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第五話 その程度だってことでしょ?
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はっきり言って足がすくんでしまっていた。
店を前にしてできたのは建物を見上げることだけだった。
「どう? 気に入った?」
隣に並んで立つ龍空は上機嫌にそう尋ねた。
気に入ったも、何も答えようがない。
龍空に連れられてやってきたのは雑誌で見たことのある高級店だった。
しかも高級フランス料理店。
三ツ星シェフが腕を振るうその店は普通のOLではそう易々と入ることなんてできない。
ボーナスが出たときに『普段がんばっている自分へのご褒美』と称して気合を入れなければならないような店だった。
名前くらいは知っている。
だってテレビや雑誌でも取り沙汰されるような店だから。
世界に名をとどろかせる有名シェフが腕を振るう店と自分ではあまりにも落差がありすぎる。
――味、わかるかな?
「愛希、こっち」
一般の出入り口とは違う裏の出入り口に案内される。
龍空からしたら通いなれているんだろう。
テレビで見る有名シェフと気軽に言葉を交わす彼の後ろに隠れるようにしてついていく。
案内された個室のテーブルに座る。
緊張で凝り固まった私は前を向けずにいる。
対して龍空はゆったりとした口調で飲み物をオーダーした。
テーブルの上に並べられたナイフとフォークを確認する。
テーブルマナーに自信がないわけじゃないけど、緊張してナイフやフォークを落としてしまいかねない。
「そんなガチガチになんなくても大丈夫だって。ほら、家だと思って。ね?」
家にって言われましても、運ばれてくるオードブルなんて一口で終わっちゃうようなものばかりじゃないか。
ほんのちょっとの量なのに、ものすっごいオシャレというか色鮮やかというか、芸術的というか。
これは花の形になっているのだろうか?
どうやってナイフを入れるべきなのか、どこから食べるべきなのか?
むしろこれを食べてしまっていいんだろうかと戸惑ってしまうくらいなのに、龍空は気にせず普通に口に入れていく。
それこそ無神経とも言えるほどに。
「食べなよ、美味しいからさ」
美味しいでしょうよ、なんせ有名店、高級店。
使われている食材も厳選されたものだろうし、新鮮だろうし。
でも、小市民な私のプチハートはそれを拒絶している。
いいチャンスよ。
こんな高いところ、なかなか来られるものじゃない。
割り勘というわけでもなさそうなのだから、食べるべき。
それはわかっている。
食べたくないわけじゃないの、別に。
でも、身に沁みついた貧乏性がそれを邪魔してくれるのよ。
食べたいの。
でも食べられないの!
「愛希って好き嫌い多いほうなの?」
なんでそうなるかな?
好き嫌いなんかないわよ。
酢豚にパイナップルだって平気な女です!
「……こういう店は……不慣れなのよ」
そうポツリとこぼす。
今まで付き合ってきた男たちにこんな店連れてきてもらったことは勿論ない。
行くとなるとファミレスとか、ラーメン屋とか、行ってもカジュアルレストランとか。
残念ながら初デートもここほど高いところは経験がない。
クリスマスやイベントのときも値段の予想はつけられる店だ、大概が。
お金を持っている男とそうでない男の差なのか、なんなのか。
「うん、そうだと思ったよ」
だから連れて来たと言わんばかりに龍空は小さく笑うと「ここへ来たのはね」とさらに続けた。
「周りを気にせずに愛希とお話しできると思ったからっていう理由と、愛希にちゃんと他の男との差を知ってもらおうと思ったからなんだ」
軽くナプキンで口元を拭うと、龍空は机の上に肘をついて両手を組んだ。
「質問タ~イム」
「なによ、それ?」
「質問したいこと、いっぱいあるでしょ? 全部答えるよ。そうだなあ。たとえば、どうしてオレがキミの名前を知っているか……とか? あとはオレの個人情報とか?」
前者はぜひ教えていただきたい情報だが、後者についてはどうでもいい。
すると心の声がまるで聞こえたかのように龍空は苦笑した。
「知りたくないってのはなしね」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ、オレのこと、ちゃんと愛希には知ってもらいたいし? それにわかりやすいんだよね、愛希って」
そう言ってコロコロコロコロ、声を転がすように龍空は笑うと「顔」と続けた。
「顔?」
「そう、顔。愛希ってば言葉が全部、顔に出る。だから社員食堂でもすぐ愛希だってわかったし。そうだなあ。ここへ来るまで愛希といて、愛希の考え方とか性格とか、ほぼ押さえたかなって思ってる」
なにを言っているの?
ここへ来るまで一緒にいて、自分の考え方とか性格とかほぼ押さえた?
顔に出ている?
ご丁寧に言葉が顔にテロップのように浮き出ているとでも?
今まで付き合ってきた男には皆揃って『わからない』とか『わかりにくい』とか言われ続けてきたというのに?
「ほら、また顔に出たよ、愛希。警戒と不信感がもろに顔に出てる。でも、そういうのはちゃんと口で伝えたほうがいいよ。そうじゃなきゃ、『普通の男』はわからない。あ、違うか。愛希を知りたいと思わない男の間違いだった」
そう言われ、カチンッと頭のスイッチがオンになる。
「どういう意味よ、それ?」
じっと龍空を見つめると、龍空は「だってさ」と言った。
「そのまんまだよ。相手のことを好きで好きでたまらなかったら普通は相手のことをもっと知りたい、もっと深く繋がりたいって思うものでしょ? でも今まで愛希はどうだった? 愛希自身のこと、教えてほしいってやたら質問されたり、『どうしたい?』とか『どこ行きたい?』とか聞かれたりしなかった? まあ、聞いてくれた男もいただろうけど、ちゃんとキミが答えを言うのを待ってくれた相手はどれだけいた?」
「そんなこと言ったらあなただって、私の答えは待たなかったじゃないの?」
「そうだね、待たなかった。待ってもきっと『今日の愛希』は答えはくれないだろうと思ったからそうした。だからお店も勝手に決めた。愛希が苦手だろうなというか、来たことのないような店にわざわざした。それが愛希にとっては落ち着かない場所だろうということもわかってわざとそうしたの。愛希にちゃんと知ってもらうため。オレは本気で愛希と『特別な関係』になるために、それを証明しようとしている。そのためにはまず、愛希の着込んだ『分厚い鎧』を脱がさないと意味がないって思ったからだよ」
一気にそう語る龍空の顔からはにやけた笑みはもう消えていた。
それどころか真っ直ぐにこちらを見つめて話していた。
昔、小学校の頃に『人の目を見て話しなさい』と習ったものだが、お見本みたいに真っ直ぐこちらの目を見て話すから、その視線から逃れることもできない。
「男は単純な生き物だからね。『本命の女』には金掛けたいもんだよ。食事する店ひとつとってもそう。初デートならなおさら気張る。金掛けられない女なんか遊びで充分。愛希は今まで付き合ってきた男たちにそういう扱いされていたってこともこの際だから教えておくね」
「みんなはあんたみたいに金持ってないのよ!」
あまりの言葉に思わず声が張る。
すると龍空は『待っていた』とばかりにニヤリと笑い「いいね」と言った。
「なにがいいのよ!? 意味わかんない。なんなの? 人の気持ち逆撫でして、一体あなた何がしたいの?」
「言ってるでしょ? オレは愛希と『特別な関係』になりたいだけ。それを愛希も望んだはずでしょ?」
「あれは……酔っぱらっていたから! それにあなたに『セックスしてみる?』と訊かれたけど『特別な関係』になりたいなんて私からは言ってない!」
そう。
別に『特別な関係』なんか望んでない。
この男に『セックスしてみる?』と訊かれはしたが、『はい、なります』なんてことも答えてない。
勘違いしているのは目の前の男のほうだ。
それなのに龍空は一歩も引かなかった。
「確かに愛希は言ってない。でもあのとき、キミは揺れなかった? もしかしたら?って思わなかった? 一瞬でもそう思ったのなら、それは『YES』なんだとオレは思う」
勝手な言い分だし、解釈だ。
確かに揺れた。
グラッときたよ、正直言えば。
もしかしたらと一瞬思ったことも事実。
でもそれがイコール『YES』かと言われたら――
「今までの男たち、見返してやりたくない?」
黙りつづける自分に低い声で静かに龍空は問いかけた。
「モノにしたい。スゴイと思われたい。男ってそういう生き物だから。見栄張るのが性分なのに見栄も張らないんじゃ、愛希はその男たちに『ヤリ捨て』されただけだよ。それって悔しくない?」
男は評価されてこそ生きるものだからさ。
そう付け加えながら龍空はグラスの中のソムリエが選んできた年代物の高級ワインを口につけた。
嫌な言葉を羅列するのがお得意らしい。
でもきっとこれも自分を焚きつけるためにわざと選んで使っている言葉なんだろう。
けれど、もしも龍空の言葉が本当なのだとしたら?
『ヤリ捨て』された『遊びの女』で『金をかける価値もない』女と扱われていたというのが本当なのだとしたら?
いや。そうだ。
私を本気で好きだと思っていた男は今まで何人いた?
思わず膝の上に置いていた拳に力が入る。
悔しいさ。
もしもそうなら悔しくて悔しくて、見返してやりたいってそう思うわよ。
本当は言いたいことはいっぱいあった。
でもいつも飲み込んできた。
それは相手に嫌われたくないからというのもあったけど、私は最初から諦めていた。
この人とはきっと長くは続かないって。
「……あなたの目的は……なんなの? あなたなら相手なんか山ほどいる。私をわざわざ相手に選ぶなんてなにか魂胆があるからなんじゃないの?」
すると龍空はフフッと小さく笑うと「そうだね」と答えた。
「魂胆というか理由はあるよ」
そこで龍空は一旦言葉を切ると、ニッと白い歯をむき出しにして笑った。
「ホストだもんね。こういう女を捕まえれば自由に金を引き出して貢がせることができるわよね」
自嘲の笑いが込み上げる。
信じるな、愛希。
相手はホスト。
女を食い物にしている最低男。
騙すことに長けている。
だからマスコミにも取り上げられるほどに有名になったんだ。
そんな男の口車にのってやる必要なんか微塵もない。
冷静になれ、冷静に。
「疑われるのも無理はないよね、そう、オレ、ホストだからね。でも、今回は残念なことにホストとしてのオレじゃなくって、ひとりの男としてキミに近づきたいの」
予想もしない言葉が龍空の口から紡がれて、それはまだ続いていく。
「愛希がオレをホストとしての『星野龍空』じゃなくて、ただのひとりの男として見てくれたからさ」
目が点になる。
確かに私は知らなかった。
この男が有名ホストだということも、『星野龍空』という名前だったということもまったく知らなかっただけの話だ。
たったそれだけで?
たったそれだけの理由で?
「帰る」
言いたいことを飲み込んで、立ち上がる。
真剣に聞いて損をした。
そんなことで自分と『特別な関係』になりたいなんて思うなんて頭の中、どうかしているとしか思えない。
こんな男に一瞬でも。
その一瞬も何度もなんだけど、気持ちが揺れ動いた事実をもみ消したい。
――ああ、本当にバカだ、私!
背を向けて歩き出そうとした手が掴まれる。
同時にグッと引き寄せられた。
反射的に振り返った先にいたのは龍空で、真剣に私を見つめるその熱っぽい視線にきっと私はやられてしまったんだ。
「私は……」
静まり返る部屋の中、龍空に掴まれた腕だけが異常なほど焼けるように熱くてたまらない。
それをふりほどくように右手を放すと、しっかり、はっきりと言い放った。
「私は『生姜焼き定食』が好きなの!」
見つめあったまま沈黙が落ちていく。
龍空はあんぐりと口を開けた。
同じように私も口を閉じられなかった。
なんでだろう?
なんでこのタイミングでこんなことしか言えないんだろう?
もっと伝えることはあったはずだ。
あんたとなんか関わり合いたくない。
私のことは放っておいて。
でも龍空の力強いあの熱のこもった手に触れたら、その言葉の数々が消えてしまった。
あの視線に思考そのものが飛んでしまったようになったからだ。
結果、あの一言だったとは……残念。
しばらくの沈黙の後、やってきたのはその沈黙を吹き飛ばすような大きな笑い声だった。
「アハハハハ、なんだ、そうなんだ。生姜焼きなんだ、愛希の好物。そうやって初めから素直に言ってくれればこんな回りくどいことしなくてすんだのにぃ。愛希ってばホント、素直じゃないんだからぁ。でも、そういうところ、オレ嫌いじゃないよ。うん、可愛いと思うな。さて、お腹も空いたし、じゃあ、今から食べに行こう」
「はぁ? ここは……どうするのよ!?」
「いいよ、気にしなくて。どうせ前菜しか出てきてないんだし」
「気にしなくてって……ちょっと! あなた、頭おかしいんじゃないの!?」
「あ、褒めてくれてるんだね。ありがとう」
龍空は聞かない。
私の意思確認とか……そういうのを優先するって言わなかったか、この男?
前菜しか出てきてないんだから気にしなくていい?
気にするわよ!
生姜焼きなんて、また今度でいいじゃないの!
って。
また今度?
なに考えてるの、私。
引っ張られるように龍空が私の腕をしっかり掴んでいた。
その手は大きくてたくましくて、とても熱かった。
結果的に、私はなぜ自分の名前を知っているかという質問もできないままになった。
いや、させてもらえなかったということになるんだろうか、これは。
かくして私は龍空の巧みな罠にまんまとハマったという形で高級店を後にすることになるのだった。
店を前にしてできたのは建物を見上げることだけだった。
「どう? 気に入った?」
隣に並んで立つ龍空は上機嫌にそう尋ねた。
気に入ったも、何も答えようがない。
龍空に連れられてやってきたのは雑誌で見たことのある高級店だった。
しかも高級フランス料理店。
三ツ星シェフが腕を振るうその店は普通のOLではそう易々と入ることなんてできない。
ボーナスが出たときに『普段がんばっている自分へのご褒美』と称して気合を入れなければならないような店だった。
名前くらいは知っている。
だってテレビや雑誌でも取り沙汰されるような店だから。
世界に名をとどろかせる有名シェフが腕を振るう店と自分ではあまりにも落差がありすぎる。
――味、わかるかな?
「愛希、こっち」
一般の出入り口とは違う裏の出入り口に案内される。
龍空からしたら通いなれているんだろう。
テレビで見る有名シェフと気軽に言葉を交わす彼の後ろに隠れるようにしてついていく。
案内された個室のテーブルに座る。
緊張で凝り固まった私は前を向けずにいる。
対して龍空はゆったりとした口調で飲み物をオーダーした。
テーブルの上に並べられたナイフとフォークを確認する。
テーブルマナーに自信がないわけじゃないけど、緊張してナイフやフォークを落としてしまいかねない。
「そんなガチガチになんなくても大丈夫だって。ほら、家だと思って。ね?」
家にって言われましても、運ばれてくるオードブルなんて一口で終わっちゃうようなものばかりじゃないか。
ほんのちょっとの量なのに、ものすっごいオシャレというか色鮮やかというか、芸術的というか。
これは花の形になっているのだろうか?
どうやってナイフを入れるべきなのか、どこから食べるべきなのか?
むしろこれを食べてしまっていいんだろうかと戸惑ってしまうくらいなのに、龍空は気にせず普通に口に入れていく。
それこそ無神経とも言えるほどに。
「食べなよ、美味しいからさ」
美味しいでしょうよ、なんせ有名店、高級店。
使われている食材も厳選されたものだろうし、新鮮だろうし。
でも、小市民な私のプチハートはそれを拒絶している。
いいチャンスよ。
こんな高いところ、なかなか来られるものじゃない。
割り勘というわけでもなさそうなのだから、食べるべき。
それはわかっている。
食べたくないわけじゃないの、別に。
でも、身に沁みついた貧乏性がそれを邪魔してくれるのよ。
食べたいの。
でも食べられないの!
「愛希って好き嫌い多いほうなの?」
なんでそうなるかな?
好き嫌いなんかないわよ。
酢豚にパイナップルだって平気な女です!
「……こういう店は……不慣れなのよ」
そうポツリとこぼす。
今まで付き合ってきた男たちにこんな店連れてきてもらったことは勿論ない。
行くとなるとファミレスとか、ラーメン屋とか、行ってもカジュアルレストランとか。
残念ながら初デートもここほど高いところは経験がない。
クリスマスやイベントのときも値段の予想はつけられる店だ、大概が。
お金を持っている男とそうでない男の差なのか、なんなのか。
「うん、そうだと思ったよ」
だから連れて来たと言わんばかりに龍空は小さく笑うと「ここへ来たのはね」とさらに続けた。
「周りを気にせずに愛希とお話しできると思ったからっていう理由と、愛希にちゃんと他の男との差を知ってもらおうと思ったからなんだ」
軽くナプキンで口元を拭うと、龍空は机の上に肘をついて両手を組んだ。
「質問タ~イム」
「なによ、それ?」
「質問したいこと、いっぱいあるでしょ? 全部答えるよ。そうだなあ。たとえば、どうしてオレがキミの名前を知っているか……とか? あとはオレの個人情報とか?」
前者はぜひ教えていただきたい情報だが、後者についてはどうでもいい。
すると心の声がまるで聞こえたかのように龍空は苦笑した。
「知りたくないってのはなしね」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ、オレのこと、ちゃんと愛希には知ってもらいたいし? それにわかりやすいんだよね、愛希って」
そう言ってコロコロコロコロ、声を転がすように龍空は笑うと「顔」と続けた。
「顔?」
「そう、顔。愛希ってば言葉が全部、顔に出る。だから社員食堂でもすぐ愛希だってわかったし。そうだなあ。ここへ来るまで愛希といて、愛希の考え方とか性格とか、ほぼ押さえたかなって思ってる」
なにを言っているの?
ここへ来るまで一緒にいて、自分の考え方とか性格とかほぼ押さえた?
顔に出ている?
ご丁寧に言葉が顔にテロップのように浮き出ているとでも?
今まで付き合ってきた男には皆揃って『わからない』とか『わかりにくい』とか言われ続けてきたというのに?
「ほら、また顔に出たよ、愛希。警戒と不信感がもろに顔に出てる。でも、そういうのはちゃんと口で伝えたほうがいいよ。そうじゃなきゃ、『普通の男』はわからない。あ、違うか。愛希を知りたいと思わない男の間違いだった」
そう言われ、カチンッと頭のスイッチがオンになる。
「どういう意味よ、それ?」
じっと龍空を見つめると、龍空は「だってさ」と言った。
「そのまんまだよ。相手のことを好きで好きでたまらなかったら普通は相手のことをもっと知りたい、もっと深く繋がりたいって思うものでしょ? でも今まで愛希はどうだった? 愛希自身のこと、教えてほしいってやたら質問されたり、『どうしたい?』とか『どこ行きたい?』とか聞かれたりしなかった? まあ、聞いてくれた男もいただろうけど、ちゃんとキミが答えを言うのを待ってくれた相手はどれだけいた?」
「そんなこと言ったらあなただって、私の答えは待たなかったじゃないの?」
「そうだね、待たなかった。待ってもきっと『今日の愛希』は答えはくれないだろうと思ったからそうした。だからお店も勝手に決めた。愛希が苦手だろうなというか、来たことのないような店にわざわざした。それが愛希にとっては落ち着かない場所だろうということもわかってわざとそうしたの。愛希にちゃんと知ってもらうため。オレは本気で愛希と『特別な関係』になるために、それを証明しようとしている。そのためにはまず、愛希の着込んだ『分厚い鎧』を脱がさないと意味がないって思ったからだよ」
一気にそう語る龍空の顔からはにやけた笑みはもう消えていた。
それどころか真っ直ぐにこちらを見つめて話していた。
昔、小学校の頃に『人の目を見て話しなさい』と習ったものだが、お見本みたいに真っ直ぐこちらの目を見て話すから、その視線から逃れることもできない。
「男は単純な生き物だからね。『本命の女』には金掛けたいもんだよ。食事する店ひとつとってもそう。初デートならなおさら気張る。金掛けられない女なんか遊びで充分。愛希は今まで付き合ってきた男たちにそういう扱いされていたってこともこの際だから教えておくね」
「みんなはあんたみたいに金持ってないのよ!」
あまりの言葉に思わず声が張る。
すると龍空は『待っていた』とばかりにニヤリと笑い「いいね」と言った。
「なにがいいのよ!? 意味わかんない。なんなの? 人の気持ち逆撫でして、一体あなた何がしたいの?」
「言ってるでしょ? オレは愛希と『特別な関係』になりたいだけ。それを愛希も望んだはずでしょ?」
「あれは……酔っぱらっていたから! それにあなたに『セックスしてみる?』と訊かれたけど『特別な関係』になりたいなんて私からは言ってない!」
そう。
別に『特別な関係』なんか望んでない。
この男に『セックスしてみる?』と訊かれはしたが、『はい、なります』なんてことも答えてない。
勘違いしているのは目の前の男のほうだ。
それなのに龍空は一歩も引かなかった。
「確かに愛希は言ってない。でもあのとき、キミは揺れなかった? もしかしたら?って思わなかった? 一瞬でもそう思ったのなら、それは『YES』なんだとオレは思う」
勝手な言い分だし、解釈だ。
確かに揺れた。
グラッときたよ、正直言えば。
もしかしたらと一瞬思ったことも事実。
でもそれがイコール『YES』かと言われたら――
「今までの男たち、見返してやりたくない?」
黙りつづける自分に低い声で静かに龍空は問いかけた。
「モノにしたい。スゴイと思われたい。男ってそういう生き物だから。見栄張るのが性分なのに見栄も張らないんじゃ、愛希はその男たちに『ヤリ捨て』されただけだよ。それって悔しくない?」
男は評価されてこそ生きるものだからさ。
そう付け加えながら龍空はグラスの中のソムリエが選んできた年代物の高級ワインを口につけた。
嫌な言葉を羅列するのがお得意らしい。
でもきっとこれも自分を焚きつけるためにわざと選んで使っている言葉なんだろう。
けれど、もしも龍空の言葉が本当なのだとしたら?
『ヤリ捨て』された『遊びの女』で『金をかける価値もない』女と扱われていたというのが本当なのだとしたら?
いや。そうだ。
私を本気で好きだと思っていた男は今まで何人いた?
思わず膝の上に置いていた拳に力が入る。
悔しいさ。
もしもそうなら悔しくて悔しくて、見返してやりたいってそう思うわよ。
本当は言いたいことはいっぱいあった。
でもいつも飲み込んできた。
それは相手に嫌われたくないからというのもあったけど、私は最初から諦めていた。
この人とはきっと長くは続かないって。
「……あなたの目的は……なんなの? あなたなら相手なんか山ほどいる。私をわざわざ相手に選ぶなんてなにか魂胆があるからなんじゃないの?」
すると龍空はフフッと小さく笑うと「そうだね」と答えた。
「魂胆というか理由はあるよ」
そこで龍空は一旦言葉を切ると、ニッと白い歯をむき出しにして笑った。
「ホストだもんね。こういう女を捕まえれば自由に金を引き出して貢がせることができるわよね」
自嘲の笑いが込み上げる。
信じるな、愛希。
相手はホスト。
女を食い物にしている最低男。
騙すことに長けている。
だからマスコミにも取り上げられるほどに有名になったんだ。
そんな男の口車にのってやる必要なんか微塵もない。
冷静になれ、冷静に。
「疑われるのも無理はないよね、そう、オレ、ホストだからね。でも、今回は残念なことにホストとしてのオレじゃなくって、ひとりの男としてキミに近づきたいの」
予想もしない言葉が龍空の口から紡がれて、それはまだ続いていく。
「愛希がオレをホストとしての『星野龍空』じゃなくて、ただのひとりの男として見てくれたからさ」
目が点になる。
確かに私は知らなかった。
この男が有名ホストだということも、『星野龍空』という名前だったということもまったく知らなかっただけの話だ。
たったそれだけで?
たったそれだけの理由で?
「帰る」
言いたいことを飲み込んで、立ち上がる。
真剣に聞いて損をした。
そんなことで自分と『特別な関係』になりたいなんて思うなんて頭の中、どうかしているとしか思えない。
こんな男に一瞬でも。
その一瞬も何度もなんだけど、気持ちが揺れ動いた事実をもみ消したい。
――ああ、本当にバカだ、私!
背を向けて歩き出そうとした手が掴まれる。
同時にグッと引き寄せられた。
反射的に振り返った先にいたのは龍空で、真剣に私を見つめるその熱っぽい視線にきっと私はやられてしまったんだ。
「私は……」
静まり返る部屋の中、龍空に掴まれた腕だけが異常なほど焼けるように熱くてたまらない。
それをふりほどくように右手を放すと、しっかり、はっきりと言い放った。
「私は『生姜焼き定食』が好きなの!」
見つめあったまま沈黙が落ちていく。
龍空はあんぐりと口を開けた。
同じように私も口を閉じられなかった。
なんでだろう?
なんでこのタイミングでこんなことしか言えないんだろう?
もっと伝えることはあったはずだ。
あんたとなんか関わり合いたくない。
私のことは放っておいて。
でも龍空の力強いあの熱のこもった手に触れたら、その言葉の数々が消えてしまった。
あの視線に思考そのものが飛んでしまったようになったからだ。
結果、あの一言だったとは……残念。
しばらくの沈黙の後、やってきたのはその沈黙を吹き飛ばすような大きな笑い声だった。
「アハハハハ、なんだ、そうなんだ。生姜焼きなんだ、愛希の好物。そうやって初めから素直に言ってくれればこんな回りくどいことしなくてすんだのにぃ。愛希ってばホント、素直じゃないんだからぁ。でも、そういうところ、オレ嫌いじゃないよ。うん、可愛いと思うな。さて、お腹も空いたし、じゃあ、今から食べに行こう」
「はぁ? ここは……どうするのよ!?」
「いいよ、気にしなくて。どうせ前菜しか出てきてないんだし」
「気にしなくてって……ちょっと! あなた、頭おかしいんじゃないの!?」
「あ、褒めてくれてるんだね。ありがとう」
龍空は聞かない。
私の意思確認とか……そういうのを優先するって言わなかったか、この男?
前菜しか出てきてないんだから気にしなくていい?
気にするわよ!
生姜焼きなんて、また今度でいいじゃないの!
って。
また今度?
なに考えてるの、私。
引っ張られるように龍空が私の腕をしっかり掴んでいた。
その手は大きくてたくましくて、とても熱かった。
結果的に、私はなぜ自分の名前を知っているかという質問もできないままになった。
いや、させてもらえなかったということになるんだろうか、これは。
かくして私は龍空の巧みな罠にまんまとハマったという形で高級店を後にすることになるのだった。
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無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
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