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ヒナの物語
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いくら相手がお店のオーナーだとしても同じ空間にいてなんにもなく終わるとは思えない。
お風呂に肩までゆったいりと浸かっている日奈子は、いつの間にか出るタイミングがわからなくなっていた。
ついさっきまで光の胸を借りて散々泣きまくっていたくせに、今は外に出れば光が待っていると思うとドキドキしてお風呂から出ることができないなんて、我ながら考えすぎだと思う。
でも、オーナーが1人の嬢を自分の家に住まわせるということは、そういう関係になることを想定してもおかしくはない。
光は日奈子を自分の家に住まわせることにしたのだから、つまりそれは……。
そこまで考えてブンブンと左右に首をふる。
その瞬間熱で頭がクラリとした。
このままお湯に浸かり続けたら完全にのぼせてしまう。
これ以上光に迷惑はかけられないと、勇気を出して日奈子はお風呂から出た。
と、そこで待っていると思っていた光がソファにいない。
さっきまでついていてテレビも消されていて、部屋は静かだ。
光の部屋のドアへ近づいていって耳を当てて見るけれど、物音も聞こえてこない。
もしかしてどこかへ出かけたのかな?
そう思って玄関へ向かうとそこには光の靴がしっかりと揃えられて置かれたままになっている。
もしかして、先に寝た?
自分がお風呂の中で悶々と考え事をしている間に、光はさっさと眠ってしまったようだ。
「なぁんだ……」
ホッとしたような、なんだか少しがっかりしたような気持ちになりながら自分の部屋に向い、日奈子もこの日は眠りについたのだった。
☆☆☆
オーナーと暮らし始めたからと言って体の関係になるわけではないらしい。
考えてみれば当然のことなのに、考えすぎて緊張していた自分が恥ずかしくなる。
ベッドの上でしっかり睡眠を取った日奈子は翌日の昼頃に目を覚ました。
真っ白な天井に出窓から差し込んでくる光に一瞬ここがどこなのかわからなくなる。
けれどすぐに昨日の出来事を思い出していた。
光にここで暮らすように言われたんだっけ。
荷物まで運び込まれていたから、きっと日奈子の部屋の契約解除まで行われているはずだ。
もうあのボロアパートに戻る必要はないのだと思うと、ちょっとだけ寂しさを感じる。
本当になにもかもが変わってしまったんだ。
リビングへ出てみると光はまだ起き出してきていなかった。
自分はここでは居候という身分になるから、なにかしたほうがいいだろうかと、部屋の中を見回してみる。
白い壁も床も汚れひとつなく、ピカピカと輝いている。
日奈子が掃除をしたら逆に汚してしまいそうで怖くなるくらいだ。
どうしようかと考えたとき、不意にお腹がグゥと音を立てて日奈子は自分の耳を疑った。
ここ数日間は空腹を感じていなかったから、お腹から音が出ることをつい忘れていた。
そんあ自分に呆れつつ冷蔵庫へ向かう。
冷蔵庫の中にはウインナーと卵はあったけれど、他に目ぼしい食材は見当たらない。
独身の男の食事は外食が多いのかもしれない。
仕事柄、嬢と一緒に食事することだってあるだろうし、こんなものか。
日奈子は卵2子とウインナーの袋を取り出してフライパンをIHコンロに乗せた。
「そういえば料理するのも久しぶりだなぁ」
食べていたものといえば塩むすびくらいだ。
惣菜を買うのも食材を買うのももったいなくて家で料理もしていなかった。
「ホストに入れ込んでたくせに女としても終わってたのかも」
カズに会うためにできるだけ自分の見た目は気にしていたけれど、内面的な女性らしさは捨ててしまっていた気がする。
これでは本末転倒なのに、そんなことにも気がつくことができていなかったんだ。
心の傷はまだまだ癒えることを知らないけれど、光のおかげで少しはマシな人間に戻ってきている気がする。
少なくても、食欲を感じる程度には。
日奈子はウインナーと目玉焼きを二人分作ってテーブルに置いた。
光がいつ起きてくるかわからないけれど、そのまま少し待ってみることにして椅子に座る。
こうして誰かを待っているとなんとなく特別な関係になったような気がして、気がついたら頬が熱くなっていた。
別に私はそんな気持ち少しも持ってないし!
ただ、居候としてできることをしただけだし!
慌てて自分自身に言い訳をする。
この場の雰囲気に流されちゃいけない。
そういうところが原因で、カズを好きになりすぎてしまったんだから。
苦い気持ちを何度も思い出して日奈子は顔をしかめる。
そうしているとガタゴトともの音が聞こえてきて光が部屋から出てきた。
寝起きの光は半分目を開けた状態でぼんやりとしている。
寝癖もついていて、それがなんだか可愛らしく見えた。
相手はオーナーだから、もちろんそんなことは言わない。
「いい匂いがする」
ふらふらと近づいてきた光がテーブルの上の朝ごはんを見て目を丸くした。
完全に目を覚ましたみたいだ。
「台所勝手に使ってごめんね。なにかできることがないかなと思って、朝ごはん作ったんだけど、食べる?」
予め考えておいた言葉だからスラスラ口を出てきた。
光は「人の手料理なんて久しぶりだな」と呟いて席に座った。
どうやら一緒に食べる意思があるみたいだ。
日奈子はすぐに二人分のフォークを持って戻ってきた。
残念ながらお米を炊く時間まではなかったし、食パンもこの家にはなさそうだったから、おかずだけになるけれど。
「いただきます」
ふたりで手を合わせて一口食べる。
いつもどおりの味だ。
料理から離れていたけれど、これくらいの簡単なものならそうそう腕が落ちるものじゃない。
塩コショウの加減も絶妙だった。
「うまい」
「そっか。よかった。お米の保管場所とか教えてくれれば準備しておくことができるんだけど」
「米は食べきってから買ってきてないんだ。外食が多いし、買うタイミングがない」
やっぱりそういうことだったか。
それなら日奈子が今度買ってきておけばいい。
そう思って食事を続けていると光が日奈子の部屋へと視線を向けた。
「片付けは終わったのか?」
「まだだよ、だけど荷物はほとんどないし、すぐに終わるから大丈夫」
昨日の討ちにダンボールから出したのはパジャマと毛布くらいだ。
あとのものは手つかずで置いてある。
「なにか必要なものとか、手伝うことがあれば言ってくれ」
「あ、それならゴミ袋がほしいかも」
「ゴミ袋?」
日奈子の言葉に光がけげんそうな表情を浮かべる。
「いらないものを処分しようと思って」
「いらないものって、たったあれだけの荷物しかないのに?」
日奈子は頷く。
「私って一応は高級キャバ嬢になったわけでしょう? それならそのお給料で新しいものを変えばいいし、過去の自分と決別するために決めたの」
光は驚いた様に目を見開き、そして笑い声をあげた。
「女性は頼もしいな。男が思っているよりもずっとずっと、たくましいのかもしれない」
「なによそれ」
褒められたように感じられなくて光を睨みつける。
だけど悪い気はしなかったのだった。
☆☆☆
朝食の席で日奈子は宣言したとおりいらなくなった物をどんどんゴミ袋に詰め込んで行っていた。
自己啓発本や古い服、それにわけのわからないメモ書きなんかが出てくると容赦なくゴミ袋に突っ込んだ。
といっても服をすべて捨ててしまうわけにはいかないので、冬服を何着かと下着類は残しておく必要があった。
それも、初給料がでるまでのことだと自分に言い聞かせる。
そして箱の底へと手を突っ込んだとき、指先に硬い感触が触れた。
それを掴んで引っ張り出してみると、いつも本棚の上に飾ってあったカズの写真だったのだ。
笑顔のカズの写真を見ると途端に胸がズキンッと痛む。
自分へ向けて笑いかけてくれたカズを思い出す。
イイコイイコと子供みたいに頭をなでてくれたときのこと。
日奈子のことを全肯定してくれて、甘やかしてくれたこと。
それと同時に苦い記憶も蘇ってくる。
日奈子よりも若い女に乗り換えたカズ。
高級品をおねだりしてお礼のメッセージもよこさなかったカズ。
自分の人生を狂わせたカズ。
考えれば考えるほど、写真立てを持つ手に力が入っていて、日奈子はハッと我に返った。
いけない。
こんな風に過去に浸っている場合じゃないのに。
日奈子はしばらく写真立てを見つめたあと、ゴミ袋を握りしめたのだった。
☆☆☆
思っていた通り、部屋の片付けは1時間ほどで終わってしまった。
元々持っていたものが少ない上に捨ててしまったから、部屋の中はカラッポ同然だ。
クローゼットの中の数着の服を見て日奈子はホッとため息を吐き出した。
でも、これでいいんだ。
日奈子の心はスッキリしている。
後はダンボールを潰して、ゴミと一緒に出しておけば終わりだ。
日奈子は右手にダンボールを抱え、左手にゴミ袋を持って部屋を出た。
「終わったか」
リビングにはソファに座ってなにか難しそうな顔をしている光がいた。
テーブルの上にノートパソコンが乗っかっているから、仕事をしていたのだろう。
「ゴミはどうすればいい?」
「玄関先に出しておけば、俺が出してくる」
今回はその言葉に甘えることにした。
いずれはゴミ捨て場の場所も教えてもらわないといけなくなるだろう。
ここは飲食店の多い路地だから、ゴミは多そうだ。
「こっちへ来い」
ゴミを置いて戻ってきた日奈子を手招きして隣に座らせる。
パソコン画面が見えやすいように向きを変えると、そこには『ヒナの物語』と書かれていた。
「なにこれ、小説でも書くの?」
驚いて質問すると光が左右に首を振った。
「残念ながらそんなんじゃない。お前の人生を考えるんだ」
「私の人生?」
日奈子は自分を指差してそう聞き返した。
ついでも瞬きを繰り返す。
自分の人生はそんなに面白いものじゃないと思う。
普通に生まれて幼稚園に入園して、卒園して、小学校、中学校、高校と進学していった。
初恋は高校の同級生の子で、3ヶ月間くらい交際したけれどすぐに別れてしまった。
それから派遣会社に登録した日奈子はひとり暮らしを始めて、前の会社に努め始めた。
そこで出会ったのが友達の由利だ。
思えばここからが怒涛の人生かもしれない。
由利に出会って遊び半分でホストに行って、そこで由利とホストの1人がいい雰囲気になり、真剣交際を始めた。
それを間近で見聞きしていた日奈子はそれなら自分もと、カズに猛アタックを開始したのだ。
だけどカズはどこまで行ってもカズでしかなくて、本名すら知らないままだった。
「なにを死にそうな顔してるんだ」
光に指摘されて日奈子はやっと我にかえった。
またカズのことを考えてしまっていた。
「私の人生なんてそんなに面白いものじゃないよ?」
「それは俺が今から考えるんだ。いいか? お前の外見は悲壮感に満ちてる」
「そんな言い方しなくても……」
食欲や睡眠欲が戻ってきたと行っても、一気に回復するわけじゃない。
日奈子の体は相変わらず痩せすぎで、目元にもクマが残っている状態だ。
「それを利用させてもらう」
「利用する?」
「そう。男は可愛そうな女が好きだ。女だって、ほっとけないような男に惹かれるときがあるだろう?」
光からの質問に日奈子は頷いた。
確かに、安定した男よりも危なかったしい男だったり、なにかしら陰を持っている男の方が気になるかもしれない。
カズもそのタイプだった。
一見華やかだけど、不意に日奈子の前で見せる疲れた顔や、ため息。
それらが気になってしかたなくて、余計に離れられなくなってしまったのは事実だ。
って、またカズのこと考えてるし!
慌てて思考を目の前へ戻す。
「利用するって、どうやって?」
質問すると、光は返事をする変わりにパソコンのキーボードを叩き始めた。
「まず、ヒナには両親がいない。施設育ちだ」
「えぇ!?」
「施設では先輩にイジメられいて、靴を隠されたり、なにかの当番を押し付けられたりする」
「嘘!?」
「施設を出たヒナは就職するけれど、そこでも施設育ちということがネックになってイジメられて、退社する」
「ヒドイ!」
「途方に暮れているときにこの店の求人を見つけて、飛び込みで働き始めた。そこで施設育ちのマキと偶然再開して、今は楽しく仕事をしている」
「なによそれ、そんな人生送ってきてないけど!?」
両親は元気だし、マキともここで始めて会ったばかりだ。
「くれくらいわかりやすい方がいいんだ。いいか、これはお前の人生じゃなくて、ヒナの人生だ。お前はヒナを演じるんだ」
演じる……。
全く別の自分になりきる。
そんなことができるだろうかと不安がよぎる。
「お前ならできる」
光が自信満々に言い切るので日奈子はゴクリと唾を飲み込んだ。
「他の子たちも、こんな風に演じてるの?」
「あぁ。人生物語はそれぞれに作ってある」
「そうなんだ……」
「そんなに深く考える必要はない。演じると言っても客相手にこういう人生だと離すだけだからな。実際に施設時代からの演技をするわけじゃない」
それもそうか。
これはお客さんに興味を持ってもらうためのストーリーだ。
日奈子はパソコン画面をジッと見つめて、そして頷いた。
「わかった。頑張ってみる」
「よし。それじゃこの文書はお前のスマホに送っておくから。できれば記憶しておくように」
「はい」
日奈子は神妙な面持ちで頷いたのだった。
お風呂に肩までゆったいりと浸かっている日奈子は、いつの間にか出るタイミングがわからなくなっていた。
ついさっきまで光の胸を借りて散々泣きまくっていたくせに、今は外に出れば光が待っていると思うとドキドキしてお風呂から出ることができないなんて、我ながら考えすぎだと思う。
でも、オーナーが1人の嬢を自分の家に住まわせるということは、そういう関係になることを想定してもおかしくはない。
光は日奈子を自分の家に住まわせることにしたのだから、つまりそれは……。
そこまで考えてブンブンと左右に首をふる。
その瞬間熱で頭がクラリとした。
このままお湯に浸かり続けたら完全にのぼせてしまう。
これ以上光に迷惑はかけられないと、勇気を出して日奈子はお風呂から出た。
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さっきまでついていてテレビも消されていて、部屋は静かだ。
光の部屋のドアへ近づいていって耳を当てて見るけれど、物音も聞こえてこない。
もしかしてどこかへ出かけたのかな?
そう思って玄関へ向かうとそこには光の靴がしっかりと揃えられて置かれたままになっている。
もしかして、先に寝た?
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「なぁんだ……」
ホッとしたような、なんだか少しがっかりしたような気持ちになりながら自分の部屋に向い、日奈子もこの日は眠りについたのだった。
☆☆☆
オーナーと暮らし始めたからと言って体の関係になるわけではないらしい。
考えてみれば当然のことなのに、考えすぎて緊張していた自分が恥ずかしくなる。
ベッドの上でしっかり睡眠を取った日奈子は翌日の昼頃に目を覚ました。
真っ白な天井に出窓から差し込んでくる光に一瞬ここがどこなのかわからなくなる。
けれどすぐに昨日の出来事を思い出していた。
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荷物まで運び込まれていたから、きっと日奈子の部屋の契約解除まで行われているはずだ。
もうあのボロアパートに戻る必要はないのだと思うと、ちょっとだけ寂しさを感じる。
本当になにもかもが変わってしまったんだ。
リビングへ出てみると光はまだ起き出してきていなかった。
自分はここでは居候という身分になるから、なにかしたほうがいいだろうかと、部屋の中を見回してみる。
白い壁も床も汚れひとつなく、ピカピカと輝いている。
日奈子が掃除をしたら逆に汚してしまいそうで怖くなるくらいだ。
どうしようかと考えたとき、不意にお腹がグゥと音を立てて日奈子は自分の耳を疑った。
ここ数日間は空腹を感じていなかったから、お腹から音が出ることをつい忘れていた。
そんあ自分に呆れつつ冷蔵庫へ向かう。
冷蔵庫の中にはウインナーと卵はあったけれど、他に目ぼしい食材は見当たらない。
独身の男の食事は外食が多いのかもしれない。
仕事柄、嬢と一緒に食事することだってあるだろうし、こんなものか。
日奈子は卵2子とウインナーの袋を取り出してフライパンをIHコンロに乗せた。
「そういえば料理するのも久しぶりだなぁ」
食べていたものといえば塩むすびくらいだ。
惣菜を買うのも食材を買うのももったいなくて家で料理もしていなかった。
「ホストに入れ込んでたくせに女としても終わってたのかも」
カズに会うためにできるだけ自分の見た目は気にしていたけれど、内面的な女性らしさは捨ててしまっていた気がする。
これでは本末転倒なのに、そんなことにも気がつくことができていなかったんだ。
心の傷はまだまだ癒えることを知らないけれど、光のおかげで少しはマシな人間に戻ってきている気がする。
少なくても、食欲を感じる程度には。
日奈子はウインナーと目玉焼きを二人分作ってテーブルに置いた。
光がいつ起きてくるかわからないけれど、そのまま少し待ってみることにして椅子に座る。
こうして誰かを待っているとなんとなく特別な関係になったような気がして、気がついたら頬が熱くなっていた。
別に私はそんな気持ち少しも持ってないし!
ただ、居候としてできることをしただけだし!
慌てて自分自身に言い訳をする。
この場の雰囲気に流されちゃいけない。
そういうところが原因で、カズを好きになりすぎてしまったんだから。
苦い気持ちを何度も思い出して日奈子は顔をしかめる。
そうしているとガタゴトともの音が聞こえてきて光が部屋から出てきた。
寝起きの光は半分目を開けた状態でぼんやりとしている。
寝癖もついていて、それがなんだか可愛らしく見えた。
相手はオーナーだから、もちろんそんなことは言わない。
「いい匂いがする」
ふらふらと近づいてきた光がテーブルの上の朝ごはんを見て目を丸くした。
完全に目を覚ましたみたいだ。
「台所勝手に使ってごめんね。なにかできることがないかなと思って、朝ごはん作ったんだけど、食べる?」
予め考えておいた言葉だからスラスラ口を出てきた。
光は「人の手料理なんて久しぶりだな」と呟いて席に座った。
どうやら一緒に食べる意思があるみたいだ。
日奈子はすぐに二人分のフォークを持って戻ってきた。
残念ながらお米を炊く時間まではなかったし、食パンもこの家にはなさそうだったから、おかずだけになるけれど。
「いただきます」
ふたりで手を合わせて一口食べる。
いつもどおりの味だ。
料理から離れていたけれど、これくらいの簡単なものならそうそう腕が落ちるものじゃない。
塩コショウの加減も絶妙だった。
「うまい」
「そっか。よかった。お米の保管場所とか教えてくれれば準備しておくことができるんだけど」
「米は食べきってから買ってきてないんだ。外食が多いし、買うタイミングがない」
やっぱりそういうことだったか。
それなら日奈子が今度買ってきておけばいい。
そう思って食事を続けていると光が日奈子の部屋へと視線を向けた。
「片付けは終わったのか?」
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昨日の討ちにダンボールから出したのはパジャマと毛布くらいだ。
あとのものは手つかずで置いてある。
「なにか必要なものとか、手伝うことがあれば言ってくれ」
「あ、それならゴミ袋がほしいかも」
「ゴミ袋?」
日奈子の言葉に光がけげんそうな表情を浮かべる。
「いらないものを処分しようと思って」
「いらないものって、たったあれだけの荷物しかないのに?」
日奈子は頷く。
「私って一応は高級キャバ嬢になったわけでしょう? それならそのお給料で新しいものを変えばいいし、過去の自分と決別するために決めたの」
光は驚いた様に目を見開き、そして笑い声をあげた。
「女性は頼もしいな。男が思っているよりもずっとずっと、たくましいのかもしれない」
「なによそれ」
褒められたように感じられなくて光を睨みつける。
だけど悪い気はしなかったのだった。
☆☆☆
朝食の席で日奈子は宣言したとおりいらなくなった物をどんどんゴミ袋に詰め込んで行っていた。
自己啓発本や古い服、それにわけのわからないメモ書きなんかが出てくると容赦なくゴミ袋に突っ込んだ。
といっても服をすべて捨ててしまうわけにはいかないので、冬服を何着かと下着類は残しておく必要があった。
それも、初給料がでるまでのことだと自分に言い聞かせる。
そして箱の底へと手を突っ込んだとき、指先に硬い感触が触れた。
それを掴んで引っ張り出してみると、いつも本棚の上に飾ってあったカズの写真だったのだ。
笑顔のカズの写真を見ると途端に胸がズキンッと痛む。
自分へ向けて笑いかけてくれたカズを思い出す。
イイコイイコと子供みたいに頭をなでてくれたときのこと。
日奈子のことを全肯定してくれて、甘やかしてくれたこと。
それと同時に苦い記憶も蘇ってくる。
日奈子よりも若い女に乗り換えたカズ。
高級品をおねだりしてお礼のメッセージもよこさなかったカズ。
自分の人生を狂わせたカズ。
考えれば考えるほど、写真立てを持つ手に力が入っていて、日奈子はハッと我に返った。
いけない。
こんな風に過去に浸っている場合じゃないのに。
日奈子はしばらく写真立てを見つめたあと、ゴミ袋を握りしめたのだった。
☆☆☆
思っていた通り、部屋の片付けは1時間ほどで終わってしまった。
元々持っていたものが少ない上に捨ててしまったから、部屋の中はカラッポ同然だ。
クローゼットの中の数着の服を見て日奈子はホッとため息を吐き出した。
でも、これでいいんだ。
日奈子の心はスッキリしている。
後はダンボールを潰して、ゴミと一緒に出しておけば終わりだ。
日奈子は右手にダンボールを抱え、左手にゴミ袋を持って部屋を出た。
「終わったか」
リビングにはソファに座ってなにか難しそうな顔をしている光がいた。
テーブルの上にノートパソコンが乗っかっているから、仕事をしていたのだろう。
「ゴミはどうすればいい?」
「玄関先に出しておけば、俺が出してくる」
今回はその言葉に甘えることにした。
いずれはゴミ捨て場の場所も教えてもらわないといけなくなるだろう。
ここは飲食店の多い路地だから、ゴミは多そうだ。
「こっちへ来い」
ゴミを置いて戻ってきた日奈子を手招きして隣に座らせる。
パソコン画面が見えやすいように向きを変えると、そこには『ヒナの物語』と書かれていた。
「なにこれ、小説でも書くの?」
驚いて質問すると光が左右に首を振った。
「残念ながらそんなんじゃない。お前の人生を考えるんだ」
「私の人生?」
日奈子は自分を指差してそう聞き返した。
ついでも瞬きを繰り返す。
自分の人生はそんなに面白いものじゃないと思う。
普通に生まれて幼稚園に入園して、卒園して、小学校、中学校、高校と進学していった。
初恋は高校の同級生の子で、3ヶ月間くらい交際したけれどすぐに別れてしまった。
それから派遣会社に登録した日奈子はひとり暮らしを始めて、前の会社に努め始めた。
そこで出会ったのが友達の由利だ。
思えばここからが怒涛の人生かもしれない。
由利に出会って遊び半分でホストに行って、そこで由利とホストの1人がいい雰囲気になり、真剣交際を始めた。
それを間近で見聞きしていた日奈子はそれなら自分もと、カズに猛アタックを開始したのだ。
だけどカズはどこまで行ってもカズでしかなくて、本名すら知らないままだった。
「なにを死にそうな顔してるんだ」
光に指摘されて日奈子はやっと我にかえった。
またカズのことを考えてしまっていた。
「私の人生なんてそんなに面白いものじゃないよ?」
「それは俺が今から考えるんだ。いいか? お前の外見は悲壮感に満ちてる」
「そんな言い方しなくても……」
食欲や睡眠欲が戻ってきたと行っても、一気に回復するわけじゃない。
日奈子の体は相変わらず痩せすぎで、目元にもクマが残っている状態だ。
「それを利用させてもらう」
「利用する?」
「そう。男は可愛そうな女が好きだ。女だって、ほっとけないような男に惹かれるときがあるだろう?」
光からの質問に日奈子は頷いた。
確かに、安定した男よりも危なかったしい男だったり、なにかしら陰を持っている男の方が気になるかもしれない。
カズもそのタイプだった。
一見華やかだけど、不意に日奈子の前で見せる疲れた顔や、ため息。
それらが気になってしかたなくて、余計に離れられなくなってしまったのは事実だ。
って、またカズのこと考えてるし!
慌てて思考を目の前へ戻す。
「利用するって、どうやって?」
質問すると、光は返事をする変わりにパソコンのキーボードを叩き始めた。
「まず、ヒナには両親がいない。施設育ちだ」
「えぇ!?」
「施設では先輩にイジメられいて、靴を隠されたり、なにかの当番を押し付けられたりする」
「嘘!?」
「施設を出たヒナは就職するけれど、そこでも施設育ちということがネックになってイジメられて、退社する」
「ヒドイ!」
「途方に暮れているときにこの店の求人を見つけて、飛び込みで働き始めた。そこで施設育ちのマキと偶然再開して、今は楽しく仕事をしている」
「なによそれ、そんな人生送ってきてないけど!?」
両親は元気だし、マキともここで始めて会ったばかりだ。
「くれくらいわかりやすい方がいいんだ。いいか、これはお前の人生じゃなくて、ヒナの人生だ。お前はヒナを演じるんだ」
演じる……。
全く別の自分になりきる。
そんなことができるだろうかと不安がよぎる。
「お前ならできる」
光が自信満々に言い切るので日奈子はゴクリと唾を飲み込んだ。
「他の子たちも、こんな風に演じてるの?」
「あぁ。人生物語はそれぞれに作ってある」
「そうなんだ……」
「そんなに深く考える必要はない。演じると言っても客相手にこういう人生だと離すだけだからな。実際に施設時代からの演技をするわけじゃない」
それもそうか。
これはお客さんに興味を持ってもらうためのストーリーだ。
日奈子はパソコン画面をジッと見つめて、そして頷いた。
「わかった。頑張ってみる」
「よし。それじゃこの文書はお前のスマホに送っておくから。できれば記憶しておくように」
「はい」
日奈子は神妙な面持ちで頷いたのだった。
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お母様が国王陛下に見染められて再婚することになったら、美麗だけど残念な義兄の王太子殿下に婚姻を迫られました!
奏音 美都
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まだ夜の冷気が残る早朝、焼かれたパンを店に並べていると、いつもは慌ただしく動き回っている母さんが、私の後ろに立っていた。
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どこから突っ込んでいいのか分かんない。
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