江雲記―六角定頼に転生した舐めプ男の生涯―

藤瀬 慶久

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教興寺の戦い(1) 流言

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 ・天文十二年(1543年) 四月五日  河内国古市郡 高屋城  足利義晴


「何? 江州(六角定頼)が病に侵されていると?」
「はい。六角が太平寺に陣を構えながら、十日以上もの間高屋城に攻めかかって来ぬことが不審でしたが、どうやら六角定頼は病に侵されて明日をも知れぬ状態であるという風説が流れております」

 江州が……病……。
 確かに近頃の六角軍の動きは不審ではある。慌ただしく高屋城攻めの準備を始めたかと思えば、突然に六角軍の動きが鈍り、今では大和川を挟んで高屋城と対峙しているのみで攻めかかって来る気配は無い。

 敵方の総大将としては喜ぶべきなのかもしれぬな。
 だが、新しき世を開かんとする江州が今この時に病に倒れるなどと……。

「公方様!今こそ好機でございますぞ!六角はまともに戦が出来る状態ではありませぬ。今こそ打って出て大和川を越え、六角勢を蹴散らす好機!」
「落ち着け、左衛門佐(大館晴光)。河内守(遊佐長教)よ。その風説は真なのか?」
「未だ噂の域を出ませぬが、我が手の者が六角の陣中からもたらした報せによれば御曹司(六角義賢)の兵はここに至って陣払いの支度をしているように見受けられると。恐らく間違いはございませぬ」

 まことに、あの江州が病に倒れたのか……

 これが……これが、天の意志なのか?
 天は未だ足利の世が続くことを望んでいるというのか?

 そうだとすれば、確かに今この時こそ六角を討つ好機と言える。
 この期に及んでなお『天は余に味方している』ということなのか?

 江州が足利の世を覆し、新たな世を開こうとしていたことは分かっている。だが、天は未だ新しき世を求めておらぬということか?

 ……

 ……

 ……許せよ、江州。これが天の意志ならば、余はその上に立って足利の旗の元に再び世を平らかにせねばならぬ。それが将軍としての余の宿命。
 等持院様(足利尊氏)、鹿苑院様(足利義満)や累代の足利将軍がそう志しながら果たせなんだ思いを、余が引き継ぐべきなのかもしれん。

「相分かった。明後日早朝より高屋城を打って出て大和川を越え、太平寺に陣する六角勢を討つ。
 河内守、左衛門佐。全軍に出陣の用意をさせよ」
「ハッ!」



 ・天文十二年(1543年) 四月五日  河内国古市郡 高屋城  森田浄雲


 ふう……左近次郎がやってくれた。
 長夜叉を取り逃がした時は正直肝が冷えたが、ここで六角に勝てばそれも帳消しだ。

 ふふふ。六角定頼に毒を盛ったと告げた時の河内守様の喜びようと言ったら無かったな。敵の総大将は既に亡く、御曹司は慌てて撤退の準備に掛かっている。もはや疑いようはない。

 この戦、我らの勝ちだ。

「お頭」
「左近次郎か。よくぞやってくれた。余人は知らねど此度の戦、功第一等はお主だぞ」
「いえ、全ては猪田郷の為にございます」
「うむ。戻って早々だが、この噂を各地に流布させよ。特に三好・斎藤が陣を構える摂津欠郡を中心にな。三名ほど連れてゆくと良い。行け!」
「ハッ!」

 くっふふふ。
 この報せが伝われば榎並城でも戦況は逆転するな。朝倉を抑える為の兵は、そのまま朝倉に背を討たれることになる。朝倉の逆襲を恐れてグズグズしておれば、六角本軍を蹴散らして北上した公方様の軍勢が後ろを突く。どちらにしても六角に味方する者はこれで終わりだ。

 ……おっと。まだ朽木が居たな。

 まあ、問題あるまい。京・近江を抑えてしまえば朽木は立ち枯れる。要は六角に痛撃を与えることだ。
 折よく嫡男までも高屋城攻めに参陣していたのは僥倖よ。昨日までの勝勢がそっくりそのまま六角の敗因となるとは、盛者必衰とはまことに良く言ったものよ。

 はーっはっはっはっは。



 ・天文十二年(1543年) 四月七日  河内国大県郡 太平寺郷  遊佐長教


 随分暖かくなってきたとはいえ、川の水はまだ冷たさが残るな。
 出来れば船橋など用意したかったが、何せ左衛門佐殿が一刻も早く六角を討つべしと主張して譲らなかった。
 おかげで馬に乗っていても膝まで濡れてしまった。

 だが、左衛門佐殿が逸る気持ちも分かろうというもの。なにせ六角軍は今崩壊の際にある。
 渡河中の部隊に矢を射かけられたが、被害など高が知れている。大和で筒井や北畠を打ち負かした『鉄砲』も右大将(六角定頼)が居らねばまともに使えぬと見える。あの時聞かれた砲音はただの一発も聞こえなかった。
 それに、矢の数も少ない。海北の軍だけでも一万の軍勢を擁しているはずだが、敵の抵抗は精々一千に満たぬ程度よ。

 六角は明らかに士気を喪失している。
 ふふふ。浄雲め。よくぞやってのけたわ。

 この勢いに乗って六角を討ち滅ぼし、余勢を駆って三好・斎藤・斯波も討ち平らげ、天下に覇を唱えてくれよう。

 今度こそ、天下は儂の物だ。

「殿。公方様のご本陣が大和川を……」
「渡河されたか。では、間もなくこちらに到着されるな」
「は、それが……」
「ん?どうした?」

 備前守(走井盛秀)が何やら言いにくそうに言葉を濁す。
 曇り空は天気だけで充分だぞ。ここに至って面倒ごとなど起きては困ったことになる。

「実は、公方様がこちらの用意した輿ではなく馬で渡河されると言い張っておられまして」
「なに?春とはいえ水はまだ冷たい。この大事な時にお風邪など召されてはことだぞ」
「某もそのように申し上げたのですが、悠々と輿で陣頭に立つなど六角に対して礼を欠くと申されまして……」

 ええい、ここに来て何を訳の分からぬことを。

「では、公方様は未だ高屋城におわすのか?」
「いえ、既に騎馬にて川を……」
「渡られたのか?」
「間もなくこちらに到着される頃合いかと」

 ううぬ。戦に慣れた儂ですら少し震えが来るほどの冷たさだというのに、ロクに戦場に立っておられぬ公方様が平気で居られるとは思えぬ。
 ……将軍とはいえ、所詮はろくに戦を知らぬ青びょうたんか。体を冷やすことは戦場では厳に慎まねばならぬというのに。

「分かった。とりあえず我が陣にて暖を取って頂く。急ぎ火の用意をせよ」
「ハッ!」

 今は一刻も早く御曹司の後を追わねばならぬと言うのに……。
 今頃は御曹司の本軍は高安の辺りまで下がっているだろうか。グズグズして飯盛山城まで逃げ込まれると厄介なことになる。
 御曹司本人は取り逃がしたとしても、軍勢は大幅に減らしておく必要があるな。

「美作守(安見宗房)を呼べ!」

 待つほども無く美作守が供を連れて駆けて来る。

「御屋形様。お呼びでしょうか」
「美作、儂はここで公方様と共にしばし動けぬこととなった。お主は根来衆・湯浅衆らの兵三千を率いていち早く北上し、御曹司の尻に食らいつけ」
「承知仕った!」

 これで良い。
 美作は元々交野郡の出だ。この辺りの道にも詳しい。河内に不案内な六角軍によもや引けを取ることはあるまい。撤退中を背後から三千の兵に急襲されれば、いかに精強を誇る六角軍といえど軽傷では済むまい。

 それに、美作は飯盛山城を任せていた。例え飯盛山城を攻めることとなってもあ奴ならば素早く攻め口を作れるだろう。

 それにしても、痛撃を与えるには今少し追撃の兵を出したい所だ。
 何といっても六角は四万もの軍勢を集めている。御曹司の本陣が危機となれば若江城の蒲生も城を捨てて出て来るだろうし、そちらへの抑えの兵も居る。
 返す返すも、即座に儂が動けていれば……。


「公方様がご到着されました!」

 備前守の呼ぶ声に振り返ると、腹の辺りまで濡れそぼった公方様が幕臣方と共に本陣に入って来られる。

「公方様。お待ち申しておりました。川の水は未だ冷とうございます。ささ、火を用意いたしましたので体を温めて下さいませ」
「気遣いは無用だ。それよりも六角本軍への追撃が必要であろう。今はこのような場所で無益に時を使っている場合ではあるまい」

 分かっている、分かっているとも。
 だからこそ輿を使えと申し送ったのに、ずぶ濡れになって川を渡って来たのはどこの誰だ。

 ほうれ、公方様は平気でも幕臣の方は震えて歯の根が合わぬ有様ではないか。

「内談衆のお歴々は随分とお体を冷やされたご様子。この戦は今日明日で終わる物ではありません。今この時にお風邪など召されては事です」
「だからと言って戦機を逃せば武門の恥ともなろうぞ」
「仰ることは御尤もなれど、公方様が火にあたられませぬと内談衆の方々も温まることが出来申さぬ」

 その時になって公方様が内談衆を振り返った。
 こういう所は可愛げがあるな。自ら召し出した者達であるという事もあるのだろうが、この主君は配下を可愛がる所がある。
 今後は儂をこそ頼りとして頂かねばならぬが、今はそれを利用させてもらおう。

「今湯漬けを用意させまする故、どうぞお体が乾くまでこちらでお休みになって下され」
「……分かった。河内守がそこまで申すならば、一時休息を取ろう」
「それが良うございます」

 やれやれ、ようやく折れたか。
 それでよい。今後は儂の言には完全に従ってもらわねば困る。儂が輿を使えと言ったら素直に輿を使うようになってもらわねばならん。
 まずはこの戦の中で儂の言うことに逆らうことがいかに愚かなことか、思い知って頂くとしよう。

 天下の権を握った後、どこかの右大将のように将軍家と対立するなどということにならぬようにな……。
 ふっふっふっふ。



 ・天文十二年(1543年) 四月七日  河内国若江郡 若江城  蒲生定秀


 一番組から五番組までの総勢一万の兵が出陣の時を待っている。
 こうして見ると壮観だな。箕浦河原で父と共に前線に立った時は百を少し超える程度の兵だったが、今やこの身は万の軍勢を指揮する身となった。

 思えばあの時の父もこのような心境だったのかもしれん。例えこの身は滅びたとしても、後に繋がる何かを残すために戦った。
 儂も今はこの身を捨てて戦に投じよう。

「皆、聞けぃ!」

 人馬の騒めきが急速に鎮まる。一万の視線がこの身に注がれる。
 だがこの高揚した気分はどうだ。

「今より我らは高安郡に参り、若殿の後ろに張り付く遊佐勢の側面を突く! 遊佐勢の後ろからは足利の本軍が時を置かずに進撃して来るだろう。我らは一時左右に敵を受けることとなる!」

 鍛え上げられた兵とは頼もしいものだな。
 かように不利な戦に入るというのに、欠片も動揺を見せていない。これならば、策は成る。

「だが、案ずるな! 我らは必ず勝つ! この戦に不安を覚える者はただ儂の『対い鶴』の馬印を見よ!
 この鶴は我が祖先の蒲生太郎秀綱を導き、死地を脱することを得さしめた霊験あらたかな鶴だ。
 必ずや我らを導いてくれるだろう!」

 ”オオー!!”

 ……そういえば、倅の鶴千代はいくつになったか。
 既に十を数えている頃か。もう半年以上会えておらぬな。

 ふ……戦を前にして何を考えているのだ。

 よし。兵の顔にも気合が入った。

「ゆくぞ! 出陣!」

 ”オオー!!”
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