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初代 仁右衛門の章
第15話 山形屋仁右衛門
しおりを挟む1585年(天正13年) 冬 近江国蒲生郡南津田村
「地震だ!」
夜眠っていた甚左衛門は、天地を揺るがす揺れに驚いて飛び起きた
「ふく!市兵衛!甚五郎を連れて外へ逃げろ!」
同じく跳ね起きたふくが四歳になる次男甚五郎を連れて家の外に飛び出した
市兵衛はやや寝惚けていたが、事態を把握するとすぐに外へ出た
大きな家ではないので、三和土からすぐ外に出ると付近の百姓たちも次々と外へ出てきた
大きな地震だったが、南津田村周辺では幸い人死にはなく、建物が多少崩れたくらいですんだ
「この際、八幡山下町へ引っ越すことにしよう」
翌日、甚左衛門はふく・市兵衛・新八・ちえ・新治郎達にそう話していた
「しかし旦那様。まだお屋敷は完成してはおりませんよ?」
「そうだが、これ以上ここに住むことも難しい。店としてはまだ使えないが、一部の部屋を使って住むことはできるだろう」
甚左衛門の家は一面の土壁がはげ落ち、隙間風どころか正面から風を受け入れる有様だった
「城の普請の手直しも必要になるだろうから、我が家の普請はまだ先になるがともかくも住む所を確保しなくてはどうにもならん」
天正大地震と呼ばれるこの地震は、北陸から近畿・東海・伊勢にかけて甚大な被害をもたらした
一説には、この地震の影響で秀吉は出陣の準備をしていた徳川討伐軍を引っ込め、安全と思われる大坂城に戻ってしまったという
仮にこの地震がなければ後の徳川幕府は成立していなかったかもしれない
「お城普請は手直しが必要になるか」
「申し訳ございません。至急破損個所を洗い出して手直し普請の見積もりにかかります」
「いや、これはやむを得まい。あまり気に病まぬことだ」
八幡山城居館にて秀次筆頭家老の田中吉政が甚左衛門を励ましていた
城主羽柴秀次は、基本的には京に滞在していた
「安土や他の市町の状況はいかがでございましょうか」
「安土は八幡と近いゆえ状況は似たようなものだが、山内伊右衛門が預かる長浜では多くの家屋が傾き、圧死する者も多かったと聞いておる。
八幡はまだマシなようだの」
「左様ですか」
甚左衛門は複雑な気持ちだった
幸い八幡周辺では、けが人は多数出たものの人死にが出たという話は聞いていない
災害の怖さを改めて思い知らされた
1585年(天正13年) 冬 伊勢国一志郡松ヶ島
宗兵衛は松ヶ島の惨状に悲嘆に暮れていた
十一月に起きた天正大地震による津波被害で、松ヶ島城下は大きな被害が出ていた
松ヶ島城は無事だったが、城下町では建物への浸水被害、津波に流され死者三十名余・行方不明は百名を超えた
氏郷入府間もなく、人口千人足らずの城下町としては甚大な被害と言えた
「旦那様。今回人死にが出た事、申し訳ございません」
「勘治、お前のせいではない。しかし、彼らの親元には十分に詫び、見舞いをせねばなるまい」
手代の勘治がうつむく
しかし、こればかりはやむを得ないと思った
「まずは、松ヶ島の復興だ。飛騨守様の基盤を支える大切な町だ。全員心を一つにしてかかってくれ」
「はい」
幸いと言うべきか、宗兵衛一家は日野の親元へ行っていて不在だったので津波の被害に遭わずに済んだ
だが、奉公に来ていた丁稚や女中数名が津波に流されていた
運び込んだ米も蔵で仕込んだ酒もすべてが台無しになった
また一からやり直しだと思うと宗兵衛は暗雲が立ち込める思いだった
1586年(天正14年) 夏 近江国蒲生郡安土山下町
この年の六月、震災復興半ばの八幡山下町に秀次による楽市令が発布された
条例は基本的には信長の安土楽市令を踏襲していたが、安土との大きな差異としては
・琵琶湖を航行する商船は必ず八幡へ寄港すること
・天正十年(本能寺の変)以前の債務は破棄すること
・周辺諸市は八幡町へ集中すること
の三点であった
特に第十三条にある八幡町への移住令は、それまで湖東地域各地に点在していた八日市・小幡・横関・馬淵・枝村・建部など周辺の市機能を集約し、あわせて未だ隠然たる力を持っていた座商人達の力を取り込む狙いがあるように思う
「どうかご協力いただけませんでしょうか」
西川甚左衛門はかつて神崎郡小幡ノ庄で活動していた小幡商人の重鎮である、布施源左衛門を訪ねていた
源左衛門はかつて小幡商人として、伝次郎達保内商人と時に協力し時に敵対しながら勢力を広げてきた先代源左衛門の息子だ
現当主は二代目源左衛門だった
「お手前の組下に加われと?」
「そうではございません。御父上、先代源左衛門殿と我が師伝次郎は山越衆として共に伊勢との通商を分け合っていた仲でございます。
その誼を再び八幡町へ通じて頂きたいのです」
「伊勢に対しては、確かに協力しておりました。しかし越前への通商では我らと権益を取り合っておりました。
単純に誼を通じていたわけではないことは、お手前もご存知でしょう」
「いかにも左様でございます。ですが、今の手前は保内商人ではございません。八幡商人でございます。
どうか共に八幡を真の楽市と為すためにお力をお貸し願いたいのです」
「しかし、肝心の八幡堀はお手前の管理下にある。我らは大きな商いをしようと思えば西川殿の裁可を仰がねばならぬ、という事ではないのかな?」
源左衛門が一つ息を吐いた
さすが曲者揃いの小幡商人達をまとめ上げるだけのことはあると思った
交渉の核心を突く鋭さと、その後に起こるであろう商売への嗅覚は並の商人とは物が違う
今年四十五歳になると聞く
交渉に慣れた戦巧者の気を発していた
「私が八幡堀の出入調査を命じられたは、商人の義を守る一助とせよという中将様の御心遣いでございます。
源左衛門殿とて安土が理想の楽市と思っておられるわけではございますまい」
「それは確かにそうですが…」
「私は、石寺新市の続きをしとうございます。良い品があふれ、商人達に自由と活気があり、民を豊かにするという理想がありました。
師伝次郎はじめ、我ら東近江の商人全員が集って作り上げたあの楽市を、八幡町にてより完璧なものへ近づけたいのです。
どうかお力をお貸しください」
甚左衛門は深々と頭を下げた
ここまでの人物となると下手な小細工は不興を買うだけだ
今の自分に出来ることは、包み隠さぬ本心をあけすけに語ることだと心に決めた
「……返事はしばしお待ちいただきたい。お手前のお気持ちは良くわかり申した」
「よろしくお願いいたします」
再び頭を下げた後、甚左衛門は源左衛門の屋敷を辞した
この前年の天正十三年に秀吉は関白へ就任していた
そして、この年の九月には正親町天皇より豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉となる
この前後、秀吉は近畿各地で『破座令』を出している
天正十三年 摂津富田宿 『無座無公事』 豊臣秀長
天正十三年 京洛中洛外 『諸役を止め、座を破らる』 豊臣秀吉
天正十五年 大和奈良郡山 『悉以諸公事・座破れと触れたる』 豊臣秀長
など
どうも従来の『楽座』が座商人の解散にあたるというのは、この『無座・破座』と混同しているように思う
この後の豊臣政権の財政基盤は、秀吉の弟小一郎秀長がその屋台骨を作ったといっても過言ではない
座を解散し、中間搾取を排除し、商人たちへの投資によって莫大な富を築いたのは信長でも秀吉でもなく秀長の功績ではないだろうか
(強権を持って座を解散して無理矢理に移住を迫れば、必ずしこりを残す。それでは真の楽市とは言えない。
なんとか協力頂くことはできぬだろうか…)
この後も甚左衛門は馬淵・横関などの旧座商人達にも足しげく通い、協力を求め続けた
1587年(天正15年) 夏 近江国蒲生郡八幡山下町
「さあ、営業開始だ!」
甚左衛門は新八、市兵衛、新治郎と共に八幡山下町の屋敷で気勢を上げていた
待望の店が本日開店を迎えていた
店名を『山形屋』と号し、店主の名前を仁右衛門とした
取扱品目は蚊帳に加えて畳表・麻呉服の商いも同時に始めた
『山形屋』 西川仁右衛門の誕生だ
以降この物語でも甚左衛門を仁右衛門
また長男市兵衛を市左衛門と改名する
仁右衛門 40歳
市左衛門 10歳
新八 39歳
新治郎 11歳
「「「おめでとうございます」」」
「皆、ありがとう」
荘右衛門ら行商の仲間たちも祝いに駆けつけてくれた
彼らもすでに八幡町に移住し、それぞれ店を構えていた
『扇屋』 伴荘右衛門 取扱品目 扇・蚊帳・畳表・京呉服
『綿屋』 西村嘉右衛門 取扱品目 木綿呉服・蚊帳
『麻屋』 市田庄兵衛 取扱品目 麻呉服・蚊帳・日用品
「仁右衛門殿 おめでとうございます」
今年移住してきた布施源左衛門も祝いに来てくれた
源左衛門は移住を機に姓を『西谷』に改め、引き連れてきた小幡商人達と共に住んだ場所を『小幡町』と名付けた
『最上屋』 西谷源左衛門 取扱品目 近江上布・紙・塩
開店した山形屋は繁忙を極めた
先年より始まっていた秀吉の検地は、代官が測量する本格的なもので、耕地の過少申告が難しかった
そのため、事実上の増税に苦しんだ百姓たちは、副業による収入アップを図っていた
蚊帳と畳表はふく・ちえが近郷の百姓の女房達の副業として広めた為、今までとは桁違いに産量が上がっていた
しかし、職人による手織りと違って品質が安定しなかった
「これでは安心して売り物にできんな。新八よ、買い集めた蚊帳の質を高める工夫はないか?」
「では、各郷で競ってもらうようにしてはどうでしょうか?」
「どういうことだ?」
「質が悪い物は手前が手直しいたします。質の良い物はそのまま、何郷の産と出して店棚に置かれれば、何郷の蚊帳が良質か、作り手にも買い手にも即座にわかりましょう」
「なるほど、それで良い作り手からは多少割り増ししても買う とすれば否が応でも質は上がって来るな」
「左様にございます」
商人と同様に作り手にも競ってもらうのか
良い案だと思った
この新八の案をそのまま採用し、最高品質の蚊帳は山形屋の店棚の一番前に置いた
近郷では『山形屋の一番棚を取った』と言えば自慢になったし、他の蚊帳商いも山形屋が認めたならば間違いないと優先的に買い求めるようになってくれた
今や蚊帳は本家大和を超える近江の名産品になったと思う
とはいえ、まだまだ蚊帳も畳表も高級品だ
主な顧客は城主秀次の配下の武士たちだった
質の向上と共に値を下げる工夫をしなければ庶民の生活を豊かにする品物にはなり得ない
順調な滑り出しだが、これからが本番だと仁右衛門は思った
1587年(天正15年) 冬 伊勢国一志郡松ヶ島
九州征伐に出陣していた蒲生氏郷は、諸々の戦後処理を終えて領地松ヶ島城へ帰還した
「おかえりなさいませ」
「うむ。宗兵衛、町の復興の具合はどうだ?」
「一時の壊滅状態は抜け出しましたが、まだ十全とは言えません」
「ふむ。この際、先年より言っていた移転を行うか」
「飯高郡の四五百森へ、でございますか?」
「そうだ。年内に縄張りをし、来年中には一気に仕上げようと思う」
復旧を志すよりもむしろ新たに作り上げた方が早いかもしれぬ
宗兵衛もそう思っていた
「良い御思案かと思いまする」
「ではすぐにとりかかろう。ああ、それとな、遅くなったがそなたの養子の件も許す。
名門三井の名跡を継いでより一層励んでくれ」
「はっ!ありがとうございます」
「ふむ、良い機会だし名を変えるか?」
「名を、でございますか?」
「そうだ。俺も秀の字を改めたことだ。今後は越後守高安を名乗るが良い」
「はっ!有難く頂戴いたしまする」
妻の実家、六角旧臣の三井氏には子がなく、六男である宗兵衛に養子として名跡を継いで欲しいと義父から言われていた
あくまで蒲生家臣である宗兵衛は、氏郷に許しを乞うていた
三井越後守高安
近江から出て伊勢の地に確かな地盤を築いていく
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そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。
縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。
日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。
この小説は真実の物語です。
「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」
どうぞ、お楽しみ下さい。
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