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九、転落
そうして辿り着いた自宅の景色は、朝出た時とは全く異なっていた。
陰鬱で足元に纏わりつくような、重苦しい気配。これは、一体なんだろう。
やっと立てるようになった足で屋敷の中へと歩を進めれば、仏間で俯いてさめざめと母が泣いている。
「彩恵っ! ああ、彩恵っ!!」
はっと上げた母の顔は、真っ青だった。たかだか少し出かけていただけなのに、まるで生き別れにでもなったような。大仰な反応に彩恵は面食らう。
母が、そっと手を上げる。震える指が差した先に寝かされている人がいる。
「恵一さんが、亡くなったの」
顔に掛けられているのは、白い布。その胸は、呼吸に合わせて上下することはない。
ぽとりと、自分の手から落ちた鞄が音を立てる。
「お兄様が」
喉が張りついたようになって、何も言えなくなる。彩恵はただ、彫像のように立ち尽くすことしかできない。
ああ、あの寒竹の傘を黒木の家に忘れてきてしまった。
そんなどうしようもないことだけを、ただ思い出していた。
◇
自動車に轢かれそうになった子供を、庇ったのだという。
悲しいよりも先に、お兄様らしいなと思った。穏やかで正義感の強い、そんな兄だった。年の離れた彩恵のことを可愛がってくれた。
突然のことに身内だけの静かな弔いとなったけれど、学友達が沢山の花を贈ってくれた。人に好かれていたのだと、黒紋付を着た彩恵は思った。
葬儀も火葬も、全て遠くのことのように流れていく。誰がいなくなっても関係ない。世界は変わらずに回っていくのだな、と空を見上げながら思った。
彼が訪ねてきたのは、三十五日法要も終わったそんな日のことだった。
「この度は、ご愁傷様です」
畳の上にきちんと正座をして、頭を下げる。勿論葬儀には黒木家の名前でも供花が届いていたが、気を遣って、かの家の者が来るのは今日がはじめてだ。
差し出された香典袋に、両親が息を呑む。畳の上に立つのかと思えるほどの分厚さ。数えるまでもなく相当な額だ。
「恵一さんには僕も、お世話になりました」
翔はまだ学生だから、こんな時も制服なのだなと妙に納得する。今日はきちんと詰襟を着ていて、ズボンの折り目がきれいだった。
陰鬱で足元に纏わりつくような、重苦しい気配。これは、一体なんだろう。
やっと立てるようになった足で屋敷の中へと歩を進めれば、仏間で俯いてさめざめと母が泣いている。
「彩恵っ! ああ、彩恵っ!!」
はっと上げた母の顔は、真っ青だった。たかだか少し出かけていただけなのに、まるで生き別れにでもなったような。大仰な反応に彩恵は面食らう。
母が、そっと手を上げる。震える指が差した先に寝かされている人がいる。
「恵一さんが、亡くなったの」
顔に掛けられているのは、白い布。その胸は、呼吸に合わせて上下することはない。
ぽとりと、自分の手から落ちた鞄が音を立てる。
「お兄様が」
喉が張りついたようになって、何も言えなくなる。彩恵はただ、彫像のように立ち尽くすことしかできない。
ああ、あの寒竹の傘を黒木の家に忘れてきてしまった。
そんなどうしようもないことだけを、ただ思い出していた。
◇
自動車に轢かれそうになった子供を、庇ったのだという。
悲しいよりも先に、お兄様らしいなと思った。穏やかで正義感の強い、そんな兄だった。年の離れた彩恵のことを可愛がってくれた。
突然のことに身内だけの静かな弔いとなったけれど、学友達が沢山の花を贈ってくれた。人に好かれていたのだと、黒紋付を着た彩恵は思った。
葬儀も火葬も、全て遠くのことのように流れていく。誰がいなくなっても関係ない。世界は変わらずに回っていくのだな、と空を見上げながら思った。
彼が訪ねてきたのは、三十五日法要も終わったそんな日のことだった。
「この度は、ご愁傷様です」
畳の上にきちんと正座をして、頭を下げる。勿論葬儀には黒木家の名前でも供花が届いていたが、気を遣って、かの家の者が来るのは今日がはじめてだ。
差し出された香典袋に、両親が息を呑む。畳の上に立つのかと思えるほどの分厚さ。数えるまでもなく相当な額だ。
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