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second contact

たぶん正解

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 2014年の6月がやってきて、優介が失踪してからまる2年の月日が経過していた。
 2年前の喪失感は今でも胸をえぐっている。
 けれど海斗と出会ってからは、その傷にかさぶたが少しずつできてきているような気がした。

 海斗から送られてくるメールを見れば、俯いていた顔を上げたくなった。
 この空の下で自分を気に掛けてくれる人がまたひとり増えたことが単純に嬉しかった。
 会う回数は頻繁ではない。
 友人という関係性のためだろうかと一瞬考えもした。

 だけどまだ踏み込めない。
 私の中で優介の存在はかなり大きな場所を占めている。

 あの声も。
 あの笑顔も。
 あの手の温もりも。
 抱きしめた力強さも、吐息も、熱い眼差しも、私の心の奥深くに沈殿してずっとあり続けている。

 そんな中で、海斗と過ごす時間は私に笑顔を取り戻させてくれる貴重なものになっていた。
 メールが来るたびに心が躍った。
 メールがないかと携帯をチェックする回数も増えた。
 どれくらいの間隔ならメールするのも許されるのだろうかと考える自分もいた。

「なんだか最近楽しそうだね、美緒」

 いつものようにホットミルクのカップを傾けながら、千沙子は私を観察するような鋭い目つきでこちらを見つめていた。
 その眼光に飲み込まれるように息を飲む。

「そ……うかな?」

 ホットミルクから漂う甘いバニラビーンズの香りを追うように視線を逸らす。
 と、カップをソーサーに戻した千沙子はこれでもかというくらい上半身をずいっと乗り出して、私をさらにじっと見つめた。
 黙ったまま力強い眼差しを向けてくる千沙子の気迫に押し負かされて、一歩後ずさりした。

「会わせなさいよ」
「え?」
「あんたにそんな顔させるヤツに会わせなさいよ」
「えっ? あっ、そんな……顔?」
「付き合っているんでしょ?」
 
 千沙子がさらに目を座らせて私を見つめた。
 探る視線に胸がどきまぎしていた。
 直球すぎる一言に、千沙子の前に押し返すように強張る手を突きだした。
 思いっきり両手を左右に振る。

「ちがうって、ちがう。まだ付き合ってないから」
「まだ……?」
 
 ギラリッと瞬間的に千沙子の目が光った気がした。
 しまったと突っ張っていた両手を一瞬で翻して口元を覆い隠す。
 思ってもみなかった一言に自分で言っておいて焦ってしまう。
 そんなとき、急沸騰するやかんがコンロの上でシュウシュウと白い蒸気を上げながらカタカタと蓋を揺らした。

「あっ……!」

 急いでコンロの火を消すと、平静を装って千沙子に笑顔を向けた。
 千沙子は少しの間じっと私を見つめていたが、諦めたかのように乗り出していた身をすとんと椅子へと戻した。

「べつにいいんだけどね」

と言って、小さく嘆息した。
 その声がいつになく小さくて、弱々しくて、いつもの千沙子の元気いっぱいさが見えなくて、私は眉尻を下げた。

「別にあんたがいいならいいのよ? 優介さんが姿消して、もう二年も経ったし。時効だとも思うよ?」

 ホットミルクの中にティースプーンを入れる。
 掬ってはかき混ぜ、かき混ぜては掬いを千沙子は繰り返した。
 ホットミルクのまろやかな白い水面が静かに揺れる。

「しあわせになっていいと思う。優介さんもそう言ってたんだし」

 ティースプーンをミルクの中から抜き出す。
 もう一度カップのハンドルを握ると、一度じっとその水面を見つめた後で千沙子はくぃっと一口煽った。
 再びソーサーの上に音を立てないようにカップを置く。
 その後、胸元近くまである緩い茶色の髪を人差し指にくるくるっと巻き付けた。

「いい人なんでしょ?」
「うん。いい人だと思う。とても優しい人かなって」
「そう。優しい人なんだね」
「優しすぎてね。悪いことをしている気持ちになる」
 
 自分の爪先を見つめた。
 カウンターの下の流し台に置かれた指先――優介といた頃はいつもマニキュアを塗っていたし、爪も磨いていた。 
 ハンドクリームも塗って、指先はいつもきれいにしていた。
 彼のお気に入りの爪の色は淡いピンク色だった。

『美緒は淡い色がとても似あうよね』

 そう言って私の指先に触れて時折口づけを落とした。
 そんなキザな一面もあった優介がいなくなってから、私は爪の手入れもしなくなっていた。
 水仕事をしているからというのもあった。
 だけど、そんなことは後付けの言い訳にすぎない。

 喫茶店で客商売をしているのだから、指先まで気を遣うのが当たり前かもしれない。
 指先はどうしたって見られるものだから。
 でも、そこに気を遣う心の余裕がなかった。

 一律に爪を切りそろえて。
 表面にヤスリをかけて。
 コーティングして。
 磨いた爪を『ほらっ』と笑って見せる相手がいなくなったから、そこまで気を掛けられなかった。

 でも、今はほんの少し――

「爪、きれいにし始めたよね」

 鋭い指摘が飛んできて、私は面を上げた。
 千沙子は自分自身の手を表裏ひっくり返しながら「ああ、私はダメだわ」と苦笑した。

「子ども産んでから全然やってないわ」
「千沙子、あのね。私……ね。本当に彼を好きになっていいのか、わからないの。優介を忘れられないくせに、こんな気持ちのまま好きになったらダメだって思うから」

 優介への気持ちを抱えたまま、海斗を好きになっていいのかわからない。
 彼に優介を重ねているのはたしかだから。

 そしてこのことを海斗には伝えられない。
 彼だって誰かの身代わりなんかなりたくないと思うに決まっている。

 実際に海斗に嫌だと言われたとしたら?
 そんなことを考えただけで寒気がした。

 しかし千沙子は「バカね」と言った。

「もう好きになっているじゃない」

 その一言に、心臓が大きく地面を蹴り上げるように走り出す。

「好きになっていいのかわからないって、その前にもうあんたは彼を好きになっているじゃない。いいのよ、別に。きっかけなんて関係ないと思う。理由なんてみんなそれぞれあるわよ。そんなこと言ったら私、旦那を好きになったのは顔が良いからよ? そのほうがひどくない?」

『だってさ、顔の良い子を産みたいじゃない?』と千沙子は目を細めて大きく笑って続けた。

「本当? 隆さん聞いたら怒るでしょ?」
「んー、隆にはそう言ってあるから大丈夫。俺だってそうだって言われたし」

 千沙子はそう言うとパサリと長い髪を背中に流して頬杖をついた。
 私をしばらくじっと見つめ「たぶん正解よ」と言った。

「あんたにそんな顔をさせられるんだから、きっと正解。だから、理由はどうあれ向き合って、ゆっくり答えを出したらいいよ」
「うん」
「でも、ちゃんと会わせてはもらう」
「うん。聞いてみるね」
「よろしく」

 そう言うと千沙子は煽るように残りのホットミルクを飲み込むと立ち上がった。
 爽やかな風が、彼女が立ちあがると同時に立ち上がって私の頬を掠めて行った。

「じゃ、連絡待ってるからね」

 片手を上げて笑顔で立ち去る彼女に「わかった」と手を振りかえした後で、私は彼女の飲み干したカップを見つめた。

「正解……か」

 緩んだ口元から思わず洩れた呟きに、私はぷっと小さく噴き出した。
 友達が会いたいと言ったら海斗はどんな顔をするだろうか。
 その姿を想像する。
 かしこまって背筋を伸ばすだろう。
 そして少し困ったように笑うのだ。

 そんな彼の姿を想像しながら、私はうっすらと底にミルクを残した白いカップソーサーを静かに引き下げた。
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