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決別
しおりを挟む・天文十一年(1542年) 一月 山城国 京 室町第 近衛稙家
室町第の廊下を急いで進むと行き交う小者や侍女が恐れたような顔で膝を着く。
恐らく麿はキツい顔をしておるのだろうな。だが、そんなことに構ってはいられぬ。
角を曲がると公方の居室の前に伊勢守(伊勢貞孝)が端座していた。
「お待ちしておりました。公方様が中でお待ちです」
麿が睨んでも顔色一つ変えずに粛々と戸を開け、麿を中に案内する。
この男はここで余人を近づけぬようにしておるのか。
中に入ると狩衣姿の公方がゆったりと座っていた。
「義兄上、お早いご到着でございましたな」
「尚子から報せを受けて飛んで参った。公方よ、今からでも遅くはない。考え直せ」
「……熟慮の末にございます」
澄んだ瞳でこちらを見返す公方は、まるで修業を積んだ高僧のような威厳を感じさせる。何か侵すべからざる物を見ているような心持になる。
……ええい、今は押されている時ではない。
「何故だ。何故『六角銭の鋳造を全て禁ずる』などという裁定を出す。今でも充分すぎるほどに江州(六角定頼)は面目を失っておるのだ。その上でこのようなことをすれば、いかに江州とて黙ってはおれぬ。
最悪の場合、お主を京から追放することにも……」
「お互いに譲れぬ物がある。この断を下した時から、某は六角と一戦交える覚悟にございます」
ふと床の間に視線を移すと、そこにはただの空間だけがあった。
常にそこに飾ってあった足利家重代の鎧『御小袖』が無くなっている。
「貴様、『御小袖』はどうした!」
公方が穏やかに笑う。まるで麿を優しく包むように。
追放どころではない。こやつは自ら京を出て行こうとしておるのだ。
……その為の狩衣姿か。いつでも身軽に動けるようにと。
「何故だ。何故六角と争わねばならん。お主を将軍としてここまで立ててきたのは他ならぬ江州であろう」
「……銭でございます」
「銭だと?たかが銭のことで……」
「されど銭でございます。
そもそも、銭とは一体いかなるものか。銭とはこの世の政に無くてはならぬ物。いや、政だけではない。戦をするにも銭を持って兵糧を購い、武具を揃え、兵を整える。
およそこの世の中に銭を必要とせぬことは無い」
「そ、それがどうした。それが六角と戦をせねばならぬ理由になるのか」
「六角家は銭を自ら作り始めました。
……今までの銭は足利家の名の元に大内や細川が唐土より取り寄せて参りました。その前は鎌倉の意を受けた鎮西奉行が取り寄せておりました。
元を糺せば平相国(平清盛)が唐土との交易で銭を日ノ本に持ち帰ったものでございます。
銭とは将軍家が、武家の棟梁が、その権威を持って司る物にござった。ですが、江州は自らの権威を持って銭を作りだそうとしている。言うなれば、足利の権威をもはや必要としないという意志の表れにございましょう。
そして、民は驚くほどに早く六角家の権威を受け入れつつある。もはやこの世に足利家など必要としないかのように……」
銭が……銭がそのような深みを持つなどと……たかが銭ではないのか。
「愚かな某にもようやく分かり申した。江州は足利の権威を押し流し、新たな世を開こうとしている。そして民はその新たな世を受け入れつつある。
ですが、某はその流れに身をゆだねることが出来申さぬ。古き世の象徴として、新しき世と戦わねばならぬ」
「そ、そのことは、麿も案じておった。なればこそ、新しき世の中で足利家が生き残る方法を模索しておった。それは江州も承知のことだ」
「義兄上のお心遣いには深く感謝致します。ですが、某にも譲れぬ矜持というものがござる」
決然と言い放つ公方の目は一点の曇りもない。もはや説いてどうにかなるものでもない。
……麿のして来たことは何もかも無駄だったのか。麿のしたことは無用の混乱を生じさせただけなのか。
「一つだけ、某から義兄上にお願いがございます」
「……願い?」
・天文十一年(1542年) 一月 山城国 京 室町第 足利菊幢丸
伊勢守(伊勢貞孝)に促されて父上のお部屋の戸を開ける。お部屋の中では伯父上(近衛稙家)と父上(足利義晴)が何やら話し込んでおられた。
母上と千歳丸(足利義昭)と共に立ちすくんでいると、私に気付いた父上が手招きをされている。
恐る恐る中に入ると、父上の隣に座るよう促された。
「義兄上にはこの子らをお願い申し上げたい。某が京を発った後、子らを匿い、折を見て江州の元へ連れて参って頂きたいのです」
「子らを江州の元へ?」
「左様。江州は心根の優しき男です。将軍位に在らねば、将軍位を望まねば、足利の者といえど無体な扱いは致しますまい」
「ならば……ならば、お主も共に参れば良いではないか。この上は将軍位を返上し、六角の権威を認める。そうすれば戦を避けることもできよう」
伯父上の言葉に父上がゆっくりと顔を横に振る。なんだかとても寂しそうなお顔だ。
「……お主、まさか死ぬ気なのか?」
死ぬ?父上が?
そんな……父上が死ぬなんて嫌だ。
「某は古き世を束ねて新しき世に戦いを挑みます。もとより勝てるとは思っておりませぬ。ですが、古き世を破ってこそ、新しき世が来る。
平家が滅び、鎌倉が倒れ、足利が潰えた先にこそ六角の新しき世がある。
足利の世の最期を導くことが某に残された役目でござる」
伯父上が泣いておられる。本当に……本当に父上が死んでしまう?
「い、いやだ。父上も共に参りましょう。母上や千歳丸と共に参りましょう」
涙を流す私を父上は軽く抱き寄せて下さる。暖かい。
「一時はそなたに将軍位を継がせようと思ったこともあった。だが、それは父の不明であった。許せ」
「……」
「そなたらは生きよ。将軍としてではなく、ただの男子として生きよ」
「ち、父上は……」
父上が体を離し、私の目をひたと見据えて来る。
「……余は、征夷大将軍足利義晴である」
母上も泣いている。父上は……。
「達者で暮らせ」
・天文十一年(1542年) 一月 丹波国船井郡 八木城 三好頼長
八木城の城門前で甚介(松永長頼)以下留守居の者達の見送りを受ける。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ。兄をよろしくお願いいたします」
「うむ。留守を頼むぞ。くれぐれも波多野の動きに注意を払え」
「ハッ!」
出立の号令をかけると、城門前に待機していた兵がゆっくりと歩き出す。
まだ八木城周辺の鎮圧も終わっていないというのに、困ったことだ。
年明けも早々に越水城の弾正(松永久秀)から早馬が参った。摂津で伊丹大和守(伊丹親興)を中心に国人衆が反乱を起こしたという報せだ。
弾正は越水城から軍勢を率いて鎮圧に向かうと申して来たが、越水城には播磨への備えの兵も残さねばならんし、何よりも越水城からも八木城攻めに兵を出させていた。その上で伊丹城を攻める兵力など残ってはおらぬ。
八木城の周辺は後背常ならぬ者達ばかりだが、足元が揺らいでは遠征など出来ようはずがない。芥川山城からも援軍として大和守(篠原長政)を差し向けたが、儂も八木城を一旦甚介に任せて摂津の平定に向かうこととした。
……しかし、解せんな。
摂津を与えられてから未だ一年余り。自分でも国人衆の掌握が出来ているとは思えんが、彼らの領域を侵すような真似だけはせぬように心がけて来たつもりだ。それに、今反乱を起こしたとしても義父上の援軍が参れば一息に揉み潰されることくらいは分かるだろう。
西国から尼子が進軍して来ていたあの時とは違うのだ。今や西国は揺れに揺れ、四国の阿波公方(足利義維)も畿内には進出せぬと明言している。
あとは摂津に援軍を送れそうな者と言えば波多野くらいだが、それとて儂が八木城を抑えている今、軽々に八上城を手薄にするとも思えぬ。
一体伊丹らは何の成算があって反乱など……。
馬に揺られながら考え事をしていると、南の方から数騎の騎馬が駆けて来るのが見えた。
軍勢を遡りながら段々とこちらに近づいてくる。どうやら摂津からの使番か。
やがて騎馬が儂の目の前に来て膝を着いた。
「伝令!ご家老様(篠原長政)よりの伝令にございます!」
「申せ!」
「ハッ! 伊丹に同調し、茨木城の茨木伊賀守(茨木長隆)も殿に反旗を翻したとのこと。殿には至急芥川山城までお戻り頂きたいと。こちらがお預かりした文にございます」
使番の差し出した文を受け取って中を開く。
内容は今聞いたことと同じことが書かれてある。伊丹に続いて茨木まで……。
一体何が彼らを駆り立てるのだ。
いや、考えるのは後だ。茨木まで背いたとなれば松永・篠原両名の軍は前後に敵を受けることになる。急ぎ戻らねば取り返しがつかなくなる。
「先頭に伝えよ! 今より駆け足にて進軍! 今日中には勝竜寺城に入るぞ!」
「ハッ!」
近習達が各軍に下知を伝えに走り出す。ともあれ、急いで戻ろう。
・天文十一年(1542年) 一月 大和国平群郡 信貴山城 磯野員昌
「急げ! 装備を整えた者から城門前に集合! 組が揃い次第組頭は筒井城へ向けて進軍を始めよ!」
信貴山城の城門前に立っていると、後ろから父上(磯野員宗)の大声が響く。城内はまるで蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
御屋形様からの下知で河内の動きを探っている最中、筒井城の栄舜坊(筒井順昭)が突如六角家からの独立を宣言したと報せが入った。
筒井城は代官衆が拠点を置いている郡山城に近い。郡山城には代官所だけでなく我ら大和軍の兵糧備蓄庫もある。護衛の兵はせいぜい二百ほどしか居らぬし、一刻も早く筒井を討たねば我ら大和軍は信貴山城で兵糧も少ないまま孤立してしまう。
「組頭、五番組一千名。用意整いました」
「よし!出立する! 富雄川を越えて筒井の兵を牽制する! 後続が到着するまでに陣を整えるぞ!」
「ハッ!」
まずは儂の五番組が先発して筒井城を牽制する。
一千の兵が南に在れば、栄舜坊とて軽々に郡山城に兵を向けることは出来まい。一日膠着状態を作り出せれば、大和軍五千の兵が筒井城を包囲できる。郡山城を落とされる前にケリを付けねばなるまい。
「組頭! 龍王山城の十市が筒井に味方して援軍を筒井城に向かわせたと報せが入りました!」
「何!?」
十市を味方につけたとなると、筒井方の兵力は三千を超える。遊佐の動きを警戒しながらの戦では、我ら大和軍に分が悪いか……。
いや、それもこれも郡山城を落とされれば戦どころではなくなるか。何より、父上からは何の下知も届いていない。
「後続の割り振りは父上がお考えになる!我らは予定通り筒井城の南に陣を敷く! 進め!」
「オウ!」
どうしたと言うのだ。
御屋形様に味方した者達の領地は安堵しているし、今のところ代官衆も彼らの領民からは歓迎されている。彼らが六角家に背く理由は無いはずだ。
一体……何が起こっている……?
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