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尾張征伐(2)母の戦
しおりを挟む・天文五年(1536年)五月 尾張国海東郡 勝幡城 織田花
「面をあげられよ」
上座から声が掛かる。少しづつ額を見せ、次に目線を上座に座る男の胸の当たりに固定する。いきなり目を見てはいけない。無礼でもあるし、はしたない女と思わせてもいけない。
卯の花色の甲冑とは随分と雅なものね。風雅の道にも秀でたお方と聞くけれど、噂に違わぬ優美な姿ですこと。
「花屋夫人(土田御前)のご英断に感謝する。おかげで無用の戦を避けることができた」
「いえ、私と我が子吉法師を保護してくださいましたこと、心より御礼申し上げます」
不意に上座の男と目が合う。これが近江宰相……。
まつ毛が長く瞳の大きな目が印象に残る。天下第一とも言われる武威を誇るとはとても思えない。綺麗な顔をしたお方なのですね。
亡き殿はもっと眉が濃く意志の強さが表に出ていたけれど、近江宰相は柔らかで親しみやすい印象があるわ。
……いけない。私はこのお方を篭絡しなければならないのです。これからが私の戦。気を引き締めなければ。
「ところで、吉法師殿はいずこにおわすかな?」
「こちらに……」
合図をすると奥から池田の妻女と共に吉法師が連れて来られる。眠っていたのかしら、少しぐずったような顔をしている。
「はっはっは。どうやらお昼寝の邪魔をしてしまったかな。これは申し訳ないことをした」
「恐れ入りまする。まだ三歳の乳飲子でございます。宰相様のご温情だけが頼りでございます」
「うむ。吉法師殿のことはご心配なされるな。決して悪いようにはせぬ」
「ありがたきお言葉でございます」
どこまで当てになるかなどわからない。近江宰相がその気になれば、吉法師を排することなど造作もないはず。
「これより我らはこの城を本陣として清州城を攻めることになる。ここ勝幡城にも多少兵を入れさせてもらうが、万一のことがあってはならぬ。警護の者はつけるが、戦が収まるまではできるだけ居室から出ぬように頼みたい。平手殿は花屋夫人と吉法師殿のお側に侍るがよい」
「ハッ!仰せの通りに」
あら?立ち上がって行ってしまった。話はこれで終わりかしら。
まあまだ戦は終わっていないのだから、いきなり私を求めるというわけにもいかないのでしょう。でも清州であの女が近江宰相に取り入る前に何とかしなければならないわ。
本陣はここ勝幡城に置かれるのだから、後でお茶など振舞いに参りましょうか。
・天文五年(1536年) 五月 尾張国海東郡 勝幡城 六角定頼
乳児信長とかかなりのレア物だな。いいもん見れた。やんちゃな子供と聞いていたが、可愛い顔立ちをしていた。まあ、どんな極悪人も英傑も赤ん坊の頃は可愛いらしいもんだ。
それに、土田御前も綺麗な顔をしていたな。さすがは信長やお市の母親というところか。ただまあ、信秀の趣味をどうこう言うつもりはないが俺はあまり好きになれないけどなぁ。
確かにモデルみたいに綺麗な顔立ちなんだが、あれは自分が美人であることを自覚しているという感じがする。お寅はキツいと言ってもしっかりしようと頑張ってる感じがあって好感が持てたが、土田御前は自信満々って感じで、はっきり言うといけ好かない女ってところだ。まあ、どんな性格であっても俺には関係ないけどね。
信長は俺の後見の元で弾正忠家の家督を継がせることにするか。三歳の幼児ならば誰がどう見ても傀儡だから、皆は信長の背後に俺の姿を見るだろう。それに清州織田家と岩倉織田家の旧領を六角家が抑えておけば、いかに信長と言えどもできることは限られる。弾正忠家はあくまでも清州織田家の家老なんだから、尾張支配の奉行の一人として取り立てればそれ以上のことはできなくなるだろう。
信長の政治家としての素質は疑いようがないから、いずれは優秀な奉行の一人に成長してくれるだろうしな。
奪い取った尾張の支配はとりあえず北河又五郎と義賢に任せて、池田高雄を義賢の補佐に付けるか。北伊勢は北河にこれという者を指名させて軍勢をまとめさせれば良いだろう。
清州城を落としたら、次は知多半島に軍勢を進めなければいけない。知多半島を抑えて常滑焼の産地を抑える。本音を言えば、今回の尾張征伐の目的の半分は常滑を抑えることにあるからな。
六角領の銭はその大半が瀬戸と常滑に流出している。
常滑焼や瀬戸焼はこの時代では必須の生活用品だ。飲み水を貯めておく水瓶から味噌や漬物・酒・塩の保存容器、さらには品物を運搬するための入れ物としても利用される。織田信長の軍事費を支えた産業は伊達じゃない。
瀬戸は今松平が実効支配しているが、常滑はまだ何とか織田家が抑えている状態だ。ここを取れば銭の流出をある程度抑えることができるだろう。
そろそろ伴庄衛門を呼んでおかなければいかんな。津島や熱田の商人衆と交渉を始めよう。彼らは今でも山科楽市に品物を卸しているから、友好関係を築くのは難しくないだろう。問題は石寺楽市の支配下に大人しく収まってくれるかどうかだが、こればかりは話してみないとわからない。庄衛門の手腕に期待だな。
「御屋形様。北河又五郎様が那古野城に入ったと報せが参りました」
「わかった。清州城は変わらず備えを解いてはおらんな?」
「はい。織田三郎五郎(織田信広)をはじめ、織田弾正忠家の主だった者を収容した後は固く城門を閉ざしております」
「よし、北河又五郎には明朝より清州攻めを始めると伝えよ。今日のところは夜襲を警戒しつつ休息を取り、明日寅の刻(午前四時)より清州に向けて進軍するようにと」
「ハッ!」
近習と入れ替わりに進藤が入ってくる。越前からの続報が来たかな?
「御屋形様。海北善右衛門(海北綱親)より文が参りました」
「朝倉はどうなった?」
「やはり朝倉左衛門尉(朝倉孝景)を討ち取ったというのはまことのようです。ですが、次郎左衛門(朝倉景高)は府内の寺に詣でる途次を襲ったとのことで一乗谷城は門を閉ざして戦に備えているとの由」
「一乗谷城は誰が采配を取っているかわかるか?」
「未確認ではありますが、長夜叉(朝倉義景)を奉じて九郎左衛門(朝倉景紀)が事実上の采配を振るっていると」
景高は厄介な男を残してしまったな。景紀は決して愚将じゃない。さすがに景高も何の手当もせずに謀反を起こしたとは思えないが、場合によっては尾張を早めに切り上げる必要があるかもしれんな。
「わかった。引き続き善右衛門には情報の収集と万一の場合の次郎左衛門の後詰を行うように伝えよ」
「ハッ!」
進藤と話していると突然廊下から声がかかる。
「失礼いたします」
「ん?花屋夫人か。一体どうなされた?」
「近江宰相様にお茶を一服差し上げようと参りました。此度の戦陣ではさぞやお疲れではないかと思いまして」
「……へ?」
進藤と共に呆気に取られてしまった。まあ、織田家にすれば俺の心象次第では弾正忠家を潰されることもあり得るんだから、必死になって気に入られようとしているのかもしれんが……。
それに、なんだかさっきよりも衣装が派手になってないか?さっきは白の小袖に白の打掛だったのに、今は薄桃色の打掛を羽織っている。
「気遣い痛み入る。だが、万一のことがあってはならぬから今後は居室で休んでおられるがよい」
「あら、近江衆の方々は乱暴など一切なされませんわ。宰相様のお下知が行き届いているのでしょう。ご陣中の皆様にもささやかながら麦湯と握り飯を振舞わせていただいております。宰相様も今日のところはお寛ぎくださいな」
う゛ーーーーーん゛
邪魔だからウロチョロするなって言いたいんだが、伝わってなさそうだな。
あんまりキツい物言いをして不安にさせても不味いしなぁ。何せ将来的に信長が六角に恨みを持つことだけは防がないといけない。あくまでも織田信長は家督を奪われそうになったところを六角定頼のおかげで織田弾正忠家の当主になることができたという風にしておかないと、将来が不安すぎるし……。
まあ、今のところは思うようにさせておこうか。
「さ、どうぞ」
「あ、ああ。では……」
おっと、手が触れてしまったか。
「失礼した」
「……いえ」
なんか変な空気だな。さっさと飲んでさっさと退出してもらおう。
・天文五年(1536年) 五月 尾張国海東郡 勝幡城 織田花
あと一息というところね。早速私の手を握ろうとして来たわ。
吉法師を見る目にも優しさがあったし、やはり宰相様は私を欲しているのでしょう。好色という噂は本当のようね。
でももう一つ足りない。戦の最中ということもあるのでしょうけど、強く自制していらっしゃるようだわ。何とかこちらに引き寄せる方法はないかしら。
昔から女子を引き立たせるのは美しい装飾と決まっているけれど、戦陣にある城であまりに華美な髪留めなどはできないし……。
やはりここは美しい小袖で目を引くことにしましょう。明日の朝には今一度茶を進ぜましょうか。明日には清州城へ出立なさるそうだけど、一刻も早く勝幡城へ帰りたいと思わせないとあの女が宰相様の目に触れてしまうかもしれない。
いっそのこと、今夜寝所に……。
いいえ、それはいけない。あくまでも向こうから来させないと意味が無いわ。
「お方様。宰相様からはあまり居室から出ぬようにと仰せつかっております。あまり軽々にお振舞などされては……」
「平手殿、そのようなことを言っている場合ですか。織田弾正忠家が存続できるかどうかの瀬戸際なのですよ」
「し、しかし……」
「良いから、平手殿は津島の大橋殿に言って赤い小袖を届けるように伝えてくださいな」
私がこれほど体を張っているのに、気の利かない男だこと。何としても近江宰相を篭絡して吉法師に家督を継がせるとはっきり言わせなければ、三郎五郎に家督を奪われることになるかもしれないのに。
やはりここは私がしっかりしないといけないようね。吉法師の身の上は保証すると近江宰相様から直々の言葉を引き出さなければならないわ。
返す返すも、殿があのようなことにならなければ……。
いいえ、それは今更言っても仕方のないこと。私の意地にかけて必ずや近江宰相を篭絡してみせる。私の美貌ならば必ずや……。
おーっほっほっほっほ。
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