近江の轍

藤瀬 慶久

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十一代 甚五郎の章

第76話 日米和親条約

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 1854年(嘉永七年) 二月六日  相模国神奈川宿近辺 横浜村



 今度こそ条約交渉を完遂するために再び日本へやって来たペリーは、横浜村の真新しい建物に通された。
 歓待の表れだと説明されたが、この『応接所』という建物が完成するまで船で待たされた事を思うと素直に喜ぶことは出来なかった。

 ―――今度こそ

 心中に深く期して対面に座る男に条約の草案を渡す。
 日本側の全権大使首席交渉官は、漢学者林羅山の子孫であるはやし大学頭だいがくのかみが務めた。


 双方が席に着き、条約交渉が始まった。
 口火を切ったのは日本側、林大学頭だった。

「まず、昨年夏に貴国大統領書簡にて要望されたもののうち、薪水食料と石炭の供与は差し支えない。
 また漂流民の保護は我が国の国法にも適う。以上二点は了承する。
 だが、交易の件は了承しかねる」

 林の単刀直入な申入れに、ペリーは交渉の主導権を渡さぬよう話をはぐらかしにかかった。

「我がミシシッピ号の乗員が一人病死した。海軍の慣例では、その地で当方の自由に埋葬するが、貴国には厳しい国法があるようなので伺いたい。夏島(現横須賀市夏島町)へ埋葬したいと思うが、ご承諾いただけるか?」

 突然話題の矛先をそらされて面食らった林が、別室へ下がって応接係の者達で相談する。
 通訳もオランダ語と漢語を使っての通訳なので、行き違いがあってはいけないと慎重に交渉を進めた。
 やがて戻ってくると、林は返答を返す。

「はるばる来られたうえの病死、不憫に思う。軽輩とはいえ人命に軽重はない。日本では寺に葬るのが慣例だが、夏島のような無人の地では不憫である。浦賀の灯明台の下はいかがか?」
「ここから浦賀に送るのは手間取る。また、今回の交渉でいずれかの港が開かれるはずなのでその都度浦賀に行くのは大変だ」
「浦賀には外国船が入れないので、墓参りが必要になればその時に改葬されてはいかがか?」
「有難いご配慮、感謝する。よろしくお願いする」

 何気ない会話の中で開国を既定路線として言質を取る交渉術だった。当然ながら会話は書面でのやり取りも行っている。
 もっとも、林の側も当初から開国そのものは既定路線だったので、交渉の滑り出しはスムーズだった。

 と、突然ペリーが話題を変える。

「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を行って来た。自国民はもとより、国交のない国の漂流民でも救助して手厚く扱って来た。
 しかしながら、貴国は人命を尊重せず、日本近海の難破船を救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、漂着した外国人を罪人同様に投獄する。自国の漂流民ですら受け入れずに見捨てている。
 道義に反する行為であり、看過できない。
 貴国がこのままの政策を改めないのであれば、こちらとしては戦争も辞さずと言う他ない」

 一転して強硬な主張を行ったペリーに、林もここからが本番と顔つきを引き締めた。
 ペリーは交渉開始前には礼砲を五十発以上撃っており、空砲とはいえ『戦争』という言葉を冗談とは受け取らないはずという計算をしていた。
 しかし、林もそのような脅しに屈するようなヤワな男ではなかった。

「戦争もあり得るかも知れぬ。しかし、貴官の認識には間違いがある。おそらく伝聞の誤りであろうが、まずはそこを訂正していただきたい」
 林が高らかに今のペリーの言葉を訂正し始めた。

「第一に、我が国の政治は決して反人道的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものだ。
 三百年に渡って平和が続いたのも、人命尊重を重視した為である。

 第二に、外洋で難破船を救助できなかったのは大型船の建造を禁じていた為である。しないのではなく出来なかったのだ。この事をご理解頂きたい。

 第三に、我が国近海で難破した船については必要な薪水食料の手当てをしてきた。また、漂着民を罪人の如くに扱った事もない。漂着民は長崎で手厚く保護し、オランダカピタンを通じて祖国に送還している。
 不善の者が国法を犯した場合には取り調べは行うが、送還後にその国で対処されたしと申し添えている。

 貴官がその辺りをよくよく確認されれば、疑問も氷解するはずである。
 積年の遺恨も無く、戦争に及ぶ理由もない。よくよく考えて頂きたい」

「良く分かった。以前に我が国の船が貴国海浜に至り、薪水を得られず困った事があったが、そのように政策を改められたのであれば結構である」

 返答を出しながらペリーは内心で舌を巻いた。
 冷静かつ的確な反論であり、林の言う事は真っ当な主張であることはペリーも先刻承知の上だ。
『戦争』の脅しはこの五十がらみの聡明な男には通用しない事を悟った。実に毅然たる反論だった。

 次にペリーは本命の話題を切り出した。

「では、通商については何故承知されないのか。そもそも交易とはお互いに不足している物資を融通しあう事であり、お互いに利益がある。
 各国も通商を通じて大いに富強となっている。
 貴国も交易を開けば国益に適う。是非ともそうされたい」

「交易が国益に適うとのことだが、我が国では自国の産物で十分に足りておる。外国の産物が無くとも困る事は無い。したがって、交易を開く事は出来ない。
 そもそも貴官は先ほど、第一に人命の尊重と船の救助をと申された。それが実現すれば、貴官の目的は達成されるはずである。
 人命と交易とは直接関係無いではないか」

「……もっともである。来航の目的は申し上げた通り、人命尊重と難破船の救助だ。交易は国益に適うが、確かに人命と直接の関係はない。
 交易の件は強いて主張はしない」

 林の理路整然たる反論に、ペリーは通商の条件も取り下げた。
 元々フィルモア大統領からの指令は、可能ならば通商条約も結ぶというものであり必須ではない。
 何よりも国交を開くことを最優先としたペリーの交渉術もしたたかなものだった。

 幕府が受理した国書には、
 ①漂流民と難破船の救助・保護
 ②避難港と石炭補給所の確保
 ③通商
 という順序で要求されていた。
 林はこのうち①は実行済みであり、③は拒否の構えを取った。
 残るは承諾した②の補給地をどこにするかという問題だけだというのが双方の一致した見解だった。

 この日の交渉はこれで終了する。
 林もペリーもあまりの緊張感に、半日の交渉でクタクタに疲れていた。


 帰りがけにペリーは、迷った挙句に懐から冊子を取り出して林に提示した。

「この冊子はアメリカが清国と結んだ条約書である。交易はこのように公平なものであることを示すために持参した。
 先刻の通り、交易はしないとのことなので不要であろうが、せっかく持参したのでご覧頂きたい」
「交易の件は承諾できないが、条約書をご覧に入れるとの申し出、断る理由はないので拝読いたす」

 一旦は諦める姿勢を見せたものの、出来れば通商も含めて交渉のテーブルに着かせたいという一心での行動だった。



 1854年(嘉永七年) 二月十五日  相模国神奈川宿 横浜村



 前回の交渉からこの日までに献上品などを陸揚げしたり、奉行所の役人と各艦の艦長たちが宴会を催したりと、それなりに親交を深めつつ二回目の条約交渉を迎えた。
 前回の対話で一時緊張が高まる場面もあり、失礼があったかもしれないとペリーが先に口火を切った。

「貴君らの協力のおかげで献上品の陸揚げが順調に終わった。感謝申し上げる」
「礼には及ばぬ。こちらこそ多量の献上品を頂き、御礼申し上げる」
「……ところで、薪水・食料・石炭の他にも欠乏品があるので調達をお願いできないか」
「当方で揃えられるものであれば協力しよう」

 林の和やかな態度に安堵しつつも、ペリーは再び通商の交渉につなげるべく目を光らせた。

「では、その代金をお支払いしたい。どの国でも支払っているものであり、是非とも受領されたい」
「船の緊急時の欠乏品の事であり、代金は不要である」
「代金不要と言われるなら返礼をするのが礼儀。必ず釣り合う返礼をしたい」
「……返礼ならば、お断りする理由はない」

 ペリーは内心で快哉を叫んだ。事実上の交易を行ってしまえば、今後も同じように交易を行える。
 前例主義は日本だけに限らなかった。

「では、返礼は我が国の産物にされるか、あるいは金銀にて渡すべきか」
「返礼ならば何でもよろしいが、品物では交易になる。貴官の都合で洋金銀になされるならそれでよろしい」
「それならば金銀にて返礼としたい」
「それで結構である」

 林は交易を拒否するという主張との関連を特に気にした。
 これが条約交渉の一つの論点である以上、林としては譲歩するわけにはいかない。
 物々交換よりも金銀の受領の方がよほどに交易に見えるが、『これは交易ではなく返礼品である』という一点を林はペリーにくどいくらいに念押しした。

 これにより、期せずして幕府は洋銀と呼ばれたメキシコ・ドルを条約締結前に入手することになった。


 話は一旦終了し、議題が次の論点に移る。

「供与していただく品物をどこで受け取れば良いか。ここ(横浜)で応接を受けたからには今後もこの地へ参りたいが、その他に五~六カ所の港を決めて頂きたい」
「薪水などを渡す場所はかねてから長崎と決めてあり、その地で全ての外国船の対応を行っている。
 長崎に来られればいつでもお渡しする」

 ―――それではオランダの扱いと変わらない

 ペリーは折角本格的に条約を結ぶのならば、オランダ以上の扱いを受けたかった。
 オランダ並に譲歩するくらいなら、条約など結ぶ必要もない。

「長崎の事は承知しているが、まことに不便な場所である。長崎と清国の定海県はすぐ近くにあり、長崎だけでの調達ならば定海県の方が物品も多く揃う。
 是非とも日本の東南に五~六カ所、北海に二~三か所の港を定めて頂きたい」

「数カ所の港を定める事は出来ない。長崎が不便であれば、他に一カ所を定めよう」
「一カ所と言わず、少なくとも三~四カ所を定め、そのうちの一つは神奈川に願いたい」
「神奈川は承知できないが、いずれ東南の地に都合の良い場所を定める所存である」

「東南の港とはどこか?」

「それは即答は出来ない。良く調べた上でないと返答しかねる」
「お手数をかける。検討に時間を要するのは理解できるが、私は全権大使であり私の判断で全てを決することが出来る。
 貴君も同様に全権を付与されているのだから、即答が出来ないというのはおかしい。ぜひとも即答頂きたい」
「無理な事を言われる。昨年の書簡に地名などあれば当方も考えたが、地名もなくただ南方に一港を、とだけだった。それほどお急ぎならば、なぜ昨年の書簡に認められなかったのか」

 性急に事を決めようとするペリーに対し、林の反論も的を射た的確なものだった。
 林とペリーは、お互いの交渉術に内心で舌を巻きながらも、お互いに一歩も退かない気迫が籠っていた。

「……確かに、昨年の書簡には記していない。従って両三日はお待ちするが、なるべく早くにお答え願いたい」
「来る七日後の面会の際にお答えしよう」


 第二回の交渉を終えた林は、ペリー達が返ると急いで江戸城へ登城した。
 開港する港を緊急に決めなければならない。いかに全権大使とは言え、幕閣との相談なしに決められる事ではなかった。

 日本側は結局、箱館と下田の二港を開放することで合意した。
 合わせて、薪水食料の供与の便を図るために『売買』の規定を設けた。
 売買の規定を設けなければ後々いさかいの原因となると考えた幕閣からの指示だった。

 これによりペリーの目論見通り、事実上の『通商』を認める事となる。

 この後も領事館を置くかどうかと言った事やアメリカ人が自由に動ける範囲をどうするかといった交渉が行われたが、最終的に妥協点をお互いに見出して条約交渉を終えた。

 そして、嘉永七年三月三日(1854年3月31日)
『日米和親条約』に調印を行い、ここに日本国の鎖国体制は終了した。

 条約交渉は従来言われるようにアメリカの言い分を一方的に飲んだものではなく、丁々発止の交渉の末に決まったことだった。
 ペリーの交渉術もしたたかだったが、それを受けた林の反論もしっかりと日本の立場を踏まえた堂々たるものだ。
 それはひとえに、当時の日本が国際法に無知だったのではなく、むしろ国際社会への深い知識と鋭い洞察を持っていた事を意味している。
 鎖国下にあってなお、日本は世界から孤立した島国ではなかった。

 しかし、条約に関してはあいまいな部分もあった。何よりも正文せいぶんによる条約文書が無かった。
 正文とは、条約解釈に必要な特定言語で書かれた本文を意味するが、日米和親条約の場合は何語で正文を記述するかも含めて問題が宙に浮いたままの条約締結となった。

 理由は言語の問題で、アメリカ側からは英語の条約文が提出され、日本からは日本語・漢語・オランダ語の三種類の条約文を提出した。
 日本には英語に堪能な者が居なかった為であるが、これにより英語版を正文『らしきもの』と理解することしか出来なかった。

 後に下田にてこれがいさかいの元となり、ひいては日本の経済に痛撃を与える原因になる。

 日米和親条約第七ヶ条
  一 合衆国の船、右両港に渡来の時、金銀銭並品物を以て入用の品相調候を差免し候。尤日本政府の規定に相従可申、且合衆国の船より差出候品物を日本人不好して差返候時は、受取可申候事。



――――――――

今回の日米和親条約交渉に関するやり取りは、加藤祐三氏の著作『幕末外交と開国』の著述を多く引用しました。
開国の条約交渉は一方的な物ではなく、痺れるようなギリギリの交渉の結果決まったものだったということがとても上手に描かれています。
林大学頭の力量だけではなく、ペリーの交渉術もとてもしたたかな手ごわい物だったということが伝われば幸いです。
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