江雲記―六角定頼に転生した舐めプ男の生涯―

藤瀬 慶久

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東進の果て

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 ・天文九年(1540年) 八月  駿河国安倍郡 今川館  今川義元


「花沢城も落ちた今、明日にも徳川は安倍川を越えて参りましょう。もはや一刻の猶予もありませんぞ」

 評定の間に揃った諸将はどの顔も暗い。名門今川家もこれまでということか……。

「雪斎。しかし、逃げると言っても……」
「何度も申し上げている通り、拙僧は尾張の左馬助様(今川氏豊)を頼るべしと愚考致します。
 北条が当てにならぬことは此度のことで良くお分かりになりましたでしょう。我らに味方すると号しておきながら、花沢城に徳川が攻めかかっても尚薩埵峠に軍勢を留め、興津川を越えようとは致しません。北条が守りたいのは御屋形様では無く駿東郡の北条領です」

 そのことは儂も思い知った。
 何度援軍を請うても北条は駿東郡から武田を追い払った後は駿府に軍を進めようとはしてくれなんだ。挙句には伊豆水軍を向かわせるから駿府を脱出しろと言い出す始末だ。あちらも武田に後ろを取らせる訳に行かんのはわかるが……。

「しかし、北条との同盟は義母上様(寿桂尼)が纏めて下さったものだ。これを無下にすることなど……」
「こう申しては何ですが、尼御台様(寿桂尼)は娘婿ということで目が曇っておられるように御見受けします。北条新九郎殿(北条氏康)は関東にて扇谷上杉とも事を構えておりますれば、同盟を結んだからと言って全力で今川を支援すると考えるのは早計にございましょう」

 雪斎の申す事もわかる。確かに北条をこのまま頼るのは不安が残る。だが、だからと言って六角が遠く三河・遠江を越えて駿府を奪還してくれるとも思えぬ。
 六角はあくまでも近江守護なのだ。東海の端にまで軍勢を寄越してくれるとは到底思えぬ。

 元はと言えば儂が松平の……いや、徳川の勢いを侮ったのがそもそもの間違いだったのだ。
 三河の一豪族に過ぎん徳川がまさか瞬く間に遠江を席捲するとは思いも寄らず、駿東郡に迫った北条家の方へ兵を振り向けてしまった。
 あ奴の祖父道閲(松平長親)も伊勢宗瑞殿(北条早雲)が率いる今川勢一万をたった五百の兵で撃退した野戦の上手であったと聞く。徳川清康という男を決して侮ってはならなかった。

「ともかく、今は徳川が迫る前に御屋形様が駿府を脱出されるのが先決です。先ほどから何やら雲行きが怪しゅうござる。野分(台風)の時期でもあります。ぼやぼやしていると興津川や富士川が増水し、北条軍の元へ逃げることすらもままならんようになりますぞ」

 確かに風もぬるく怪しい風が吹いている。
 野分か……。いっそ、徳川軍を野分が追い払ってくれれば……。
 いや、そのような天祐に縋っている場合では無いな。
 取りあえずは駿東郡に向かうか。北条の軍勢と合流し、興津川を堀として徳川軍を迎え撃つ。

「わかった。ともかく……」
「失礼致します!」

 儂の言葉を遮るように、具足を纏った近習が評定の間に駆け込んでくる。一体何があったのだ?

「どうした?」
「ハッ! 北条新九郎様より火急の使者が参りました! 使者殿の申されるところによりますと、北条軍は今朝興津川を越えて駿府へと軍を進め、今夕には駿府へと到着する見込みであるとのこと」

 ”おお”と場が騒めく。どの顔も明るい表情に変わっている。
 一人雪斎のみが苦虫を噛み潰した顔をしておるな。我らが駿府を落ち延びずに済んだのだから、もそっと喜んでも良いだろうに。
 現に北条はこうして援軍に来てくれた。遅くなったが、やはり新九郎殿は我ら今川を心底助けるつもりでいてくれたのだ。

「こちらが使者の方が携えて来た文にございます」
「見せよ」

 関口刑部(関口親永)が近習から書状をひったくって儂の元へ差し出す。文を開くと、まさに先ほど近習が述べたその通りのことが書かれてあった。

「使者殿は未だ館内に留まっているか?」
「ハッ!客間にてお食事を取って頂いております」
「よし、すぐに会う。案内致せ」
「ハハッ!」

 北条軍が合流してくれるのならば、安倍川を防衛線として徳川と対峙できる。駿府の地を明け渡すことなく戦える。
 希望の光が見えて来たぞ。



 ・天文九年(1540年) 八月  近江国蒲生郡 観音寺城  六角定頼


「次に尾張の被害状況はどうだ?」
「ハッ! 尾張東部は未だ堤防普請が着手されておらず、知多半島では大きな被害が出ているとのこと。瀬戸や常滑なども多数の被害が出ているとの報告が来ております」

 進藤の言葉に従い、祐筆の香庄定信が絵図面の上に被害状況を書き込む。正確に測量してあるわけではないが、おおよその六角領国とその周辺の地図を急ぎ作成させたものだ。
 昨年の台風は西国、特に尼子や大内領に甚大な被害をもたらしたが、今年の台風は近畿から東海甲信地方を抜け、関東を直撃した。
 特に伊勢や尾張は恐らく台風の南側に位置していたのだろう。暴風によって穀物や建物に被害を受けている。

 近江でも雨が酷かった。例年のままなら、野洲川や愛知川が氾濫を起こして甚大な被害が出ていたはずだ。

 次郎……お前のおかげだ。お前が身を挺して洪水の恐ろしさを俺に教えてくれたから、俺は普請組に堤防普請の仕事を中心に行わせた。その成果もあって、近江の被害は大したことは無い。美濃も同様だ。

「こうして見ると、すぐさま支援が必要なほどの被害を受けたのは伊勢の沿岸部と尾張東部くらいか」
「左様ですな。近江や大和などの内陸部は穀物の被害は出ておりますが、人的被害はさほどでもありません。ですが、角屋七郎次郎(角屋元秀)からは駿河との往復に当たっていた船が何隻か消息不明になっているとの報告もあります。駿河の湊に停泊していれば助かっておるでしょうが、もしも出航していたら……」
「生還は絶望的か。遠州灘とはよく言った物だな」
「まことに」

 その駿河では北条・今川連合軍と徳川軍の合戦があったと聞く。駿河に行った角屋の商船が還って来ていないから詳しい状況は分からんが、噂によると徳川が一時的に軍を退いたそうだ。
 いかに清康と言えども台風の最中に川を越えての進軍は控えざるを得なかったのだろう。

「まずは被害を受けた地域の復興が最優先だ。知多半島には四郎(六角義賢)が独自に組織した普請組が向かっているだろうが、こちらからも応援の手を出す。
 動ける人員を集めて普請組頭の粟田作左衛門を尾張に向かわせてくれ」
「承知いたしました」

 問題は食糧だな。近江・越前・山城の米は無事だから六角領内については心配は要らない。だが三河への援助はこのままだと厳しくなる。
 今年の収穫を終えれば米も出してやれる見込みだったが、どうやらそうもいかなくなった。とりあえず食う物があるだけマシだと思ってもらうしかないか。



 ・天文九年(1540年) 八月  遠江国佐野郡 掛川城  徳川清康


 野分が過ぎてから数日。今ではあの時の暴風雨が嘘のように晴れ渡っている。
 皮肉なものだな。あと十日掛川城でモタついていれば、野分をやり過ごして十分な態勢で駿府に攻めかかれただろうに……。

「兵の被害はどうか?」
「物頭や城主の中にも安倍川の洪水で流された者が出ております。掛川城に戻れた兵はおおよそ一万五千。もう数日すれば多少兵数は戻って来ると思いますが……」

 二万の軍勢の内五千近くが洪水に流されたというわけか。
 忌々しい。武田が身動き取れぬうちに駿府を落としてしまおうと色気を出した事が仇となってしまったな。

「ですが、それよりも深刻なのは兵糧の不足にございます」
「小荷駄にも被害が出ておるか」
「はい。浜松城の備蓄と掛川城に残してあった分を合わせれば、当面兵達に食わせる食糧は確保できます。ですが、これから東へ進軍していくとなると……。
 先日の野分で三河・遠江各地の田畑にも被害が出ているはずです。ここは一旦兵を退き、備蓄を増すことに時間を使うべきかと」

 安芸守(石川清兼)め。備蓄に時間を使えというが、あと二か月もすれば六角との和睦の期限が切れることを忘れておるのか。
 よもや儂に六角へ頭を下げろと言っておるわけではあるまいな。

「解散はせぬ。主だった国人領主は一旦領地へ戻し、花沢城は藤七郎(酒井忠勝)に任せ、主力の三河衆は浜松城へ帰還する。だが、今年の収穫が終わった後には再び軍勢を起こす」
「しかし、被害の実態もまだ十分に把握できておりません。元々見込んでおった今年の収穫量が確保できるかどうか分からぬのです。今軍勢を起こすと決定するのはあまりにも……」
「次回の軍勢は東進の為の物ではない」

 安芸守が黙り込む。ようやく理解したか。

「今年の収穫を終えれば、次は尾張に進軍する。三河・遠江の収穫が不安定ならば、他所の米を奪い取る他あるまい」
「しかし、尼子が西にあった時とは違います。今の六角家は全力を三河に割くことができます。いかに殿とはいえ……」

 ハッとしたように安芸守が口を手で覆う。儂の殺気に気付いたか。

「いかに儂とはいえ、なんだ? 儂が負ける、とそう言いたいのか?」
「い、いえ……決してそのような……」
「フン。貴様にはまだ六角の弱さが分からぬか」
「六角の……弱さ……?」

 呆けたように口を開けておる。他の者も同様だ。
 まったく揃いも揃って。

「六角は甘い。厳しいことを言っているように装っているが、儂から見れば甘ったれもいいところだ。六角が真に戦機を逃さぬ怖さを持っておれば、今頃とっくに蓮淳が三河で蜂起し、尾張の小倅は三河に軍を進めておるわ」
「と、殿は本證寺の事をご存知で……」
「無論よ。貴様は儂が何も知らぬと思って惚けておったがな」

 安芸守の目が宙を泳ぐ。こやつもつくづく詰めの甘い男だな。

「六角は三河の食が細くなっていることを知っている。儂ならば、そこに乗じて三河に攻め込もうと考えただろう。あるいは三河で一揆を起こさせるか」

 ……ふ。
 もっとも、例えそうと分かっても六角には朝廷の仲介した和睦を反故にすることなど出来なかっただろう。そう見込んで儂は安心して駿河へと手を伸ばしていたのだしな。
 近江宰相とはつくづく甘い男だ。しがらみに足を取られ、純粋に勝つ為の行動を取れぬ。戦は勝つことが全てよ。勝つ為ならば約定を反故にしようと、世間の批判を浴びようと気にしてはいられぬ。
 勝ってしまえば、世の悪評も全ては称賛に変わるのだからな。

 にも関わらず、六角が三河に対して行ったことは食糧を援助し、三河衆の取り込みを図ったくらいだ。元より蓮淳などに三河衆が制御できる物か。三河衆は儂の意にこそ従うのよ。勝ち続ける儂にな。

 まったくもって甘い。甘すぎる男だ。

「岡崎城の次郎三郎(徳川広忠)に軍備を整えよと連絡を取れ。収穫を終えて兵糧が集まり次第、尾張へ進軍する」

 ……フン。誰も返事をしようとせぬか。
 まったく、どいつもこいつも戦を分かっておらぬようだな。

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