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1巻 ひねくれ絵師の居候はじめました
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(――もう、『声』が聞こえても話しかけないようにしなくっちゃ)
そうして瑠璃は、聞こえてくる『声』を徹底的に無視するようになったのだ。
聞こえないふりをしていると、瑠璃を見る時にどこか不安そうだった母親の顔がだんだん明るくなっていく。
(あんな風に私が我慢できていれば、こんなことにならなかったかもしれないのに――)
会社の人達が、瑠璃のことを悪く言っていたかどうかは、わからない。
しかし、瑠璃を見る目の奥には、あの時の母親と同じように疑いがちらついているのがわかった。だからこそ、瑠璃は会社にいられなくなってしまったのだ。
(好きなことをしていて楽しかったのに、どうして、ダメになっちゃったんだろう)
自分はどうしてもう少し頑張れなかったのか。
どうして我慢して勤められなかったのか……
すべての責任は自分にあると瑠璃は感じていた。
『あんまり自分を責めん方がええで』
(でも、あんなにみんな優しかったのに……)
しわがれ『声』は、瑠璃の気持ちを察して慰めてくれる。幻聴に励まされたところで、自分自身を甘やかしているようにしか思えなかった。
『ああ、泣いたらあかんで。ほら、涙拭き』
言われて、いつの間にか涙が出ていたことに気がついた。
ぽつんと一滴、パンフレットの一部に涙が落ちて染みをつくっている。それは、きっとあっという間に蒸発して、なにもなかったかのように消えていく。瑠璃はそれを見ていられなくて、手で拭ってしまった。
手描きの注文番号を書き込んだパンフレットを何冊か用意し終わる頃に、再び長谷が店に顔を出した。
困ったように八の字になった眉毛を見て、また龍玄に難題を言われたのかなと瑠璃も苦笑しながら出迎える。
「長谷さん、お茶でも淹れましょうか?」
「瑠璃ちゃんほんとに助かるよ。先生の所は、お茶どころかもはやなにがなんだか……」
長谷はカウンター前の丸椅子に腰を下ろすと、疲れたー! と息を吐き姿勢を崩してネクタイを緩めた。
「たまにお茶を出してくるんだけど、なんのエキスから抽出されたのかわからないから、とてもじゃないけど飲めないんだよ」
「それは……困りますね」
長谷はよっぽど疲れたのか、龍玄の屋敷の凄惨さを伝え始める。
瑠璃は頷きながら曖昧に微笑んで冷たい麦茶を渡した。
「困るなんてもんじゃないよ。先生の屋敷はほんとうに散らかりすぎててさ~」
「あはは、長谷さんいつも困っていますよね」
「そうなんだよ。あんなに立派なお屋敷なのに、もったいなさすぎる」
軽口を叩きながら、長谷はワイシャツの胸ポケットからメモ用紙を広げて瑠璃に見せた。
「あ、これがその番手? らしいんだけど……ごめんね瑠璃ちゃん。俺にはさっぱりで説明ができなくて」
大丈夫ですよと瑠璃はにっこりする。
さらりとした筆致でメモに書かれていたのは、瑠璃にとっては見慣れた内容だった。
即座に脳内で先ほどのパンフレットの商品と一致させる。
「ええと、こちらは今お店に在庫がないので、取り寄せます。おそらく、三日から四日ほどで届きます。届いたら、長谷さんに連絡入れますね」
瑠璃はすぐに取り寄せ伝票を用意して、商品名を記入した。それからメモに書かれていた岩絵の具を探しに行き、店頭にないので裏の倉庫から探して持ってくる。
するとそんな瑠璃の動きに、麦茶を飲み干した長谷が拝むように手を合わせた。
「もう、瑠璃ちゃん最高だよ。っていうかさ、やっぱり先生が買いに来たらいいのにね!」
「ですが、龍玄先生は人嫌いで有名ですし……」
「そうだけど、少しくらい屋敷から出た方がいいと思うんだよね」
「引きこもった方が、いい作品が描ける時もありますよ。それに、長谷さんがいてくれるから、きっと先生も安心しているんだと思います」
長谷は二杯目の麦茶を噴き出しそうになりながら、ないないと大げさに手を振ってみせる。
「安心もなにも、俺はただの営業だよ。使いっ走りじゃないっていうのにさ!」
「長谷さん、面倒見がいいから」
「そうなんだよね。それが俺の美徳であり、欠点でもあるというか。だからって、こんなにおつかいを押し付けられるとは思ってもみなかった」
また長谷は眉毛を八の字にして愚痴をこぼした。ただ妙な愛嬌と明るい声のせいで、愚痴があまり愚痴に聞こえないのがすごい。
瑠璃がくすくす笑うと、長谷はまた大仰に眉毛を八の字にしてみせる。
「先生が新作を描いてくれるって言うから、俺だって頑張って通ってるけど、そうじゃなきゃおつかいなんてごめんだよ。先生が言っている言葉のほとんどが、呪文みたいなんだもん」
「それだけ、長谷さんが頼られているっていうことです。人嫌いで有名な先生に気に入られるなんて、なかなかできないことだと思いますよ?」
「だったら日頃の感謝を込めて、俺に特別に一枚くらい描いてくれてもいいんだけどな~」
長谷は瑠璃の渡した伝票に名前と電話番号を記入し終わると、だらんと脱力した。
そう、さびれたという表現がしっくりくる年季の入った文房具屋に、長谷がこうして足しげく通う理由はたった一つ。彼が肩入れしている龍玄が好む画材が置いてある文房具屋が、この辺りではこの店しかないからだった。
昔ながらの文房具屋は、たいがい大きなショッピングモールのせいで潰れてしまい、生き残っているところは画材専門店のようになっているのがほとんどだ。
この文房具店は、後者に近い立ち位置だった。そのおかげもあって、龍玄のご用達になっている。
「どんなに早く描ける人でも、描ける時と描けない時の差ってありますから。こうして絵の具を購入しているくらいですから、きっとなにか描いているんだと思いますよ」
世界がひっくり返るほどの天才でも、スランプの一つや二つはある。瑠璃は絵を描く立場の人間が、どんな苦労を抱えているか重々承知していた。
そうなんだけどね、と長谷は机に突っ伏した。
「もうさ、決まっているんだよ来月の個展。なのに新作が一枚もないんじゃ、秘蔵過去作品展に変えなきゃだよ。あー、もうほんと、人嫌いなのはわかるけど、じゃあ俺のことをこき使うのはなんでよまったく」
瑠璃は苦笑いをしながらもう一杯麦茶を注ぎ、お茶請けを出す。すると長谷はまるで少年のように目を輝かせて、「瑠璃ちゃんほんと気が利く!」と小さなチョコレートを美味しそうに頬張った。
文句を言っているものの、長谷はなにかと世話焼きで人懐っこい性格なので、気難し屋の龍玄も心を許しているように瑠璃には思えていた。
しかし、実際長谷は経済学部出身のため、絵画や画材についての知識は瑠璃や龍玄には確実に劣っている。画材の注文を頼まれては、その度に謎の呪文みたいだと困っているので、いつの間にか瑠璃が手助けをするのが当たり前になっていた。
「俺はさ、瑠璃ちゃんが龍玄先生のところで助手をしてくれたら、最高だと思うんだよね」
長谷が身を乗り出してくる。
「引っ越しとか再就職先とかで、瑠璃ちゃんすごく悩んでいるもんね」
「そんなお話を振っていただけるなんて、私が化け物になるくらいの確率でありえませんよ」
長谷は先生だって化け物みたいなもんなんだから大丈夫だよ、と訳のわからない理由付けをして笑い飛ばす。
「瑠璃ちゃんにその気がなくても、先生がいいって言うかもしれないし」
「いえ、私はそんな大それたことできませんから」
瑠璃がうつむくと、長谷はそれ以上触れず来月開かれる龍玄の個展について話題を移した。それからしばらく、絵のことで長谷と話し込んでしまった。
盛り上がっていたところで、時計を見た長谷が「いけないっ!」と言って慌てて立ち上がる。
店の入り口まで見送りながら、瑠璃は作成したばかりの手作りの注文用紙を渡した。
「もうほんと、瑠璃ちゃん神様!」
長谷は瑠璃を拝むようにしてから、龍玄の屋敷へ小走りで戻っていった。
そろそろ店じまいの準備をしなくちゃと瑠璃が思っていると、店の奥さんが出てくる。
「あら、にぎやかだと思ったら、やっぱり長谷さん来ていたのね」
「はい、龍玄先生のおつかいで」
旦那さんが経営していたこの店を、旦那さんと死別してから一人で切り盛りしている奥さんは、穏やかで感じのいいグレイヘアがよく似合うマダムだ。
県をまたいだ都市部でマンションの大家をしており、収入に困っているというわけではない。なので店は畳んでもいいのだが、旦那さんが愛した店だからということで残していた。そのため、専門の画材を扱いつつも、一般の人が使うような文房具も取り揃えているという訳だ。
「瑠璃ちゃん、戸締りしたらもう上がっていいわよ。今日は、長谷さんだけでしょう、お客さん」
「はい。じゃあ、シャッター閉めてきますね」
瑠璃は店の前へ行き、長い棒を使ってガラガラと上からシャッターを引っ張り下ろす。戸締りを確認し、すべての出入り口と窓の施錠をすると店の電気を消した。
(また明日……)
誰もいない店内に、さようならとお辞儀をする。
『また明日な。お姉ちゃんが来るの楽しみに待っとるで』
するとまた女の子の『声』が返事をしてきた。瑠璃は唇をきゅっと引き結び、すぐに裏口から店を出ると急いで帰路についた。
*
瑠璃が現在住んでいるのは、四ヶ月前まで働いていた職場の社宅だ。それまでは、本社に近い都市部の社宅に住んでいた。
休職してから、瑠璃は実家に戻らず本社から少し離れた場所にある別の社宅に引っ越しした。県をまたぐため割安で借りられるということで、実家を頑なに拒む瑠璃に上司が提案してくれたのだ。
本当は、すぐに会社を辞めるべきだった。けれど、環境を変えて少し落ち着いたらまた復帰できるかもしれないから、という上司や同僚の提案をむげに断ることができなかった。
そういう理由で、鹿がたくさんいる奈良の社宅へ引っ越したのが、四月の終わりのことだった。
引っ越してすぐは緊張で眠れない日々が続いたのだが、都会の喧噪から離れてしばらくすると、だんだん瑠璃は落ち着きを取り戻した。
それほど遠くない場所に実家があるのに、瑠璃が一人暮らしを続ける理由はいくつかある。
その一つが、実家に帰ろうと思って両親へ連絡をした時に味わった、なんともいえない胸に広がるえぐみだ。
――あの時の感情を、いまだに瑠璃は引きずっている。
「鬱になるなんて心が弱いからよ」
会社を休職するという事情を電話で説明した時の母の言葉だ。
瑠璃が自分自身を甘やかしているという一点張りで、両親は一切話を聞いてくれなかった。それで、実家に帰れなくなった。
もちろん、悪いのは心が弱い自分なのだけど……
引っ越しの後、一ヶ月の休みを申し出て静かな古都で過ごすようになると、ささくれ立った心も若干静まった。
しかし、休職期間を終えて意気込んで出社した瑠璃を待ち受けていたのは、会社の前で立ち尽くしたまま動けず、ぼろぼろと流れる涙を止められない弱いままの自分だった。
そのまま足早に引き返し、上司に連絡を入れて休むことを告げた。
――あの時、なぜ立ち尽くしてしまったのかも、泣いてしまったのかもわからない。
会社に行くことは怖くなかったし、仕事は楽しかったはずだ。それなのに、瑠璃の両脚は、頑なにこわばって動くことができなかった。
いたたまれない気持ちのまま、初夏を迎える前に退職願を出した。
結局、大好きだった仕事を、一年勤めただけで辞めてしまった。
瑠璃を心配した上司は、家が見つかるまでは今の場所に住んでいても問題がないように、会社に掛け合ってくれた。
瑠璃は会社と上司の対応に甘えてしまって、いまだ元勤め先の社宅に半年を上限に住まわせてもらっている。
(こんなことをして甘えてばかりいてはダメだもの……)
年内をめどに出ていくと言ったのは瑠璃自身だった。自分でタイムリミットを設けて社会復帰しようと決めたのだ。
なのに、再就職先が見つからないまま、瑠璃は文房具屋でアルバイトを続けている。
社宅を出ていくと決めた年末まで、あと数ヶ月に迫っている。
それまでに、どこかへ引っ越しをしなくてはならない。きちんと社会復帰することすらままならない自分がどうしても納得できず、つらかった。
(……復帰できると思っていたんだけど……。私、ずいぶんと自分を甘やかしすぎてしまったんだ)
電車に乗って、流れていく窓の外ののどかな景色を眺めた。その風景は瑠璃の心を癒すと同時に、心に緩みを作ってしまっていた。
(ダメだって思うのに、このままでもいいと思ってしまう自分がいるのよね)
今働いている文房具屋を見つけたのは、引っ越ししてすぐのことだった。
気分転換に散策していると、大通りから一本入った脇道で文房具の看板が目に留まり、懐かしい思いにいざなわれるまま、店内にふらりと立ち寄ったのだ。
それから奥さんと話すうちに、この店でアルバイトをしたいと申し込んだのは、本当に自然な流れだった。
まだ会社を辞めてそれほど経っていなかったのだが、働くことで当面の生活費の不安を埋めたかったこともあるかもしれない。
退職金は雀の涙ほどで、仕事を辞めるとお金の問題が瑠璃を苦しめた。
次の働き口が見つかるまで、アルバイトで食いつなぐ方法しか思い当たらなかった。
文房具屋の奥さんは、なにも言わずにじゃあお手伝いお願いねと言って快く雇ってくれた。震える声で返事をした瑠璃の肩に、置いてくれた手の温かさに救われた。
――そして、千円に満たない時給が、瑠璃の今の価値だ。
泣きごとを家族に言えず、まだ会社で働いていると嘘をついている。
そのため、働いてから毎月続けている実家への仕送りを、やめられずにいた。
これ以上、誰にも迷惑をかけたくない。
(でも、もうすぐ、貯金も底をつく……)
冬が近づいていることに加えてお財布の寂しさもあり、心の中には世の中と同じように木枯らしが吹いている。最寄り駅に着くと、大きくため息を吐いた。
明日に不安しかない世界で、自分だけが被害者でいるわけにはいかない。
自分がこの世で一番つらいなんてことはないとわかっている。でも、やっぱりつらかった。
(早く、新しい仕事と家を探さないと。いつまでも被害者ぶっていても仕方ない)
『そんな急がんでもええんちゃう? あんまり急ぐと危ないで』
瑠璃の耳に聞こえてくる『声』は、いつも優しい。
誰かに優しくされたいという思いが、こうして妄想となって別の人格を形成して話しかけてくるのだろう。
卑屈な考えを追いやるように首を横に振って、瑠璃は冷たくなり始めた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(ダメダメ。あんまり意気地なしなことを考えたら!)
夜には気分転換に読書をして過ごそう、と気持ちを切り替える。
奥さんの貸してくれた名画の謎に迫った本を読んで、夢の中くらいは美しい絵画が広がる中世の世界に出かけたいと願いながら帰宅した。
*
「瑠璃ちゃん、そういえば新しいお家決まった?」
翌日、瑠璃が出勤すると、奥さんがニコニコしながらお茶の用意を始めた。
商品棚のレイアウトを変えようと眉間にしわを寄せながら腕組みをしていた瑠璃は、「まだなんです」と苦笑いをする。
「そう。私のマンションのお部屋が空いているけれど、ちょっとここからは遠いものねえ」
いざとなったら奥さんが一室を貸してくれるというのだが、それは喧噪と雑踏が良く似合う大都会にある。
仕事先が決まるまでは、まだこの文房具屋でアルバイトを続けたい。なので近くで物件を探しており、ありがたい提案だったが断っていた。
「この辺りでいいお家ないかなと思って、私も探しているんだけど。あんまりなのよね」
瑠璃の内情を知っている奥さんは、住まいについて真剣に悩んでくれているらしい。
それが嬉しくも申し訳なくて、慌てて頭を下げた。
「お手を煩わせてしまって申し訳ないです」
「いいのよ。私がしたくてしていることなんだから」
奥さんが困るのも当たり前のことだ。この文房具屋がある周辺は観光地というだけあって土地代が高く、今の瑠璃の経済状況的に難しい。お財布事情から、二の足を踏んでしまっている状態だ。
「昨日新しく入居した方からいただいたお菓子があるの。瑠璃ちゃん一緒に食べましょう」
「いただきます!」
奥さんが用意してくれたお茶菓子と、温かいほうじ茶に瑠璃は手を伸ばした。
今日もこの文房具屋はとても静かだ。下界から切り離されたという表現がしっくりくる。公民館で開催される絵画教室用の画材を買いに、地元のご老人や近くの小学生が立ち寄ることがしばしばある程度で、客足は遠い。
それくらいが、人を見ると疑心暗鬼に陥ってしまう瑠璃としてはちょうど良かった。
「今日は、長谷さん来ないわね」
「昨日いらしたばっかりですから。商品が届いたらまた顔を出してくれますよ」
この店では、龍玄が一番の固定客なのは間違いなかった。
にもかかわらず、瑠璃は勤めて四ヶ月経った今も、龍玄本人の影すら見たことがない。いつも困った顔をした長谷が、眉毛を八の字にしながらやって来るのみだ。
姿を見たことはないが、瑠璃は龍玄という人物がどういった画材を好むのか熟知していた。それくらい長谷は頻繁にこの文房具屋を訪れていたし、龍玄の制作状況は注文の具合からして想像できる。
「そういえば、今月号の美術雑誌に龍玄先生載っていたわよ。持ってくるから店番中に見る?」
奥さんが店の奥にある家の中から持ってきてくれた美術雑誌の巻頭ページに、龍玄の特集が組まれていた。瑠璃は雑誌を受け取ると、すぐにぺらぺらめくる。
「この絵のどれかが、うちで扱っていた絵の具で描かれているのかと思うと、なんだかワクワクするわね」
龍玄の作品が美しいカラー写真で何枚も載せられており、拡大図はページから今にも飛び出してきそうな迫力がある。あまりの美麗さに瑠璃は息を吸うことさえ忘れて魅入ってしまった。
「瑠璃ちゃん、店番頼んでもいい?」
奥さんは用事があって出ていくと瑠璃に言い残して、雑誌を置いてまた家へ戻っていく。瑠璃は見送ってから再度雑誌に手を伸ばした。
『――すごい人やなあ、こんな特集されて』
急に耳元からしわがれ『声』で感嘆のため息が聞こえてくる。瑠璃は無視したい気持ちとは反対に、思わず小さく頷いてしまっていた。
(すごい人に違いないの。私が美大にいた時から、雲の上の人だったんだもの)
描かれた絵の美しさはもちろん、独特な世界観と本人自身の美貌が注目され続けている日本画家、それが『龍玄』という人物だった。
美術を多少なりともかじっている人であれば、龍玄の名前を聞いたことがないわけがない。それほどまでに、近年では特別に有名な人物だった。
そして瑠璃も、もれなく龍玄の作品にほれ込み、あこがれている一人だ。
特集の見出しに使われている渋いフォントを、瑠璃の指がなぞる。
「もののけ画家、龍玄……」
緑色のもみじを背に、肘をついて座る和装姿の髪の長い麗人。すっと通った鼻筋が、美しくも神経質で、人嫌いを体現しているかのようだ。
時代劇に出てきても違和感がないような、凛々しくて飄々とした雰囲気が写真からも伝わってくる。
彫りと目鼻立ちがくっきりしており、温厚そうな目元とは反対に、瞳の奥には人を寄せ付けない鋭さが秘められているように見えた。
(元々、抜群に絵が上手な人だった。それが四年前くらいから、いきなりこういった絵を描き出して……)
瑠璃は雑誌に掲載されている作品の一部を凝視する。そこには、柔らかな羽毛に覆われた奇妙な生き物が印刷されていた。
――描かれているのは、この世のものならざるもの達の姿。
翼が複数ある鳥に、イタチや狸に似ている生き物。かと思えば、提灯や傘や鬼のような姿まで、龍玄が描く『彼ら』は表情豊かで、自然界に生息している生き物とは違った形や仕草をしている。
この世に存在しない生き物なのに、本当にいると言われても納得してしまうほど違和感がないのだ。
(不気味だけれど、ひょうきんでリアル……本人もびっくりするくらい格好良いから、より一層注目されたの)
小見出しには、『もののけについての対談』と書かれていた。
そう、龍玄が画題とするのは、『もののけ』と呼ばれるもの達だ。
妖怪と表現されることを龍玄は嫌いだと公言している。そして、いつの間にか世間では『もののけ画家』と呼ばれるようになっていた。
そうして瑠璃は、聞こえてくる『声』を徹底的に無視するようになったのだ。
聞こえないふりをしていると、瑠璃を見る時にどこか不安そうだった母親の顔がだんだん明るくなっていく。
(あんな風に私が我慢できていれば、こんなことにならなかったかもしれないのに――)
会社の人達が、瑠璃のことを悪く言っていたかどうかは、わからない。
しかし、瑠璃を見る目の奥には、あの時の母親と同じように疑いがちらついているのがわかった。だからこそ、瑠璃は会社にいられなくなってしまったのだ。
(好きなことをしていて楽しかったのに、どうして、ダメになっちゃったんだろう)
自分はどうしてもう少し頑張れなかったのか。
どうして我慢して勤められなかったのか……
すべての責任は自分にあると瑠璃は感じていた。
『あんまり自分を責めん方がええで』
(でも、あんなにみんな優しかったのに……)
しわがれ『声』は、瑠璃の気持ちを察して慰めてくれる。幻聴に励まされたところで、自分自身を甘やかしているようにしか思えなかった。
『ああ、泣いたらあかんで。ほら、涙拭き』
言われて、いつの間にか涙が出ていたことに気がついた。
ぽつんと一滴、パンフレットの一部に涙が落ちて染みをつくっている。それは、きっとあっという間に蒸発して、なにもなかったかのように消えていく。瑠璃はそれを見ていられなくて、手で拭ってしまった。
手描きの注文番号を書き込んだパンフレットを何冊か用意し終わる頃に、再び長谷が店に顔を出した。
困ったように八の字になった眉毛を見て、また龍玄に難題を言われたのかなと瑠璃も苦笑しながら出迎える。
「長谷さん、お茶でも淹れましょうか?」
「瑠璃ちゃんほんとに助かるよ。先生の所は、お茶どころかもはやなにがなんだか……」
長谷はカウンター前の丸椅子に腰を下ろすと、疲れたー! と息を吐き姿勢を崩してネクタイを緩めた。
「たまにお茶を出してくるんだけど、なんのエキスから抽出されたのかわからないから、とてもじゃないけど飲めないんだよ」
「それは……困りますね」
長谷はよっぽど疲れたのか、龍玄の屋敷の凄惨さを伝え始める。
瑠璃は頷きながら曖昧に微笑んで冷たい麦茶を渡した。
「困るなんてもんじゃないよ。先生の屋敷はほんとうに散らかりすぎててさ~」
「あはは、長谷さんいつも困っていますよね」
「そうなんだよ。あんなに立派なお屋敷なのに、もったいなさすぎる」
軽口を叩きながら、長谷はワイシャツの胸ポケットからメモ用紙を広げて瑠璃に見せた。
「あ、これがその番手? らしいんだけど……ごめんね瑠璃ちゃん。俺にはさっぱりで説明ができなくて」
大丈夫ですよと瑠璃はにっこりする。
さらりとした筆致でメモに書かれていたのは、瑠璃にとっては見慣れた内容だった。
即座に脳内で先ほどのパンフレットの商品と一致させる。
「ええと、こちらは今お店に在庫がないので、取り寄せます。おそらく、三日から四日ほどで届きます。届いたら、長谷さんに連絡入れますね」
瑠璃はすぐに取り寄せ伝票を用意して、商品名を記入した。それからメモに書かれていた岩絵の具を探しに行き、店頭にないので裏の倉庫から探して持ってくる。
するとそんな瑠璃の動きに、麦茶を飲み干した長谷が拝むように手を合わせた。
「もう、瑠璃ちゃん最高だよ。っていうかさ、やっぱり先生が買いに来たらいいのにね!」
「ですが、龍玄先生は人嫌いで有名ですし……」
「そうだけど、少しくらい屋敷から出た方がいいと思うんだよね」
「引きこもった方が、いい作品が描ける時もありますよ。それに、長谷さんがいてくれるから、きっと先生も安心しているんだと思います」
長谷は二杯目の麦茶を噴き出しそうになりながら、ないないと大げさに手を振ってみせる。
「安心もなにも、俺はただの営業だよ。使いっ走りじゃないっていうのにさ!」
「長谷さん、面倒見がいいから」
「そうなんだよね。それが俺の美徳であり、欠点でもあるというか。だからって、こんなにおつかいを押し付けられるとは思ってもみなかった」
また長谷は眉毛を八の字にして愚痴をこぼした。ただ妙な愛嬌と明るい声のせいで、愚痴があまり愚痴に聞こえないのがすごい。
瑠璃がくすくす笑うと、長谷はまた大仰に眉毛を八の字にしてみせる。
「先生が新作を描いてくれるって言うから、俺だって頑張って通ってるけど、そうじゃなきゃおつかいなんてごめんだよ。先生が言っている言葉のほとんどが、呪文みたいなんだもん」
「それだけ、長谷さんが頼られているっていうことです。人嫌いで有名な先生に気に入られるなんて、なかなかできないことだと思いますよ?」
「だったら日頃の感謝を込めて、俺に特別に一枚くらい描いてくれてもいいんだけどな~」
長谷は瑠璃の渡した伝票に名前と電話番号を記入し終わると、だらんと脱力した。
そう、さびれたという表現がしっくりくる年季の入った文房具屋に、長谷がこうして足しげく通う理由はたった一つ。彼が肩入れしている龍玄が好む画材が置いてある文房具屋が、この辺りではこの店しかないからだった。
昔ながらの文房具屋は、たいがい大きなショッピングモールのせいで潰れてしまい、生き残っているところは画材専門店のようになっているのがほとんどだ。
この文房具店は、後者に近い立ち位置だった。そのおかげもあって、龍玄のご用達になっている。
「どんなに早く描ける人でも、描ける時と描けない時の差ってありますから。こうして絵の具を購入しているくらいですから、きっとなにか描いているんだと思いますよ」
世界がひっくり返るほどの天才でも、スランプの一つや二つはある。瑠璃は絵を描く立場の人間が、どんな苦労を抱えているか重々承知していた。
そうなんだけどね、と長谷は机に突っ伏した。
「もうさ、決まっているんだよ来月の個展。なのに新作が一枚もないんじゃ、秘蔵過去作品展に変えなきゃだよ。あー、もうほんと、人嫌いなのはわかるけど、じゃあ俺のことをこき使うのはなんでよまったく」
瑠璃は苦笑いをしながらもう一杯麦茶を注ぎ、お茶請けを出す。すると長谷はまるで少年のように目を輝かせて、「瑠璃ちゃんほんと気が利く!」と小さなチョコレートを美味しそうに頬張った。
文句を言っているものの、長谷はなにかと世話焼きで人懐っこい性格なので、気難し屋の龍玄も心を許しているように瑠璃には思えていた。
しかし、実際長谷は経済学部出身のため、絵画や画材についての知識は瑠璃や龍玄には確実に劣っている。画材の注文を頼まれては、その度に謎の呪文みたいだと困っているので、いつの間にか瑠璃が手助けをするのが当たり前になっていた。
「俺はさ、瑠璃ちゃんが龍玄先生のところで助手をしてくれたら、最高だと思うんだよね」
長谷が身を乗り出してくる。
「引っ越しとか再就職先とかで、瑠璃ちゃんすごく悩んでいるもんね」
「そんなお話を振っていただけるなんて、私が化け物になるくらいの確率でありえませんよ」
長谷は先生だって化け物みたいなもんなんだから大丈夫だよ、と訳のわからない理由付けをして笑い飛ばす。
「瑠璃ちゃんにその気がなくても、先生がいいって言うかもしれないし」
「いえ、私はそんな大それたことできませんから」
瑠璃がうつむくと、長谷はそれ以上触れず来月開かれる龍玄の個展について話題を移した。それからしばらく、絵のことで長谷と話し込んでしまった。
盛り上がっていたところで、時計を見た長谷が「いけないっ!」と言って慌てて立ち上がる。
店の入り口まで見送りながら、瑠璃は作成したばかりの手作りの注文用紙を渡した。
「もうほんと、瑠璃ちゃん神様!」
長谷は瑠璃を拝むようにしてから、龍玄の屋敷へ小走りで戻っていった。
そろそろ店じまいの準備をしなくちゃと瑠璃が思っていると、店の奥さんが出てくる。
「あら、にぎやかだと思ったら、やっぱり長谷さん来ていたのね」
「はい、龍玄先生のおつかいで」
旦那さんが経営していたこの店を、旦那さんと死別してから一人で切り盛りしている奥さんは、穏やかで感じのいいグレイヘアがよく似合うマダムだ。
県をまたいだ都市部でマンションの大家をしており、収入に困っているというわけではない。なので店は畳んでもいいのだが、旦那さんが愛した店だからということで残していた。そのため、専門の画材を扱いつつも、一般の人が使うような文房具も取り揃えているという訳だ。
「瑠璃ちゃん、戸締りしたらもう上がっていいわよ。今日は、長谷さんだけでしょう、お客さん」
「はい。じゃあ、シャッター閉めてきますね」
瑠璃は店の前へ行き、長い棒を使ってガラガラと上からシャッターを引っ張り下ろす。戸締りを確認し、すべての出入り口と窓の施錠をすると店の電気を消した。
(また明日……)
誰もいない店内に、さようならとお辞儀をする。
『また明日な。お姉ちゃんが来るの楽しみに待っとるで』
するとまた女の子の『声』が返事をしてきた。瑠璃は唇をきゅっと引き結び、すぐに裏口から店を出ると急いで帰路についた。
*
瑠璃が現在住んでいるのは、四ヶ月前まで働いていた職場の社宅だ。それまでは、本社に近い都市部の社宅に住んでいた。
休職してから、瑠璃は実家に戻らず本社から少し離れた場所にある別の社宅に引っ越しした。県をまたぐため割安で借りられるということで、実家を頑なに拒む瑠璃に上司が提案してくれたのだ。
本当は、すぐに会社を辞めるべきだった。けれど、環境を変えて少し落ち着いたらまた復帰できるかもしれないから、という上司や同僚の提案をむげに断ることができなかった。
そういう理由で、鹿がたくさんいる奈良の社宅へ引っ越したのが、四月の終わりのことだった。
引っ越してすぐは緊張で眠れない日々が続いたのだが、都会の喧噪から離れてしばらくすると、だんだん瑠璃は落ち着きを取り戻した。
それほど遠くない場所に実家があるのに、瑠璃が一人暮らしを続ける理由はいくつかある。
その一つが、実家に帰ろうと思って両親へ連絡をした時に味わった、なんともいえない胸に広がるえぐみだ。
――あの時の感情を、いまだに瑠璃は引きずっている。
「鬱になるなんて心が弱いからよ」
会社を休職するという事情を電話で説明した時の母の言葉だ。
瑠璃が自分自身を甘やかしているという一点張りで、両親は一切話を聞いてくれなかった。それで、実家に帰れなくなった。
もちろん、悪いのは心が弱い自分なのだけど……
引っ越しの後、一ヶ月の休みを申し出て静かな古都で過ごすようになると、ささくれ立った心も若干静まった。
しかし、休職期間を終えて意気込んで出社した瑠璃を待ち受けていたのは、会社の前で立ち尽くしたまま動けず、ぼろぼろと流れる涙を止められない弱いままの自分だった。
そのまま足早に引き返し、上司に連絡を入れて休むことを告げた。
――あの時、なぜ立ち尽くしてしまったのかも、泣いてしまったのかもわからない。
会社に行くことは怖くなかったし、仕事は楽しかったはずだ。それなのに、瑠璃の両脚は、頑なにこわばって動くことができなかった。
いたたまれない気持ちのまま、初夏を迎える前に退職願を出した。
結局、大好きだった仕事を、一年勤めただけで辞めてしまった。
瑠璃を心配した上司は、家が見つかるまでは今の場所に住んでいても問題がないように、会社に掛け合ってくれた。
瑠璃は会社と上司の対応に甘えてしまって、いまだ元勤め先の社宅に半年を上限に住まわせてもらっている。
(こんなことをして甘えてばかりいてはダメだもの……)
年内をめどに出ていくと言ったのは瑠璃自身だった。自分でタイムリミットを設けて社会復帰しようと決めたのだ。
なのに、再就職先が見つからないまま、瑠璃は文房具屋でアルバイトを続けている。
社宅を出ていくと決めた年末まで、あと数ヶ月に迫っている。
それまでに、どこかへ引っ越しをしなくてはならない。きちんと社会復帰することすらままならない自分がどうしても納得できず、つらかった。
(……復帰できると思っていたんだけど……。私、ずいぶんと自分を甘やかしすぎてしまったんだ)
電車に乗って、流れていく窓の外ののどかな景色を眺めた。その風景は瑠璃の心を癒すと同時に、心に緩みを作ってしまっていた。
(ダメだって思うのに、このままでもいいと思ってしまう自分がいるのよね)
今働いている文房具屋を見つけたのは、引っ越ししてすぐのことだった。
気分転換に散策していると、大通りから一本入った脇道で文房具の看板が目に留まり、懐かしい思いにいざなわれるまま、店内にふらりと立ち寄ったのだ。
それから奥さんと話すうちに、この店でアルバイトをしたいと申し込んだのは、本当に自然な流れだった。
まだ会社を辞めてそれほど経っていなかったのだが、働くことで当面の生活費の不安を埋めたかったこともあるかもしれない。
退職金は雀の涙ほどで、仕事を辞めるとお金の問題が瑠璃を苦しめた。
次の働き口が見つかるまで、アルバイトで食いつなぐ方法しか思い当たらなかった。
文房具屋の奥さんは、なにも言わずにじゃあお手伝いお願いねと言って快く雇ってくれた。震える声で返事をした瑠璃の肩に、置いてくれた手の温かさに救われた。
――そして、千円に満たない時給が、瑠璃の今の価値だ。
泣きごとを家族に言えず、まだ会社で働いていると嘘をついている。
そのため、働いてから毎月続けている実家への仕送りを、やめられずにいた。
これ以上、誰にも迷惑をかけたくない。
(でも、もうすぐ、貯金も底をつく……)
冬が近づいていることに加えてお財布の寂しさもあり、心の中には世の中と同じように木枯らしが吹いている。最寄り駅に着くと、大きくため息を吐いた。
明日に不安しかない世界で、自分だけが被害者でいるわけにはいかない。
自分がこの世で一番つらいなんてことはないとわかっている。でも、やっぱりつらかった。
(早く、新しい仕事と家を探さないと。いつまでも被害者ぶっていても仕方ない)
『そんな急がんでもええんちゃう? あんまり急ぐと危ないで』
瑠璃の耳に聞こえてくる『声』は、いつも優しい。
誰かに優しくされたいという思いが、こうして妄想となって別の人格を形成して話しかけてくるのだろう。
卑屈な考えを追いやるように首を横に振って、瑠璃は冷たくなり始めた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(ダメダメ。あんまり意気地なしなことを考えたら!)
夜には気分転換に読書をして過ごそう、と気持ちを切り替える。
奥さんの貸してくれた名画の謎に迫った本を読んで、夢の中くらいは美しい絵画が広がる中世の世界に出かけたいと願いながら帰宅した。
*
「瑠璃ちゃん、そういえば新しいお家決まった?」
翌日、瑠璃が出勤すると、奥さんがニコニコしながらお茶の用意を始めた。
商品棚のレイアウトを変えようと眉間にしわを寄せながら腕組みをしていた瑠璃は、「まだなんです」と苦笑いをする。
「そう。私のマンションのお部屋が空いているけれど、ちょっとここからは遠いものねえ」
いざとなったら奥さんが一室を貸してくれるというのだが、それは喧噪と雑踏が良く似合う大都会にある。
仕事先が決まるまでは、まだこの文房具屋でアルバイトを続けたい。なので近くで物件を探しており、ありがたい提案だったが断っていた。
「この辺りでいいお家ないかなと思って、私も探しているんだけど。あんまりなのよね」
瑠璃の内情を知っている奥さんは、住まいについて真剣に悩んでくれているらしい。
それが嬉しくも申し訳なくて、慌てて頭を下げた。
「お手を煩わせてしまって申し訳ないです」
「いいのよ。私がしたくてしていることなんだから」
奥さんが困るのも当たり前のことだ。この文房具屋がある周辺は観光地というだけあって土地代が高く、今の瑠璃の経済状況的に難しい。お財布事情から、二の足を踏んでしまっている状態だ。
「昨日新しく入居した方からいただいたお菓子があるの。瑠璃ちゃん一緒に食べましょう」
「いただきます!」
奥さんが用意してくれたお茶菓子と、温かいほうじ茶に瑠璃は手を伸ばした。
今日もこの文房具屋はとても静かだ。下界から切り離されたという表現がしっくりくる。公民館で開催される絵画教室用の画材を買いに、地元のご老人や近くの小学生が立ち寄ることがしばしばある程度で、客足は遠い。
それくらいが、人を見ると疑心暗鬼に陥ってしまう瑠璃としてはちょうど良かった。
「今日は、長谷さん来ないわね」
「昨日いらしたばっかりですから。商品が届いたらまた顔を出してくれますよ」
この店では、龍玄が一番の固定客なのは間違いなかった。
にもかかわらず、瑠璃は勤めて四ヶ月経った今も、龍玄本人の影すら見たことがない。いつも困った顔をした長谷が、眉毛を八の字にしながらやって来るのみだ。
姿を見たことはないが、瑠璃は龍玄という人物がどういった画材を好むのか熟知していた。それくらい長谷は頻繁にこの文房具屋を訪れていたし、龍玄の制作状況は注文の具合からして想像できる。
「そういえば、今月号の美術雑誌に龍玄先生載っていたわよ。持ってくるから店番中に見る?」
奥さんが店の奥にある家の中から持ってきてくれた美術雑誌の巻頭ページに、龍玄の特集が組まれていた。瑠璃は雑誌を受け取ると、すぐにぺらぺらめくる。
「この絵のどれかが、うちで扱っていた絵の具で描かれているのかと思うと、なんだかワクワクするわね」
龍玄の作品が美しいカラー写真で何枚も載せられており、拡大図はページから今にも飛び出してきそうな迫力がある。あまりの美麗さに瑠璃は息を吸うことさえ忘れて魅入ってしまった。
「瑠璃ちゃん、店番頼んでもいい?」
奥さんは用事があって出ていくと瑠璃に言い残して、雑誌を置いてまた家へ戻っていく。瑠璃は見送ってから再度雑誌に手を伸ばした。
『――すごい人やなあ、こんな特集されて』
急に耳元からしわがれ『声』で感嘆のため息が聞こえてくる。瑠璃は無視したい気持ちとは反対に、思わず小さく頷いてしまっていた。
(すごい人に違いないの。私が美大にいた時から、雲の上の人だったんだもの)
描かれた絵の美しさはもちろん、独特な世界観と本人自身の美貌が注目され続けている日本画家、それが『龍玄』という人物だった。
美術を多少なりともかじっている人であれば、龍玄の名前を聞いたことがないわけがない。それほどまでに、近年では特別に有名な人物だった。
そして瑠璃も、もれなく龍玄の作品にほれ込み、あこがれている一人だ。
特集の見出しに使われている渋いフォントを、瑠璃の指がなぞる。
「もののけ画家、龍玄……」
緑色のもみじを背に、肘をついて座る和装姿の髪の長い麗人。すっと通った鼻筋が、美しくも神経質で、人嫌いを体現しているかのようだ。
時代劇に出てきても違和感がないような、凛々しくて飄々とした雰囲気が写真からも伝わってくる。
彫りと目鼻立ちがくっきりしており、温厚そうな目元とは反対に、瞳の奥には人を寄せ付けない鋭さが秘められているように見えた。
(元々、抜群に絵が上手な人だった。それが四年前くらいから、いきなりこういった絵を描き出して……)
瑠璃は雑誌に掲載されている作品の一部を凝視する。そこには、柔らかな羽毛に覆われた奇妙な生き物が印刷されていた。
――描かれているのは、この世のものならざるもの達の姿。
翼が複数ある鳥に、イタチや狸に似ている生き物。かと思えば、提灯や傘や鬼のような姿まで、龍玄が描く『彼ら』は表情豊かで、自然界に生息している生き物とは違った形や仕草をしている。
この世に存在しない生き物なのに、本当にいると言われても納得してしまうほど違和感がないのだ。
(不気味だけれど、ひょうきんでリアル……本人もびっくりするくらい格好良いから、より一層注目されたの)
小見出しには、『もののけについての対談』と書かれていた。
そう、龍玄が画題とするのは、『もののけ』と呼ばれるもの達だ。
妖怪と表現されることを龍玄は嫌いだと公言している。そして、いつの間にか世間では『もののけ画家』と呼ばれるようになっていた。
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