君に何度でも恋をする

明日葉

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第3章 空白の時間

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『こんな時まで、撮るの?』
 声だけが聞こえる。翔は黒いままの画面を見つめた。映像はないのに、いや、真っ暗で、分からないだけなのか。ただ、びりびりとした緊張感だけが伝わってくる。
『弓削さん』
『うん?』
 花音の呼びかけに応える弓削の声は、優しい。いや、それは想像どおりなのかもしれない。ただ会話をしている時の親しげで、からかうような口調には、気を許した相手にだけ向ける深みがあるように思えて。
 こんな時だから撮るんだ、と答えた弓削に呼びかけた花音の声は、しばらく続きをためらうようにしていて。それから、翔も聞いたことのある、もう何を言っても聞かない時の、花音の声がした。
『こんな時なら、弓削さんは、こんなところにいちゃだめですよ』
『今、ここにいなかったら俺、雪乃に捨てられるぞ』
『弓削さん、茶化しちゃだめ。雪乃さんのところにいてって言いたいけど、それも違う。弓削さん、分かってるでしょう?』
 謎かけのような、花音の声。けれど、息を呑んだ音は、きっと弓削が発したもの。
 無言の時間。真っ暗なままの画面。
 いつまで続くのかと言う時間を破ったのは、がちゃがちゃと慌ただしく扉を開ける音と、つんのめるような足音。
『花音!』
『…みんな、なんでここに来るんですか』
『強がりも大概にしとけよ。この阿呆』
 暗闇の中、それでも聞こえた花音の声に吐かれた悪態は、内容とは裏腹にあからさまな安堵。
 だんだん、翔にはこれが「いつ」の記録なのか、想像ができてきて。胸が苦しい。
『とりあえず、今はここより気にかける必要がある場所はない。だから』
 そう、今悪態を吐いた声…速水が静かな声になった。
『弓削、お前は行け』
『弓削さん、カメラを回す勇気も、カメラを下ろす勇気も知ってるんだから。それで、弓削さん。わたしたちに、教えてくださいね』
 ちっ、と舌打ちが聞こえる。
『俺だけ、こいつらの成長見逃すのか』
『撮っといてやるぞ。定点カメラだけどな』
『速水じゃないやつに頼みたい…』
 心の底からの呟きに聞こえる。それから、ばたばたと、また足音が動いた。ドアが開く音と、それから、もう一度、弓削の声。
『花音、お前、スマホちゃんと充電しておけよ。連絡、入れるからな。…とりあえず、この停電がいつ解消されるか分からないから、その辺の機材のバッテリーからでも充電しておけ』
『弓削さん、ほんと、おかん』
『うるせぇよ』



「停電……」
「全国的に、停電したな。あの時は」
 呟いた翔の隣で、やはりこれが「いつ」なのか察したらしい浅井が呟きを返す。
 あの時。翔がようやく花音に連絡を取ろうと電話をした時。停電で充電できないでいたということなのか。拒否をされているのかと、そして、気になるのは自分の方だけなのかと。
『おかあさん』
 声に顔を上げる。それは、隼人の声。
『大丈夫だよ。少なくとも、ここは大丈夫。速水さん、子供たち見ていてください。電池で動く石油ストーブがあったはずだから、探してくるので』
『わかった。1人で大丈夫か?』
『余裕です』
 花音の答えに、くすっと笑う気配がする。そして、人が動く気配がして。
 しばらくして、あかりが近づいてくる気配がする。画面の向こう側のどこかから、次第に明るくなる気配。
『ランタンも見つけちゃいました』
『準備がいいんだか悪いんだか。手近の懐中電灯の電池切れって残念すぎるだろう』
『ねー』
『ねーじゃない』
 気が抜けるようなやりとり。ランタンに照らされれば、こたつに潜り込み、さらに毛布にくるまった子ども達と、呆れた顔をしているが、明かに憔悴している速水がいる。あの時、確かに事務所にいた速水は、どうやって、どの段階でここまで来たのだろう。
 花音がこたつに食べ物を置き、子どもたちの間に潜り込む。
『ガスも使えないからね。電気も使えないし。こんな時こそ、非常食。カセットコンロでお湯沸かしたから、アルファ米だよ』
 花音がそうやって明るい声で話し、笑顔を浮かべれば隼人の顔から不安が薄まるのがわかる。ぴったりと両側にくっついているのは、双子。でも、ぐずってはいない。
『速水さんも、粗食に付き合ってくださいね。というか、よくここ、来れましたね』
『こっちがこんな状況なら、途中で何か買ってくればよかったな。こんな、完全に停電して買い物すらでいないとは思わなかった』
『何とかなりますよ。だいじょうぶだいじょうぶ』
『…まったく、君は』
 ふはっと、気が抜けたように速水が笑った。こんな風に笑う人なのか。
『これで弓削さんと、雪乃さんと、速水さんの無事はわかって。この辺にいる友だちはみんな大丈夫だし。土師は日本にいないし』
「え?」
 思わず、映像に問い返す声を上げてしまい、翔ははっと口を噤む。そう言えば、土師がある時から映っていない。
「仕事で、海外にいる。結婚もした」
 短く、弓削がその疑問には的確に答えてくれる。
 結婚。
 土師が、結婚できたことに驚いている自分がいた。口ではどう言っても、彼は花音を想うことをやめられないと思っていたから。
『御調さんも大丈夫だって』
『どうでもいい。むしろ、耳に入れるな』
『なんでそんなに嫌うんですか。会ったこともない人を』
『なんで知ってるんだ。スマホ、電池切れしている君が』
『電池が切れる前に、御調先生から連絡あったんですよ。大丈夫かって。こっちに来そうな勢いだったから、止めておきました。先生、お仕事的にこれから大変な可能性高いですし』
 深い深い、ため息が聞こえる。なんて、心配しがいのない奴なのだろうと、翔も思う。
『速水さん』
『ん?』
 花音の側から双子の1人を受け取って膝の上に置き、食事の手伝いをしていた速水が上の空で答える。
 だが、花音はそのまま、きゅっと口を引き結び、開こうとしてはまた閉じる。
 その横で、隼人が速水を見上げた。
『かけるくんは?』
『ああ…』
『なおくんたち、自分は大丈夫だ、レンも大丈夫って教えてくれたけど、かけるくんのことは、聞けなくて』
 眉を上げて問いかける顔になる速水に、隼人が年には不似合いな苦笑いを浮かべた。
『今みたいにお母さん、聞こうとして言えないでいる間に、電池切れたんだ』
『…阿呆。ためらう時じゃないだろう』
 うん、と、声にならずに花音はうなずく。
 そんなんで君と連絡がつかないから、ここまで来たんだけどな、と、速水は柔らかく言うが、あの憔悴した顔は、心配しすぎてのものだろう。
『翔は大丈夫だ。あの時事務所にいた。一緒に避難したから、確実な情報だぞ』
 花音の返事はない。
 カメラは動かないから、様子がきちんとわからない。
 だが、不意にしゃくり上げるような音が聞こえた。
 幼い子を膝に乗せたまま、やれやれ、と、速水が手を伸ばす。
『安心したのか』
『っ…ふ…っうん』
『そうか』
 花音の気配に、幼い声がぐずりそうな気配を感じさせたけれど。その後に続いた速水の静かな声の後、それは大きな声になることもないまま再び落ち着いていく。
『その時にな?』
 速水が話す。
『非常階段が避難経路なんだ』
『非常階段…』
『翔がしゃがみこんでいて』
『!まさか何か、けが?』
『大丈夫だって言っただろう。…言い方が悪かったか。すまん。階段に落ちていたんだ』
『え?』
『あの時の、チェーンだ』
 まさか、と花音が息をのんだのが分かった。
 チェーン?
 それは、あの日見つけて、それからずっと身につけているもののことだろうか。



 停電が解消されたのは、夜中の3時頃だったのだろうか。
 明かりが戻ったら知りたいからと、電気が通れば明るくなるように電気をつけたまま寝た花音たちは、不意に明るくなったために目を覚まし、テレビをつける。
 そこで、あの映像を初めて見る。
 双子は寝たままで良かったと、映像を見ている翔も思った。
 一緒に起きてしまった隼人が、ぎゅっと、花音に腕を回した。子どもがしがみついているようにも、守ろうと抱きしめているようにも、どちらにも取れる。いや、きっと、どちらでもあったのだ。隼人は、花音を守ろうとしている。あの頃から、そうだった。



 副社長っていうのは、自由がきくものなのだと。そうでなければ面倒な仕事をこなしてやっている見返りが足りないと、花音曰く『この非常時に』ずっといるのは速水だった。
 そういえば、あの頃外でやらなければいけないことがこんな時だから続いているのだと説明を受け、速水は事務所をずっとあけていたなと翔も浅井も思い出す。
 職業柄、休めない花音は仕事に行き、花音の家では、速水と、そしてやはり入れ替わるように翔の知っている顔も、知らない顔も、やってきて、双子と過ごしていく。
 あの日から数日後、夜遅い時間に大きな地震があり、花音は子どもたちの安全を確認し、召集を受けて職場に向かった。その時も、速水が行け、と背中を押して。
 面倒を見るものがいないなら、子どもから離れる時じゃない。でも、いるんだから、仕事をしろ。君が仕事をしていられなかったら、この子たちが困るんだ、と。




 オレは、一体この時、何をやってた?

 花音の安全も、無事も
 隼人のことも


 忘れてはいない。
 一度も忘れていないのに、でも、知らなかった。



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