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第三章 宵の口の鶏肝味噌漬け
第18話
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想像していなかった返事に、絃は驚きで目を丸くしてしまった。
「ええ、放浪です」
「想像ができないんですが」
「バックパッカーと言えば聞こえはいいですが、三千円だけ握りしめて飛行機に飛び乗ったんで、放浪に近いでしょう?」
絃は返事をすることも頷くこともできないまま、文字通り固まった。
「三千円だけで? 飛行機に?」
とてもじゃないが、今の彼からは想像もできない。
人は見かけとは異なるとは、まさしくこういうことなのかもしれない。
「編集長がそんなふうな人には見えなくて、驚いて反応ができません」
「僕は、そんなふうな人ですよ」
いつも柔らかくほほ笑んで、お酒を艶やかに飲み干している姿しか見たことがない。
ついでに言えば、店にやってきた女性に話しかけられても、笑顔で流してしまうような人だ。ざ、品の良い紳士だとばかり思っていたのだが、思い込みとは恐ろしい。
珍しく絃のほうが、もう少し編集長の話を聞きたくなっていた。
「つきました」
ところが、口を開く前に編集長にお店の暖簾を指さされた。
「え、もう着いたんですか?」
ぼうっとしていたので、どこをどう来たのかちっともわからない。辺りを見回してみたところ、いつもの店とは正反対に来ているのだけは理解できた。
そこは赤ちょうちんではなく、紺色の暖簾がかけられている。
ちょっと年季の入った外観のため、観光客向けではないのがわかる。商い中の札も古さがにじみ出ていた。
少し長めの紺暖簾をくぐり、引き戸を開けながら、編集長が二人と店内に告げる。その時になって初めて、編集長は絃の手を解放した。
「カウンターにどうぞ」
感じの良いアルバイトの青年に案内され、絃も一歩足を踏み入れる。店からは、ほっとするようななつかしい匂いがした。
温かいおしぼりで手先の寒さを取りながら、編集長はメニュー表を広げたのを絃に渡した。
「僕はぬる燗でお願いします。あと、飛び切り燗できます?」
編集長がマスターと呼んだ、まだ若い主人が目をぱちくりさせた。
「できますけど、地酒やとあんまり美味しないんとちゃうかなあ」
「飛び切りのほうは、東北のお酒で。純米生もとだったかなあ。飲みやすかったので」
「ああ、あれやったらええ。ちょっと待っててな」
つき出しに出されたのは、厚揚げになめたけの餡がかけられたものだ。
絃はやるなあと思わず唸ってしまう。
パリッと焼いた厚揚げに白髪ねぎに醤油をひとたれも美味しい。または辛子でピリリとというのも定番だが、なめたけも悪くない。
むしろ、今の気分としては最高のチョイスだ。
「絃さん。気に入りましたか、このお店?」
「まだ、まだ、です……」
答えを出すにはまだ早いが、絃の直感としては大当たりだ。
「でも、「参った」って顔していますよ?」
「うっ……」
爽やかにほほ笑まれてしまい、絃は二の句がつげない。
もごもごしていると、熱々にしてくれたお酒と、ぬる燗の二つのとっくりを持ってマスターが現れた。
絃が手酌で杯にお酒をそそぐのを見ながら、マスターはニコニコしている。
「それでは……いただきます」
編集長と乾杯してから一気に飲み干す。絃の様子を観察していたマスターは、おお、と飲みっぷりに満足そうに破顔していた。
「ええ感じの飲みかたやな」
「おほめいただき光栄にございます」
それからなめたけの載った厚揚げを口に入れて、絃は目をぎゅっと閉じてから何度も頷いた。
満足です、と編集長に視線だけで伝えると、彼も嬉しそうに口元が緩んでいく。
「マスター。鶏肝の味噌漬けと、ラッキョウ、マグロユッケをお願いします」
「ええ、放浪です」
「想像ができないんですが」
「バックパッカーと言えば聞こえはいいですが、三千円だけ握りしめて飛行機に飛び乗ったんで、放浪に近いでしょう?」
絃は返事をすることも頷くこともできないまま、文字通り固まった。
「三千円だけで? 飛行機に?」
とてもじゃないが、今の彼からは想像もできない。
人は見かけとは異なるとは、まさしくこういうことなのかもしれない。
「編集長がそんなふうな人には見えなくて、驚いて反応ができません」
「僕は、そんなふうな人ですよ」
いつも柔らかくほほ笑んで、お酒を艶やかに飲み干している姿しか見たことがない。
ついでに言えば、店にやってきた女性に話しかけられても、笑顔で流してしまうような人だ。ざ、品の良い紳士だとばかり思っていたのだが、思い込みとは恐ろしい。
珍しく絃のほうが、もう少し編集長の話を聞きたくなっていた。
「つきました」
ところが、口を開く前に編集長にお店の暖簾を指さされた。
「え、もう着いたんですか?」
ぼうっとしていたので、どこをどう来たのかちっともわからない。辺りを見回してみたところ、いつもの店とは正反対に来ているのだけは理解できた。
そこは赤ちょうちんではなく、紺色の暖簾がかけられている。
ちょっと年季の入った外観のため、観光客向けではないのがわかる。商い中の札も古さがにじみ出ていた。
少し長めの紺暖簾をくぐり、引き戸を開けながら、編集長が二人と店内に告げる。その時になって初めて、編集長は絃の手を解放した。
「カウンターにどうぞ」
感じの良いアルバイトの青年に案内され、絃も一歩足を踏み入れる。店からは、ほっとするようななつかしい匂いがした。
温かいおしぼりで手先の寒さを取りながら、編集長はメニュー表を広げたのを絃に渡した。
「僕はぬる燗でお願いします。あと、飛び切り燗できます?」
編集長がマスターと呼んだ、まだ若い主人が目をぱちくりさせた。
「できますけど、地酒やとあんまり美味しないんとちゃうかなあ」
「飛び切りのほうは、東北のお酒で。純米生もとだったかなあ。飲みやすかったので」
「ああ、あれやったらええ。ちょっと待っててな」
つき出しに出されたのは、厚揚げになめたけの餡がかけられたものだ。
絃はやるなあと思わず唸ってしまう。
パリッと焼いた厚揚げに白髪ねぎに醤油をひとたれも美味しい。または辛子でピリリとというのも定番だが、なめたけも悪くない。
むしろ、今の気分としては最高のチョイスだ。
「絃さん。気に入りましたか、このお店?」
「まだ、まだ、です……」
答えを出すにはまだ早いが、絃の直感としては大当たりだ。
「でも、「参った」って顔していますよ?」
「うっ……」
爽やかにほほ笑まれてしまい、絃は二の句がつげない。
もごもごしていると、熱々にしてくれたお酒と、ぬる燗の二つのとっくりを持ってマスターが現れた。
絃が手酌で杯にお酒をそそぐのを見ながら、マスターはニコニコしている。
「それでは……いただきます」
編集長と乾杯してから一気に飲み干す。絃の様子を観察していたマスターは、おお、と飲みっぷりに満足そうに破顔していた。
「ええ感じの飲みかたやな」
「おほめいただき光栄にございます」
それからなめたけの載った厚揚げを口に入れて、絃は目をぎゅっと閉じてから何度も頷いた。
満足です、と編集長に視線だけで伝えると、彼も嬉しそうに口元が緩んでいく。
「マスター。鶏肝の味噌漬けと、ラッキョウ、マグロユッケをお願いします」
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