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第1章
第18話:厳罰
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「火付け盗賊改方の長官として全権を預かっている。誰であろうと関係ない。生き残っている者は全員江戸に連れて行く」
長谷川平蔵が、抵抗して斬り棄てられた者以外、幕臣、藩士、平民の別なく、生き残っている全員を前にして言った。
その目は、相手を人間とは見ていないが、それも当然だった。
人間を奴隷にして異国に売っているのは、浅草仙右衛門だけではなかった。
長崎に拠点を持つ商人の半数が、奴隷売買にかかわっていた。
長崎の地方役人の半数以上が、奴隷売買に手を貸して賄賂を受け取っていたのだ。
長崎奉行所に単身赴任して来ている幕臣も、恥知らずに奴隷売買を黙認して賄賂を受け取っていた。
更に、幕府から長崎警備を申し付けられている諸藩の藩士の中にも、悪事を黙認して賄賂を受け取っている者がいた。
その全員が目の前にいるのだから、人を見る目にならないも当然だった。
「大目付としてはっきりと申しておく。親藩名門譜代の家臣であろうと関係ない。これまで重ねてきた悪事を正直に白状しなければ、主家が御取り潰しになるだけではすまない、九族皆殺しにされると思え!」
大目付津田日向守の言葉に、抜荷に協力していた九州諸藩の藩士が蒼白になる。
先に大納言家基の叔父だと名乗っていたのは、ただの血族自慢ではなかったのだと、今の言葉でようやく理解した。
この捕り物が、将軍家の強い意向で行われたのが理解できたのだ。
それでなくても、家基の前例を無視する過酷な処罰が長崎でも噂となっていた。
その過酷な処罰が自分の身に降りかかっているのだと、ようやく理解できたのだ。
家治将軍による恩赦も全く期待できない。
家治将軍が家基を後押ししている事は、田沼意次の嫡男である意知が、同じ大目付として同行している事でも明らかだった。
「幕臣と地方役人は、これ以上の抵抗を止めて、これまで行ってきた悪事を正直に申せ。連座が九族になるのか血族だけになるのかは、正直に罪を白状して、まだ捕まっていない者の居場所を教えるかどうかにかかっている。浅草仙右衛門の居場所を教えた者は、罪一等を減じて直接悪事に係わっていない家族を追放刑に止めてやる」
津田能登守の言葉に、もっと大きな減刑を期待していた罪人達が、がくりと肩を落とした。
どれほどの秘密を白状しても、当人たちの斬首刑は変わらないと言われたからだ。
通詞に内容を伝えられた清国船の乗員達が騒いだが、直ぐに何も言えなくなった。
全員歯が折れ飛ぶほど殴り倒されて、ぴくりとも動かなくなった。
殴り殺しても構わないと言うやり方に、他の罪人達が震え上がった。
もう自分達が人間扱いされていないのを思い知った。
自分達が今までやっていた事、奴隷にした連中にやっていた事を、される立場なった事を、長谷川平蔵の目を見て理解した。
今床に這っている清国船員達は『水夫手廻り』と呼ばれる、貿易で長崎の町に入る際に手荷物として唐物を持ち込む抜け荷を繰り返してい。
これまでは、正義感の有る長崎奉行所の者や長崎の町を守る大村藩の藩士、長崎湊口を警備する福岡藩士が取り押さえても、今後の貿易に悪影響が起きないように無罪放免にするしかなかった。
ところが、今回は全員殺しても構わないような手荒い捕り物である。
幕府、いや、将軍家が長崎での貿易を取り止めても構わないと思っているのだ。
今後の見せしめに、磔獄門にされるのだと、ここにいる罪人全員が理解した。
だが長谷川平蔵達の捕り物はこれで終わりではなかった。
肝心の浅草仙右衛門を捕らえる事ができなかったのだ。
今回は八ケ所の隠れ家を急襲したが、その全てが影武者だった。
腐敗した幕臣と地方役人を全て捕らえた後で、長崎奉行所、大村藩の長崎役宅、福岡藩の長崎役宅、佐賀藩の長崎役宅を使って徹底した取り調べが行われた。
家治将軍と幕閣から全権を預けられた二人の大目付、津田能登守と田沼大和守が普段は禁止されている拷問を許可した。
結果は越後長岡藩で行われた取り調べと同じだった。
長谷川平蔵の行う地獄の責め苦に等しい拷問に耐えられる者は誰一人いなかった。
浅草仙右衛門の配下は、最後の拠点が薩摩藩の坊津にある事を白状した。
中国の明代には、坊津は安濃津と博多津に並んで日本三津と呼ばれるほど、明国では著名で良く利用された湊だった。
それは今でも同じで、薩摩藩が清国との密貿易に使っていたのだ。
浅草仙右衛門が江戸の暗黒街で力を発揮できたのも、薩摩藩という強力な後ろ盾があったからだった。
「大目付として命じる、我らと共に坊津に行って浅草仙右衛門を捕らえよ」
大目付津田日向守が、長崎に駐屯している薩摩藩の責任者に命じる。
「恐れながら何かの間違いでございます。抜荷を行うような卑怯下劣な平民の言葉を信じてはなりません。主、薩摩守は将軍家に忠誠を尽くしております。木曽三川の治水でも、多くの藩士が死ぬほど忠誠を尽くさせていただきました。主の祖父は、常憲院殿と有徳院殿、二人の将軍家の養女となられた浄岸院殿を後室に迎えられました。主、薩摩守の正室は一橋家から嫁がれた慈照院殿でございます。一橋家の御世継ぎには、主の三女が婚約者となっております。主の将軍家への忠節は明らかでございます!密貿易などに係わりはありません」
薩摩藩の責任者は必死で訴えたが、全くの逆効果だった。
長谷川平蔵達が一番問題としていたのは抜荷ではない、大納言家基の暗殺未遂だ!
責任者もその事は分かっているが、知っているとは口が裂けても言えない。
将軍家と島津家の近さを訴え続けるしかない。
だがその訴えが、家基暗殺に加担していると白状しているのと同じだった。
「大目付として命じる、薩摩藩を取り調べるための兵力を用意しろ」
これ以上薩摩藩の言い訳を聞いていても時間の無駄。
そう判断した大目付田沼大和守が、長崎に駐屯している九州諸藩の責任者に厳しく命じた。
だが九州諸藩は、薩摩藩との合戦を恐れたのか中々準備を始めなかった。
「合戦を恐れて城に籠っているような、憶病で下劣な者に用はない!そのような者は婦女子の裾に隠れておれ、我こそ本当の武士だと思う者は、牢人であろうと平民であろうと関係なく陣借りさせてやるから、今直ぐ集まれ!薩摩藩をはじめとした九州諸藩が改易となれば、立身出世は思いのままだぞ!」
このままでは薩摩藩に証拠を隠滅されると判断した長谷川平蔵は、九州諸藩に危機感を持たせるために、牢人者や無頼の者を集めながら坊津に向けて行軍した。
津田日向守と田沼大和守も一緒で、長崎と福岡にいた牢人をどんどん召し抱えた。
牢人を召し抱えなくても、千を超える兵力はそれなりの戦力で、四万石の大名に匹敵する兵数だ。
だが、九州全土を支配していた時の家臣をそのまま召し抱えている島津家は、遠征に使える兵力だけで五万もいる。
領内での防衛戦なら、更に戦える人数が増える。
家臣領民の全てが、家族を守るために死力を尽くして戦うだろう。
島津家がその気になれば、長谷川平蔵達千人は鎧袖一触で皆殺しにされる。
だが、殺される事で幕府が薩摩を滅ぼす理由を作れる。
正々堂々と合戦を始める事ができる。
全員が討ち死にを覚悟して坊津に進軍した。
途中に領地を持つ、大村藩の大村家と佐賀藩の鍋島家は、通行の邪魔はしなかったが、直ぐには援軍の用意ができないと、愚にもつかない言い訳をしていた。
長谷川平蔵達はまともに相手をせずに急いで坊津を目指した。
これで大村藩と佐賀藩を取り潰す大義名分ができたと、内心では喜んでいた。
久留米藩有馬家は、勝手向きが火の車にもかかわらず、急いで集めた藩士を、江戸にい藩主に代わって、城代家老が率いてやってきた。
久留米藩は莫大な借金に苦しんでいるから、経費が掛かる領地をもらうよりも報奨金を渡した方が喜ぶ。
長谷川平蔵はそのように判断して、随時継飛脚を使って江戸に知らせた。
幕府の九州橋頭堡、小倉藩小笠原家と中津藩奥平家も援軍を送ると急使を送ってきたが、長谷川平蔵達の進軍には間に合わないと思われた。
長崎奉行所に置いてあった軍需物資を全て持ち出して来た長谷川平蔵達だが、領地で待ち構える薩摩藩と戦うには心許ない量だった。
だが、柳川藩領の手前で、名君と評判の立花左近将監鑑通が待っていた。
「御役目御苦労に存ずる。これより先は我が先導させていただきます」
立花左近将監は、銀札を発行したり戸籍を調べさせたりして、柳川藩の勝手向きを良くした名君だ。
役人が汚職をしないように、官制も改革していた。
更に藩兵の調練所を作り、怠惰となっていた藩士を戦う武士に戻していた。
次に、柳川藩立花家と熊本藩細川家の領境で、細川家の使者が待ってくれていた。
完全武装で坊津に急ぐ長谷川平蔵達よりも、武装をせずに急いで領地に駆けた細川家の伝令の方が早かったのだ。
細川家は常に薩摩藩島津家の脅威を感じていたのだ。
何時攻め込まれるか分からない恐怖と共に生きてきたのだ。
この好機に薩摩藩を改易にできれば良いと考えて、藩の総力を挙げて長谷川平蔵達に協力しようとしていた。
薩摩藩を改易までは追い詰められなかったとしても、確実に家治将軍と次期将軍の細川家に対する心証は良くなる。
絶大な権力を持つ田沼意次の歓心を買う事もできる。
援軍は利益しかないと、熊本藩の城代家老達は考えていた。
一方一度は日和見した佐賀藩鍋島家だったが、長崎警備をしていた藩士が、抜荷を黙認して賄賂を受け取っていたとの報告を受けて、慌てて失態を取り戻そうとした。
更に家老の勝手な判断で長崎警備の数を半減させていたのが藩主に伝わった。
鍋島肥前守治茂は、改易されないように全力で戦う事にした。
佐賀藩鍋島家には、薩摩藩島津家に味方して幕府と戦う方法もあった。
だが島津家と協力しても、幕府に勝てるとは思えなかったので、家を守るために、形振り構わず長谷川平蔵達に従う覚悟をしていた。
その佐賀藩鍋島家は、徳川家の親藩譜代とは違う特色を持っていた。
どちらかと言えば薩摩藩島津家に近い特徴があった。
龍造寺隆信時代には、五州二島の太守と呼ばれるくらい広大に領地を支配し、その領地に相応しい家臣を持っていた。
島津に敗れ、鍋島に下剋上されてからも、龍造寺隆信時代からの家臣が、三五万七〇〇〇石とは思えないくらいいたし、準武士的な階層も数多くいて、その兵力は三万を超えていた。
それだけの兵力を維持できていたのは、兵農が分離されていなかったからだ。
切米がたった一石の武士や無給の足軽までいた。
彼らは年貢が免除された、半分農民の武士や足軽で、年貢が免除される家臣用の田畑を持ち、普段は百姓と同じように田畑を耕して暮らしていた。
家臣として年貢が免除されるのは軍役を勤めるからだ。
徳川幕府の御代になっても、戦国の地侍が残っているのだ。
長谷川平蔵が、抵抗して斬り棄てられた者以外、幕臣、藩士、平民の別なく、生き残っている全員を前にして言った。
その目は、相手を人間とは見ていないが、それも当然だった。
人間を奴隷にして異国に売っているのは、浅草仙右衛門だけではなかった。
長崎に拠点を持つ商人の半数が、奴隷売買にかかわっていた。
長崎の地方役人の半数以上が、奴隷売買に手を貸して賄賂を受け取っていたのだ。
長崎奉行所に単身赴任して来ている幕臣も、恥知らずに奴隷売買を黙認して賄賂を受け取っていた。
更に、幕府から長崎警備を申し付けられている諸藩の藩士の中にも、悪事を黙認して賄賂を受け取っている者がいた。
その全員が目の前にいるのだから、人を見る目にならないも当然だった。
「大目付としてはっきりと申しておく。親藩名門譜代の家臣であろうと関係ない。これまで重ねてきた悪事を正直に白状しなければ、主家が御取り潰しになるだけではすまない、九族皆殺しにされると思え!」
大目付津田日向守の言葉に、抜荷に協力していた九州諸藩の藩士が蒼白になる。
先に大納言家基の叔父だと名乗っていたのは、ただの血族自慢ではなかったのだと、今の言葉でようやく理解した。
この捕り物が、将軍家の強い意向で行われたのが理解できたのだ。
それでなくても、家基の前例を無視する過酷な処罰が長崎でも噂となっていた。
その過酷な処罰が自分の身に降りかかっているのだと、ようやく理解できたのだ。
家治将軍による恩赦も全く期待できない。
家治将軍が家基を後押ししている事は、田沼意次の嫡男である意知が、同じ大目付として同行している事でも明らかだった。
「幕臣と地方役人は、これ以上の抵抗を止めて、これまで行ってきた悪事を正直に申せ。連座が九族になるのか血族だけになるのかは、正直に罪を白状して、まだ捕まっていない者の居場所を教えるかどうかにかかっている。浅草仙右衛門の居場所を教えた者は、罪一等を減じて直接悪事に係わっていない家族を追放刑に止めてやる」
津田能登守の言葉に、もっと大きな減刑を期待していた罪人達が、がくりと肩を落とした。
どれほどの秘密を白状しても、当人たちの斬首刑は変わらないと言われたからだ。
通詞に内容を伝えられた清国船の乗員達が騒いだが、直ぐに何も言えなくなった。
全員歯が折れ飛ぶほど殴り倒されて、ぴくりとも動かなくなった。
殴り殺しても構わないと言うやり方に、他の罪人達が震え上がった。
もう自分達が人間扱いされていないのを思い知った。
自分達が今までやっていた事、奴隷にした連中にやっていた事を、される立場なった事を、長谷川平蔵の目を見て理解した。
今床に這っている清国船員達は『水夫手廻り』と呼ばれる、貿易で長崎の町に入る際に手荷物として唐物を持ち込む抜け荷を繰り返してい。
これまでは、正義感の有る長崎奉行所の者や長崎の町を守る大村藩の藩士、長崎湊口を警備する福岡藩士が取り押さえても、今後の貿易に悪影響が起きないように無罪放免にするしかなかった。
ところが、今回は全員殺しても構わないような手荒い捕り物である。
幕府、いや、将軍家が長崎での貿易を取り止めても構わないと思っているのだ。
今後の見せしめに、磔獄門にされるのだと、ここにいる罪人全員が理解した。
だが長谷川平蔵達の捕り物はこれで終わりではなかった。
肝心の浅草仙右衛門を捕らえる事ができなかったのだ。
今回は八ケ所の隠れ家を急襲したが、その全てが影武者だった。
腐敗した幕臣と地方役人を全て捕らえた後で、長崎奉行所、大村藩の長崎役宅、福岡藩の長崎役宅、佐賀藩の長崎役宅を使って徹底した取り調べが行われた。
家治将軍と幕閣から全権を預けられた二人の大目付、津田能登守と田沼大和守が普段は禁止されている拷問を許可した。
結果は越後長岡藩で行われた取り調べと同じだった。
長谷川平蔵の行う地獄の責め苦に等しい拷問に耐えられる者は誰一人いなかった。
浅草仙右衛門の配下は、最後の拠点が薩摩藩の坊津にある事を白状した。
中国の明代には、坊津は安濃津と博多津に並んで日本三津と呼ばれるほど、明国では著名で良く利用された湊だった。
それは今でも同じで、薩摩藩が清国との密貿易に使っていたのだ。
浅草仙右衛門が江戸の暗黒街で力を発揮できたのも、薩摩藩という強力な後ろ盾があったからだった。
「大目付として命じる、我らと共に坊津に行って浅草仙右衛門を捕らえよ」
大目付津田日向守が、長崎に駐屯している薩摩藩の責任者に命じる。
「恐れながら何かの間違いでございます。抜荷を行うような卑怯下劣な平民の言葉を信じてはなりません。主、薩摩守は将軍家に忠誠を尽くしております。木曽三川の治水でも、多くの藩士が死ぬほど忠誠を尽くさせていただきました。主の祖父は、常憲院殿と有徳院殿、二人の将軍家の養女となられた浄岸院殿を後室に迎えられました。主、薩摩守の正室は一橋家から嫁がれた慈照院殿でございます。一橋家の御世継ぎには、主の三女が婚約者となっております。主の将軍家への忠節は明らかでございます!密貿易などに係わりはありません」
薩摩藩の責任者は必死で訴えたが、全くの逆効果だった。
長谷川平蔵達が一番問題としていたのは抜荷ではない、大納言家基の暗殺未遂だ!
責任者もその事は分かっているが、知っているとは口が裂けても言えない。
将軍家と島津家の近さを訴え続けるしかない。
だがその訴えが、家基暗殺に加担していると白状しているのと同じだった。
「大目付として命じる、薩摩藩を取り調べるための兵力を用意しろ」
これ以上薩摩藩の言い訳を聞いていても時間の無駄。
そう判断した大目付田沼大和守が、長崎に駐屯している九州諸藩の責任者に厳しく命じた。
だが九州諸藩は、薩摩藩との合戦を恐れたのか中々準備を始めなかった。
「合戦を恐れて城に籠っているような、憶病で下劣な者に用はない!そのような者は婦女子の裾に隠れておれ、我こそ本当の武士だと思う者は、牢人であろうと平民であろうと関係なく陣借りさせてやるから、今直ぐ集まれ!薩摩藩をはじめとした九州諸藩が改易となれば、立身出世は思いのままだぞ!」
このままでは薩摩藩に証拠を隠滅されると判断した長谷川平蔵は、九州諸藩に危機感を持たせるために、牢人者や無頼の者を集めながら坊津に向けて行軍した。
津田日向守と田沼大和守も一緒で、長崎と福岡にいた牢人をどんどん召し抱えた。
牢人を召し抱えなくても、千を超える兵力はそれなりの戦力で、四万石の大名に匹敵する兵数だ。
だが、九州全土を支配していた時の家臣をそのまま召し抱えている島津家は、遠征に使える兵力だけで五万もいる。
領内での防衛戦なら、更に戦える人数が増える。
家臣領民の全てが、家族を守るために死力を尽くして戦うだろう。
島津家がその気になれば、長谷川平蔵達千人は鎧袖一触で皆殺しにされる。
だが、殺される事で幕府が薩摩を滅ぼす理由を作れる。
正々堂々と合戦を始める事ができる。
全員が討ち死にを覚悟して坊津に進軍した。
途中に領地を持つ、大村藩の大村家と佐賀藩の鍋島家は、通行の邪魔はしなかったが、直ぐには援軍の用意ができないと、愚にもつかない言い訳をしていた。
長谷川平蔵達はまともに相手をせずに急いで坊津を目指した。
これで大村藩と佐賀藩を取り潰す大義名分ができたと、内心では喜んでいた。
久留米藩有馬家は、勝手向きが火の車にもかかわらず、急いで集めた藩士を、江戸にい藩主に代わって、城代家老が率いてやってきた。
久留米藩は莫大な借金に苦しんでいるから、経費が掛かる領地をもらうよりも報奨金を渡した方が喜ぶ。
長谷川平蔵はそのように判断して、随時継飛脚を使って江戸に知らせた。
幕府の九州橋頭堡、小倉藩小笠原家と中津藩奥平家も援軍を送ると急使を送ってきたが、長谷川平蔵達の進軍には間に合わないと思われた。
長崎奉行所に置いてあった軍需物資を全て持ち出して来た長谷川平蔵達だが、領地で待ち構える薩摩藩と戦うには心許ない量だった。
だが、柳川藩領の手前で、名君と評判の立花左近将監鑑通が待っていた。
「御役目御苦労に存ずる。これより先は我が先導させていただきます」
立花左近将監は、銀札を発行したり戸籍を調べさせたりして、柳川藩の勝手向きを良くした名君だ。
役人が汚職をしないように、官制も改革していた。
更に藩兵の調練所を作り、怠惰となっていた藩士を戦う武士に戻していた。
次に、柳川藩立花家と熊本藩細川家の領境で、細川家の使者が待ってくれていた。
完全武装で坊津に急ぐ長谷川平蔵達よりも、武装をせずに急いで領地に駆けた細川家の伝令の方が早かったのだ。
細川家は常に薩摩藩島津家の脅威を感じていたのだ。
何時攻め込まれるか分からない恐怖と共に生きてきたのだ。
この好機に薩摩藩を改易にできれば良いと考えて、藩の総力を挙げて長谷川平蔵達に協力しようとしていた。
薩摩藩を改易までは追い詰められなかったとしても、確実に家治将軍と次期将軍の細川家に対する心証は良くなる。
絶大な権力を持つ田沼意次の歓心を買う事もできる。
援軍は利益しかないと、熊本藩の城代家老達は考えていた。
一方一度は日和見した佐賀藩鍋島家だったが、長崎警備をしていた藩士が、抜荷を黙認して賄賂を受け取っていたとの報告を受けて、慌てて失態を取り戻そうとした。
更に家老の勝手な判断で長崎警備の数を半減させていたのが藩主に伝わった。
鍋島肥前守治茂は、改易されないように全力で戦う事にした。
佐賀藩鍋島家には、薩摩藩島津家に味方して幕府と戦う方法もあった。
だが島津家と協力しても、幕府に勝てるとは思えなかったので、家を守るために、形振り構わず長谷川平蔵達に従う覚悟をしていた。
その佐賀藩鍋島家は、徳川家の親藩譜代とは違う特色を持っていた。
どちらかと言えば薩摩藩島津家に近い特徴があった。
龍造寺隆信時代には、五州二島の太守と呼ばれるくらい広大に領地を支配し、その領地に相応しい家臣を持っていた。
島津に敗れ、鍋島に下剋上されてからも、龍造寺隆信時代からの家臣が、三五万七〇〇〇石とは思えないくらいいたし、準武士的な階層も数多くいて、その兵力は三万を超えていた。
それだけの兵力を維持できていたのは、兵農が分離されていなかったからだ。
切米がたった一石の武士や無給の足軽までいた。
彼らは年貢が免除された、半分農民の武士や足軽で、年貢が免除される家臣用の田畑を持ち、普段は百姓と同じように田畑を耕して暮らしていた。
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織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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