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第二章

第24話

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「先輩、あの……」

 美空は思っていたことを口にしてもいいのか、ずっと迷っていた。しかし、言ってもきっと夕は美空を見限ることはない。だから、勇気を振り絞って、美空は夕を見つめた。

「ん?」

「キスをしてみたいです」

 女の子からこんなことを言うのは変かなと思いながらも、ためらっている分だけ有限の時間が流れて行くことを美空は知っている。恥ずかしさと期待に、胸が爆発しそうになる。夕なら、このお願いも叶えてくれる、と淡い期待を胸に抱いていた。

「キス? 僕と?」

 改めて聞かれると、心臓の音が夕にまで聞こえてしまうのではないかと思うほどに、美空の心臓が爆音を轟かせた。自分でもわかるほどに、徐々に顔が真っ赤になって熱を持っていく。鏡を見たら、首筋まで真っ赤になっているに違いなかった。

「そうです」

 夕はきょとんとして表情が止まったままになった。呼吸をしていなければ、人形だと言われてもおかしくない。そんな夕を見て、美空は「変ですよね、やっぱり」とうつむいた。全身から発火したかのようになって、美空は唇を噛んだ。言ってはいけないお願いだったかもしれないと、後悔がよぎる。

「いや、変じゃないけど」

 夕はものすごく照れて笑いながら、そしてその後にほんの一瞬だけ、悲しそうな顔をした後にいつもの穏やかな表情に戻って美空を見つめた。

 伸びてきた手が、美空の頬に触れる。その手は、いつものようにヒンヤリと冷たくて心地良い。真っ赤になっていた美空の気持ちを、そうやっていつも落ち着かせてくれる。

「美空くん、そのお願いは叶えてあげられない」

「え?」

 好きじゃない、ただのふりだけの彼氏彼女の関係だからだろう。そう考えた瞬間に、恐ろしい絶望が美空の心の中にじんわりと広がる中で、夕は極めて真剣な顔をした。美空の頬にもう一方の手のひらを添えると、親指が優しく唇に触れる。

「そういうのは、大事な時のためにとっておくものだよ」

 絶望しかけた美空の想像とは違う言葉が返ってきて、美空は思わず首をかしげた。

「大事な時って言ったって、私、もうすぐ死んじゃうのに……?」

 それに夕の瞳がかすかに震えた。髪の毛一本ほど、眉根が寄せられたが、見間違いだったかもしれないと思うほど、夕は真剣な眼差しだった。ゆっくりと首を横へと振ると、少しだけ、目を伏せて考えてから、美空を見つめる。

「一番大事な人のために、取っておくものだよ。すごく嬉しいけれど、僕に捧げるには、あまりにももったいない」

「そんなことないです、私……」

 そこまで言いかけると、夕の手が美空の額に触れて、そして前髪を横へと凪いだ。

「今は、これだけね」

 そのまま夕の顔が近づいてきて、思わず美空が目をつぶると、額に柔らかいものが当たった。それが、夕の唇だと気がついたときには、夕の顔が離れて行った後だった。

 恥ずかしさのあまりに呼吸ができないでいると、夕がのぞき込んできた。いつもの優しい笑みが見えて、思わず美空はとっさに顔を伏せた。

「先輩……恥ずかしい」

「うん、可愛いからよく見せて?」

 そのまま心臓が口から飛び出るほどに訳が分からなくなった美空を見て夕はほほ笑むと、もう一度額に口づけをして、そして今までにないくらいにぎゅっと抱きしめた。

 そこまでされてから、夕の心臓も早鐘のようになっていることに気がつく。美空と同じか、それ以上に夕の鼓動は早い。

 美空は、いとおしくて優しい先輩の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめ返した。

「美空くん、魔法をかけてもいい?」

「はい……」

 幸せをかみしめていた美空の耳元で、恥ずかしそうに夕がつぶやいた。

「明日には、今あったキスのこと、忘れちゃう魔法」

 そう言って夕が一瞬息が止まるほどに強く抱きしめてきて、美空は忘れたくないけれども、仕方ないなと思いながら温もりをしばらく感じていた。

「僕は、明日には、また明日の君に恋をするから。美空くんも、明日の僕にまた恋をして」

「はい」

 永遠とも思える一瞬が過ぎて、風が冷えてくる頃に二人は帰路へと着いた。時間はやっぱり残酷だが、この世で唯一、どの人間にも平等に与えられているものだ。

 今夜までは夕の唇が触れたこそばゆい感触を忘れたくない。そう思いながら、美空は帰宅して何度も鏡を見たり、思い出したりし¥た。込み上げてくる気持ちに押しつぶされそうになる胸の高鳴りを、制御することができずに夜中すぎに眠った。

 翌朝には忘れてしまうと言ったのに、そう魔法をかけると言ったのに、翌朝起きた美空は鏡を見ながら自身のおでこを触って首をかしげた。

「……あれ、覚えてる……?」

 額に触れた夕のこそばゆい感触が、今もまだ思い出せる。抱きしめられた温もりも、その時の鼓動が早かったことも。

「神様も、魔法を失敗することがあるんだ」

 美空は夕への愛おしさを感じながら、顔を洗って前髪を整える。しっかりと目を覚ましてから、アルバイトへと向かった。
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