったあと、その消息を気にかけたこともなかった。自分の立場を脅かしさえしなければ、それでよかった。
それで、よかったのに——。
大きくかぶりを振る。姪に対する感情は無に近いが、積極的に死んでほしいわけでもない。公爵家のためにどこかの貴族に嫁がせようとしたところで、横から竜殺しの騎士にかっさらわれたのは痛手だったが、大きな影響はない。公爵家の後継には遠縁の子を養子にすれば済む話。それにしても一体なんなんだ、あの男は。声に出さず呟いて、アレンは顔をしかめる。ヴァールハイト・ブランのせいで全てが台無しだ。
だがそれももう終わる。口元が嗜虐に歪む。
アレンは勢いをつけて振りかぶると、その切っ先を聖服の背中へ突き立てようと——。
「そこまでだ、アレン・エレオノーレ」
今まさに刺し殺そうとしていた相手の口から、少女のものとも思えぬ低い声が響いた。
アレンは体を硬直させた。短剣を振り上げたまま、呼吸すら止めて、眼前の聖服姿の少女を凝視する。
冷たい火花の散るように、碧の瞳と目があった。
「え、エレオラ……⁉︎」
呆けたような声を上げながら、違う、と頭の隅で警鐘が激しく鳴り響く。本能が告げる。目の前の人間はエレオラではない。では誰だ。こんな、エレオラにそっくりな人間がいるものか。少なくともここにいるはずがない。
咲き揃うミモザの花。
王宮の隅で睦まじく顔を寄せ合っていた、恋知らずの聖女と第一王子。
よく似たかんばせには王族の高貴な気品が備わり、王宮中の注目を集めていた。それは義理の姉にも通じるもので、アレンの胸にざわめきをもたらした。
だがノイン=シュデルツは、自分が牢に入れたのだ。
「まったく、こんな稚拙な謀に付き合わされるこちらの身にもなってくれ」
明らかな少年のトーンで言って、目の前の人間がすらりと立ち上がる。聖服をまとった体の輪郭は、少女にしては硬い。しかし背に流れる髪は、黄金の河のごとく長く尾を引いている。
「ど、どういうことだ……っ⁉︎」
「お前がリゲル・エレオノーレを殺害して、僕に罪を着せようとしていることなんかすぐにわかったよ。……ねえ、そうだろ、エリー?」
「ええ。叔父上、美味しいお茶をごちそうさまでした」
背後から、今度は少女の声がまっすぐに耳を貫く。アレンは弾かれたように後ろを向いた。
そこには、喪服に身を包んだエレオラ・エレオノーレが、碧の瞳を爛々と光らせて立っていた。
ぞくりとアレンの背筋が粟立つ。勁い光を宿した瞳が、射抜くようにこちらを見据えている。一見冷静な表情の下、激情を抑えるように唇が引き結ばれていた。
かたわらに剣を携えている、と一瞬思って、そんなはずはないと目を凝らす。息を呑んだ。喪服の聖女に付き従うのは、あの竜殺しの騎士。赤と黒の騎士服をまとって、エレオラを守るように寄り添う。鮮血の色をしている切れ長の瞳はアレンに焦点を結び、いつでも剣を抜けるよう、右手は柄を覆っている。
アレンは呆然と呟いた。
「どうやってここに……」
「公爵家当主の座に無理やり座ったのは間違いでしたね。隠し通路の位置も知らないんでしょう。あなたが自画像を飾った壁には、王宮からつながる地下通路があるんですよ」
エレオラが指差す方をのろのろと見やる。壁に据えていたはずの自画像が確かに取り外され、その後ろから、通路の入り口がぽっかりと穴を開けていた。
エレオラが押し殺した声で話を継ぐ。
「あなたは私に睡眠薬入りの紅茶を飲ませて殺そうとした。私がきちんと飲み干すのをメイドに確認させなかったのは悪手でしたね。飲んだふりをして、王宮からやってきた殿下と入れ替わるのは容易かった」
「そ、そもそもそれがおかしいだろう! ノイン殿下は我が兄の殺害容疑で牢にいるはず! どうしてここに……」
アレンは短剣を握りしめて喚いた。口から唾が飛んで、ノインが嫌そうに眉をひそめた。
「僕に罪を着せようとしたのはやりすぎだったな。その結果、誰が一番得をするのか考えれば、お前が裏で糸を引こうとしているのは明らかだ。おかげで僕は、この事態を収拾するよう父から丸投げ……もとい、命令されたわけだ」
「へ、陛下まで……」
足元が崩れるような感覚がする。だがアレンはなんとかその場に踏みとどまった。
「さっきから、何をベラベラと! 私が兄を殺したなどとひどい言いがかりだ! 証拠もないくせに‼︎」
エレオラが呆れたように肩をすくめる。その仕草は全く聖女らしくなく、アレンは我が目を疑った。
「私は、十年前の謝肉祭で、お父様にお守りを差し上げたんですよ」
何かを堪えるような低い声は、降りしきる雨音も構わず客室に鳴り渡った。
「けれど、安置所で見たお父様の手首にお守りはなかった。外してしまったのか? 娘の作ったお守りを外すようなことがあるか? それよりは、こう考えるのが自然ではないですか? すなわち、十年前、私がお守りを渡したのはリゲル・エレオノーレではなかった、と」
室内に静寂が満ちる。それにもかかわらず何か耳障りな音が聞こえる、と思って、アレンはそれが自分の荒らげた息遣いだと気づいた。
「叔父上、あなたとお父様はよく似ていますね。私と殿下のように」
エレオラが話し出す。その口調は柔らかで、メモワールをめくるようだった。
「あの日のお父様はあまり話さなかった。今思えば、なりすましているのを知られたくなかったから、口数が少なかったのではないですか」
ねえ、と首を傾げ、
「私がお守りを差し上げたときには、すでにお父様はあなたの手によって殺されていた。私たちが思っているよりずっと前に、あなたに殺されていたんですよ」
「違う!」
間髪入れず、アレンは反駁した。髪を振り乱し、両腕を広げながら、
「違う、そんなのはエレオラの妄想だ!」
「でも、あなたの行動が真実だと裏付けてしまっている。ヴァールハイトさまが竜殺しを成し遂げて、私がティオール山を浄化して、あなたはさぞ焦ったでしょうね? このままでは遺体が見つかってしまう。お守りのことを思い出されたらおしまいだ。そうされたくなかったから、あなたは私の命を狙った。——今、お守りの行方を気にしていますか?」
アレンが自分の手首に視線を走らせたのを、エレオラは見逃さなかった。
「お守りを手首から外したところで、守護は続きますよ。九歳とはいえ、魔力の高まる謝肉祭中に、いずれ聖女に至る女が作ったものですよ。あなたも端々で守護を感じていたのではないですか。例えば、御令息を亡くしたときとか。彼は土砂崩れで亡くなったといいますが、それに巻き込まれたあなただけは生き残れたのではないですか?」
「とんだ与太話だ! そんなことは証明できない‼︎」
「いいえ、できます」
エレオラの唇に仄かな笑みが灯った。おもむろに片腕を上げ、一直線にアレンを指差す。いっそ無邪気な声音で彼女は言った。
「——ヴァールハイトさま、叔父上を斬ってください」
「ああ、エレオラの思うがままに」
ヴァールハイトが音もなく一歩を踏み出す。鞘から白刃が引き抜かれる。ヴァールハイトの顔には何の感慨も浮かんでいない。憐れみも憤りもなく、ただわずかな歓喜に瞳の緋が色を濃くする。
アレンは自分が短剣を握っているとやっと思い出した。反射的に振りかざし、そのあまりの頼りなさに絶望する。生存本能が揺らいだ。体から力が抜け、その場に力なく膝をつく。手のひらから短剣が落ちてカランと軽い音を立てる。
刃が目の前に迫る。アレンは初めて祈った。神にでもなく、運命にでもなく。ただ一心不乱に、長らく自分に庇護を与えた存在に祈った。
「聖女エレオラ、どうかお慈悲を——!」
耳元で風切り音が唸る。間近に研ぎ澄まされた刃が迫るのがわかる。と同時にガラスの砕けるような音が響いて、アレンの手首がぐるりと熱を持った。それは十年前、エレオラがお守りを巻いた位置だった。
「仕損じたか」
舌打ちをしたのはヴァールハイト。その後ろでエレオラが「ああー」と気の抜けた声をあげる。
「やっぱり、ヴァールハイトさまには私の守護も破られますか。もう少し持つかと思ったんですけれどね」
「は……」
アレンは鈍重に頭を上げる。手首から熱は去り、代わりに金色の粉がまとわりついていた。どこか甘い芳香が漂い、指先で擦っても取れない。
エレオラがこちらを見下ろし、腕を組んだ。
「ヴァールハイトさまが持っているのは破魔の剣でして。さすがに竜殺しの騎士が扱えば、私の守護も形なしでしたね。それで——どうして、私がお父様にかけた守護が、叔父上にかかっているのですか」
「ち、ちがう……」
「何も違いませんよ。あなたが、私から、何もかもを奪った」
それは地獄の底から立ち上るようなおどろおどろしい響きで、アレンは勢いよくエレオラの足元に這いつくばる。「許してくれ!」と命乞いが口から漏れた。体全体が瘧にかかったように震えて止まらない。
「ただ欲しかっただけなんだ! 兄の持っているものが羨ましくて仕方がなかった。当主の座も、美しい妻も、何もかもが……」
アレンの鼻先に剣先が突きつけられる。ヴァールハイトが苛立たしげに言った。
「エレオラ、あなたが殺せというなら殺すぞ」
ノインも軽やかな声で同意する。
「殺人罪に反逆罪。正直、ここで何かがあったって、誰も気に留めないと思うよ」
アレンの額から脂汗が流れて、床に向かってだらだらと垂れ落ちる。呆れたようにエレオラが息を吐いた。
「……私は聖女ですよ。罪人にはしかるべき裁きを受けさせます。せめて安らかな眠りのために祈りましょう」
少し顔を俯けて、胸元で両手を組み合わせる。漆黒の喪服を着ていてなお、その姿はアレンの目に神々しく映った。
するりと姿を現したのはアレン・エレオノーレだった。薄闇に押し包まれた室内を、陰のようにティーテーブルへ歩み寄る。足音は篠突く雨音にかき消された。
無防備に寝息を立てる金髪の人影が、わずかに身じろぐ。アレンはその脇に立ち、姪の横顔をじっと見下ろした。
その右手には短剣が握られている。
アレンは躊躇う理由を探した。胸のうちをさらって、姪との思い出を探す。特になかった。エレオラが神殿に入ったあと、その消息を気にかけたこともなかった。自分の立場を脅かしさえしなければ、それでよかった。
それで、よかったのに——。
大きくかぶりを振る。姪に対する感情は無に近いが、積極的に死んでほしいわけでもない。公爵家のためにどこかの貴族に嫁がせようとしたところで、横から竜殺しの騎士にかっさらわれたのは痛手だったが、大きな影響はない。公爵家の後継には遠縁の子を養子にすれば済む話。それにしても一体なんなんだ、あの男は。声に出さず呟いて、アレンは顔をしかめる。ヴァールハイト・ブランのせいで全てが台無しだ。
だがそれももう終わる。口元が嗜虐に歪む。
アレンは勢いをつけて振りかぶると、その切っ先を聖服の背中へ突き立てようと——。
「そこまでだ、アレン・エレオノーレ」
今まさに刺し殺そうとしていた相手の口から、少女のものとも思えぬ低い声が響いた。
アレンは体を硬直させた。短剣を振り上げたまま、呼吸すら止めて、眼前の聖服姿の少女を凝視する。
冷たい火花の散るように、碧の瞳と目があった。
「え、エレオラ……⁉︎」
呆けたような声を上げながら、違う、と頭の隅で警鐘が激しく鳴り響く。本能が告げる。目の前の人間はエレオラではない。では誰だ。こんな、エレオラにそっくりな人間がいるものか。少なくともここにいるはずがない。
咲き揃うミモザの花。
王宮の隅で睦まじく顔を寄せ合っていた、恋知らずの聖女と第一王子。
よく似たかんばせには王族の高貴な気品が備わり、王宮中の注目を集めていた。それは義理の姉にも通じるもので、アレンの胸にざわめきをもたらした。
だがノイン=シュデルツは、自分が牢に入れたのだ。
「まったく、こんな稚拙な謀に付き合わされるこちらの身にもなってくれ」
明らかな少年のトーンで言って、目の前の人間がすらりと立ち上がる。聖服をまとった体の輪郭は、少女にしては硬い。しかし背に流れる髪は、黄金の河のごとく長く尾を引いている。
「ど、どういうことだ……っ⁉︎」
「お前がリゲル・エレオノーレを殺害して、僕に罪を着せようとしていることなんかすぐにわかったよ。……ねえ、そうだろ、エリー?」
「ええ。叔父上、美味しいお茶をごちそうさまでした」
背後から、今度は少女の声がまっすぐに耳を貫く。アレンは弾かれたように後ろを向いた。
そこには、喪服に身を包んだエレオラ・エレオノーレが、碧の瞳を爛々と光らせて立っていた。
ぞくりとアレンの背筋が粟立つ。勁い光を宿した瞳が、射抜くようにこちらを見据えている。一見冷静な表情の下、激情を抑えるように唇が引き結ばれていた。
かたわらに剣を携えている、と一瞬思って、そんなはずはないと目を凝らす。息を呑んだ。喪服の聖女に付き従うのは、あの竜殺しの騎士。赤と黒の騎士服をまとって、エレオラを守るように寄り添う。鮮血の色をしている切れ長の瞳はアレンに焦点を結び、いつでも剣を抜けるよう、右手は柄を覆っている。
アレンは呆然と呟いた。
「どうやってここに……」
「公爵家当主の座に無理やり座ったのは間違いでしたね。隠し通路の位置も知らないんでしょう。あなたが自画像を飾った壁には、王宮からつながる地下通路があるんですよ」
エレオラが指差す方をのろのろと見やる。壁に据えていたはずの自画像が確かに取り外され、その後ろから、通路の入り口がぽっかりと穴を開けていた。
エレオラが押し殺した声で話を継ぐ。
「あなたは私に睡眠薬入りの紅茶を飲ませて殺そうとした。私がきちんと飲み干すのをメイドに確認させなかったのは悪手でしたね。飲んだふりをして、王宮からやってきた殿下と入れ替わるのは容易かった」
「そ、そもそもそれがおかしいだろう! ノイン殿下は我が兄の殺害容疑で牢にいるはず! どうしてここに……」
アレンは短剣を握りしめて喚いた。口から唾が飛んで、ノインが嫌そうに眉をひそめた。
「僕に罪を着せようとしたのはやりすぎだったな。その結果、誰が一番得をするのか考えれば、お前が裏で糸を引こうとしているのは明らかだ。おかげで僕は、この事態を収拾するよう父から丸投げ……もとい、命令されたわけだ」
「へ、陛下まで……」
足元が崩れるような感覚がする。だがアレンはなんとかその場に踏みとどまった。
「さっきから、何をベラベラと! 私が兄を殺したなどとひどい言いがかりだ! 証拠もないくせに‼︎」
エレオラが呆れたように肩をすくめる。その仕草は全く聖女らしくなく、アレンは我が目を疑った。
「私は、十年前の謝肉祭で、お父様にお守りを差し上げたんですよ」
何かを堪えるような低い声は、降りしきる雨音も構わず客室に鳴り渡った。
「けれど、安置所で見たお父様の手首にお守りはなかった。外してしまったのか? 娘の作ったお守りを外すようなことがあるか? それよりは、こう考えるのが自然ではないですか? すなわち、十年前、私がお守りを渡したのはリゲル・エレオノーレではなかった、と」
室内に静寂が満ちる。それにもかかわらず何か耳障りな音が聞こえる、と思って、アレンはそれが自分の荒らげた息遣いだと気づいた。
「叔父上、あなたとお父様はよく似ていますね。私と殿下のように」
エレオラが話し出す。その口調は柔らかで、メモワールをめくるようだった。
「あの日のお父様はあまり話さなかった。今思えば、なりすましているのを知られたくなかったから、口数が少なかったのではないですか」
ねえ、と首を傾げ、
「私がお守りを差し上げたときには、すでにお父様はあなたの手によって殺されていた。私たちが思っているよりずっと前に、あなたに殺されていたんですよ」
「違う!」
間髪入れず、アレンは反駁した。髪を振り乱し、両腕を広げながら、
「違う、そんなのはエレオラの妄想だ!」
「でも、あなたの行動が真実だと裏付けてしまっている。ヴァールハイトさまが竜殺しを成し遂げて、私がティオール山を浄化して、あなたはさぞ焦ったでしょうね? このままでは遺体が見つかってしまう。お守りのことを思い出されたらおしまいだ。そうされたくなかったから、あなたは私の命を狙った。——今、お守りの行方を気にしていますか?」
アレンが自分の手首に視線を走らせたのを、エレオラは見逃さなかった。
「お守りを手首から外したところで、守護は続きますよ。九歳とはいえ、魔力の高まる謝肉祭中に、いずれ聖女に至る女が作ったものですよ。あなたも端々で守護を感じていたのではないですか。例えば、御令息を亡くしたときとか。彼は土砂崩れで亡くなったといいますが、それに巻き込まれたあなただけは生き残れたのではないですか?」
「とんだ与太話だ! そんなことは証明できない‼︎」
「いいえ、できます」
エレオラの唇に仄かな笑みが灯った。おもむろに片腕を上げ、一直線にアレンを指差す。いっそ無邪気な声音で彼女は言った。
「——ヴァールハイトさま、叔父上を斬ってください」
「ああ、エレオラの思うがままに」
ヴァールハイトが音もなく一歩を踏み出す。鞘から白刃が引き抜かれる。ヴァールハイトの顔には何の感慨も浮かんでいない。憐れみも憤りもなく、ただわずかな歓喜に瞳の緋が色を濃くする。
アレンは自分が短剣を握っているとやっと思い出した。反射的に振りかざし、そのあまりの頼りなさに絶望する。生存本能が揺らいだ。体から力が抜け、その場に力なく膝をつく。手のひらから短剣が落ちてカランと軽い音を立てる。
刃が目の前に迫る。アレンは初めて祈った。神にでもなく、運命にでもなく。ただ一心不乱に、長らく自分に庇護を与えた存在に祈った。
「聖女エレオラ、どうかお慈悲を——!」
耳元で風切り音が唸る。間近に研ぎ澄まされた刃が迫るのがわかる。と同時にガラスの砕けるような音が響いて、アレンの手首がぐるりと熱を持った。それは十年前、エレオラがお守りを巻いた位置だった。
「仕損じたか」
舌打ちをしたのはヴァールハイト。その後ろでエレオラが「ああー」と気の抜けた声をあげる。
「やっぱり、ヴァールハイトさまには私の守護も破られますか。もう少し持つかと思ったんですけれどね」
「は……」
アレンは鈍重に頭を上げる。手首から熱は去り、代わりに金色の粉がまとわりついていた。どこか甘い芳香が漂い、指先で擦っても取れない。
エレオラがこちらを見下ろし、腕を組んだ。
「ヴァールハイトさまが持っているのは破魔の剣でして。さすがに竜殺しの騎士が扱えば、私の守護も形なしでしたね。それで——どうして、私がお父様にかけた守護が、叔父上にかかっているのですか」
「ち、ちがう……」
「何も違いませんよ。あなたが、私から、何もかもを奪った」
それは地獄の底から立ち上るようなおどろおどろしい響きで、アレンは勢いよくエレオラの足元に這いつくばる。「許してくれ!」と命乞いが口から漏れた。体全体が瘧にかかったように震えて止まらない。
「ただ欲しかっただけなんだ! 兄の持っているものが羨ましくて仕方がなかった。当主の座も、美しい妻も、何もかもが……」
アレンの鼻先に剣先が突きつけられる。ヴァールハイトが苛立たしげに言った。
「エレオラ、あなたが殺せというなら殺すぞ」
ノインも軽やかな声で同意する。
「殺人罪に反逆罪。正直、ここで何かがあったって、誰も気に留めないと思うよ」
アレンの額から脂汗が流れて、床に向かってだらだらと垂れ落ちる。呆れたようにエレオラが息を吐いた。
「……私は聖女ですよ。罪人にはしかるべき裁きを受けさせます。せめて安らかな眠りのために祈りましょう」
少し顔を俯けて、胸元で両手を組み合わせる。漆黒の喪服を着ていてなお、その姿はアレンの目に神々しく映った。
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