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piece8 ガラスの心

情けなくないよ

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「未練なんかないし、別れたことを後悔なんかしてない。昔に戻りたいなんて、思ってない」

固い声で、否定の言葉を連ねる剛士。
その姿は、電話の向こう側にいる彼女に向かって「違う」と必死に訴える、痛々しい彼を思い起こさせた。

「なのに、過去の気持ちが、俺を引き摺ろうとする。何かをしなくちゃいけないって気持ちにさせられる。……なんで、なんで今更」

悔しそうにも、腹立たしそうにも聞こえる、低い声音。
「引き摺られたくない。俺は、前に進みたいのに」
最後の言葉は、微かに震えた。


否定を重ね、抗おうとする剛士。
強い言葉とは裏腹に、俯く切れ長の瞳。
なんで、と寂しく震える声――

そのなかに、過去の剛士を見た。

恋人の裏切り、先輩の裏切り。
独り、取り残されて。ズタズタに傷ついて。
泣いている剛士がいた。


彼の傷は、まだ過去になっていない。
癒えぬまま、涙は枯れぬまま、ずっと剛士の心の中にある。
剛士は今もなお、傷ついたままなのだ。

そのことに気がつき、悠里の胸にも痛みが走る。
悠里は、繋いだ手にしっかり力を込めた。


剛士は、溢れ出る苦しさを押し込むように唇を引き結ぶと、ゆっくりと悠里に目を戻した。
その切れ長の瞳は静かで、いつもの落ち着いた彼と同じに見えた。

剛士が、小さく微笑む。
「……ごめんな。俺の弱さに巻き込んで。悲しい思いをさせて。俺がしっかりしないといけないのに、お前に無理させた。お前の優しさに、甘えてしまってた」

剛士の大きな手が、力を込めた悠里に応えるように、優しく握り返してきた。
「情けないよな……」


悠里はじっと、彼を見上げた。
静かに自分を見つめている剛士を。
穏やかで、痛々しい、黒い瞳を。


カラオケボックスで聞いた拓真の声が、脳裏をよぎる。

『あいつ、いっつもフツーの顔してた』
『励まされても、逆に揶揄われても、ホントいつも通りだった』

剛士は、周りの人からは見えないように、自分の苦しみを押さえつけて。
いつも通りの顔で、バスケ部への責任を負ったのだ。

剛士は、たった独りで……


一粒の涙が、悠里の頬を伝った。
「……情けなくないよ」

悠里は両手でしっかりと、剛士の大きな手を包み込んだ。

「ゴウさんは、こんなに傷ついてるのに……ずっとひとりで、我慢していたの?」

剛士は一瞬、言葉を詰まらせた後、強張った声音で答える。
「……別に。もう、昔の話だよ」


悠里は思った。
ああ、剛士はこうしてずっと、自分の心の悲鳴から目を背けていたのだと。
過去のことだと、無理に自分に言い聞かせて。
剛士はずっと、悲しみを抑え込み続けたのだと。

そうしないと耐えきれなかったのであろう、剛士の心。
その痛みを思うと、胸が裂かれそうだった。


悠里は、首を横に振って言う。
「昔のことなんかじゃないよ。ゴウさんは、ずっと苦しんでる……それでも、がんばっていたんでしょう?バスケ部のために」

涙に揺れる真摯な瞳で見つめられ、剛士は言葉を失う。

「拓真さんが、言ってたよ。バスケ部を守るために、ゴウさんは、がんばったんだって。辛いはずなのに、いつも、普通に過ごしてたって」

剛士は小さく首を横に振る。
――別に、もう吹っ切れてたし。
そう言いたかったのに、剛士の喉からは声が出なかった。

悠里は涙を堪えて、言った。
「ゴウさんは、自分のことよりも、ずっとバスケ部のことを考えて、必死でがんばって、それで……」


剛士はきっと、恋人を失った悲しみに、素直に向き合うことはできなかった。

そのための時間も気力も、全てをバスケ部に注いだ。
その苦しみを、誰にも伝えなかった。
ひた隠しにして、ずっと、独りで耐えた。

彼の傷は、彼自身にも、誰にも手当てをされず、癒えぬまま……
だから今でも、あのときと同じ痛みを抱え、彼の心に在り続けているのだと、悠里は思った。


剛士の目が、脆い硝子細工のように、さまざまな色の感情を映し出した。

「……だって、俺が、そうするしかなかったから」
殆ど吐息だけの微かな声で、剛士は呟いた。


恋人は去った。先輩も去った。
剛士は、責任を独り、背負った。

「俺が少しでも弱音吐いたら……バスケ部は壊れる。そんなわけには、いかなかったから」

当事者として、部を立て直す。
それは剛士にしか、できないことだった。

悲しい声だった。
切れ長の瞳が、小さく揺らめいた。


「……うん。うん、ゴウさん。もっと話して?」
悠里は涙を堪えて、頷いてみせる。

剛士は、過去の自分を覗き込むように目を伏せ、苦しげに言葉を紡ぐ。

「俺1人の感情で、バスケ部を壊すわけにはいかなかったから。先輩から託された部を、仲間も後輩もいる部を、俺が守らなきゃいけなかったから」

「うん」
「仲間と、楽しくバスケに打ち込める場所を守りたかった。そのためなら俺は、何でも耐えられるって、思ったんだよ」

「……うん」
剛士の硬く強張った両手を優しく包み、悠里は頷いた。

「ゴウさんは、偉いよ。バスケ部を、守ったもの」

剛士は泣き笑いのような、必死に堪えるような、曖昧な微苦笑を浮かべる。

悠里は、真っ直ぐに彼を見つめ、優しい声で囁いた。
「ゴウさん。辛かったよね……」
「……うん」

悠里の言葉に、剛士の脆い微笑みが、静かに崩れていった。
そして下から、悲しみに震える本当の彼が、姿を現した。

「ゴウさん」
悠里は、彼の手を握る両手に、柔らかく力を込めた。
「話してくれて、ありがとう」


「……悠里」
ぱちぱちと、切れ長の目を瞬かせ、剛士は不器用に笑う。

「俺を、泣かす気?」
「ふふ、泣いても、いいですよ?」

微笑んで、胸を貸すと言わんばかりに両手を広げた悠里に、剛士は吹き出した。
「……やだよ、カッコ悪い」

それから小さな声で。けれど、暖かい声音で。
そっと、悠里に囁いた。

「……ありがとう。何かちょっと、すっきりした」
「本当? 良かった」
悠里は、にっこりと優しい微笑みを浮かべた。

大きな手がそっと、広げたままだった悠里の両手に伸びる。
そうして、彼女の手を離すまいとするかのように、しっかりと繋いだ。
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