あはれの継続

宮島永劫

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平成二十二年 叶わぬ想い

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 僕は高校生になると一年で十センチ背が伸びた。今は百六十二センチ、小さくて目立つことはなくなった。残念ながら、背の順に並ぶという学校行事は高校になるとなくなってしまっていた。だから、背が伸びて一番前じゃなくなったという感動は味わえなかった。まぁ、しょうがない、こればっかりは。
 高校では僕は医学系の特進クラスだ。親の職業が医者の子どもばかりでみんな跡を継ぐために必死だった。みんな優秀だったけど、僕はその中でも成績が良かったんだ、えへへ。優秀なお友達より僕の方が成績が良かったのは楽しい未来が待っているからだ。山田村のお医者さんになってしんちゃんと一緒に楽しく過ごすっていう楽しい将来を描いているからだ。暗記が苦手じゃなかったし、数学を解くのも嫌いじゃなかった。小さい頃からしんちゃんと一緒に勉強していたから勉強することが苦痛じゃなかったんだ。それにしんちゃんが頑張っているのが励みになるんだ。山田村の治安を守るために強くならないといけないからって柔道や剣道など武芸一般の厳しい稽古を受けているんだ。その上、体力のいる道路の掃除などの村の整備や農作業の手伝いに駆り出されるんだ。そんなふうに毎日鍛えているからとても逞しいんだ。僕はついついムチムチの筋肉を触っちゃう。しんちゃん、ニコニコ笑っているよ、優しいな。物心が付いた時から僕はしんちゃんにくっついているんだけど、高校生になった今でもやめられないんだ。お父さんはいつもしんちゃんのほっぺたをムニムニ触って喜んでいる。中島家はみんな細身だからムチムチのしんちゃんに触っちゃうんだ。
 中島家が医者の仕事を割り当てられているように、しんちゃんのおうちは昔から書を取り扱う仕事を割り当てられている。そのため、しんちゃんはたくさん書を読まないといけないんだ。夏休み、二人で長い時間勉強しているんだけど、いつもしんちゃんは難しそうな書を読んで筆写している。僕が隣でちらっと見た書は漢字ばっかりだった。平仮名の誕生は平安初期と言われているから、それ以前の写本かな、それとも漢文なのかなぁ。しんちゃんは毎日のように僕の先祖の書いた歴史書を読む。読んでいる時に、
「面白いの?」
って聞くんだ。そしたら、
「うん、とっても面白いよ。よっちゃんのご先祖が残してくれた歴史書、私はとても好きなの。なぜかっていうと、山田村が好き、よっちゃんがずっと好きってことが分かるからだよ」
って笑うんだ。こんなこと言われたら嬉しくなっちゃうさ、勉強頑張っちゃうさ。
 早くおじいちゃんのお手伝いができるといいな。だって、しんちゃんはおじいちゃんの診療所に毎日のように行くって言ってたからさ。おじいちゃんの診療所には厚生労働省などいろんなところから資料が送られてくる。全て目を通すけれど必要最低限しか対応しないんだ。それに新しい薬や新しい技術を入れたりはしないんだ。もともと患者さんは少ないし、入院が必要な患者さんもいない。山田村は健康な人が多いのは美味しくて体にいいものばかり食べているからかな。それに、患者さんに、
「しっかり治したければうちじゃ無理です」
って診察時に言っているからなぁ。きっとお父さんもおじいちゃんのようにのんびり診察するんだろう。僕もそうするさ。大学では最先端技術を学ぶんだろうけど、僕にはほんとは必要ないんだ。でも学ぶさ、僕は中島家の正当な世継ぎなんだもの。しんちゃんの好きなよっちゃんなんだもの。

 普通の月曜日、いつも通り、最後の七限目がLHR(Long Home Room)だ。担任の先生が用意した題目に対してクラスのみんなとグループで話し合いをするんだ。題目は『自分の趣味の説明』だった。ただし、日本語一切使用不可、英語で話すという制約付きだ。日本語さえまともに話せないのに最悪だ。先々週、先生に言われてすぐに図書館に行ったんだ。『Let’s 英語で自己紹介』という本を探し当てて、それをちゃっかり利用することにしたんだ。無趣味な僕、話下手な僕だからなんにもなしの状態から説明なんてとても無理、世渡りのための苦肉の策さ。今週は友達の番だけど来週は僕の番だ、やだな。先生が入ってきた。教壇に立つ先生がいつもの様子と違った。
「今日はみなさんに聞きたいことがあります」
と静かな表情で言った。何事だろう。
「第二自習室で出席順に一人ずつ面談をします。他の人は教室で自習をして下さい。では、出席番号一番の安藤君、次の伊藤君、一緒に来なさい」
安藤君と伊藤君は先生に連れられて教室を出て行った。何事だろう、予定していた話し合いが無くなって僕は嬉しいけど、急な面談ってなんだよ、心が騒いでしまうよ。やだな、怒られたら。僕はマイナス思考だから苦手なんだ、突然のことは。
 僕は気もそぞろに政治経済の参考書を見た。こんな時は図やグラフがあった方がいい、分かりやすいことでないと気が散っちゃう。周りのみんなもソワソワしている。
「文系クラスのことかな」
「なにそれ?」
友達のひそひそ話が聞こえてきた。
「一年生が渋谷でカツアゲにあったってことかも」
「えーっ?」
みんないろいろ知っているみたいだ。僕は小学生、中学生の頃よりは人見知りが改善されたが、それでも自分から話しかけないし、一日誰とも話さずに終わることだってある。だから、学校で起こったこと、噂なんかは何も知らない。あっ、安藤君が戻ってきた。表情は変わらないな、大したことないのかな。僕に関わることじゃなかったらいいのに。安藤君が出席番号三番の井上君に第二自習室に行くように伝えている。一人戻ってきたら、一人出ていくという感じなんだな。
「あんどぅ、なんの話?」
クラス委員の渡辺君が気軽に話しかける。いいなぁ、渡辺君はフレンドリーで。こんなとき助かるよ。それに渡辺君は出席番号が最後だから大人しく待っていられなかったんだな。
「別に、何もないよ。行けば分かるよ」
安藤君はすんなり答えた。安藤君には関係なかったんだろうな。
「俺、他のクラスのこと、分かんないし」
と安藤君は付け加えた。僕らのクラスの話じゃないんだ、なんか良かった。しばらくすると伊藤君が戻ってきた。四番目の岩崎君に声をかけ、何事もなかったように着席した。すぐに渡辺君が声をかける。
「いとーちゃん、どうだった?」
「俺に関係ないし、よく分からなかったわ」
と伊藤君は平然と話した。面談を終えた二人の話でなんとなくクラスの雰囲気が穏やかになった。各自、国公立大学の受験に必要な社会の参考書や、英単語教材など途中で呼び出されても苦にならない本を開き始めた。僕もみんなに倣ってぼんやり日本の経済成長率の推移に関する図を眺めた。次々、面談が進む。面談を終えた友達は安藤君や伊藤君のように関係なさそうな様子だった。そうこうしているうちに僕の番が回ってきた。ドキドキするな。ドアをノックする。
「失礼します」
テーブルが一つ置いてある。先生と対面だ。壁際には役人のような堅苦しい人、校長先生、教頭先生、そして理事長がいた。
「座って下さい」
先生の指示通り僕は席に着いた。
「これから言うことは他でしゃべらないで欲しい。もちろんネットに投稿するなどの行為は絶対しないで下さい」
「はい、分かりました」
僕が返事をするとすぐに先生が話し始めた。
「中島君はA組の藤原義隆ふじわらよしたか君を知っているかい?」
「いいえ、知りません」
僕の答えに大人たちは少し驚きの反応したような気がした。
「本当に知らないのかい?」
「はい」
知らないんだもの、しょうがない。
「実は十日前から藤原君がいなくなったんだ。それで心当たりがあるかと思ってね」
どう答えていいか分からないから僕は黙って下を向いていた。
「では、先月から学校で何か変わったことはなかったかい?」
「ありません」
「学外ではないかな?」
「はい、ありません」
「君は学校でいじめがあるか知っているかい?」
「いいえ、知りません」
「君は中学の時にいじめにあっていなかったかい?」
「・・・分かりません・・・」
田沼君とその友達の言葉に傷つくことはあったけど、偉い大人五人を前にして個人名を出していいか僕には分からなかった。名前を出せばきっと五人の大人たちは記録に残すだろう。しんちゃんが田舎の本棚の前で言ってたな。
「文字は力を持っているよ。使う時には気を付けないといけないんだ。よっちゃんのように物分かりのいい節度のある人ならいいけど、悪事に利用する人が少なからずいるんだよ。役所のみんなもできるだけ記録に残さないよう必死になってるよ。よっちゃんのお父さんも桐間さんも取引先がバレないように細心の注意を払っているよ。静かに生きること、密かに生きること、この二つが山田村で伸び伸び自由に生きるためには必要なのさ」
しんちゃんの言ってたことが頭をよぎったから僕は田沼君たちのことを言うのを止めた。藤原君のために良かったのか分からないけど、僕はこれ以上、行方不明問題を扱う大人たちに関わりたくなかった。
「部活動はしているかい?」
「いいえ」
「では放課後、君はどうしている?」
「塾に通ってます」
「どこに行っているのかな?」
すずじゅくです」
「なるほどね、知る人ぞ知る医学部を目指す高校生のための塾だね。そこは藤原君には関係ないね。でも、藤原君の通っていた勧学かんがくじゅくに近いな。鈴屋塾の行き帰りで同じ学生服を着た生徒に会ったことはあるかい?」
「いいえ。いたとしても気づきませんでした」
「では、A組、B組、C組の国立文系コースで関係ある人はいるかい?」
「いいえ、いません」
高校になってからは医学系の特進クラスだったので文系クラスのことは何にも知らない。今だってクラスの友達と一緒に行動することさえ躊躇ためらってしまうのによそのクラスに行くなんて一生無理だ。こういうところは相変わらず味噌っ滓だ。先生は理事長、校長先生、教頭先生、堅苦しい人の方を向く。理事長が目配せをする。
「では、何か他に気付いたことがあれば報告して下さい」
「はい」
「次の中山君を呼んで下さい。教室に戻ったら橋本君にここに来るよう声を掛けて下さい」
「はい。有難う御座いました」
僕は一礼をして廊下に出て次の中山君と交代した。藤原君って誰? いなくなっちゃたってどうしたのかな? 顔も分からないし、僕とは関係ないんだろうけど。だけど心配だな。何事もないといいな。
 僕の教室は三階の一番端っこだ。第二自習室から僕の教室に戻る途中に国立文系のA組がある。僕はちょっと気になってA組を覗いたんだ。本当はLHRだけど英語の授業をやっていた。英語の授業で面談をしたんだろうな。ここは田沼君とその仲間たちがいるから目を合わすとマズい。さっと通り過ぎた。
 僕は教室に戻り、橋本君に声をかけた。その後、席に戻り参考書を見たふりをしながらぼんやりと思い返した。校長先生、教頭先生だけでなく理事長までいたな。あの堅苦しい人は警察官かな。そういえば、先生、いじめって言ってたけど、まさか田沼君、いじめてないよね。僕はしんちゃんという心の拠り所があったからなんとか耐えたけど、藤原君が一人で抱え込むようなナイーブな男の子だったら学校に来たくないよね、嫌んなっちゃうよね。
 最後の渡辺君は教室に戻ってくるなり教壇に立った。
「先生より『そのまま自習をすること』と言われましたので、みんなよろぴくっ!」
渡辺君の軽いノリと先生が戻ってこないのが分かると教室の中は少しざわついた。安藤君と中山君は先月の模試の結果について笑っていた。
「まぁ、清々すがすがしいほどに散々な結果だったよ」
「まだまだこれから~」
「医学部は浪人が当たり前だからなぁ」
「俺の父さん、勉強しろっていちいちうるさいんだけど実は二浪してるんだ」
みんなクスクス笑っていた。みんな、面接の緊張から解放されて和んでいた。だって面談で先生以外の面子めんつが凄いんだもの。理事長までいるとは思いも寄らないよ。
「ねぇ、中島君。藤原君って知っている?」
いつの間にか右横に渡辺君がいた。渡辺君は小学校からずっと一緒で、僕が話せる数少ない友達だ。スポーツ万能でサッカー部のキャプテン、快活で面倒見がいいからクラス委員も満場一致で選ばれている。僕が田沼君にいじめられた後、
「あんな奴の言うこと、気にしなくていいよ」
って慰めてくれたんだ。渡辺君は僕にとって憧れさ。でも、どんなに努力したって渡辺君にはなれないよ。渡辺君の持っているものが僕には全て欠けているんだもの。
「僕、分かんないんだ。藤原君のこと」
「そっかー、やっぱ、中島君だねぇ」
渡辺君はにっこり笑う。小学校の頃から僕のことを知っているから僕の答えが予想通りだったんだろう。
「藤原君は中学校から僕たちと一緒だったんだよ。もし、中島君がいなかったら藤原君が一番人気だったと思うよ」
ん? 僕が一番人気?
「中島君はいつも机でしょぼんとしていたから気付かないんだろうけどさ。そりゃ中島君はいつでも大人気さ。バレンタインのチョコの量は学内でぶっちぎり一位だもの。『中島君にチョコを渡してもお返しはない』って都市伝説まであるんだから。僕も女の子からチョコは貰うけど、中島君には一生勝てやしないよ」
渡辺君は吹き出す。きっと僕は真っ赤な顔になってるんだ。『中島君にチョコを渡してもお返しはない』ってホント最低な人間だ。でも、返せないよ。話しかけられないんだもの。
「藤原君は中島君と何となく似ているよ。中島君とは別の可愛さがあったんだよ。ちょっと病弱だったんだよね。胸の病気を患っているって保健の先生から聞いたよ。だから体育はいつも見学していたんだ。そんな風だったから女の子は遠慮してたよ。色白で華奢でなんとなくだけど溶けてなくなっちゃうような感じがしたんだ。可愛い男の子だったけど茶化すには不健康で繊細過ぎた。それに藤原君が話題にならなかったのは小さいけど肌が艶々で健康的な中島君という不動のアイドルがいたからね」
どうせ僕は女の子たちのワンコだよ。高校生になっても僕は童顔だ。前に渡辺君からは女の子よりかわいいって言われた。
「本当に弱弱しかったんだよ、藤原君は。今日の話を聞いてやっぱりと思ったよ」
僕に似ているんだったら、田沼君のようないじめっ子にいじめられてもおかしくないな。
「中島君は小学校、中学校の頃、田沼君とその仲間に言い寄られてたよね。藤原君も同じようにいじめられていたんだよ」
田沼君は僕以外の子にも手を出していたんだ。本当にいじめっ子だなぁ、最低だ。
「僕は中学校で学級委員をやっていたから先生に藤原君をフォローするように言われていたんだ。でもさ、いじめって僕がいるところではやらないんだよね」
いじめって陰湿なんだよな。僕はさくらちゃんを筆頭に気の強い女の子がいじめっ子を撃退してくれていたんだな。
「僕らは高校で理系を選択したから文系の田沼君とお別れしたが藤原君はずっと同じクラスさ。しょうがないとはいえ可哀想だよね」
僕は医者になるから理系一択だけど、日本史が好きだから文系に少し興味があった。でも、田沼君と一緒になると分かっていたから迷いなく理系を選んだ。
「藤原君のおじい様は書家で有名なんだ。文化功労者に選ばれてるって聞いたことがあるよ。とても有名な家元らしいんだ。藤原君の書く学級日誌とか見たことないかい? 美しい文字さ、教科書通りって感じだ。中学一年の時のかきめで驚いたよ。俺のような素人でも分かるんだ、上手いって。先生もびっくりしていたよ」
書の達人といえばしんちゃんだ。しんちゃんはうまいよ。
「弱弱しくて、いつもしょんぼりしているのに書初めは大胆だったよ。勇敢に挑むって感じかな、すごい『因果応報』だったよ。本当は情熱的なんだって見直したさ」
へぇ、すごいなぁ。芸術は人の心を表すんだって誰かが言ってたな。病弱だから活動できなかったんだろうけど、本当はいろいろ冒険したかったんだろうな。本当はいじめっ子に言い返したかったんだろうな。
 先生が戻ってきた。とっくに七限目は終わっていた。渡辺君の話に夢中になっていたからチャイムが聞こえなかった。僕らはいつものように帰宅の準備をした。

 東京目黒の高級住宅街、その中に理事長・もと則貴のりたかの家があった。
「お邪魔します」
理事長の部屋にやってきたのは中島孝之だった。山田村特産品は中島孝之と懇意な間柄にある人間しか手に入れられない。取引相手の理事長はずっと昔から芸術を愛する趣味人で、先祖は浮世絵師たちのパトロンだった。その上、町人のために私塾を創設するとく志家しかだった。
「いつもありがとう」
理事長は満足そうだった。
「中島君、息子の良文君から何か聞いているかい?」
「いえ、何も」
理事長の問い掛けに中島孝之は静かに答える。高校生ともなると親とそんなに話すものではない。良文は根が穏やかだから反抗はしないが、自ら歩み寄ってきたりしない。
「同級生の藤原義隆君が行方不明になったんだ」
理事長の言葉に中島孝之は動じない。部屋の置いてある茶棚に向かった。慣れた手つきで持ってきた茶葉を急須に入れる。お湯を湯飲みに八分目ほど入れてしばらく冷まし、急須にゆっくりと湯を注いで蒸らす。
「その子はA組の生徒でね。国立文系クラスだ。書家の藤原幸成ふじわらこうせい氏の孫だ。がんりゅうの跡継ぎだ。藤原氏、世願寺流は君も知っているだろう」
「えぇ、藤原氏のご先祖の書を見たことがありますが、うっとりしますね。一文字一文字に魂が込められているうえ、全体を見渡すと端正で、無表情な美しさだ。惹き付けられますね」
中島孝之の美に対する眼力は先祖譲りだった。
「藤原君は良文君と似ていたんだ。でも藤原君の方が良文君より病弱で、体育の授業はいつも見学だ。そんな風だから女の子たちは茶化しては駄目と察したんだ。だから目立たなかった。良文君は茶化されたり、いじめられたりするが『あはれ』だから見た目が弱弱しくても芯が強い。良文君の供の者が凄いからいつも立ち上がる。みんなの人気者だ。いい後継者じゃないか」
理事長の言葉に中島孝之は満足だった。いくつもの苦難に面しても供の者を信じて前に進む。未来を楽しみにする。生きることを続けるために大切なことだ。良文には困難が待ち受けているが超えるだけの強い気持ち『あはれ』がある。きっと大丈夫だ。
「ところでね、行方の分からない藤原君のことなんだけど、彼の部屋に残されたものを警察が全て調べたんだよ。とてもきれいな部屋だったらしい。自殺のサインと言われる身辺整理をしていたかもしれない。その中で机の本棚に立てかけた教科書、ノート類の中に『つれづれなるままに』と題した一冊のノートがあったんだ。その中にはいろんな書体で『あはれ』と書かれていたらしいんだ。私が『あはれ』と聞いて思い出すのは君と良文君だ。中島家のことを『あはれ』と知っているのはほんの一握りの人間だ。世願寺流の跡継ぎの藤原君なら知っていたかもしれないね」
「えぇ、藤原氏のご先祖の模本がありますから私の先祖と交流があったことでしょう。その『白氏詩巻』を模写している子が田舎にいましてね。とても優美だけれど崩すところがない。非常に整っています」
中島孝之は山田村の書庫に所蔵されている書を思い出す。その書は美しい文字で溢れていた。
「ただし、今の中島家は美術品のコレクターではないので、芸術家との交流はめっきり減りました。ですから藤原氏とは交流はありません。人口が増えると同時に芸術品も増えて私が物色するには多すぎます。それに仕事も忙しいので新たな美術品を鑑賞する暇がありません。田舎にある過去のものを静かに眺めるくらいで満足しています」
「そうだね、多すぎるのも問題だな・・・」
中島孝之は理事長にお茶を出した。理事長は、
「ありがとう。頂きます」
感謝を伝えると静かに湯呑を口に運んだ。
「こんなときに『あはれ』と言うのかなぁ。ねぇ、中島君」
美味しい山田茶を口にして顔がほころんだ理事長が冗談っぽく問いかける。
「えぇ、いいと思いますよ。茶摘みの乙女たちの唄の成分と柔らかい手揉みの成分が入っていますからとても豊かでしょう」
「あぁ、柔らかい手で摘まれた茶葉、最高だねぇ」
「理事長も好きですなぁ」
「それはもう。あはれあはれ~」
二人は声を出して笑った。山田村の人は気心が知れている人とはよく笑う。
「藤原君は病弱だったから担任には目を掛けるように指導していたんだ。体調を崩して学問を受けられないというのは可哀想だし、いじめも心配だったからね。それで、担任に時々様子を聞いたんだ。すると、『藤原君はこっそり良文君を見ていた』と担任は言うんだ」
あぁ、良文はやっぱり同性にモテモテだ。
「中学の時は体育祭や朝礼集会など全体行事があると背の順に並ぶだろう。良文君と藤原君は揃って一番先頭だ。私も二人は何とも可愛いのでついつい目が行った。いつも二人ともしょぼんとしていた。良文君は本当に下を向いていた。しかし、藤原君は時折、良文君を見ていたんだ。私もそれには気づいた。なんともいじらしいんだ。痩せて色白で儚げな少年の恋する仕草、いやぁ、同性愛はこの世にもっと許容されてほしいと願ったよ」
理事長はお茶を飲み干した。中島孝之はスッと立ち上がりお茶のお代わりを用意した。二杯目は一杯目よりは味と香りは劣るもののよそのお茶よりは美味しい。大根のお新香をお茶のお供に出した。
「あぁ、いつもありがとう。桐間さんのばあちゃんのお新香かい?」
「えぇ。いつもながらいい出来ですよ」
美味しいものは人を笑顔にする。
「あぁ、懐かしい味。懐かしさは人を想う気持ちを強くする。あぁ、藤原君、どこに行っちまったんだろう。少年の切ない想い、耐えきれなかったのかなぁ」
理事長は口を動かしながらも遠い日を思い返している。好きだった人への想い、実ることのない恋、走馬灯のように蘇る。
「行方も知らぬ恋の道かな」
中島孝之は百人一首の句をそらんじた。平安時代の文学には欠かせない愛、恋、そして『あはれ』、強ければ強いほど感情が溢れ、涙し、豊かになる。現代よりも人を想う気持ちが強かった。現代人は大切な気持ちを忘れている、ないがしろにしている。
「良文君は君と同じく山田村にしか目が行ってない。東京には心がない。愛する人がいるからいつも豊かだ。いくら良文君を想っても、良文君の心は山田村の方にある。繊細で敏感な藤原君はきっとそれに気付いた。叶わぬ恋、願いはあれど望み無き、だ。私も年を取ったが、若い頃の恋の病はどうしようもなく苦しいことを思い出したよ」
中島孝之は大好きな山田村にいる人たちに嫌われたらきっと今ほど笑っていられない、冷静に立ち回れない、と想像する。人は愛されないと生きる力が湧かない。それに気づいた先祖が必ず愛し愛される関係を作った。その関係は人を強くする。
「中島君、私の戯言たわごとを聞いてくれるかい? 空想なんだけどね」
「えぇ、お聞かせください」
理事長の願いを中島孝之はすんなり受け入れた。理事長は話し始める。
「藤原君は光を当てると透けるような感じだった。いなくなった今、彼はいつの間にか溶けて空気に混ざったかもしれないって思ったんだ。彼には儚いって言葉がぴったり当てはまったんだ。生徒には少年から青年へと成長する時をこの学校で過ごしてもらっているが、藤原君は少年で終わってしまったんだ。とても美しいまま去って行ったんだ」
理事長は目頭に手を当てた。警察の聞き取り、家族への対応、マスコミに嗅ぎつけられないように徹底した極秘体制の確立、理事長としての緊張が続き、心が休まる時が無かった。ようやく落ち着いて日常が戻ってきた時には理事長の心はボロボロになっていた。
「藤原さん、泣いていたよ。孫への愛情が深くてね。義隆君は本当の芸術家だ、といつも自慢していたよ。無口で病弱だが筆を執ると情熱が溢れ出したんだ、と。私も見たことがあるがどの作品もとても素晴らしいんだ。しょんぼりしている藤原君からは想像できないほどの自由で、感情豊かだった。後で本棚にある平成十八年、十九年、二十年の中学生徒作品集を見てくれ。夏休みのポスター入選作品や写生大会、書道コンクール、書初め大会など優秀な作品を保存してある。どの作品も個性豊かできらりと光るものがあり素敵だが藤原君は次元が違う。天才だ」
理事長の頭の中には藤原君の書が次々浮かんでいた。
「藤原さん、久々の世願寺流の星だ、といつも自慢していたんだ」
理事長は我が子を失ったかのように悲しむ。
「少年は大人になる前に彗星の如く消えていった。私は何もできなかった」
ソファに身を委ねる理事長に中島孝之は優しく慰める。
「藤原君は自分の意志で決めたんですよ。自分で自分の未来を決めたんですよ。藤原君の意思を尊重しましょうよ」
「彼はとても純粋な少年だ」
理事長は嘆く。
「少年は私たち大人より『あはれ』が豊かなんですよ。私たちが何を言っても藤原君は行動にしたと思いますよ。だって、強い『あはれ』の持ち主だったのでしょう」
中島孝之は茶棚に行って香炉を取り出した。父・中島義明の調合したお香をく。
「藤原君は何も言わずに行ってしまった。私は何もできなかった」
理事長は悔やむ。
「理事長、私は何も言わないことに強い意思を感じる時があります。藤原君は口喧くちやかましい大人よりもずっと強い気持ちで自分の意志を貫いたと考えます。自分の意志で行動する、なんとも魅力的な少年ですね。会いたかったですね」
中島孝之の優しい言葉に理事長は癒されていく。
「中島君、いい感じがしてきたよ。君といるとなんだか落ち着くよ」
中島孝之は微笑む。
「お疲れなんでしょう。私はここにいますのでおくつろぎください」
「いつも優しいねぇ」
「一応、『あはれ』なのでね。傷ついた心の持ち主には寄り添いますよ」
「あぁ、私はここのところ寝付きが悪かった。その上、しっかり眠れなかった。今夜は久しぶりに穏やかに寝付けそうだ。安心して深く眠れそうだ」
「そうですか。藤原君はきっと喜んでいますよ。理事長の『あはれ』に」
「見栄を張って、偉そうにして、私は地に足が着いていない。藤原君は自分の意志で進んでいったんだろうね。羨ましいな」
「そうですよ、藤原君が自分で決めたことなんです。私たちは彼の意思を尊重しましょう。『あはれ』は人を動かす、少年は一人で行ったんですよ」
「あぁ、事件や事故に巻き込まれてないといいが」
「藤原君を信じましょう」
理事長はソファに崩れ落ちた。中島孝之は膝掛を理事長に掛けた。本棚に行って中学生徒作品集を取り出す。
「私は隣の部屋で芸術を楽しんでいますよ」
中島孝之は静かに理事長の部屋を出た。
「父上のお香は弱った心に効き目抜群だな」
理事長室で炊いたお香には眠りと幻覚を引き起こす薬草が加えられていた。その幻覚は怖いものではなく、幸せな気持ちになるものだった。山田医院の庭には特別な薬草が植えられていた。
「そうか、良文が好きだったか。残念ながら叶わぬ恋だ。仕方がないんだ」
繰り返しを続ける山田村、よそ者は受け付けない。
 中島孝之は平成十八年の中学生徒作品集を開く。最初は絵画だ。少年少女たちが若い力を注ぎこんだ作品は成熟した大人にはどれも新鮮だ。初々しさ、若々しさ、情熱が感じられた。一つ一つ丁寧に見る。作品に対する真摯な態度は中島孝之に生まれつき備わっていた。
「おやおや、これはさくらちゃんの作品だ。あはは、相変わらず勝ち気で真っすぐだ。正義感に溢れている」
区のいじめ防止ポスターコンクールで優秀賞だ。標語が『いじめ絶対ダメ!』って、良文をかばうときにいつも言ってたんじゃないかな。多用している色は黄、赤、青、白でポップな仕上がりになっている。五人の制服の女の子が手の平を前に出してSTOPのポーズ、戦隊ヒーローのようだ。五人の後ろで泣いているのは良文か? まさか私?
 次は人権擁護ポスター、標語が『君の優しさが友達を救う』、デジタルっぽい手書き、細かい作業で時間がかかっているのは分かった。
「この技巧の凝らし方は中学生レベルを遥かに超えているが情熱を感じられない。自分が本当に描きたいことではないような、大人の目を気にしているような・・・」
佳作、ぬま明知あきとも、あぁ、沼明次ぬまあきつぐの息子か。なるほどね。親に逆らえない、嘘を付いている、ゆがんだ性格がにじみ出ている。技巧派には高評価だろうが、私のような情熱を尊ぶ者には苦手な絵だな。中島孝之は次の作品に移る。他の作品は若さが溢れ、未熟さ、ぎこちなさが余計に中島孝之の心を動かした。中学生特有の色使い、筆致が中島孝之を楽しませた。
 次に書道の部に移る。藤原君の作品が一番最初だった。
「あぁ・・・」
思わず溜息が出た。別格だった。初々しさがない、既に完成されていた。全体を見れば端正だが、どの文字にも魂が込められていた。渾身の『因果応報』だった。
「藤原君、君の先祖の書は見た者の心を打つ。君も先祖のような素晴らしい能筆のうひつだね・・・」
重厚な線、魂を込めた文字は生き生きしている。それでいて全体は何とも美しい。
「君の繊細かつ大胆な表現は人の心を打つよ」
中島孝之は他の作品を見ず、平成十九年の作品集を見る。絵画を飛ばし、書道に進む。やはり藤原君の作品が書道の最初だった。中学二年のときは『威風堂々』。
「なんと躍動感に溢れているのだろう。その上、風格がある」
一年生の時の作品とは違った表現の豊かさに感心した。
「病弱だった君はなんと立派だったのだろう。一人で生きるという難題に立ち向かっていたんだね」
少年の情熱が一枚の紙に満ち溢れていた。病弱でいつもしょぼんとしていた、と理事長は言っていたが果敢に挑戦していたんだ。作品に挑むときは本当は堂々としていたんだ。全身全霊で打ち込んでいたんだ。
 そのまま平成二十年の作品集に移った。中学三年は前の二作品の四字熟語と打って変わって平仮名ばかりのいろは歌だ。
  いろはにほへと ちりぬるを
  わかよたれそ つねならむ
  うゐのおくやま けふこえて
  あさきゆめみし ゑひもせす
「あぁ、なんという表現だ。一筆書きのような流暢さ、繊細な筆致は平安朝の雅を備えている」
魂を込めて一気に書き上げたのだろう。豊潤で流動感に溢れていた。幼いころから美しい書に囲まれてきたのであろう。自分から進んで手に取り模写していたのだろう。
 敏感で繊細な藤原君なら気付いたのだろう。藤原君がどんなに頑張っても良文を振り向かせられないことを。良文は好きな人がいる、それも相思相愛だ。幸せを得られないと悟ったんだろう。藤原君は何も言わずに去って行った。大人になる前の少年の想い、切なくて、もどかしくて、熱く、嘘偽りがない。藤原君は何も言わず、自分の生き様を書で表した。
「君に一度も会ったことはないけれど、素晴らしい芸術家だったんだね。そうに違いない」
中島孝之の目の前にある三作品は愛と勇気と情熱と凄まじいエネルギーが込められていた。魂が宿っていた。
「作品に全ての想いを込めたんだね。やり切ったんだね。生き切ったんだね」
残した書は藤原君が懸命に生きた証だった。
「あはれ・・・」
中島孝之は目頭を押さえた。


藤原行成、「白氏詩巻」、東京国立博物館
曽禰好忠、「百人一首 四十六番」
中島敦、「かめれおん日記」、筑摩書房
作者不詳、「いろは歌」
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