知らない異世界を生き抜く方法

明日葉

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 その姿が見え、近づいた瞬間、ぐわん、と頭が揺れるような違和感と気分の悪さに襲われた。それがなんなのかはわからない。そして、元いた世界で自分の体に合わないものがあるとよくあった、鼻がむずむずして肌が痒くなるような感覚がその後続いてくる。頭が揺れる感じと気分の悪さは少しで治ったから我慢できるが、それらの違和感の正体が分からない。そして、アレルギー反応を起こしたような今の状況の原因も。
 そう思いながら、近づいてくる彼女を見つめた。

 突然押しかけてきて騒ぎを起こし、収拾をつけることもできずに王太子と辺境伯家の人たちを振り回した彼女は、無邪気な様子で王太子に駆け寄ると当然のようにその隣に立ち止まりこちらに目を向ける。当然、こちらから挨拶されるであろうと待つ様子で。
 辺境伯の娘であるアメリアがそうする必要は全くないが、わたしに限ってはそうではない。聖女様への敬意、を見せるために膝を折ろうとすると、それを遮るように王太子が口を開いた。

 隣に立つ聖女を見下ろす眼差しは穏やかではあるけれど、甘やかさはない。数日離れていたことで魅了が緩和されているのかもしれない。魅了は精神に作用する危険な魔法で、ヒトが扱うことが多くの国で、もちろんこの国でも禁じられていると聞かされた。精霊などはヒトの決め事の範疇を超えた存在だから何を言われることもないが、本来ならば精霊を使役して使用することも禁じられている。深くかけたり、継続して重ねがけをしていれば本来の人格に影響を与えたり、感情に作用し続けるということだから精神が崩壊してしまいかねないのだという。
 少し離れたことで緩和されたのであれば、それは王太子にとっても、ひいてはこの国にとっても歓迎されることだろう。ただ、そうやって魅了が抜けていくときに中毒症状のようなものに見舞われることもあるらしい。


「聖女様、聖女様の希望を尊重して出向いてくださったのですから、お出迎えを、せめてわたしではなくまずはご令嬢たちにご挨拶をした方が良いでしょう」


 本当に、この人がきちんと常識的な方だったのだとようやく認識した気持ちで、なんだか申し訳なくもなる。
 ただ、そのように指摘をされた瞬間の聖女の顔にぞっとした。ただ、その怒りの感情は確実に、こちらに向かっている。
 王太子に向けてにっこりと笑顔で素直に応じた彼女の仕草にアメリアが今度は割って入った。薄まっている魅了に気づいた聖女が重ねがけをしようとしたようだ。視線を合わせなければある程度回避できるらしく、割って入ることで王太子の視線をこちらに向けさせた。

「殿下、かまいませんわ。聖女様は異世界からお越しの方ですから、この国の作法とは違う文化をお持ちでしょう。それよりも、過保護な家族が領地で待っておりますので、早々に申し訳ないですが聖女様のお話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 先に会話を楽しんで社交を行ってから本題に入る、という貴族の優雅な文化をアメリアも飛ばしてにっこりと要求する。
 それには王太子も苦笑いで応じた。君までか、と言いそうな表情に、長い期間婚約者同士であった2人の気心の知れた距離感を垣間見た気がする。

「せめて座って話そうか」

 王太子のその言葉を合図にしたかのように、いつからそこに控えていたのか、侍従が先導して邸の中を移動する。王太子は聖女をエスコートするものと思っていたが、誰の手も取らずに先に立って歩き出した。聖女もそのように思っていたようで、出しかけた手を下ろしながら一瞬、視線がこちらに鋭く向けられた。気を逸らしていれば見逃すような一瞬だったけれど、彼女の所作からは目が離せない。前触れもない唐突な動きが予測がつかなすぎるのだ。
 アメリアと並んで後ろからついて行きながら、ちら、とアメリアを横目で伺うと、美しい顔でこちらを安心させるように目を細めて寄越す。
 光の精霊の力をもつタイちゃんの加護を受けているわたしも、そしてここにくる前に一時的に加護を施されたアメリアも、タイちゃんより上位の精霊の力でなければ影響を受けることはない。らしい。





 広い邸の、それでも玄関に近い部屋に案内された。大きな窓は庭に面していて明るい光を取り込んでいる。
 1人掛けのソファの脇に王太子が立ったので、聖女は奥の長椅子に歩いて行きすぐに腰を下ろす。不満げな様子は、一緒に長椅子に腰掛ける心積りでいたんだろう。
 アメリアに促され、聖女と向かい合う長椅子に並んで向かい、王太子に勧められて腰掛けると、それを確認してから王太子も着座した。
 侍女がお茶の支度をする間、聖女がむっつりと黙り込んでいたのは関係のない人に話を聞かせないためではなく、ただこの状況のあれこれが不満でそれを表に出しているようだった。
 使用人たちを下がらせると、王太子は小さく息を吐いて言葉を促す。

「聖女様、アメリアもあのように言っていましたからあれほど急いで辺境伯領に向かわれた用向きをお伝えください」
 アメリアと婚約破棄ということもあり、この2人は恋人のような関係なのかと勝手に想像していた。けれど、先ほどからの王太子の言動は「聖女」を敬い補佐する王家の人としての一線を超えている様子がない。王都にいる頃は確かに、目に余る親密具合だった…と記憶しているけれど。王家の夜会でも実際そうだった。聖女からの距離感はそのように感じるのに、王太子側は適度な距離を保っているように、今は見受けられる。

「殿下、いらない誤解を招きますので、私のことは家名でお呼びください」

 そういえば、婚約破棄後にこの2人が顔を合わせるのは初めてなのだ。きついわけではないが、静かにそう言われて王太子が少し傷ついた顔をする。身勝手だ、とも思うが、魅了が原因とすれば彼も被害者かもしれない。


 そんなやりとりが業腹なのか、「わたしは」と、少し大きめの声で聖女がようやく口を開いた。

「わたしはこの世界に来て、王宮で様々なことを学ぶ時間をいただきました。聖女として働くために浄化魔法の訓練を受け、行儀作法、国の歴史や出入りする様々な人の名前やお立場を教えていただきました」

 急に、なんだろう。

「そうやって、わたしが知らないこの国で生きていくことができるよう恵まれた環境で学んでいる間、一緒にこの国に来たはずのあなたは何も与えられないままになっていたと、少し落ち着いてきてようやく思い至ったのです。殿下には相談もせず申し訳ありませんでしたが、あなたも一緒に王宮で生活をしませんか?」

 そうきたか。


 まず思ったのは、それだった。何か分が悪いことが起きているんだろう。都合が悪いことになりそうな要素を排除するために、とりあえず近くで見張りたいのだろうか。
 それにしても、王太子に相談もなく、当然許可もなく王宮に誘うとは。それが許されるほどの権限を持っているのか。
 召喚された時、2人いることに咄嗟にどちらが聖女か確認し、名乗った彼女を聖女と認定し「あまり」をすぐに城外に排出した王宮に、2人の客人を養う経済的余裕があるとは思えない。
 あとはおそらく、ずっとヴィクターの近くにいることも、彼女の機嫌を損ねている。最初の頃からの聞こえてくる言動を考えても、本来はヴィクターは彼女の近くにいるべき立場の人なのだろう。
 それらを考え合わせ、ここが王家の別邸、彼女の領分であることを考え、刺激しない言い回しを捻り出す。

「お気遣いありがとうございます。ちょうど、長くお世話になっていた辺境伯様のお屋敷からも出ようと準備を進めているところなのです。お言葉はありがたいのですが、王宮にお世話になる立場ではありませんし、予定通り、これからは自立して生活するつもりです」

「え」

 複雑な表情になる。辺境伯家を出ると聞いて喜び、王宮に行かず自立するという言葉に戸惑っているのか。楽と贅沢をさせると誘っているのに、というところだろうか。

 それ以上言うべきことはないと思っていると、隣でアメリアも口添えをしてくれた。

「当家に来た当初から、この国の基本的なことを学んだら自立するのだと言っていまして。あわよくば今後も我が家で過ごしてくれるように貴族としての所作や作法も教えましたが、市井で暮らすのに必要な知識なども伝えました。聖女様は王宮で一流の教師たちについておられますのでそこまでのものではありませんが、一通り私が教えましたが、我が家を出ても大丈夫なだけの知識はあると思います。いつまでも世話になれないと聞かないんですの」

 困ったわ、と言うように、ほう、とため息をつく様子は同性から見てもうっとりする。
 この話の流れは打ち合わせていなかったけれど、うまく合わせてくれた。実際、辺境伯邸は出て自分の家を持つことになるのだ。領地に住まわせてはもらうけれど。

 聖女があっけに取られている様子のところで、アメリアは話がそれだけなら、と早々に立ち上がる。これだけなら書簡でよかったのではないかと思ってしまう。あわよくば、連れ去ろうとでも企んでいたのだろうか。

「殿下、殿下までご足労いただいたのに申し訳ありません。そんなわけで我が家で彼女と過ごせる時間も少ないので、家族も気が短くなっておりますの。用件は済んだかと思いますので、失礼致しますわ」


 美しい挨拶を見せ、アメリアに促されてその部屋を後にする。


 本当に。
 このたった一言で終わるやりとりに何人に、何日も時間をかけさせてしまったのか。
 言葉の接ぎ穂を失って俯いている聖女が次の動きに出る前に、早々にその部屋を後にした。


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