上 下
38 / 61
第六章 ネギの一本焼きと遣らずの雨

第36話

しおりを挟む
「なんですか、そちらは」
「長ネギの一本焼きです。塩コショウもいいんですが、今夜はおろし生姜と醤油にしようかなと」

 包み焼いたホイルを開けると、白い湯気がもわんと出てくる。編集長が興味深そうに覗き込み、鎮座する長ネギに顔をほころばせた。

「一本じゃ足りなそうだったから、三本焼きなんですけどね」
「幸せすぎて、声になりません」

 二人の笑い声が小さく漏れた。

「実はこの家にはおちょこがないんです。なので晩酌は湯呑です。色気がないと言われれば、そんなもの猿沢池に捨てたと答えたいところです」
「湯呑で飲むなんて、なんとも素敵です。あっぱれです」

 温めてきたとっくりを傾けて、湯呑になみなみとつぐ。

 飲み屋ではできないだろう、宅飲みだけの贅沢だ。乾杯、と湯飲みを合わせてから口元に運ぶ。疲れ切った身体に、ぬくぬくのお酒が沁みいっていく。

「……ああ、生き返りました。絃さん、僕これ食べたいです」

 お清めを済ませた編集長は、いつも以上にご機嫌な様子だ。ホイルから覗いている、湯気の立つネギたちをじーっと見つめている。

「どうぞ、熱いうちに」

 ホイルで焼いたネギには、ほんの少し焼き色がついている。それがまた香ばしい匂いを発していて、思わず手が伸びてしまうのだ。

 醤油と生姜の香りがたまらないそれをつつくと、編集長は取り皿に入れてからふうふうとさます。

 そういえば編集長は猫舌だったなと思い出しながら、絃は彼より先にネギを口に入れた。

 噛んだ瞬間、とろり、と甘くて柔らかな身が溢れ出した。

 それは、ネギが甘いことを、この料理以外で知ることはできないとさえ思うほど。

 しんなりとしたネギから、やわらかな甘みがじんわりと口の中にやって来る。舌の上をとろりと伝い、香ばしい香りが鼻に抜けていく。噛めば噛むほど、うまみがにじり出してきた。

 編集長ももぐもぐしながら、黙ってうなずいている。よほど美味しかったのか、飲み込むとすぐにもう一切れを口に入れて、満足そうにほほ笑んだ。

「レモンをかけても美味しいんですよ。簡単だし、ちょうどいいと思いません?」
「最高ですね、絃さん。これはお酒がすすみます」
「湯豆腐もどうぞ」

 絃は珍しく鍋の中の鱈と豆腐をすくい上げ、編集長に渡した。

 受け取ってから、いつものように美しい仕草で編集長は食べ始める。

「うん。鱈がほくほくで噛み応えがありますね。なんでこう感触がいいんでしょう、鱈って。春菊の香りもたまりません。僕も鍋に一緒に入りたい」

「疲れていた様子でしたから、老婆心ながら良質なたんぱく質をご用意させてもらいました」

「あはは、大当たりです。忙しくって、生きることを忘れていました。ああ、いいですね、絹ごしの湯豆腐は。掬いにくいですけど、くちどけが良くて」

 喉を、熱くて柔らかいものが通り過ぎていく湯豆腐の感覚が好きだ。

 特に絹ごしの豆腐は、アツアツのままつるんと喉を通り抜ける。それがまた、たまらなくてやめられない。

「絃さん。ありがとうございます。僕は死んでいたも同然でした。今やっと心臓が動いて、身体と心があって、美味しいものを食べられる幸せを感じられて、生きているという実感が湧いています。ついさっきまで、ほとんど屍だったのに」

 湯豆腐を眺めながら、編集長はほっこりと、甘ったるくかすれる声で話し始める。

 絃は、久々に聞く彼の声に耳をかたむけながら、真っ白な豆腐と、鱈、美しい色の春菊を見つめる。

 そういえば、この人は真白というのだった。

 豆腐や、この鱈のような白さを連想させる名前。

 絃は真っ白な豆腐を箸の先で崩すと、鰹節をたっぷり絡ませて茶色にしてから口へ放り込んだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

クラスまるごと転移したら、みんな魔族のお嫁さんになりました

BL / 連載中 24h.ポイント:4,630pt お気に入り:2,393

アルマ エスペランサ

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:379

白猫は宰相閣下の膝の上

BL / 連載中 24h.ポイント:8,116pt お気に入り:940

誰からも愛される妹は、魅了魔法を撒き散らしていたようです

恋愛 / 完結 24h.ポイント:582pt お気に入り:128

【R-18】世継ぎのできない王太子妃は、離縁を希望します

恋愛 / 完結 24h.ポイント:596pt お気に入り:2,743

処理中です...