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第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱

第82話 金森楽市楽座

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主要登場人物別名

半介… 佐久間信盛 織田家臣 織田家の筆頭家老

――――――――

 
 比叡山を焼き討ちした翌年の元亀三年(1572年)三月
 南近江を一時的に確保した信長は、次に北近江に目を向けた。浅井長政の本拠地である小谷城を攻める為に横山城に陣を進めた。
 浅井長政としても横山城から姉川を越えて進軍して来られたら黙っていることは出来ないはずだが、悪いことに信長の攻めた時期は農繁期に当たったために十分な兵を集めることが出来ず、木之本や余呉を蹂躙される結果となった。

 だが、信長の北近江出陣を聞いて再び金森や三宅の一向一揆が信長に対して兵を挙げ、信長も佐久間信盛を大将として金森に急行させた。
 金森は再び籠城の構えを取るが、周辺の村落は織田家へ降伏して金森は孤立し、再び全面的な降伏を余儀なくされる。

 信長としても、こうもたびたび一揆の拠点になるのであれば金森をこのままにしておくことは出来なかった。


 元亀三年七月
 信長は保内衆の伴伝次郎を横山城に呼び出し、金森復興の方策を相談していた。

「半介は既に守山の年寄衆と相談の上で金森を楽市楽座の市として生まれ変わらせようとしているが、果たしてそれだけで金森が収まるかどうか……。お主はどう思う?」

 信長の率直な物言いに面食らいながら、伝次郎は慎重に言葉を探しながら話した。信長に負い目を持つ伝次郎としてはそうそう気軽に話すことが出来ないでいる。

「左様……。確かに金森は長く一向衆の道場でありましたし、寺内町として市も開かれておりました。『楽市楽座』とは申せ、実際に金森市に店を構えるのは以前からの一向門徒の店が多くなりましょう」
「やはりそう見るか。何とか織田の拠点であると万人の目に明らかとする方法は無いか?」
「左様……」

 上座の信長はややじれったそうに顔を歪める。伝次郎に腹案が無いわけでは無く言葉を選んでいるのだということを信長は敏感に察している。
 比叡山焼き討ちなどで少し伝次郎を恐れさせ過ぎたかと少しだけ後悔していた。

「……やはり、織田様の息のかかった商人を送り込んで……」
「伝次郎。腹は減らぬか?」
「……はい?」

 突然のことに伝次郎が呆気に取られていると、伝次郎の間抜け面を見た信長が初めて可笑しそうに笑った。

「湯漬けを持て。二つだ」
「ハッ!」

 突然近習に湯漬けを所望する信長を不審な目で見ていると、待つほども無く湯漬けが二つ膳に乗せられて運ばれて来る。

「食え」
「……あの」
「いいから食え。話はそれからだ」

 そう言い捨てると、信長は自分の椀を取り上げて猛然と箸で湯漬けを掻き込み始める。太守と食事を共にするという前代未聞の出来事に驚きながら、それでも伝次郎は遠慮がちに箸を取り上げてゆっくりと湯漬けをすすり始めた。

「遅い!そのようにチマチマ食っていては日が暮れるぞ!」
「は、はい」

 言われるがままに伝次郎も信長と同じように椀を抱えて湯漬けを掻き込み始める。その光景を見て信長は再び頬を緩めた。

「伝次郎。儂は湯漬けが好きだ。何といっても早く食える。腹が減った時には湯漬けで飯を掻き込むのが手っ取り早い」
「は、はあ……」
「お主の話もな。ささっと本題に入らぬか。儂は回りくどいのは好かぬ。この湯漬けのように話が早いのが良い」

 ようやく信長の意図を理解した伝次郎は、椀を置くと改めて信長に頭を下げた。

「されば、申し上げます。金森は南近江の要地とはいえ、東海道からは少し外れております。それゆえ、在地の門徒衆向けの店が多くなります。
 この金森に旅人が多く行き来するようになれば、自然と織田様の拠点としての金森という認識が世上に広まりましょう」
「うむ。して、どうする?」
「されば、東海道を行き来する荷は必ず金森に立ち寄ることと為されませ。商人が立ち寄れば、商人を当て込んで宿や馬借の仕事が増えまする。また商人が集まれば自然と金森での商売が活発化致しましょう。結果として、一向門徒の店は埋もれて目立たなくなるかと」
「よし、分かった。半介には追って金森向けの楽市楽座の制札を届けさせよう。お主の抱える馬商売も金森に宿を作らせよ」
「ハハッ!」

 戻った伝次郎は、大急ぎで金森に馬借宿の建設に取り掛かった。
 一方の信長は伝次郎の献策通りに『金森楽市楽座令』に『往還の荷物当町へ着くべきこと』という一文を追加する。
 南近江の一向一揆最大の拠点であった金森は、織田の主催する新たな近江物流の中心拠点の一つとして再生することとなった。



 ※   ※   ※



 賢秀は夏の暑い日差しを受けながら水筒の水を口に含んだ。
 既にぬるくなっている水は甘露とは程遠かったが、それでも汗だくの体には染み入る心持だった。

「父上、間もなく朝倉が参るようです」
「わかった。すぐに隊列を整えさせろ」
「ハッ!」

 燕尾型の兜をかぶった賦秀が軍勢に整列を告げに行く。賢秀を始め、暑い日差しの中でも兜や具足を脱ぐ者は誰一人いなかった。


 元亀三年七月
 金森で『楽市楽座令』が敷かれている頃、織田軍は北近江に本格的に進軍していた。小谷城の正面に位置する虎御前山に柴田、稲葉、氏家らの諸将を陣取らせ、北近江を完全に分断する構えを見せている。

 浅井軍は当然ながら手強く抵抗したが、宇佐山城に代わって坂本に城を与えられた明智光秀が堅田衆と共に湖水を渡って海津、塩津、竹生島などの北近江沿岸部を強襲し、浅井方が対応に追われている間に主力である柴田軍は小谷城と山本山城を分断する形で陣を張った。

 南北挟撃を避けようと陣を下げた浅井長政だったが、信長は堅田衆を配下に加えることで逆に北近江そのものを挟撃する態勢を整えていた。

 賢秀率いる蒲生勢はいつも通り柴田の寄騎として虎御前山に布陣して山本山城攻めの陣に加わっていたが、ほどなく越前から朝倉軍一万五千が小谷城の後詰として北近江に出陣したと報せが入り、蒲生勢には朝倉軍への対処を命じられた。


「どうやら朝倉の士気はあまり振るわんようだな」

 虎御前山の陣から朝倉の進軍を望見した賢秀は、思わず隣の岡忠政にこぼした。

「左様ですな。暑さにやられたという訳でもないようですが……」

 忠政も虎御前山の北に陣取る朝倉軍の動きを見ている。朝倉軍の足軽は兜を脱いで緒を首にかけて背に垂らしており、とても今から一戦交えるという状態には見えない。猛暑の中でも整然と軍列を整える蒲生勢とは対照的と言えた。

「……少し、攻めて見るか」
「よろしいので?」

 忠政が心配そうに賢秀を見る。
 兵数を見ればここは虎御前山を堅く守るのが常道だ。高所の利もあり、また虎御前山では城普請も始まっている。城が完成するまで持ちこたえれば朝倉の軍勢に落とせる場所では無くなる。
 事実、柴田勝家からも堅守せよという下知が届いていた。

 だが……

 ―――あれほどたるみ切った軍ならば、軽く小突けば混乱し始めよう

 賢秀にはそういう確信があった。
 眼下に望む陣では隊列もまばらな朝倉軍が次々に着陣しては隊列を整え始めている。隊列が整ってしまえばそうそう攻める隙が無くなる。今こそ好機と直観していた。

「使番!」
「ハッ!」
「柴田様へご注進! 蒲生勢はこれより山を降りて朝倉に一当て致すと申し伝えよ」
「ハッ!」

 山中を駆け下りた伝令は麓の柴田勝家の陣まで駆けていく。やがて使番が戻ると、柴田から許可する旨の返答があった。


「よし、許しも頂いた。ゆくぞ!」
「ハッ!」

 賢秀の下知に従って蒲生勢二千が山を駆け下る。蒲生が攻めてくるはずがないと油断しきっていた朝倉軍は、突然の敵襲に驚いて逃げ出す者が続出した。

「かかれー!」

 賢秀の下知に嫡男の賦秀が先陣を切って突撃する。何度かの戦陣を経験した賦秀は、今や一人前に前線指揮を行うだけの技量を身に着けていた。

 ―――忠三郎が先頭か。あの兜は良く目立つな。

 黒の燕尾兜に漆黒の具足を纏った賦秀は、遠目にもその姿がはっきりと目に入る。黒鹿毛の馬に跨る賦秀は人馬ともに黒一色になっており、その黒い塊が先頭となって朝倉の前線を食い破って行く。
 頼もしいと言えば聞こえはいいが、嫡男の身でありながら前線を好む賦秀を賢秀は心配しながら見るのが常だった。

「十分だ。一旦下がらせろ」

 賢秀の下知に従って退き太鼓が鳴らされると、先頭を走っていた賦秀が馬を返して戻って来る。今や朝倉の前線は切れ切れになっており、それを修復するような動きも見えない。

 ―――妙だな。本当に朝倉はどうしたのだ?

 賢秀が疑問に思うほど今の朝倉軍は積極性が感じられない。湖西を進軍して森可成と青地茂綱を討ち取った朝倉と同じ軍勢とは到底思えなかった。

 だが、その疑問は数日後に解消された。
 蒲生勢の突撃から始まり、連日にわたる織田方の攪乱攻撃に根を上げた前波吉継がたまりかねて朝倉軍を抜け出し、虎御前山の織田本陣に投降してきた。
 その前波の語るところによると、朝倉軍の総大将を務める朝倉景鏡は当主の朝倉義景と意見が対立し、朝倉軍そのものがすっかり士気を喪失しているという。浅井を支援して虎御前山の織田軍を追い払えという義景の指示に対し、景鏡は余呉や海津などの後方を脅かされることを恐れて消極策に終始している。将兵もその空気を敏感に察して、今は積極的に攻める者は誰一人いないということだった。

 その後も信長は朝倉景鏡に日を決めて決戦すべしと申し送ったが、朝倉はそれらを一切無視して高月の辺りに陣取るだけで討って出ようとしない。
 業を煮やした信長は何度か朝倉軍へ攻めかかったが、朝倉軍は後詰でありながら陣を守って攻めることはせず、九月も終わりに近づいた頃、馬鹿馬鹿しくなった信長は虎御前山城を木下秀吉に預けると軍勢を岐阜城に戻した。

 信長が退いたことを受けてようやく浅井が小谷城から討って出て虎御前山に攻めかかったが、既に築城なった虎御前山の守りは強固であり、浅井・朝倉は結局北近江に進出した織田軍を追い払うことが出来ずに軍を退いた。

 だが、信長が軍を岐阜へ返したのには別の理由もあった。
 甲斐の武田信玄が比叡山の再興を旗印として甲府を出立し、遠江の徳川家康へと攻めかかる動きを見せる。いわゆる西上作戦が開始された。

 信玄からの書状によって武田の上洛を知った信長は、いつまでも朝倉とグダグダ陣を構えている場合では無くなったというのが正直な所だった。


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