壱人複名 船宿鯛仙捕物帳

克全

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第1章

第2話:船宿鯛仙

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「御免よ」

 江戸は柳橋の直ぐ側、平右衛門町の船宿鯛仙に粋な侍が入って来た。
 遊里吉原で大通と呼ばれる者達の間で流行りの着物、黒紅羽二重の羽織、藍下黒紬の小袖、緋縮緬の襦袢、団十郎茶の帯に髷は本田髷を少し低くする本田崩しだ。

「これはこれは長谷川様、良くおいで下さいました」

「おう、また世話になるぜ」

「直ぐに猪牙を御用意させていただきます。
 御酒でも飲んで御待ちいただけますか?」

「ああ、そうさせてもらおう、何時ものは有るかい?」

「はい、大和屋又の九年酒をお出しさせていただきます」

「おう、頼んだよ」

 吉原の酒と料理、水で薄めた酒や見栄えだけの不味い料理が口に合わない長谷川平蔵は、吉原に通う船を、極上の酒と肴を一緒に出す鯛仙で頼んでいた。

 鯛仙は手に入り難い九年熟成させた大和屋又の酒が常に置いてある貴重な船宿だ。
 その人気は、上等な下り新酒の三倍もの値段がついている事で明らかだった。

 長谷川平蔵が好む九年熟成酒は、口にまろやかで独特の風味が特徴の古酒の中でも別格の美味しさだった。

 更に店名にもなっている名物の鯛を始めとした、鰈、鰆、鯉、鮒、赤貝、鮑などの薄造りを昆布で締めた物を、小里芋を皮ごと四半刻蒸して冷まし、食べる前に皮をむいて季節の昆布締め乗せた、他では食べられない膾の酒肴を出してくれる。

 俗に言う芋膾で酒をひっかけ、猪牙の用意ができたら麦とろを掻き込む。
 これを食べると吉原で思う存分楽しめると大通の間で評判だった。

 ただ、鯛仙は吉原通いの大通が来るだけの船宿ではない。
 純粋に美味しい物を食べたくて来る客もたくさんいる。
 そんな美味しい料理の一つが長谷川平蔵の好物、麦とろだ。

 おろし金を使わず、自然薯をすり鉢で丁寧に降ろしたとろろは、そのままでは麦飯にかけて食べられないくらい粘りがあり、関東風の出汁で伸ばして酒、味醂、醤油、白味噌、卵などを加えて秘伝の味にし、麦飯にかけて掻き込む。

「うぅぅぅむ、たまらねぇ、何時喰ってもうまい」

 麦とろに添えられていた刻み葱と青海苔に、多めの山葵を加えて掻き込んだ長谷川平蔵が、思わず唸った。

 京風の味を好む客には、薄口の下り醤油、酸味と焙煎した香りが特徴のカビつけしないかつおの荒節、昆布で取った出汁を使って麦とろを作る。

 だが長谷川平蔵のような濃い味を好む客には、濃口の関東地回り醤油、甘味があって上品な香りが特徴のカビつけした枯節で取った出汁を使って麦とろを作る。

 上方から取り寄せなければいけない食材も多く、作る手間も時間もかけて京風と江戸風の両方を用意しているとあって、江戸でも評判の料理上手船宿となっている。

「世話になったな」

 長谷川平蔵が給仕をしてくれた女中に心付けを握らせて猪牙に乗る。
 船宿の主だった者が見送るなか、猪牙は大川を滑るように吉原に向かう。
 
「喜八さん、佐久間の大旦那が御武家様と来られました」

「直ぐに何時もの部屋に案内しておくれ」

 土地屋敷の持ち主から船宿鯛仙を預かっている喜八が女中に指示した。
 女中は指示された通り、一番の上客か訳あり客を案内する部屋を用意した。
 
「直ぐに酒肴を持って参りますので、しばらくお待ちください」

 女中がそう言って下がるが、待つ間もなく酒肴を整えた膳が運ばれてくる。

「直ぐに料理を御持ちさせていただきます、先ずは膾と剣菱でございます」

 鯛、鱸、鰤、鰡、鯉の五種膾と剣菱の銚子が膳に乗せられてきた。
 吉原に行く客ではないので、武家に喜ばれる出世魚を中心に出す。

「大切な話を先にする、呼ぶまで来ないでくれ」

 下座に座った初老の武士が女中に言う。
 鯛仙は江戸でもまだ食べられる店が少ない、会席料理が評判の船宿だ。

 一品ごとに料理が運ばれてくるので、先に断っておかないと、人に聞かれたくない話をしている時に料理が運ばれてくるかもしれない。

「この度は藩士の不始末を内々に納めてくださり、感謝の言葉もございません」

 世慣れた横須賀藩西尾家の留守居役、木村玄馬が深々と頭を下げる。

「お気になさるな、江戸に慣れない藩士が起こした些事でございます」

「佐久間殿にそう言っていただけるとありがたい。
 これは些少でございますが、方々に骨を折って頂いた御礼でございます」

「お気遣い有難く頂戴いたす」

 南町奉行所年番方与力の佐久間武太夫信澄がそう言うと、同席していた三男の勝三郎が膝でにじり寄って、紫の袱紗に包まれた小判を受け取る。

 この場に同席している者は、藩士の失態を詫びる西尾家の留守居役と、普段から付け届けをもらっていて何かあった時に表沙汰にしないようにする佐久間武太夫。

 武太夫が隠居した時に跡を継ぐ嫡男で本勤並与力の源太郎信達と、今回の件に同心や岡っ引きに介入させず上手く納めた勝三郎龍興の四人だけだった。

 事情を知る者が多いと内々に済ませるための金が多くなる。
 同心に介入されていたら、介入した同心を支配する筆頭与力が佐久間武太夫でなかったら、下手をする他4人の同心支配役与力全員に御礼が必要だった。

「これからも御世話になる事があると思いますが、よしなに御願い致す」

「某にできる範囲の事であれば、力の及ぶ限り協力致す。
 奉行所や某の屋敷に来れない内々の事は、この船宿に届けてくださればいい」

「この船宿にですか?」

 西尾家の留守居役、木村玄馬が問い返す。

「この船宿は、勝三郎に良い養子先がなければ与えようと思い買い取ったのです。
 心利いた者に任せていますので、表に出せない事も上手く納めてくれます。
 某が表向き聞けない話をしてもらえる場所だと思っていただきたい」

「おお、それは助かります、諸藩の留守居役との会席に使わせていただきます」

「そうしていただけると、某も勝三郎も助かります」

「藩士から話を聞いたのですが、勝三郎殿はなかなかの使い手なのですね?」

「奉行所や火盗で与力が務められるように、ひと通り教えてあります」

「それは、それは、何かの折には相談させていただきます。
 ですが、良き養子先があるのが一番でござろうな?」

 木村玄馬が横須賀藩内で養子先を探しましょうかと遠回しに言う。

「父上や兄上は養子先を探してくださっていますが、某は町奉行所の与力職でない限り、平民になって船宿を営む方が良いと思っております」

 城代家老でも五百石に届かず、木村留守居役でも百五十石に届かない横須賀藩藩士に興味はないと、勝三郎が遠回しに言う。

「ほう、武士の身分を捨てられるのか?」

「諸物価が高騰しておりますので、与力家の勝手向きも苦しいと聞いています。
 貧乏与力家の養子に行くくらいなら、船宿の亭主として商いに励み、父上や兄上の助けになればと思っております」

 横須賀藩士だけでなく、幕臣でも内職をしなければいけないような武士に未練はないと、妙な誤解で逆恨みされないように言う。

「それは親孝行な事でございますな」

「そのよう気遣いは不要と言いたいが、儂や源太郎は大丈夫でも、親戚一門の中には勝手向きの苦しい者もいる。
 勝三郎が武士にこだわらないと申すのなら、好きにするが良い。
 木村殿、この船宿には某が小者として使っている連中も出入りしている。
 藩の方々に頼めないような事があれば、声をかけてくだされば相談に乗れますぞ」

「そう言っていただけると心強い。
 留守居役などをしておりますと、色々とございますれば」

「ひと通りの話が済んだようですので、料理を運ばせましょう」

 今まで黙っていた嫡男の源太郎信達が言う。

「父上、女中達は声の届かない場所に控えております、私が行って来ましょう」

 今度は勝三郎がそう言うと一階の帳場に下りて行った。
 
「喜八、木村殿の後をつけられる者はいるか?」

 帳簿に行った勝三郎が言う。

「御任せ下さい、十分な人数を揃えております」

「大名屋敷の中にまで入って話を聞く事はできるか?」

「屋敷を見廻っている者たちの腕次第でございますが、大抵の大名屋敷は盗みに入られる事など考えておりませんので、十中八九大丈夫でございます」

「スリの女、剃刀のお園の話では、紙入れの中に密書が入っていたそうだ」

「内容を聞かせていただいても宜しいですか?」

「残念ながら中身までは知らないそうだ。
 依頼した横須賀藩の側用人にそのまま紙入れを渡したと言っている。
 ただ、国元の忠臣が江戸の若殿に密使を送る位だ、ただ事ではない。
 江戸藩邸の見廻りが厳しい可能性もある、十分気を付けて無理をさせないでくれ」

「承りました、十分な手配りをして、やってごらんに入れます」
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