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弐
白露 【四】
しおりを挟む本当に、夢のようなひと時でした。
ほぅ、と長い息をつき、閉じていた目を開けば、夕景を眺めに行く前に萩の君から告げられた言葉が蘇ってくる。
『白露、私の宮に来てはもらえぬか』
『え……』
『突然、すまぬ。が、私も官としての責務がそれなりにあり、多忙な時は役所に詰めることもある。そうなれば、此処に来ることすら、ままならなくなってしまうだろう。だから、私の宮に居を移してほしいのだ』
『……っ』
萩の君は、皇子である以前に、官吏としての能力を認められた秀でた御方。
丘で出逢ったあの朝は、鬱々とした気分を晴らすための遠駆けだったのだと、後日、話してくださった。その理由については、ただ微笑むだけで教えてはいただけなかったのだけれど。
だから、私と約束をしたその翌日を例外として、萩の君の訪れは省(つかさ)でのお仕事が終わられた午後の、ほんの限られたひと時となっていた。
『それは……居を移すということは、あなた様のお側に侍(はべ)る、ということでしょうか。私、それは困ります』
ふるふると首を振り、俯く。そのまま目線を合わさずに拒む言葉を口にした私の手が、掬い取られた。
『白露のままで良いのだ』
絡んだ指から、包まれた手のひらから、しっとりと温もりが伝わってくる。
『私との関係は今のままで良い。名も、明かさずとも良いのだ。ただ私の傍に、目の届くところに居てほしい。あなたの笑顔を毎日見たい。それだけなのだ』
射干玉(ぬばたま)の瞳が、私だけを見つめて煌めく。
『家人の心配も要らぬ。私の宮の奥は、がら空きだ。家人ともども奥に入り、好きにしてくれれば良い』
『萩の君……』
『返事は急がぬ。が、どうか前向きに考えてみてほしい』
真摯な、それでいて慈愛溢れる笑み。指先から伝わる温もりとその笑みが、じわりと胸に染み、内側を焦がしていく。
そのお言葉に、すがってしまいたくなる。
ですが、何の後ろ盾も財も持たない私などが、どうしてあなたの宮に入ることができるでしょう。
『もう一度言うが、私は毎日でもあなたに会いたいのだ』
私もお会いしたい。叶うなら、毎日でも。
けれどそれは、あなたが『また会いたい』とおっしゃってくださる間だけのこと。
飽きられてしまうまでの間のこと。
私などが夢を見てはいけない。大それた望みを抱ける立場ではないと、わきまえております。
ですから、この丘を出ることはできません。
此処で見られる『ひと時の夢』だけで、私には充分、なのですから。
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