近江の轍

藤瀬 慶久

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四代 利助の章

第43話 御用

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 1685年(貞享2年) 春  江戸城西の丸



 江戸城西の丸では老中たちによる評定が行われていた

「次に、勘定組頭の萩原彦次郎より提案書が出ております」
「どういった内容ですかな?」

「されば、長崎にて先年より行っている貨物市法かもつしほうを改め、金・銀の年間交易額の上限を定めるべきであるとの事にござる
 現在の財政の悪化はひとえに慶長金銀の不足に起因するものと思料し、これを緩和するためとのこと

 いかが思われますか?」


「うむ…今一つ真意が分かりかねるな
 萩原を呼べるか?」

 阿部正武が取次役へ声を掛ける
「はっ!ただいま!」



 呼び出しがあるとすぐに萩原重秀が評定の間にやって来た

「その方の提案による金・銀交易の上限の定だが、一体どういう訳だ?」
「今のご公儀財政の欠乏は金銀が産出せぬようになった為に起こっている事でございまする
 翻って、今市中の商家の蔵には大量の金銀が眠っておりまする
 これら商家が今以上に長崎で貿易を行えば海の外へ金銀が流出し、海内に残る金銀の総量が少なくなることは必定

 各地の金・銀山の再開発も必要ではありますが、なによりも甕の底に蓋をすることが肝要と愚考いたしまする」

「ふむ。言われてみれば道理ではあるな
 よし、その案を採用しよう。併せて糸割符仲間を復活させ、密貿易の取り締まりを厳に行う事でいかがかな?」
 他の老中にも異存はなかった



 明暦元年(1655年)以来の糸割符廃止によって自由商業による生糸の値下げ策が図られていたが、自由商業に任せたことで取引量が拡大し、流出する金・銀の総量はむしろ増加した
 それを受けて一層の引き締めを行うべく寛文十二年(1672年)より長崎奉行による『貨物市法かもつしほう』が施行されていた

 貨物市法は持ち込まれた商品の値決めを目利き商人に行わせ、その価格を元に入札を行う一種の官製入札政策であり、幕府主導の生糸の値下げ策として実行された
 だが、利益が薄くなったとはいえ唐の商人達も薄利多売でより多数の生糸を売捌いた
 それによって金・銀の流出を抑制する効果は薄くなった
 言い換えれば日本産の金・銀はそれだけ清朝下の中国においても需要があったということだ


 しかしこの頃になると、価格引下よりも産出が止まった金・銀の流出そのものが問題視されるようになり、そもそもの取引に使える年間の金・銀の総量が規制されるようになる
 この年に成立した『定高さだめだか貿易法ぼうえきほう』は金・銀の流出抑制策で、

 清国船には年間銀六千貫目
 オランダ船には年間銀三千貫目

 までの取引に限定すると規定し、後にそれを超える取引に関しては金・銀によらず銅貨使用や俵物などの諸色との物々交換による取引を行う事とした

 まだまだ日本国内に貨幣の形で内在する金・銀はあったが、町民の経済成長が加速してきたことで取引を媒介する通貨が慢性的に不足しがちになり、また退蔵しておけば通貨不足により価値が上がったために商人達が蔵に溜め込むということも起こっていた

 大坂両替商を主体とした為替手形決済によりなんとか金銀の流通不足は補われていたが、手形取引が発達すれば発達するほど国内の経済規模は拡大し、より一層の通貨不足が引き起こされる悪循環に陥っていた
 また、金銀が商人達に集中することによって大名貸しによる巨額な負債を背負う大名家が続出した 

 一部の藩で発行されていた藩札は通貨供給量を増やす働きはしていたが、全国的に行われてはいなかったため改善効果は限定的であり、景況感の悪化の原因は現代の目で見れば国内総生産G D Pに対する通貨供給量マネーサプライの不足にあることは明白だった


 またこの頃から国産の生糸の品質が向上し、復活した糸割符仲間にしても価格を下げる統制というよりは輸入量そのものを制限し、国産生糸産業の育成保護を目的とした関税組織に変わっていった



 1687年(貞享4年) 夏  江戸日本橋上槙町 灰屋



「おのれ越後屋め!図に乗りおって!」
 中村久兵衛は扇子を思いっきり床に叩きつけた
『灰屋』二代目中村久兵衛の苛立ちは日増しに募っていた


 この頃には大物然とした物腰もかなぐり捨て、本町の呉服仲間と共に越後屋への嫌がらせに参加していた
 越後屋の駿河町移転後は周辺に怪文書をばら撒いたりもしていた

 曰く
『越後屋は不埒な商いをしているので天誅を加える。夜中に石火矢を射かけることになるが、周辺への類焼には責任を持てないので文句があるなら越後屋へ掛け合え』

 という、商人以前に人としてどうかという内容にまで発展していた
 要するに巻き添えになりたくなければ越後屋を追い出せということだ


 しかし、周辺住民も越後屋の商売によって恩恵を受けており、結局は駿河町自警団の夜回りの強化という結果に終わった
 ここに至っては完全に越後屋の勝利であり、おとなしく自らの商いに精を出すべきなのだが、百年続く名門の名が邪魔をしていた


「灰久さん。もはやこうなっては越後屋の商いを認め、我らも共に呉服商いを盛り上げるべきではありませんか?」
「何を馬鹿なことを!ここで屈しては越後屋の思う壺ではないか!」
「しかし、もはや我らに打つ手はありませんぞ」

「………いや、ご公儀の権威を使わせてもらう」
「どういうことです?」
「ふふふふふ…」

 久兵衛の目が怪しく光っていた



 1687年(貞享4年) 秋  江戸城西の丸



「お呼びにより馳せ参じました。三井八郎右衛門にございまする」
 高利の長男高平は、高利の通称八郎兵衛にちなんで『八郎右衛門はちろうえもん』を名乗り、以後三井総領家である北家の当主は代々八郎右衛門を名乗る事となる


 三井八郎右衛門高平は将軍家側用人の牧野成貞から呼び出され、京から遠路江戸まで伺候していた

「おお、よく参られた。実はその方ら越後屋の商いの評判を本因坊道悦殿から聞いてな
 これはご公儀の御用に推挙しても良いかもしれぬと来てもらったのだ」
「ご公儀の御用……でございますか?」
 高平は絶句した
 一瞬何を言われているのか理解できなかった
 ご公儀、つまり将軍家の御用を務めるなど思いも寄らないことだった

「うむ。実はな、ご老中様にもお目通りの許しを頂いておる
 これからご老中様の控室へ向かい、ご挨拶されるがよかろう」
「はぁ…」

 ―――これは現実なのか?

 未だふわふわした現実感の無い心持で案内されるままに老中控室に向かった高平は、そこでようやく現実なのだと思い至り、今度はたちまちに極度の緊張でカチコチになった


 居並ぶ老中は大久保忠朝、阿部正武、戸田忠政、土屋政直の四名

 大久保忠朝がニコニコと気軽な調子で話しかけてきた
「おお、その方が越後屋か。何やら諸人の為に値を下げた商いをしておると聞いておる」
「お…恐れ入りまする!父、八郎兵衛の志により呉服を庶民にも求めてもらえる商いを実現いたしたいと念じておりまする」
「うむうむ。まことに殊勝であるぞ」

 他の三人も口々に同意した
 どうやら好意的な雰囲気に高平は内心安堵のため息を吐いた


「時に越後屋よ。その方らは他の呉服商の半値で商いをしておるが、本当にそれで成り立つものなのか?」
 暗に在庫の投げ売りをしているだけではないのかと釘を刺される

 これは永続する事業なのだ
 高平は自信を持って答えた

「成り立たせるための工夫を仕入れから販売まで行っておりまする。今はそれが奏功しておかげさまでお客様にも恵まれておりまする」

「うむ、左様か。では越後屋…」
 気楽な調子から一転して老中四名が居住まいを改める
 高平もそれに倣って背筋をピンと伸ばした

「…その方に上様がご家来衆に下賜される衣服を扱わせてはどうかと牧野より建議が出ておる
 悪い話ではないと思うが… どうじゃ?」

 ―――!!
 高平は再び言葉を失った
 まさか越後屋が上様の御用を務める日が来るなどとは…

「あ…有難きお言葉にございまする。我ら越後屋一同、粉骨砕身にて相務めまする」
 高平は深々と平伏した

「うむ。面をあげよ
 では、越後屋にご公儀払方御納戸役を申し付ける。以後ご公儀に対し奉り、より一層の忠勤を励むように」
「ハハ!」


 こうして越後屋は将軍家御用の呉服商として一流の商人の名を欲しいままにした
 年が明けてすぐの貞享五年には将軍自身の使用する呉服を扱う『元方御納戸』の御用も併せて仰せ付けられ、越後屋の名は不動のものとなった

 同じ貞享五年には人気作家の井原西鶴が『日本永代蔵』の中で三井高利を「大商人の手本」「世の重宝」として絶賛している


 天下人の商人司を夢見た三井宗兵衛高安の宿願は、孫の高利によって果たされた
 これ以後、越後屋は日本国の商人の重鎮として、時には天下国家の大計にまで関与する大財閥『三井財閥』へと成長してゆくことになる



 1687年(貞享4年) 冬  江戸北町奉行所



『灰屋』中村久兵衛は北町奉行所へ越後屋の非道を訴える訴訟を起こしていた
「灰屋よ。その方の訴えをもう一度申し述べるが良い」
「はは!駿河町に店を構える越後屋は粗悪品をさも良品の如く見せかけ、不当な安売りを行う事で諸々の商人の商いを破壊する不埒な行いを致しておりまする
 つきましては、御奉行様のお裁きにより世の乱れを糺していただきたく訴状を提出致すものにございまする」

 久兵衛はお白州に平伏した


「うむ。訴状の通りであるな
 ところで件の越後屋だが、先だってご公儀の払方御納戸役を拝命したことは知っておるか?」

「なっ…」
 久兵衛は絶句した
 調べをする同心からは冗談の雰囲気は一切しなかった


 ―――越後屋めがご公儀の御用!?何かの間違いだ!あのような新参者が……まさか…

 しかし内心の動揺は震えとなって体に現れていた
 畳みかけるように同心が上から声を掛ける

「仮に、我らが再調査をして越後屋に何もやましい所がなければ、その時はご公儀お役目を愚弄した罪は償ってもらう事になるが……覚悟はできておろうな?」



 久兵衛はすぐさま訴えを取り下げ、ほうほうの体で奉行所から逃げ帰った
 こうなればもはや如何ともしがたい
 越後屋にケンカを売るということは幕府を敵に回すという事だ
 呉服仲間たちは一気に戦意を喪失し、以後越後屋への嫌がらせが行われる事は一切無くなった



 1688年(貞享5年) 春  武蔵国児玉郡本庄新田町 灰屋



「さあ、ここでイチから出直しだ」


 奉行所から逃げ戻った二代目久兵衛は越後屋からの復讐を恐れて隠居し、家督を息子の久四郎に譲っていた
 久四郎は『灰屋』三代目久兵衛を名乗り、江戸が不況の渦中にありまた父が越後屋の復讐を過度に恐れたため上槙町店を畳み、武州本庄(現埼玉県本庄市)の新田町に新たに店を構え、ここを灰屋の江戸店とした


 越後屋は幕府御用を拝命すると、現在の店舗から通りを挟んだ北側に新たに店を構え、両替店をそこに移して呉服店舗スペースを拡大した
 そして両替店の隣に庶民向けの綿店を作り、駿河町の一角は浮世絵『駿河町越後屋正月風景図』で有名な越後屋ストリートとなった

 また、専属の針子が増えたため、急ぎの顧客に対しては店舗で販売した反物をその場で仕立てて渡す即時渡しなど斬新な付加サービスを次々に繰り出していった
 即時渡しは、買った以上は一時でも早く袖を通したいという顧客心理を巧みに突き、越後屋の商勢をますます盛んにした
 通常は買ってから十日後や二十日後に渡すのが普通だった

 要するに、仕返しなどというケチなことを考えているヒマは越後屋には無かったのである



 一方、三代目久兵衛はたまたま武州本庄を選んだのではなかった
 この頃の本庄は養蚕の中心地であり、かつ交通の便もよく将来の発展が大いに期待できる土地だと判断した
 また、同郷の八幡商人達に願って近江上布や蚊帳、畳表なども卸してもらい、手広く商いを行っていった


 折しもこの貞享五年九月に改元があり、元号が改まって元禄元年となった
 江戸時代最大の繁栄期、元禄時代の到来だった

 しかし、元禄の世も滑り出しはまだまだ苦難に満ちたものだった
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