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治部大輔の涙
しおりを挟む・貞吉元年(1543年) 十一月 駿河国安倍郡 今川館 今川義元
間もなく夜が明ける。結局一睡も出来なかった。
そろそろ雪斎は船に乗った頃か。
今一歩だったのだがな……。
長年反目しあっていた両上杉が手を組んだ。勢力を拡大する北条を警戒してのことだが、両上杉が北条と戦うならば我が今川が北条の後方を突くという密約に負う所も大きかっただろう。
実現すれば、今度こそ駿東郡を北条から奪い返し、再び今川が駿河の支配者に返り咲く好機だったが……。
北条幻庵が六角を口説き落としてしまった以上やむを得ぬ。
両上杉にすれば儂が臆して裏切ったと見えるだろうが、こちらとしても背に腹は代えられぬのだ。
万一の時に左馬助(今川氏豊)の……六角の援軍が得られぬのでは、儂は北条に討たれてしまう恐れがある。いや、儂が討たれるだけならばまだいい。儂が討たれれば、次の今川家の家督は松千代丸(北条氏政)にという話になる恐れが大きい。
儂が居なければ、未だ六歳の龍王丸(今川氏真)の口を塞ぐことなど造作もない。文字通り赤子の手を捻るが如くだ。
それに、松千代丸は増善寺殿(今川氏親)の血を引いている。松千代丸ならば、今川の家督を継いだとしても駿河の者どもは納得してしまうだろう。
今の儂は、何としても死ぬわけにはいかぬのだ。
「御屋形様。多米周防守様(多米元忠)がお目通りを願っております」
「周防守殿が?」
こんな早朝に……一体何の用だ?
「失礼仕る」
儂の返答も聞かずに多米が居室に入って来た。
……これが今の儂の現実か。今川の御屋形と呼ばれてはいても、駿府館の実権は小田原から下された多米周防守が握っている。
目通りをと言われれば拒否すらも出来ぬ。情けない限りだ。
「周防守殿。このような早朝に一体いかが……」
言いさして言葉を飲み込む。
早朝にも関わらず多米は具足を着込んでいる。多米の傍らには瑞光院様(寿桂尼)も居られた。
この二人が揃って来るとは一体……。
ま、まさか!
「治部大輔殿、危うい所でございましたな」
「な、何のことでござろうか」
「善得寺の生臭坊主の事でござる」
背中一面が冷たい。儂は冷や汗をかいているのか。
背中は冷たいのに顔は熱い。息苦しい。
まさか……まさか……。
「太原崇孚は駿河を逐電しようと企てておったため、すんでの所で我が家来が召し捕らえました。
崇孚は西を目指しておった様子ですが、万に一つ左馬助殿の所にでも逃げ込まれれば、北条と六角の間を引き裂くことにもなったかもしれぬ。そうなれば、治部殿とてただでは済みますまい。
まこと、危うい所でございましたな。はっはっは」
くっ……。
雪斎が捕まったとなれば、儂が雪斎と同心しておったことも見抜かれているだろう。
もはやここまでか。
「わ……儂を、討つのか?」
「治部殿を討つなどと、滅相も無い」
多米が大げさに首を振る。
どういうつもりだ? 儂が北条を裏切ろうとしておったことは既に知っているはずだ。
「某は、治部殿と武蔵守様の間を引き裂かんとする生臭坊主を捕らえたに過ぎませぬ。此度の崇孚めの暗躍には治部殿もさぞお心を痛めておられたと存ずる。
ですが、これで今川家を混乱させようとする不届き者は居なくなりました。どうか治部殿もお心を安んじられますよう」
儂の心を挫くために……己の無力さを思い知らしめるために……。
その為に、儂の片腕をもぎ取ろうという訳か……。
「雪斎は……雪斎はどうなる?」
「太原崇孚は小田原にて取り調べを行いまする。黒衣の裏で何を企てておったのか、洗いざらい吐かせねばなりませぬのでな」
「待て、雪斎は儂の意を受けて……」
「治部殿には!」
儂の声を遮るように多米の大声が響いた。
「治部殿には、何もご存知無かった。全ては駿河国内で権勢を振るわんと画策した太原崇孚の企みでござった。
今後に起こることも、治部殿は何もご存知無い。
よろしいですな?」
袴を握る手に力が籠る。乱世で力が無いとは、これほどに辛く情けないものなのか。
「では、某は坊主を連行して小田原へ参ります。
……ふむ。治部殿も少し休まれてはいかがかな? お顔の色が優れぬ様子。さぞやお疲れになったのでしょう」
「…………お心遣い、痛み入る」
満足げに頷いた多米が上機嫌に退出していった。後には儂と瑞光院様だけが残った。
「承芳殿(今川義元)。あまりこちらを困らせないでおくれ。そなたも龍王丸を死なせたいわけではあるまい?」
「……お義母上様にもご心配をおかけいたしました。申し訳ございません」
溜息を残して瑞光院様も下がって行った。
後に残されたのは儂一人だ。
視界がゆがむ。これほど悔しい思いをしたことはかつて無い。
儂は、北条に背いて討たれることすら許されぬのか。
何とも情けない主の為に、雪斎ほどの者を死なせてしまった。
許せ、雪斎。儂は、儂は……何としても死ぬわけにはいかぬのだ。許せ……許せ……。
・貞吉元年(1543年) 十一月 甲斐国山梨郡 躑躅が崎館 武田晴信
太原崇孚が駿河を騒がせた罪で小田原に連れて行かれた。
惜しいことよ。今川が背けば、北条も揺れたであろう。我が武田としても北条の支配を脱する好機であったろうにな。
「備前守(甘利虎泰)。北条は上杉に勝つか?」
「分かりませぬ。噂では太原崇孚は上杉と通じていたということですが、それが真ならば上杉は今川を失って北条を挟撃することが出来なくなり申した。兵力に於いては上杉方が上回りましょうが、勢いは北条にあり申す」
「……儂が上杉に味方しても、か?」
「なりませぬぞ!」
備前守と駿河守(板垣信方)が儂の言葉に血相を変える。
二人とも北条に金玉を握られてしまったか。もはや北条に逆らうことなど考えられぬと言った様子だ。
儂が上杉に味方して戦えば、北条と言えど勝敗は分からんと思うのだがなぁ。
少なくとも、北条は兵力を分散させざるを得ぬ。
「北条に逆らえば、駿河からの塩が途絶えます。ご先代の頃より塩の道は甲斐の生命線。そこを閉ざされれば、我らが甲斐を治めることはかなわぬでしょう」
「塩ならば越後からも売りに来るだろう。それに、北条が上杉と争っている間に駿府を攻め落とせば、北条の風下に立つこともあるまい」
「北条が上杉と争わなんだら、どうなされます。今川が北条に首根っこを抑えられたことで上杉も多少冷静になりましょう。
そうなれば、我らは今川・北条に挟み撃ちにされ申す。今は北条を頼りとし、諏訪を切り取ることをお考えなされ」
駿河守が厳しい顔をする。
諏訪か……諏訪を取っても、その先には村上が居る。西に行けば斎藤だ。
東美濃を配下に収めた斎藤は、木曽にまで手を伸ばして来ていると聞く。斎藤と争えば、六角が出てくるだろう。
今信濃に勢力を伸ばしても、いずれは頭打ちになるのは見えているのだがな……。
やむを得ぬか。
今川治部大輔のことは儂にとっても他人事ではない。
父上のこともある。儂も下手を打てばこの二人に寝首をかかれぬとも限らん。
その意味でも、儂が真に武田の御屋形となる好機だったのだが……。
・貞吉元年(1543年) 十二月 近江国蒲生郡 観音寺城 六角定頼
太原雪斎が小田原で斬首になったと報せがあった。
駿府から脱出する直前、多米元忠に捕らえられたそうだ。
一刻も早く脱出しろと言ってあったのに、上杉との共闘を諦めきれなかったと見える。
やむを得ぬこととは言え、残念だ。いずれ北条と戦う時に雪斎は頼りにできるかもしれないと期待していたんだがな……。
これで、上杉が北条に勝つ目は消えた。関東は北条が一大勢力として君臨することになるか。
とはいえ、こっちは西国の事で手一杯だ。
進藤の説得で小浜と九鬼が角屋水軍の配下に加わることになった。こうなれば残りの志摩海賊も降るのは時間の問題だろう。
北畠も六角との和睦がある手前、志摩海賊が手元を離れることを止められん。
海路においては、堺と伊勢の航路を支配下に置くことが出来た。いよいよ西国・四国に兵を出す準備が整った。
その西国だが、細川晴元が八上城を脱出して阿波へ戻ったという噂だ。
脱出というよりは、波多野に追い出されたと言う方が実情に近いだろうな。西摂津の伊丹や茨木を下した三好頼長が、八上城の包囲を開始しようとしている。
波多野としてもこれ以上細川晴元に足を引きずられるわけにはいかんということだろう。遠からず、波多野からも和睦を乞う使者が来るはずだ。
四国の足利義維は六角に従う意向を持っているという話だから、細川晴元・持隆兄弟を討てば四国平定も一気に見えてくるだろう。
問題はやっぱ大内だなぁ……。
陶隆房と大内義隆が厚狭郡宇部で決戦し、陶隆房が快勝した。
この戦勝によって陶隆房は勢いを増し、その分だけ大内義隆は各地でジリジリと勢力を後退させている。
もう少し尼子が大内領に侵攻していた方が大内に恩を売れると思ったんだが、こうなれば俺もためらっていられない。
本音を言えば尼子に大内に味方するよう言いたかったが、今までの行きがかり上それでは尼子も聞き分けないと思い、中立を保つよう要請した
今の間に陶隆房の反乱を鎮めてしまわねばならんのだが、肝心の大内軍がこの有様では……。
毛利元就だけが一人気を吐いているが、いかんせん現状では毛利も大内家中の一武将に過ぎない。
全体の戦局は陶・大友が優勢と見ていい。
六角が兵を出そうにも播磨・備前を素通りして行けるとは思えんしなぁ……。
やはり今は大内自身に頑張ってもらうしかない。
それにしても、毛利元就ならばもう少し大内家中を掌握できそうなもんなんだがな。
まさか元就のヤツ、手を抜いてるんじゃないだろうな。
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