壱人複名 船宿鯛仙捕物帳

克全

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第1章

第23話:四面楚歌と中央突破

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 勝三郎は田沼意次と酒宴を行った五日後、初めて勘定所に登城した。
 勘定所は一カ所ではなく、江戸城本丸殿中に設けられた御殿勘定所と、大手門横に設けられた下勘定所の二ヵ所に分かれている。

 御殿勘定所には御殿詰と勝手方が置かれ、幕府の一般財政を担当した。
 下勘定所は地方財政を担当して、天領を扱う取箇方、五街道を扱う道中方、各役所や郡代や代官から提出される帳簿を扱う帳面方などがあった。

 御料巡見使として派遣される前提で勘定奉行所入りした勝三郎は、下勘定所に登城したのだが、四面楚歌の状態だった。

 綱紀粛正を命じたのは徳川家基大納言だったが、実際に差配したのは老中の田沼意次なので、田沼意次の強力な推薦があった勝三郎は敵視されていた。

 勝三郎が部屋住みで、義父が徒目付組頭なのも敵視の一員だった。
 無能なのに不正で勘定入りした子弟達が、大量に処分されたのだ。

 有能であろうと、部屋住みだから十人扶持しか与えられなかろうと、自分の子弟が召し放たれ、自分は降格された現役の役方は勝三郎が腹立たしいのだ。

「邪魔だ、先達の邪魔をするな!」

 無視され何も命じられず、する事もない勝三郎は書庫の帳簿を確かめていた。
 それも腹立たしいのか、三十歳くらいの支配勘定が偉そうに言い放った。
 言い放つだけなら勝三郎も放置していたのだろうが、突き飛ばして来た。

「ぎゃあああああ!」

 勝三郎なら簡単に避けられたのだが、わざと突き飛ばされてやった。
 その上で突き飛ばして来た右腕を逆手にとって、手首と肘の両方を捻じり砕いた。

「その喧嘩、買わせてもらいましょう。
 某も武士、このような無礼は黙っていられない、決闘を申し込みます」

「何事だ、貴様、新人の分際で先達に無礼を働いたのか?!」
「勘定所の秩序を乱す者は御役御免にするぞ!」
「御奉行に知らせろ、今直ぐ処分していただくのだ」

 最初から騒ぎを起こして勝三郎を追い出す気だったのか、大勢集まって来た。
 役割が決まっていたのだろう、直ぐに一人が勘定奉行のいる部屋に駆けて行った。

 今の勘定奉行は石谷備後守清昌、安藤惟要、川井越前守久敬、太田正房の四人だったが、全員が筆算吟味の不正で面目を失い配下の役方達に腹を立てていた。

 特に道中奉行を兼帯している石谷清昌は、翌年の徳川家治将軍の日光参詣を控えており、配下の不正に激怒していた。

 太田正房と道中奉行を兼帯している石谷備後守が下勘定所にいたが、不正で勘定から支配勘定に降格され、御目見え以下にされた者が勝三郎の文句を言いに来た。

「馬鹿者、何という事をしでかしたのだ!」

 勝三郎が増上寺事件の立役者である事を知っている石谷備後守は、全く反省をせず愚かな事を繰り返す配下に激怒した。

 下手をしたら下勘定所の役人全員が切腹を命じられかねない。
 日光参詣の準備に支障をきたしたくない石谷備後守は、慌てて現場に駆け付けた。

「待て、待て、待て、余が仲裁する、先ずは待て」

 田沼意次に後押ししされ、徳川家基が感状を与えた勝三郎を粗略には扱えない。
 同時に徳川家治将軍の日光参詣を成功させるために、役方達も改易できない。
 石谷備後守は喧嘩両成敗にならないように穏便に済まそうとした。

「申し訳ございませんが、武士の面目を潰された以上待てません。
 今この者達に決闘、果し合いを申し込んだばかりでございます。
 一度申し込んだ果し合いを取り下げるような、恥知らずな事はできません。
 御老中の田沼様からも、特別な計らいで軽い処分にしてもらった者が反省もせずに不正を働いている時は、問答無用で斬り捨てて良いとの命を受けております」

 だが、表沙汰にして性根の腐った連中を叩き潰したい勝三郎は受け入れない。

「不正だと、この者達がどのような不正をしたと言うのだ」

「某に何の役目も与えず、書庫で記録を調べようとしたら邪魔をしようとしました。
 義父が徒目付組頭をつとめる某には何もさせられない。
 見られて困る書類が書庫にあると言う事でしょう、違いますか?」

「違う、見られて困るような書類はない、勘定吟味役の検分も受けておる。
 この者達の無礼は余が代わって詫びる。
 ここは奉行である余の顔を立ててくれぬか?」

「そこまでこの者達を庇うというのは、御奉行も不正に加わっているのですか?」

「無礼者、余は不正に加わっていない!
 この者達を切腹させたら、勘定奉行所の役目が果たせないから申しているのだ」

「それは御奉行が考え違いをされておられます。
 この者たち程度の筆算力の者は、町方に幾らでもおります。
 無能な上に不正を行う者は全て切腹させて、町方の有能な者を御目見え以下の家に養子縁組させて、支配勘定に取立てれば何の問題もありません」

 御府内にある和算塾塾生の能力、自身番で書役をつめる者の能力を知っている勝三郎は、こともなげに答える。

「そのような、身分を壊すような事はできん!
 今年筆算吟味に合格した者が役目に慣れて、来年の筆算吟味で優秀な者を合格させた後でなければ、この者達を処分する訳にはいかぬのだ。
 ここは怒りを抑えて、果し合いを取りやめてもらいたい!」

「御奉行の面目を立てるためには、果し合いを取りやめるべきなのかもしれませんが、大納言様との約束がありますので、お断りするしかありません」

「大納言様との約束だと?」

「先日の敵討ちの折、勿体なくも大納言様から近習小姓に取立てたいと言っていただけましたが、御目見え以下の部屋住みなのでお断りするしかありませんでした。
 しかしながら、その折に感状と時服を拝領させていただきました。
 その御恩に報いる為、どのような役目を賜っても、身命を賭してお仕えするとお約束しましたので、このような者達を見逃すわけにはいきません!」

 ここまで石谷備後守と勝三郎の話を聞いていた役方達は、自分達がとんでもない事をしでかしたと、ようやく正確に理解した。

 筆算の能力があるから、自分達は厳しい処分をされない。
 筆算吟味で不正を行って降格だけですんだのも、自分達が秀でているからだ。
 時が経てばまた勘定や勘定組頭に復帰できる。

 そう思い込んでいたのが、間違いだったと思い知った。
 それ以上に、喧嘩を売った相手が悪すぎたのをようやく自覚した。

 自分達の筆算能力に自信を持っていた勘定所の役方達は、頭の悪い武辺者の番方を野蛮な人間だと馬鹿にしていた、馬鹿だと見下していた。

 だから先日行われた鶴亀姉妹の仇討も、興味を示さない者が多かった。
 勝三郎が仇討の主役の一人であったことを、全く知らなかった。

 筆算吟味の不正が暴かれたので、それどころではなかったのもあるが、それ以上に役方の方が番方よりも幕府の役に立っていると思い込んでいた。
 敵を殺して生き延びると言う、武士の本質を完全に失っていた。

「それは、それは、大納言様との約束は……」

 幕府の勝手向きを勘定奉行として支えてきた石谷備後守だが、徳川家治将軍や徳川家基大納言に対する忠義よりも、目先の書類仕事の方が上だとは言えない。

「これ以上この者達を庇うと申されるなら、御奉行が不正を隠蔽しようとしていると報告するしかありませんが、それでも宜しいのですね!」

「宜しくはない、不正を隠蔽する気はない、だが、穏便に済ませられないのか?
 不正の証拠があるのならともかく、調べの邪魔をしただけで果し合いというのは行き過ぎではないのか?」

「不正を調べる邪魔をしたから果たし合いをするのではありません。
 武士の面目を潰されたから果し合いをするのです。
 大納言様に忠義を尽くすために、役目を全うしようとしたのを邪魔された。
 一味同心となって罪を捏造して面罵してきたから、命を賭けて名誉を守る。
 それが武士ではありませんか、それとも御奉行は、命惜しさに名誉を捨てて頭を下げ、生き恥をさらされるのですか?」

「くっ、生き恥をさらすようでは武士とはいえぬ。
 分かった、果し合いを認めよう、だが相手は誰だ?」

「ここにいる者全員と、御奉行に密告した者、先の不正で降格された者全員でございます、全員討ち果たして大納言様の御恩に報いる所存でございます」
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