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第一章
金髪ハーフのカメラマン【2】
しおりを挟む湿った風が、雨雲を運んできた。
いや、逆だろうか。低く垂れ込めた濃灰色の雲が頭上に広がったから、ぬるい風が皮膚に張りついてきたのか。
意識して長めの瞬きをした乃亜の視線は空から下へおりる。正面の植え込みに咲く紫陽花の花弁が横風に揺れ、乾いた表面に次々と雨粒が乗っていく様を見つめる。
花を吐いてから、十日が過ぎた。その後、乃亜の体調に変化は無い。仕事に忙殺されて疲労が溜まっている以外、特に変わった点は見られないのだ。
もしかしたら、という希望が乃亜の胸中に浮かぶ。ウイルスキャリアの身体が連日の疲労に耐えきれずに、たまたま、あの日だけ花を吐く症状に至ったのではないか?
それなら、今の良好な健康状態の説明がつく。花を吐くどころか、嘔吐感すら無いのだから。
「これ、要らなかったな」
小さな呟きとともに、乃亜の手がスラックスの後ろポケットに伸びた。ポケットの中に忍ばせてある物を布地の上から撫でて、それの出番が無いだろうことに安堵の吐息をそっと零す。
彼が隠し持っているのは、二回ぶんの吐き気止め薬。業務中、もしも突然の嘔吐感に襲われた時のためにドラッグストアで購入したものだが、不要な出費だったようだ。
「嶋村さん、こんにちは!」
「あ……こんにちは」
「おひさしぶりです。珍しいですね。この時間に庭園に出ていらっしゃるなんて」
突然の明るい声の挨拶に、乃亜はその場で棒立ちになった。手にしたビニール傘の向こうに見える姿は、今日ここで顔を合わせることは無いはずの人物。
そうだ。確か、半月ほど留守にすると言っていたが、なぜ、この人は来館しているのか。
「おひさしぶりです。今から石造物のチェックをしようと思いまして」
ひさしぶり、というほどではない気がしたが、相手がそう挨拶したから、乃亜も同様に再会の挨拶を口にした。しばらく旅に出ると言っていた相手の予定がどうして縮まったのか、の質問は飲み込んで。
「石造物のチェックですか? 雨の中?」
そうして、雨天の中、考古資料館の敷地に造営された庭園に出てきた理由に、相手が目を丸くする様を見つめる。綺麗なブルーグレーの瞳が、自分だけを見ているのを実感する。
「あっ、わかりました! 精巧なレプリカだからこそ、雨降りにチェックするんですね! 俺もご一緒していいですか?」
一人で答えに辿り着いた相手が、乃亜の返事を待たずに隣に並ぶ。短い付き合いだが、日本の考古学、文化財への彼の興味と知識欲を乃亜は認めており、同行を断る理由は無い。
第一、今から自分が向かうのは調査研究対象の文化財ではなく、庭園で開放展示しているレプリカの石造物だ。
「……どうぞ。では、左手から巡りましょう」
「はいっ。写真、撮ってもいいですよね?」
「大丈夫です」
レプリカを撮影して、どうするんだろう。正直な疑問がチラリと顔を出した。考古資料館の周囲には、本物の古代の石造物が往時のまま点在しているのに、と。
だが、本職のカメラマンがそれで構わないと言っているのだから、乃亜が口を挟むことではない。
乃亜より十センチ以上は上背がある同行者は、歴史専門誌を発行する出版社と契約しているカメラマン。ユージン・京・リンゼイ。二十六歳。
二ヶ月前、考古資料館が監修する書籍の版元の紹介でやってきたユージンに地元の遺跡や寺社の情報を提供して以来、金髪のカメラマンは時折このように乃亜のもとを訪れては、彼から知識を吸収したがるようになった。
もう何年も研究三昧の生活を続けている乃亜には、これは新鮮な出会いだった。
明るい金髪、夜明けの海を思わせるブルーグレーの瞳を持つハーフのカメラマンも、親切で実直な乃亜に親しみ、自分のことをファーストネームで呼んでほしいと申し出があった。
が、いくら付き合いが長い出版社オーナーの紹介とはいえ、公私の区別をきっちりつけるタイプの乃亜であるから、カメラマンの呼称は一貫して『リンゼイさん』であり、ユージンからの食事の誘いにも一度も頷いていない。
ただ、臨時滞在中、ずっとホテル住まいだと言ったユージンのため、知り合いが経営するウイークリーマンションを紹介したのが、乃亜が唯一、プライベートでユージンに関わったことだった。
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