壱人複名 船宿鯛仙捕物帳

克全

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第1章

第3話:密談と手料理

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 鯛仙の会席料理を堪能した横須賀藩の留守居役は、藩邸の駕籠で帰って行った。
 場所を指定したのは佐久間年番方与力だが、招待したのは留守居役の木村だ。
 四人分の料金、銀六十匁は木村が払ったが全部藩の公金だ。

 木村個人の懐は全く痛まないので支払いはきれいだ。
 これが個人で支払うのなら、百五十石程度の留守居役には大金だ。
 先の礼金三十両と合わせて、二万五千石の西尾家には痛い出費だった。

 藩士の失態を償う公金で美味しい酒と料理を食べた木村は御機嫌だった。
 だが、鯛仙の前で長い時間待たされた駕籠かきや供侍は空腹でたまらない。
 愚かな二人への怒りを腹に持って、重い脚で屋敷に急ぐ。

 横須賀藩の上屋敷は江戸城に近い外神田にある。
 駕籠の使う道順によっては、町民は幸橋御門や虎之御門で止められてしまう。
 それにもしかしたら木挽町の中屋敷や南八丁堀の下屋敷に向かうかもしれない。

 尾行しているのに気づかれないように、武士しか通れない御門で止められないように、辻番所で見咎められないように尾行するには、かなりの人数が必要だった。
 佐久間与力の手先だと名乗れたら多少は楽なのだが、内密なのでそれはできない。

 佐久間与力が心から信頼する喜八の眼鏡に叶った腕利きの密偵たちが、三人一組の四組合計十二人がかりで木村の駕籠を尾行する。
 時に一組が先行し、一組が御門や辻番所を避けるために迂回して尾行を続ける。

 木村は西尾家以外の屋敷に行く事はなく、順当に上屋敷に戻った。
 密偵達は、各組から二人ずつ合計八人が上屋敷に忍び込む。
 残る四人は非常時に佐久間与力に報告する役だ。

 木村が今日の報告に行きそうな、藩主家族が住む母屋の天井裏や床下だけでなく、家老の十六間長屋や木村自身の十三間長屋にも忍び込む。

「御家老、佐久間殿に御礼の品を渡してまいりました」

 木村が江戸家老の桑島久蔵勝正に報告する。

「御苦労であった、佐久間殿は二人の仕置について聞かれたか?」

「いえ、全く何も聞かれませんでした。
 それどころか、勤番侍にはよくある些事で、気にする事はないと申されました」

「そう言ってくださったか、誠にありがたい。
 あのような場で刃傷沙汰になっていたら、殿の面目丸潰れであった」

「はい、御家老の申される通りでです」

「あの二人は中屋敷から出る事を禁じる、そう申しつけておけ」

「はい、承りました」

「もうよいぞ、御長屋に戻ってゆっくりしてくれ」

 江戸家老に報告して労われた木村は、自分の武家長屋に戻らなかった。
 そのまま母屋、表御殿の別の部屋に向かった。

「倉橋殿、入って宜しいかな?」

「木村殿か、入って下され」

「失礼する」

「御役目御苦労に存ずる」

「なぁに、藩の金で美味い酒が飲めたのだ、何の苦労もない」

「ほう、町奉行所の与力が指定した船宿は、舌の肥えた木村殿が美味いと言うほどの酒を出すのか?」

「ああ、流石付け届けで大身旗本並みの利得がある与力だ。
 滅多に飲めない九年古酒を飲ませてくれた」

「それは役得でござったな、それで、何か言っていたか?」

「これは御家老には話していないのだが、指定された船宿は与力の持ち物だった」

「ほう、それは、留守居役同士の会席に使ってくれという謎かけかな?」

「おそらく、今日は一人銀十五匁だったが、相場は十匁だ。
 もしかしたら幾らか返してくれるかもしれぬ」

「くっくっくっ、流石老練で強欲な与力だ、金儲けの機会を見逃さないな」

「それと、その船宿は与力の三男が家を出る時に与えると言っていたが、実際に営んでいるのは腕利きの密偵たちのようだ。
 藩として表立って与力に相談できない事は、そこで話してくれと言っていた」

「……今回の件に気が付いているのか、罠ではないのか?」

「分からない、罠の可能性もあるが、金の為なら何でもやるかもしれない」

「一度試しておきたい気持ちもあるが、大事の前だ」

「そうだな、些細な事で大望を失敗する訳にはいかぬ」

「与力の手先を利用するのは全てを手に入れてからだ、今は用心しろ」

「とはいえ今回の件があるから、船宿を使わない訳にはいかんぞ」

「普通に使えば良い、留守居役の会席で、此方が接待する時にだけ使えば良い」

「分かった、少々惜しいが大事の前の小事だ、言う通りにする」

 密偵達は、留守居役の木村がそのまま自分の武家長屋に帰ったのを確かめた。
 確かめたが、そこで戻らずにずっと屋根裏や床下に忍んで話を聞き続けた。
 木村留守居役だけでなく、桑島家老や倉橋側用人にも張りつき続けた。

★★★★★★

 佐久間勝三郎が柳橋の浅草側にある平右衛門町の船宿鯛仙から、槍を構えて神田川を見ている。

 神田川を泳ぐ鯉に、神速の技で槍の石突きを叩きつける。
 殺さず気絶させただけという神業のような槍さばきに鯉がぷかりと浮かんで来る。

「これは、これは、洗いにするには最適の大きさですね」

 側で見ていた喜八が感心したように言う。
 丸々と肥えた鯉の大きさは一尺三寸ほどだが、重さは二斤前後ある。
 これくらいの大きさの鯉が、洗いにするには一番美味しい。
 大き過ぎる鯉だと小骨が硬くなり大味になる。

「そうだな、四匹もいれば洗いにする分は十分だろう」

「はい密偵達には十分な数でしょう、客に出す分は生簀にございやす」

「そうか、良く働いてくれた皆には手ずから料理を振舞ってやりたい」

「恐れ入ります」

 喜八が深々と頭を下げて心から礼を言う。
 横須賀藩西尾家の上屋敷に忍び込んだ者には、十分な手当てが与えられた。
 普通ならそれで十分なのだが、勝三郎は更に手料理を振舞う事にした。

 豊かな佐久間家に育った勝三郎の舌は肥えている。
 単に舌が肥えているだけでなく、自ら包丁を取って自分好みの料理を作るほど食道楽で、その腕前は玄人裸足だった。

 鯛仙の調理場に入った勝三郎は、気絶させた鯉の頭を落として三枚におろす。
 身から皮をはぐのだが、皮を湯引きにするために鱗をすき引きにする。
 皮を剥いだ身を、向こう側が見えるくらいの厚さに削ぎ切りにする。

 削ぎ切りにする時にちりちりと音がするくらいでないと小骨が切れていない。
 勝三郎は、食べ応えが無くならないように薄すぎず、小骨が口に当たらないように厚すぎず、絶妙な薄造りになるように包丁を使う。

 手を入れたら熱いくらいの温水で鯉の削ぎ身をさっと洗って臭みを取る。
 同時に余分な脂も落として舌に残らないようにする。
 井戸から汲んだばかりの冷水でしめて色絵大皿に飾り付けていく。

「直ぐに運んでやってくれ」

「はい、若旦那」

 勝三郎の命を受けた女中が、酒盛りする密偵達の部屋に運んでいく。
 空きっ腹を抱えて戻って来た密偵達の為に、作り置きの鯉の醤油煮と菜飯を先に出して労い、悪酔いしないようにしてから酒と肴をだす。

 勝三郎は槍の鍛錬を兼ねて、毎日神田川や大川の鯉や鮒を生け捕りしてる。
 洗いにするには大きすぎる鯉は、醤油煮や味噌煮にする事が多い。
 砂糖が安く簡単に手に入るなら旨煮や甘露煮するのだが、残念ながら難しい。

 金に糸目をつけない大通や諸藩の留守居役になら砂糖も惜しまずに使えるが、密偵達に腹一杯食べさせる料理だと砂糖は使えない。

 そこで醤油だけで煮る事になるのだが、脂の乗った鯉を苦玉だけ抜いて内臓ごと筒切りにした醤油煮は、脂の甘さが醤油に負けないのでとても美味しい。

「これも運んでやってくれ」

 勝三郎は三枚におろした鯉の粗と青葱を使って手早く鯉こくを作っていた。
 本来は醤油煮と同じように、苦玉だけ抜いて内臓ごと筒切りにした鯉を味噌で煮たものが鯉こくなのだが、鯉の粗だけで作っても味噌汁と考えれば十分美味しい。

「はい、直ぐに」

「さて、昆布じめにする時間がないから、合わせ酢を作って浅漬けにするか?
 喜八、里芋の衣かつぎの作り置きはあるか?」

「ございます、夜の分は今から作っても十分間に合います」

「芋膾を作って出してやりたい、用意してくれ」
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